近畿最大級の円墳(勿論兵庫県では1位)茶すり山古墳の凄さ!
長女の大学合格報告を私の父(長女の祖父、当たり前か(;^_^A)にするということで二か月ぶりに実家但馬に帰省する事に成りました。
折角但馬に帰省するのですから、やはり但馬の歴史に触れておかねばと考えて、途中『茶すり山古墳』に寄ってみる事にしました。
少し前に神戸須磨の「五色塚古墳」のお話をさせて頂いたときに、寄り添うように在った「千壺古墳」が兵庫県の円墳2位の大きさだというので、それでは1番はどこだ?と調べたことから、『茶すり山古墳』に興味を持っていたのです。
さらに以前から、毎回帰省時に利用する、北近畿豊岡自動道の和田山から山東への道中、綺麗に復元された埴輪群が飾られた「茶すり山古墳」を見て気になっていたのでした(北近畿豊岡自動道といえばこの25日に八鹿~日高間が開通します。また一歩但馬が近く成りました~めでたいです~。(´∇`))。
お話を戻しまして、和田山から山東へ抜ける「宝珠峠」の途中の朝来市和田山筒江、標高約144メートルの尾根の先端に位置する「茶すり山古墳」は、5世紀前期の大型円墳です。
円墳としては奈良県富雄丸山古墳(奈良県奈良市丸山に存在し、富雄川の西岸丘陵上に位置する直径約86メートルの奈良県最大級の円墳です。築造は4世紀末ごろとされます。)よりも大きく、近畿地方最大規模を有しています。
其では、近畿地方最大規模の円墳をご覧いただきましょう。
『市郎右衛門』の日本歴史ブログをお楽しみくださいね。



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【茶すり山古墳の規模】
直径約90メートル・短径78メートル、高さ約18メートルの円墳で、2段に築成されていたと考えられます。
近畿地方では最大、全国でも4番目の規模である事が判明しています(驚)。
墳頂平坦面は長径東西約36m、短径南北約27mの楕円形を呈し、墳丘全体の規模からするとかなり広く、この地域(但馬南部)の墳丘形態の特徴を示しています。
墳丘は大部分が削り出し(元々在った山を切り崩して作っています。)によって造られ、斜面の一部には葺き石が遺存していました。
また、墳頂平坦面及びテラス部からは円筒埴輪や朝顔形埴輪が、墳頂からは家形・翳形(さしばがた)埴輪等も確認されています。
斜面には葺石が見られますが多くは流出しています(一部観察できるように成っていましたが、季節の関係か?ブルーシートでおおわれていました。)。
墳頂部には二つの埋葬施設があり、大型の第1主体部とこれより小さい第2主体部が平行に並んでいます。
調査の結果、墳丘の規模や中心主体の内容がほぼ判明し、中央政権(ヤマト政権)と強く結びついた首長の墓であることが確認されています。
第2主体部は、第1主体部の北側にあり、東西7.5m、南北3.7mの墓坑内に、長さ4.8mの木棺痕跡が確認されています。
副葬品は非常に豊富で、二つの主体部の副葬品を合わせると、青銅鏡4点、勾玉・管玉などの玉類2000点、武具類では甲冑2組と盾7点、武器類では鉄刀・鉄剣・鉄矛など85点と鉄鏃400点、農工具類では刀子・斧・鎌など80点余りが出土しました。
これらの中で注目されるのは、畿内地域以外では初めての出土となる三角板革綴襟付短甲(これはすごい鎧らしいです。)や一つの棺からの出土数が最多であった鉄矛など、多量の武器・武具類が副葬されたことです。
また、漆の遺存状況が良好であり、刀剣類の装具の構造や盾の文様構成が確認されました。
さらには、畿内地域を中心に分布する鉄柄付手斧(釿「ちょうな」の事だと思います。木工に用いられる工具!)が出土したことも貴重です。
茶すり山古墳は古墳時代中期前半の近畿地方最大の円墳であり、武器・武具をはじめとする副葬品は豊富です。
墳丘の構築方法などに地域色は認められるものの、三角板革綴襟付短甲や鉄柄付手斧の出土は畿内地域と密接に関わりがあったことを示し、刀剣類の装具や盾における漆の遺存状況が良好であるなど、傑出した内容となっています。
茶すり山古墳は古墳時代の社会や政治動向、とりわけ畿内の中央政権と地域の首長の関わりを知る上で大変重要です。
