たった五回で巡る?『西国三十三観音霊場』の旅②
たった五回で巡る?『西国三十三観音霊場』旅の第二段です。
前回一番札所~八番札所迄御紹介しました。
今日はバスツアーNo.④の九番札所から十一番札所、バスツアーNo.⑤の十二番札所~十五番札所迄です(私が利用したのは阪急交通さんのバスツアーなので、他社だと順番が少し違うかもしれません。)。
『西国三十三観音霊場』バスツアーの皆さんを見ていると、四国八十八ヶ所巡りの様な「完璧」お遍路姿が少ないのも特徴ですね。
私もだいたい、軽いトレッキングの服装ですが、輪袈裟だけは持っていく様に心がけており、お寺では着用しています(輪袈裟は宗派に関係無く持てるものにしています。2000円程の物です。)。
それでは、「西国三十三観音霊場の御本尊レプリカ像」の旅に出発です。
『市郎右衛門』の日本歴史ブログをお楽しみください。



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【西国三十三観音霊場巡りとは!】
近畿二府四県と岐阜県に点在する三十三ケ所の観音信仰の霊場の総称です。
これらの霊場を札所とした巡礼は日本で最も歴史がある巡礼行であり、現在も多くの参拝者が訪れているんです。
前回も説明しましたように、西国三十三観音霊場、二十七番札所「書写山 円教寺」の三十三霊場御本尊レプリカ像を紹介して、五回で満願をイメージしていただく企画の第二段です(せっかく撮影した写真が無駄にならない為です。笑!)。
【西国三十三観音霊場の始まりについて】
長谷寺の開基である徳道上人によって718年(養老2年)に始められました。
上人が病気で死線をさまよっているとき夢の中で閻魔大王に会い、大王から悩める人々を救うため霊場を開くようにとのお告げを受けます。
夢から醒めると病気はたちまち平癒し、お告げどおりに三十三カ所の観音霊場を設けますが、なかなか人々の信仰を得ることが出来ませんでした。
徳道上人はやむを得ず宝印を集めて 、中山寺の「石の唐戸」の中に埋めました(続く~)。
上は、散華用の台紙です。
どれだけお参りしたか、一目瞭然ですね~(*^.^*)
私も半分位巡礼出来ました。
第九番札所、興福寺 南円堂と第十六番札所音羽山 清水寺もお参りしているのですが、当時は散華迄は集めようと思っていなかったので、貼られておりませんσ(^_^;)?
参拝したなかで、ブログに投稿させていただいたのは、今のところ以下の四寺+番外一寺です。
第一番 那智山青岸渡寺
第十八番 紫雲山 六角堂 頂法寺
第二十四番 紫雲山 中山寺
第二十五番 御嶽山 播州清水寺
番外 東光山 花山院菩提寺
此れから順次御紹介出来ればと考えています。
何年かかるか解りませんが、ごゆるりとお待ち下さいね。
さてバスツアーですが、【ツアーNo.④は九番~十一番札所のコースです。】
第九番札所、興福寺 南円堂
第十番札所、 明星山 三室戸寺
第十一番札所、深雪山 上醍醐 准胝堂 (醍醐寺)
【ツアーNo.⑤は十二番~十五番迄の四寺コースです。】
第十二番札所、岩間山 正法寺 (岩間寺)
第十三番札所、石光山 石山寺
第十四番札所、長等山 三井寺 (園城寺 )
第十五番札所、 新那智山 今熊野観音寺 (観音寺)
【花山法皇の足跡】
徳道上人が中山寺に宝印を納めてから約270年後、988年(永延2年)花山法皇(安和元年「968年」~寛弘5年「1008年」)が紀州国の那智山で修行していた折、熊野権現が姿を現し、徳道上人が定めた三十三の観音霊場を再興するように託宣を授けます。
花山法皇は、観音霊場三十三ヶ所の宝印を石棺に納めたという伝承があった、中山寺(兵庫県宝塚市)で宝印を探し出し、播磨国書写山圓教寺の性空上人の勧めにより、河内国石川寺(叡福寺)の仏眼上人を先達として紀伊国熊野から三十三の観音霊場を巡礼し修行に勤め、大きな法力を身につけたといわれます。
このことにより、やがて観音霊場を巡る西国三十三所という信仰となり、西国三十三所は日本最古にして、巡礼の元祖となりました。
この花山法皇の観音巡礼が西国三十三所巡礼として現在でも継承されており、各霊場で詠んだ御製の和歌が御詠歌となっています。
