『日本中央の碑』と「坂上田村麻呂」
もう一つ青森話題をお送りします(o^-')b !
記事を書くにあたり、調べなおしてびっくり!
なんじゃこりゃ~~~!Σ(×_×;)!
正に、「月日は百代の過客にして、行かふ年も又旅人也」大袈裟かな?。
御紹介するのは30年前の『日本中央の碑』ですf(^_^;。
それでは『市郎右衛門』の日本歴史ブログをお楽しみください。



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【そもそも、『日本中央の碑』って何?】
何か分からないんですよね、此がf(^_^;。
日本古代史の中でも屈指の謎を持つのが「日本中央の碑」なのです。
「遠くの土地にある謎めいた何か」ですかね。
その典拠は意外に古く、歌学者の藤原顕昭が出した『袖中抄』に『陸奥には「つぼのいしぶみ」という石碑があり、蝦夷征討の際に田村将軍(坂上田村麻呂)が矢筈を使って「日本中央」という文字を刻んだものである』という一説があります。
そんな言い伝えもありまして、平安時代の昔から東北の歌枕として数多くの偉人・歌人に和歌に使われた「壷の石文(つぼのいしぶみ)」という、幻の遺跡ではないかと言われてきたのです。
江戸時代には宮城県の多賀城の碑が「つぼのいしぶみ」と考えられていましたが、その所在は明治天皇も気にかけられ、明治9年の天皇の東北行幸に際して、宮内省から青森県に「つぼのいしぶみ」発見の要請がありました。
石文にまつわる伝説の残る千曳神社の境内を掘り起し、捜索したのです。
千曳神社には魔除として崇めていた巨大な石碑を1000人で引っ張ったという伝説がありました(千曳神社は、『大同2年(807年)坂上田村麻呂の創始と伝えらられる、青森県最古の神社です。「日本中央」と刻んだ「つぼのいしぶみ」を建てたという伝説があり、これを訪ねた和歌や紀行文などが多いことで知られます。)。
それが、「つぼのいしぶみ」=「日本中央の碑」ではなかったかと考えられたのですが、残念ながら明治天皇(政府?)はその石碑を見つけることはできませんでした。
ところが昭和24年6月に、その千曳神社近くの青森県東北町石文(いしぶみ)という所から突如として「日本中央」と刻まれた石碑が出土してきたわけです。
村の農家が馬頭観音を祀るためにちょうど良い石を物色していたところ、湿地帯で半分土中に埋もれた大石を掘り起し、汚れを落としたところ「日本中央」と刻まれていました。
壷の碑伝説は村人も周知しており、村中が大騒ぎになったといいます(大騒ぎしたわりには、私が知る限り、発見から30年以上放置?されていましたけど!)。
現在は、青森県東北町(旧七戸町)の国道4号線沿いにある「日本中央の碑歴史公園」の敷地内にあり、無料で見学できる保存館には、日本中央の碑はもちろん、石碑にまつわる興味深い伝説や、東北町に残る伝承、源頼朝や西行法師、岩倉具視ら数々の偉人・歌人が詠んだ歌などが展示されて、本州の果てにある日本中央の碑の謎への好奇心が大いにくすぐられます。
【「日本中央の碑保存館」で日本中央の碑を見てみましょう】
「日本中央」、正確には「ひのもとのまなか」と読みます。
かつて東北の人々は、自らの国を日本、すなわち「ひのもと」と称していたとされます。
お世辞にも達筆とは言えない字体で「日本中央」と彫られていますが、彫ったのは平安時代の征夷大将軍・坂上田村麻呂と伝えられています。
征夷大将軍がこんな字を!?といった所からして大きな謎ですが、坂上田村麻呂が彫ったという確証は得られていません。
というよりは、坂上田村麻呂が青森に迄攻め込んだ記録が無いと思うのですが!