(文化庁資料より)
【大和政権と但馬首長の関わりとは?】
これらの出土品は、古墳時代中期における但馬地域の王墓の実態、ヤマト王権と地方の首長との関係、古墳時代の祭祀や工芸技術を知る上で極めて重要なものです。
このことが高く評価され、国の重要文化財に指定されました。
兵庫県朝来市内には、4世紀~5世紀代に造られた大型の前方後円墳や円墳が多く存在します。
これは、他の但馬地域にはない状況です。
特に、但馬第1.2の規模を誇る池田古墳(茶すり山古墳の先代の首長の墓と考えられているようです。)や船宮古墳は、茶すり山古墳と同じく、但馬全域を治めた王墓(首長の墓)と考えられています。
これらの大型古墳の位置は散在的ではありますが、いずれも丹波や播磨に通じる街道沿いにあります。
これは畿内の大和王権の頂点に立つ大王が、交通の要衝に拠点を置く有力な首長との関係を強めながら、日本列島における、地域支配を進めていった結果の一つであると考えられます。
最後に、北但馬生まれ人間としての私といたしましては、豊岡市日高町に後に国府や国分寺・国分尼寺が作られることを考えると、出雲勢力との境界線であった朝来地区は但馬で最も重要な地域だったために、により強力な中央(大和王権)の補助(保護・援助)政策が行われたのではないかと考えるのですが、皆さんいかがでしょう?
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折角但馬に帰省するのですから、やはり但馬の歴史に触れておかねばと考えて、途中『茶すり山古墳』に寄ってみる事にしました。
少し前に神戸須磨の「五色塚古墳」のお話をさせて頂いたときに、寄り添うように在った「千壺古墳」が兵庫県の円墳2位の大きさだというので、それでは1番はどこだ?と調べたことから、『茶すり山古墳』に興味を持っていたのです。
さらに以前から、毎回帰省時に利用する、北近畿豊岡自動道の和田山から山東への道中、綺麗に復元された埴輪群が飾られた「茶すり山古墳」を見て気になっていたのでした(北近畿豊岡自動道といえばこの25日に八鹿~日高間が開通します。また一歩但馬が近く成りました~めでたいです~。(´∇`))。
お話を戻しまして、和田山から山東へ抜ける「宝珠峠」の途中の朝来市和田山筒江、標高約144メートルの尾根の先端に位置する「茶すり山古墳」は、5世紀前期の大型円墳です。
円墳としては奈良県富雄丸山古墳(奈良県奈良市丸山に存在し、富雄川の西岸丘陵上に位置する直径約86メートルの奈良県最大級の円墳です。築造は4世紀末ごろとされます。)よりも大きく、近畿地方最大規模を有しています。
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【茶すり山古墳の規模】
直径約90メートル・短径78メートル、高さ約18メートルの円墳で、2段に築成されていたと考えられます。
近畿地方では最大、全国でも4番目の規模である事が判明しています(驚)。
墳頂平坦面は長径東西約36m、短径南北約27mの楕円形を呈し、墳丘全体の規模からするとかなり広く、この地域(但馬南部)の墳丘形態の特徴を示しています。
墳丘は大部分が削り出し(元々在った山を切り崩して作っています。)によって造られ、斜面の一部には葺き石が遺存していました。
また、墳頂平坦面及びテラス部からは円筒埴輪や朝顔形埴輪が、墳頂からは家形・翳形(さしばがた)埴輪等も確認されています。
斜面には葺石が見られますが多くは流出しています(一部観察できるように成っていましたが、季節の関係か?ブルーシートでおおわれていました。)。
墳頂部には二つの埋葬施設があり、大型の第1主体部とこれより小さい第2主体部が平行に並んでいます。
調査の結果、墳丘の規模や中心主体の内容がほぼ判明し、中央政権(ヤマト政権)と強く結びついた首長の墓であることが確認されています。
(墳頂部、私の立ち位置を考えると、前方後円墳だと思うのは、素人考えですかね~笑!ちなみに右山山頂部に松山が見えますが、あの!「竹田城」ですよ~驚きました?)