花山法皇は、寛弘5年(1008年)2月花山院の東対にて崩御、紙屋上陵(現在の京都市北区衣笠北高橋町)に葬られています。
花山法皇については、以前も書かせていただきましたが、とても可愛そうな天皇様です。
【古典「大鏡」(花山天皇の出家)現代訳より】
次の帝は、花山院天皇と申し上げました。冷泉院の第一皇子であります。御母は、贈皇后宮懐子と申し上げます。
永観二年八月二十八日、(花山院は)天皇の位におつきになりました。御年十七歳でした。
寛和二年丙犬の年の六月二十二日の夜、驚きあきれてしまいましたことには、(花山院は)誰にもお知らせにならないで、こっそりと花山寺においでになって、御出家入道なさったのでございます。御年十九歳でした。
(天皇としての)世をお治めになること二年でした。(出家した)その後、二十二年生きていらっしゃいました。
しみじみと思われることは、(花山院が)ご退位なさった夜、藤壺の上の御局の小戸からお出ましになったところ、有明の月がたいそう明るかったので、(花山院が、)「(月の光で姿が)目立ってしまっているなあ。どうしたらよいだろうか。」とおっしゃったのを、「そうかといって、(出家を)お取りやめになれる理由はございません。神璽・宝剣も(すでに皇太子のもとに)お渡りになってしまいましたので。」と粟田殿(=藤原道兼)がせきたて申し上げなさったのは、まだ帝(=花山院)がお出ましにならなかったその前に、(粟田殿が)みずから(神璽と宝剣を)取って、皇太子の御方にお渡し申し上げなさっていたので、(花山院が宮中に)お帰りになるようなことはあってはならないとお思いになって、そのように申し上げなさったということです。
明るく澄んでいる月の光を、(花山院が)まぶしくお思いになっているうちに、月の表面にむら雲がかかって、少し暗くなっていったので、「わが出家は成就するのだなあ。」とおっしゃって、歩き出しなさるうちに、弘徽殿の女御の御手紙で、普段破り捨てないで御身から離さずご覧になっていた手紙を思い出しなさって、「しばらく(待て)。」とおっしゃって、(お手紙を)取りにお入りになったちょうどその時よ、粟田殿が、「どうしてこのように(未練がましく)お思いになりなさったのですか。
ただ今(この機会を)逃したら、(出家するのに)自然と支障も出て参るでしょう。」と、うそ泣きなさったのは。
さて、(粟田殿は花山院を)土御門から東の方にお連れ出し申し上げなさるが、(陰陽師の安倍)晴明の家の前をお通りになると、(清明)自身の声で、手を激しく、ぱちぱちとたたいて、「帝(=花山院)がご退位なさると思われる天の異変があったが、すでに成ってしまったと思われることだよ。(宮中に)参上して奏上しよう。車に支度を早くしなさい。」
と言う声をお聞きになっただろう(その時の花山院のお気持ちは)、そう(=覚悟の上での出家)であってもしみじみと感慨深くお思いになったことでしょうよ。
(清明が、)「とりあえず、式神一人が宮中に参上せよ。」と申し上げると、人の目には見えないものが戸を押し開けて、(花山院の)御後ろ姿を見申し上げたのでしょうか、「ただ今、ここを通り過ぎなさっているようです。」と答えたとかいうことです。
その家(=清明の家)は、土御門通りと町口通りの交わる所にあるので、(花山院が通る)お道であった。
花山寺にお着きになって、ご剃髪なさって後に、粟田殿は、「(ちょっと今から)退出して、大臣(=粟田殿の父である東三条殿のこと)にも、(私の出家前の)変わらない姿をもう一度見せ、これこれと(出家する)事情を申し上げて、必ず(こちらへ戻って)参りましょう。」と申し上げなさったので、(花山院は、)「私をだましたのだな。」とおっしゃってお泣きになった。
お気の毒で悲しいことですよ。
普段、(粟田殿は)よく、「(帝が出家しても私は)お弟子としてお仕えしましょう。」と約束して、だまし申し上げなさったとかいうのは恐ろしいことですよ(まだ続きますがここまでです)。
「勿論古典が訳せるわけもなくフロンテアの古典教室訳を引用させていただきました。」
大鏡は安部晴明も出てきて、式神に花山天皇を見送らせているなんて面白いですね~古文もっとまじめにやっとけばよかったな!