【「日本中央の碑発見地」はぬかるみの湿地帯に有った】
日本中央の碑保存館から車で5分ほど。青森方面に向かい、国道4号線から右折し、県道8号線に入り、青い森鉄道・千曳駅と交差した先に、日本中央の碑発見地があります。
発見地は、県道8号線沿いに大きな看板があって見つけやすく、完備された駐車場があり、そこから木造の階段を降りると、「日本中央の碑」と書かれた180cm(発見された石碑と同じ大きさ)の木造の碑が建っています(私が訪れた時には、現物が置かれて居ました。)。
石が発見された集落の名は、今でも残っている地名で、「石文(いしぶみ)」、隣の地名は「都母(つぼ)」で、これがまさに「つぼのいしぶみ」の伝説と地名の符合する場所だったのです(私には出来すぎに思えますが!)。
日本中央の碑発見地は、発見当時と変わらず今でも小川が流れる泥濘の湿地帯で、何かに曳きつけられるような不思議な雰囲気が漂っています(私の記憶では畑+林+雑木林のイメージでしたが。)。
【最北の真ん中?「日本中央の碑」を訪ねて…】
日本中央の碑は、その信憑性が証明されないためか国からの文化財指定はありません(失礼を承知で「そりゃそうだわな」)。
しかし、東北町の人々により大切に保管され、古くから信じられてきた伝説の「壷の碑」として、東北町の有形文化財に指定されています。
しかしこの碑の最大の謎は、ここに刻まれた文字「日本中央」です。
なぜこのような文字が日本の最北部に当たる青森県に置かれたのでしょうか?。
蝦夷征討の際に刻まれたという逸話から考えると、まだここは「日本」の領土ではなく、しかも「日本」という国号が使われていなかった時代です。
さらに付け加えると、この碑を刻んだとされる坂上田村麻呂はこの地まで遠征していません(後任の征夷大将軍・文屋綿麻呂がはじめてこの地域一帯まで足を運んだのが史実です。文屋綿麻呂が刻んだとも考えられますね。)。
実際のところ、ここに刻まれた「日本」という文字は「ひのもと」と読ませ、平安初期の文献によると、東北地方一帯を指す言葉として使われていたようです。
つまり、この「日本中央」とは、坂上田村麻呂以下の蝦夷征討軍が敵地の中央部分に当たる場所としてマークしたポイントではないでしょうか(若しくは全くの出鱈目、ロマン無いですね~(*^.^*))?
☆藤原顕昭
1130?~1209?。
平安末~鎌倉初期の歌僧。
六条藤家の中心的存在として活躍(本人は藤原氏の出身ではなく、養子として姓を賜う)。
当時最高峰の歌合と言われた「六百番歌合」にも参加しています。
『袖中抄』は文治年間(1185~1190年)に出されています。
☆つぼのいしぶみの歌枕
和泉式部・寂蓮・西行・慈円などが詠んで居ます。
「遠くにあるもの」や「どこにあるか分からないもの」という意味で使われることが多い様ですね。
☆多賀城碑
江戸時代初期に発見された古碑。
発見当初より「つぼのいしぶみ」であるとされてきた。
松尾芭蕉が『奥の細道』で「つぼのいしぶみ」と記しているのは、この碑のことでで、青森県の物では有りません(因みに、松尾芭蕉も奥の細道で青森には行っていませんね。)。
☆坂上田村麻呂
758~811。
平安初期の武官。
797年に征夷大将軍に任ぜられ、蝦夷征討の最高責任者となります。
801年に遠征を行い大勝、翌年に胆沢城(現・岩手県奥州市)を建設、さらに次の年に志波城(現・岩手県盛岡市)を建設しました。東北地方の多くの社寺の創建伝説、またその他の伝承に多数登場するが、そのほとんどは後年の創作と思われます。
日本の中心候補の中で最も異彩!数々の偉人たちが思いを馳せ、1000年以上も謎とされてきた「日本中央の碑(つぼのいしぶみ)」。
皆さんはどう考えられますか?
余談ですが、私学生時代を青森県で過ごした事もあり、青森県が大好きです。
そのなかでも、ねぶた祭りは日本一番の祭りだと思います(他のお祭りファンの方々m(__)m)。
他のお祭りも凄いと思うのですが、観光客がその日に御祭りの輪の中で参加できるお祭りが有るでしょうか?
ねぶた祭りは其が可能何です。
衣装さえちゃんとしていれば、あっという間に跳人の一人として祭りの中に溶け込む事が出来ます(跳ねるのにコツが有るので、地元の方には観光客だとすぐ解るようですが、地元の皆さんは優しく接して、楽しく過ご過ごす事が出来ます。)。
因みに私、二回跳ねてます(o^-')b !
