松江藩松平家の菩提寺、夜な夜な石の亀が歩き回る?『月照寺』
前回に続いて出雲の国からこんにちはです。
ちょっとその前に、共有Bloggerのお友達紹介です。
ザ・カップ麺レポート - 新商品レビューブログの管理人「とりまS」さんとそのブログです。
以前から仲良くさせて頂いていたのですが、仕事が忙しくて、ブログUPを暫くお休みされていました。
この度お仕事も一段落して、ブログもUPされ始めたので(ブログ制作は御本職なのでシンプルで素敵なブログと成っております。)、私共々応援宜しくお願い致します(^人^)。
さて、引き続き出雲神仏霊場第五番札所『月照寺(げっしょうじ)』の御紹介です。
【夜な夜な徘徊する石の亀】
小泉八雲の随筆に登場するお話では、「月照寺の石で出来た大亀が、夜な夜な松江の町に出て人を食べていた。あまり騒ぎを起こすので、困ったあげく亀の背中に大きな石の杭を打ち込んで、動けなくした。あるいは亀の首を切り落としたとも伝わる」と記載されているようです。
【実際は亀趺(キフ)の亀うんちく!】
亀趺(キフ)とは台石の一種で、石碑を載せる台石を大亀の形にしたものです。
亀趺は、もともと中国の貴族階級の風習だったのが、江戸時代に日本でも取り入れられた(私が良く訪れる京都東寺にも有ります。)。
亀趺は功績や功徳などを刻んだ石碑を載せるものが多いのですが、鳥取藩主池田家の墓碑のように墓石を載せるものもある様ですね。
亀趺の亀は贔屓(ひいき)といい、龍の九子のうち龍になれなかった一子で、巨大な亀の形に似た想像上の霊獣だとされます。
「贔屓(ひいき)」は「贔屓にする」などと用いられる「贔屓」の事です。
贔屓は「一生懸命努力して力を出すさま」を意味するとされますが、それが「特別に便宜を図ったり、力添えをする」努力した結果に対するご褒美?の意味で使われているのですかね?
【松江藩主松平治郷の贔屓(笑)、雷電 爲右エ門】
雷電為右衛門(らいでん ためえもん)、明和4年(1767年)1月 ~文政8年2月11日(1825年3月30日)は、信濃国小県郡大石村(現長野県東御市)出身の大相撲力士です。
現役生活21年、江戸本場所在籍36場所中(大関在位27場所)で、通算黒星が僅か10、勝率9割6分2厘で、大相撲史上未曾有の最強力士とされています。
雷電は、大関が最高位で、横綱には成っていません(横綱推挙が今の様な制度ではなかったのです。)。
本場所も年間二場所で、20日間ですね(#^.^#)
「一年を二十日(十日)で暮らすよい男」と江戸川柳で言われた相撲取、昨日の稀勢の里を見ていると、今は大変ですよね~、もらい泣きしましたけどね!
江戸では当時の第一人者だった谷風梶之助の預り弟子となり、初土俵までの6年間を谷風の元で過ごします。
この間に将来の有望性を見込まれ、松江藩藩主松平治郷の抱え力士となります。
初土俵前から士分への抱え上げは異例でした。
初期の禄は「切米8石3人扶持」と伝わっています。
さて松江といえば、お茶ですね~不昧公の影響もあって一般の方でも休憩時間は薄茶なんて事も多いようです。
この時は大圓庵は見られなかったですが、次回は丁寧に散策しましょう(笑)
お茶菓子も松江・京都・加賀は有名なんですよ~背筋の伸びる武家の茶も是非味わってくださいね。
いつも応援、ありがとうございますm(__)m。
歴史って本当に面白いですよね~!