政争に巻き込まれて騙されて出家させられてしまったのです(涙)。
花山天皇が出家すれば、天皇の座が空き、皇太子が天皇の座につくことができる。
この時の皇太子は、粟田殿の父である東三条殿の孫であったため、孫である皇太子が天皇になれば、東三条殿は外戚として政治の実権を握ることができるという背景がありました。
要は、花山院が出家して天皇の座を降りれば、粟田殿と東三条殿にとって都合が良いため、普段から粟田殿が花山院の忠実な家臣としてふるまい、この時ようやく花山院を出家させることに成功したのでした。
花山院はだまされたのです。
宗教と政治は本来、別々のはずなのですがね~!
それから、煌びやかな寺院を見るとお金のことも気に成ってしまいますね(笑)
いつも応援、ありがとうございますm(__)m。
歴史って本当に面白いですよね~!
今後もランキングにはこだわって良い記事をUPしたいと思いますので宜しくお願い致します(^人^)
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前回一番札所~八番札所迄御紹介しました。
今日はバスツアーNo.④の九番札所から十一番札所、バスツアーNo.⑤の十二番札所~十五番札所迄です(私が利用したのは阪急交通さんのバスツアーなので、他社だと順番が少し違うかもしれません。)。
『西国三十三観音霊場』バスツアーの皆さんを見ていると、四国八十八ヶ所巡りの様な「完璧」お遍路姿が少ないのも特徴ですね。
私もだいたい、軽いトレッキングの服装ですが、輪袈裟だけは持っていく様に心がけており、お寺では着用しています(輪袈裟は宗派に関係無く持てるものにしています。2000円程の物です。)。
それでは、「西国三十三観音霊場の御本尊レプリカ像」の旅に出発です。
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市郎右衛門は現在すべてTOP10に入っておりますので、そちらをもう一度クリック頂きますとブログに戻れます(^人^)。
【西国三十三観音霊場巡りとは!】
近畿二府四県と岐阜県に点在する三十三ケ所の観音信仰の霊場の総称です。
これらの霊場を札所とした巡礼は日本で最も歴史がある巡礼行であり、現在も多くの参拝者が訪れているんです。
前回も説明しましたように、西国三十三観音霊場、二十七番札所「書写山 円教寺」の三十三霊場御本尊レプリカ像を紹介して、五回で満願をイメージしていただく企画の第二段です(せっかく撮影した写真が無駄にならない為です。笑!)。
【西国三十三観音霊場の始まりについて】
長谷寺の開基である徳道上人によって718年(養老2年)に始められました。
上人が病気で死線をさまよっているとき夢の中で閻魔大王に会い、大王から悩める人々を救うため霊場を開くようにとのお告げを受けます。
夢から醒めると病気はたちまち平癒し、お告げどおりに三十三カ所の観音霊場を設けますが、なかなか人々の信仰を得ることが出来ませんでした。
徳道上人はやむを得ず宝印を集めて 、中山寺の「石の唐戸」の中に埋めました(続く~)。
上は、散華用の台紙です。
どれだけお参りしたか、一目瞭然ですね~(*^.^*)
私も半分位巡礼出来ました。
第九番札所、興福寺 南円堂と第十六番札所音羽山 清水寺もお参りしているのですが、当時は散華迄は集めようと思っていなかったので、貼られておりませんσ(^_^;)?