茶すり山古墳の所在地は播磨と但馬をつなぐ交通の要衝で、古代山陰道の郡部駅の推定地にも当たっています。
平成13年度、北近畿豊岡自動車道建設予定地を兵庫県教育委員会が発掘調査を行ったところ、規模が大きく重要な内容をもつ古墳であることが判明したため、協議を行い、道路計画を変更し現状保存することに成りました。
【埋葬者は誰だろう?】
墳頂平坦面では2基の埋葬施設を検出されました。
中央南寄りにある第1主体部は、墓坑が東西13.7m、南北10.5mで、その中央に長さ8.7mの組合式箱形木棺が埋設されていました。
棺内は粘土を敷き詰めて棺床とし、さらに小礫を敷き詰めた遺体埋葬部と、粘土敷きのままの副葬品埋納部とに分かれます。
平成13年度、北近畿豊岡自動車道建設予定地を兵庫県教育委員会が発掘調査を行ったところ、規模が大きく重要な内容をもつ古墳であることが判明したため、協議を行い、道路計画を変更し現状保存することに成りました。
【埋葬者は誰だろう?】
墳頂平坦面では2基の埋葬施設を検出されました。
中央南寄りにある第1主体部は、墓坑が東西13.7m、南北10.5mで、その中央に長さ8.7mの組合式箱形木棺が埋設されていました。
棺内は粘土を敷き詰めて棺床とし、さらに小礫を敷き詰めた遺体埋葬部と、粘土敷きのままの副葬品埋納部とに分かれます。
第2主体部は、第1主体部の北側にあり、東西7.5m、南北3.7mの墓坑内に、長さ4.8mの木棺痕跡が確認されています。
副葬品は非常に豊富で、二つの主体部の副葬品を合わせると、青銅鏡4点、勾玉・管玉などの玉類2000点、武具類では甲冑2組と盾7点、武器類では鉄刀・鉄剣・鉄矛など85点と鉄鏃400点、農工具類では刀子・斧・鎌など80点余りが出土しました。
これらの中で注目されるのは、畿内地域以外では初めての出土となる三角板革綴襟付短甲(これはすごい鎧らしいです。)や一つの棺からの出土数が最多であった鉄矛など、多量の武器・武具類が副葬されたことです。
また、漆の遺存状況が良好であり、刀剣類の装具の構造や盾の文様構成が確認されました。
さらには、畿内地域を中心に分布する鉄柄付手斧(釿「ちょうな」の事だと思います。木工に用いられる工具!)が出土したことも貴重です。
茶すり山古墳は古墳時代中期前半の近畿地方最大の円墳であり、武器・武具をはじめとする副葬品は豊富です。
墳丘の構築方法などに地域色は認められるものの、三角板革綴襟付短甲や鉄柄付手斧の出土は畿内地域と密接に関わりがあったことを示し、刀剣類の装具や盾における漆の遺存状況が良好であるなど、傑出した内容となっています。
茶すり山古墳は古墳時代の社会や政治動向、とりわけ畿内の中央政権と地域の首長の関わりを知る上で大変重要です。
(文化庁資料より)
【大和政権と但馬首長の関わりとは?】
これらの出土品は、古墳時代中期における但馬地域の王墓の実態、ヤマト王権と地方の首長との関係、古墳時代の祭祀や工芸技術を知る上で極めて重要なものです。
このことが高く評価され、国の重要文化財に指定されました。
兵庫県朝来市内には、4世紀~5世紀代に造られた大型の前方後円墳や円墳が多く存在します。
これは、他の但馬地域にはない状況です。
特に、但馬第1.2の規模を誇る池田古墳(茶すり山古墳の先代の首長の墓と考えられているようです。)や船宮古墳は、茶すり山古墳と同じく、但馬全域を治めた王墓(首長の墓)と考えられています。
これらの大型古墳の位置は散在的ではありますが、いずれも丹波や播磨に通じる街道沿いにあります。
これは畿内の大和王権の頂点に立つ大王が、交通の要衝に拠点を置く有力な首長との関係を強めながら、日本列島における、地域支配を進めていった結果の一つであると考えられます。
最後に、北但馬生まれ人間としての私といたしましては、豊岡市日高町に後に国府や国分寺・国分尼寺が作られることを考えると、出雲勢力との境界線であった朝来地区は但馬で最も重要な地域だったために、により強力な中央(大和王権)の補助(保護・援助)政策が行われたのではないかと考えるのですが、皆さんいかがでしょう?
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