今後もランキングにはこだわって良い記事をUPしたいと思いますので宜しくお願い致します(^人^)
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(書院で拝見したのですが、初代直政公なのか?七代不昧公なのかわかりません(;^_^A、聞いて無かった市郎右衛門です。)
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|o´艸)。oO(Thank you)。
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前回のUPで、元々は「洞雲寺(とううんじ)」という禅寺で、長い間荒廃していましたが、徳川家康の孫に当たる松江藩松平家初代藩主・松平直政が、生母・月照院の霊牌を安置するために浄土宗の「蒙光山(むこうさん)月照寺」として改称復興したのが始まりで、その後二代藩主の綱隆が父の遺命により境内に廟を造り、山号を「歓喜山」に改めた事、松江藩主を務めた松平家の初代から第9代藩主までの廟所が厳かに並んでいるいる古刹である事など御紹介させて頂きました。
約1万㎡の広さを持つ境内に、本堂や宝物殿と共に、各廟所の保存状態が極めて良好ということで、平成8年(1996年)に「松江藩主松平家墓所」として国の史跡に指定された事も御紹介しました。
又、県指定有形文化財として、高真院直政廟門、大圓庵治郷廟門も写真にて紹介しましたね。
今回は先の藩主御二方以外の廟所も御紹介すると共に、「夜な夜な松江を徘徊する」と小泉八雲の随筆に登場する、六代宗衍公廟所の巨大亀形の寿蔵碑も御紹介すると共に、不昧公の恩願を受けた力士雷電の碑など、藩主菩提寺として由緒正しき遺品・遺跡が数多く残っている、歴史と信仰の寺「月照寺」を御紹介いたします。
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前回のUPで、元々は「洞雲寺(とううんじ)」という禅寺で、長い間荒廃していましたが、徳川家康の孫に当たる松江藩松平家初代藩主・松平直政が、生母・月照院の霊牌を安置するために浄土宗の「蒙光山(むこうさん)月照寺」として改称復興したのが始まりで、その後二代藩主の綱隆が父の遺命により境内に廟を造り、山号を「歓喜山」に改めた事、松江藩主を務めた松平家の初代から第9代藩主までの廟所が厳かに並んでいるいる古刹である事など御紹介させて頂きました。
約1万㎡の広さを持つ境内に、本堂や宝物殿と共に、各廟所の保存状態が極めて良好ということで、平成8年(1996年)に「松江藩主松平家墓所」として国の史跡に指定された事も御紹介しました。
又、県指定有形文化財として、高真院直政廟門、大圓庵治郷廟門も写真にて紹介しましたね。
今回は先の藩主御二方以外の廟所も御紹介すると共に、「夜な夜な松江を徘徊する」と小泉八雲の随筆に登場する、六代宗衍公廟所の巨大亀形の寿蔵碑も御紹介すると共に、不昧公の恩願を受けた力士雷電の碑など、藩主菩提寺として由緒正しき遺品・遺跡が数多く残っている、歴史と信仰の寺「月照寺」を御紹介いたします。
【夜な夜な徘徊する石の亀】
小泉八雲の随筆に登場するお話では、「月照寺の石で出来た大亀が、夜な夜な松江の町に出て人を食べていた。あまり騒ぎを起こすので、困ったあげく亀の背中に大きな石の杭を打ち込んで、動けなくした。あるいは亀の首を切り落としたとも伝わる」と記載されているようです。
【実際は亀趺(キフ)の亀うんちく!】
亀趺(キフ)とは台石の一種で、石碑を載せる台石を大亀の形にしたものです。
亀趺は、もともと中国の貴族階級の風習だったのが、江戸時代に日本でも取り入れられた(私が良く訪れる京都東寺にも有ります。)。
亀趺は功績や功徳などを刻んだ石碑を載せるものが多いのですが、鳥取藩主池田家の墓碑のように墓石を載せるものもある様ですね。
亀趺の亀は贔屓(ひいき)といい、龍の九子のうち龍になれなかった一子で、巨大な亀の形に似た想像上の霊獣だとされます。
「贔屓(ひいき)」は「贔屓にする」などと用いられる「贔屓」の事です。
贔屓は「一生懸命努力して力を出すさま」を意味するとされますが、それが「特別に便宜を図ったり、力添えをする」努力した結果に対するご褒美?の意味で使われているのですかね?
【松江藩主松平治郷の贔屓(笑)、雷電 爲右エ門】
雷電為右衛門(らいでん ためえもん)、明和4年(1767年)1月 ~文政8年2月11日(1825年3月30日)は、信濃国小県郡大石村(現長野県東御市)出身の大相撲力士です。
現役生活21年、江戸本場所在籍36場所中(大関在位27場所)で、通算黒星が僅か10、勝率9割6分2厘で、大相撲史上未曾有の最強力士とされています。
雷電は、大関が最高位で、横綱には成っていません(横綱推挙が今の様な制度ではなかったのです。)。
本場所も年間二場所で、20日間ですね(#^.^#)
「一年を二十日(十日)で暮らすよい男」と江戸川柳で言われた相撲取、昨日の稀勢の里を見ていると、今は大変ですよね~、もらい泣きしましたけどね!
江戸では当時の第一人者だった谷風梶之助の預り弟子となり、初土俵までの6年間を谷風の元で過ごします。
この間に将来の有望性を見込まれ、松江藩藩主松平治郷の抱え力士となります。
初土俵前から士分への抱え上げは異例でした。
初期の禄は「切米8石3人扶持」と伝わっています。
さて松江といえば、お茶ですね~不昧公の影響もあって一般の方でも休憩時間は薄茶なんて事も多いようです。
この時は大圓庵は見られなかったですが、次回は丁寧に散策しましょう(笑)
お茶菓子も松江・京都・加賀は有名なんですよ~背筋の伸びる武家の茶も是非味わってくださいね。
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