参拝したなかで、ブログに投稿させていただいたのは、今のところ以下の四寺+番外一寺です。
第一番 那智山青岸渡寺
第十八番 紫雲山 六角堂 頂法寺
第二十四番 紫雲山 中山寺
第二十五番 御嶽山 播州清水寺
番外 東光山 花山院菩提寺
此れから順次御紹介出来ればと考えています。
何年かかるか解りませんが、ごゆるりとお待ち下さいね。
さてバスツアーですが、【ツアーNo.④は九番~十一番札所のコースです。】
第九番札所、興福寺 南円堂
第十番札所、 明星山 三室戸寺
第十一番札所、深雪山 上醍醐 准胝堂 (醍醐寺)
【ツアーNo.⑤は十二番~十五番迄の四寺コースです。】
第十二番札所、岩間山 正法寺 (岩間寺)
第十三番札所、石光山 石山寺
第十四番札所、長等山 三井寺 (園城寺 )
第十五番札所、 新那智山 今熊野観音寺 (観音寺)
【花山法皇の足跡】
徳道上人が中山寺に宝印を納めてから約270年後、988年(永延2年)花山法皇(安和元年「968年」~寛弘5年「1008年」)が紀州国の那智山で修行していた折、熊野権現が姿を現し、徳道上人が定めた三十三の観音霊場を再興するように託宣を授けます。
花山法皇は、観音霊場三十三ヶ所の宝印を石棺に納めたという伝承があった、中山寺(兵庫県宝塚市)で宝印を探し出し、播磨国書写山圓教寺の性空上人の勧めにより、河内国石川寺(叡福寺)の仏眼上人を先達として紀伊国熊野から三十三の観音霊場を巡礼し修行に勤め、大きな法力を身につけたといわれます。
このことにより、やがて観音霊場を巡る西国三十三所という信仰となり、西国三十三所は日本最古にして、巡礼の元祖となりました。
この花山法皇の観音巡礼が西国三十三所巡礼として現在でも継承されており、各霊場で詠んだ御製の和歌が御詠歌となっています。
花山法皇は、寛弘5年(1008年)2月花山院の東対にて崩御、紙屋上陵(現在の京都市北区衣笠北高橋町)に葬られています。
花山法皇については、以前も書かせていただきましたが、とても可愛そうな天皇様です。
【古典「大鏡」(花山天皇の出家)現代訳より】
次の帝は、花山院天皇と申し上げました。冷泉院の第一皇子であります。御母は、贈皇后宮懐子と申し上げます。
永観二年八月二十八日、(花山院は)天皇の位におつきになりました。御年十七歳でした。
寛和二年丙犬の年の六月二十二日の夜、驚きあきれてしまいましたことには、(花山院は)誰にもお知らせにならないで、こっそりと花山寺においでになって、御出家入道なさったのでございます。御年十九歳でした。
(天皇としての)世をお治めになること二年でした。(出家した)その後、二十二年生きていらっしゃいました。
しみじみと思われることは、(花山院が)ご退位なさった夜、藤壺の上の御局の小戸からお出ましになったところ、有明の月がたいそう明るかったので、(花山院が、)「(月の光で姿が)目立ってしまっているなあ。どうしたらよいだろうか。」とおっしゃったのを、「そうかといって、(出家を)お取りやめになれる理由はございません。神璽・宝剣も(すでに皇太子のもとに)お渡りになってしまいましたので。」と粟田殿(=藤原道兼)がせきたて申し上げなさったのは、まだ帝(=花山院)がお出ましにならなかったその前に、(粟田殿が)みずから(神璽と宝剣を)取って、皇太子の御方にお渡し申し上げなさっていたので、(花山院が宮中に)お帰りになるようなことはあってはならないとお思いになって、そのように申し上げなさったということです。
明るく澄んでいる月の光を、(花山院が)まぶしくお思いになっているうちに、月の表面にむら雲がかかって、少し暗くなっていったので、「わが出家は成就するのだなあ。」とおっしゃって、歩き出しなさるうちに、弘徽殿の女御の御手紙で、普段破り捨てないで御身から離さずご覧になっていた手紙を思い出しなさって、「しばらく(待て)。」とおっしゃって、(お手紙を)取りにお入りになったちょうどその時よ、粟田殿が、「どうしてこのように(未練がましく)お思いになりなさったのですか。
ただ今(この機会を)逃したら、(出家するのに)自然と支障も出て参るでしょう。」と、うそ泣きなさったのは。
さて、(粟田殿は花山院を)土御門から東の方にお連れ出し申し上げなさるが、(陰陽師の安倍)晴明の家の前をお通りになると、(清明)自身の声で、手を激しく、ぱちぱちとたたいて、「帝(=花山院)がご退位なさると思われる天の異変があったが、すでに成ってしまったと思われることだよ。(宮中に)参上して奏上しよう。車に支度を早くしなさい。」
と言う声をお聞きになっただろう(その時の花山院のお気持ちは)、そう(=覚悟の上での出家)であってもしみじみと感慨深くお思いになったことでしょうよ。
(清明が、)「とりあえず、式神一人が宮中に参上せよ。」と申し上げると、人の目には見えないものが戸を押し開けて、(花山院の)御後ろ姿を見申し上げたのでしょうか、「ただ今、ここを通り過ぎなさっているようです。」と答えたとかいうことです。
その家(=清明の家)は、土御門通りと町口通りの交わる所にあるので、(花山院が通る)お道であった。
花山寺にお着きになって、ご剃髪なさって後に、粟田殿は、「(ちょっと今から)退出して、大臣(=粟田殿の父である東三条殿のこと)にも、(私の出家前の)変わらない姿をもう一度見せ、これこれと(出家する)事情を申し上げて、必ず(こちらへ戻って)参りましょう。」と申し上げなさったので、(花山院は、)「私をだましたのだな。」とおっしゃってお泣きになった。
お気の毒で悲しいことですよ。
普段、(粟田殿は)よく、「(帝が出家しても私は)お弟子としてお仕えしましょう。」と約束して、だまし申し上げなさったとかいうのは恐ろしいことですよ(まだ続きますがここまでです)。
「勿論古典が訳せるわけもなくフロンテアの古典教室訳を引用させていただきました。」
大鏡は安部晴明も出てきて、式神に花山天皇を見送らせているなんて面白いですね~古文もっとまじめにやっとけばよかったな!
政争に巻き込まれて騙されて出家させられてしまったのです(涙)。
花山天皇が出家すれば、天皇の座が空き、皇太子が天皇の座につくことができる。
この時の皇太子は、粟田殿の父である東三条殿の孫であったため、孫である皇太子が天皇になれば、東三条殿は外戚として政治の実権を握ることができるという背景がありました。
要は、花山院が出家して天皇の座を降りれば、粟田殿と東三条殿にとって都合が良いため、普段から粟田殿が花山院の忠実な家臣としてふるまい、この時ようやく花山院を出家させることに成功したのでした。
花山院はだまされたのです。
宗教と政治は本来、別々のはずなのですがね~!
それから、煌びやかな寺院を見るとお金のことも気に成ってしまいますね(笑)
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