その私の大好きなねぶた祭りの「ねぶた」最高賞が田村麿賞(ねぶた祭りでは田村麻呂ではなく田村麿です)だったのですが、昭和三十七年制定の、「田村麿賞」の名称が平成七年度より改称されました。
坂上田村麿が蝦夷征伐のため現在の青森県城に遠征した史実やその際にねぶたを用いた(大きな紙人形を威嚇に使用した言い伝えがあります。)ことが立証できないこと、田村麿と蝦夷征伐を結びつけてのネーミングは、民族の人権上からふさわしくないこと、国の重要無形民俗文化財指定にあたっても「ねむり流し(睡魔を払う行事。主として七夕 (たなばた) 行事として、水浴をしたり、形代 (かたしろ) などを模型船や灯籠・笹竹などにのせて川・海に送り流したりします。ねぶたも最終日は海上運航ですね。)」の習俗と明記されていること。
また、市民意識の変革 など、各界各層の意見、世論をふまえた結果、平成七年度より、青森ねぶたの最高賞は「ねぶた大賞」となりました。
此は、どうなんだろう?田村麿賞で良かったのではないかと思うのですが!
確かに私の産まれ年~ですから其ほどの歴史は無いですがねf(^_^;
会津若松でユニクロの不買運動が起きる感じなのかな(起きないけどね!)?
因みに、「ユニクロ」を中心とした企業グループ持株会社であるファーストリテイリング代表取締役会長兼社長「柳井 正」さんは山口県宇部市の出身です。
又は、戦後新嘗祭が勤労感謝の日に成った位?
どちらもしっくり来ないですね~(^^;
私的には、負けはしたが、強大な中央政権の大将軍に勇敢に戦いを挑んだ陸奥の人々の魂の鼓動がねぶた祭りにはあるように思いますし、勝利した後に武官としてではなく、執政官としての田村麻呂の手腕が陸奥の奥地に豊穣をもたらしたと考えてみたいです。
いつも応援、ありがとうございますm(__)m。
歴史って本当に面白いですよね~!
今後もランキングにはこだわって良い記事をUPしたいと思いますので宜しくお願い致します(^人^)
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【そもそも、『日本中央の碑』って何?】
何か分からないんですよね、此がf(^_^;。
日本古代史の中でも屈指の謎を持つのが「日本中央の碑」なのです。
「遠くの土地にある謎めいた何か」ですかね。
その典拠は意外に古く、歌学者の藤原顕昭が出した『袖中抄』に『陸奥には「つぼのいしぶみ」という石碑があり、蝦夷征討の際に田村将軍(坂上田村麻呂)が矢筈を使って「日本中央」という文字を刻んだものである』という一説があります。
そんな言い伝えもありまして、平安時代の昔から東北の歌枕として数多くの偉人・歌人に和歌に使われた「壷の石文(つぼのいしぶみ)」という、幻の遺跡ではないかと言われてきたのです。
江戸時代には宮城県の多賀城の碑が「つぼのいしぶみ」と考えられていましたが、その所在は明治天皇も気にかけられ、明治9年の天皇の東北行幸に際して、宮内省から青森県に「つぼのいしぶみ」発見の要請がありました。
石文にまつわる伝説の残る千曳神社の境内を掘り起し、捜索したのです。
千曳神社には魔除として崇めていた巨大な石碑を1000人で引っ張ったという伝説がありました(千曳神社は、『大同2年(807年)坂上田村麻呂の創始と伝えらられる、青森県最古の神社です。「日本中央」と刻んだ「つぼのいしぶみ」を建てたという伝説があり、これを訪ねた和歌や紀行文などが多いことで知られます。)。
それが、「つぼのいしぶみ」=「日本中央の碑」ではなかったかと考えられたのですが、残念ながら明治天皇(政府?)はその石碑を見つけることはできませんでした。
ところが昭和24年6月に、その千曳神社近くの青森県東北町石文(いしぶみ)という所から突如として「日本中央」と刻まれた石碑が出土してきたわけです。
村の農家が馬頭観音を祀るためにちょうど良い石を物色していたところ、湿地帯で半分土中に埋もれた大石を掘り起し、汚れを落としたところ「日本中央」と刻まれていました。
壷の碑伝説は村人も周知しており、村中が大騒ぎになったといいます(大騒ぎしたわりには、私が知る限り、発見から30年以上放置?されていましたけど!)。
現在は、青森県東北町(旧七戸町)の国道4号線沿いにある「日本中央の碑歴史公園」の敷地内にあり、無料で見学できる保存館には、日本中央の碑はもちろん、石碑にまつわる興味深い伝説や、東北町に残る伝承、源頼朝や西行法師、岩倉具視ら数々の偉人・歌人が詠んだ歌などが展示されて、本州の果てにある日本中央の碑の謎への好奇心が大いにくすぐられます。
【「日本中央の碑保存館」で日本中央の碑を見てみましょう】
「日本中央」、正確には「ひのもとのまなか」と読みます。
かつて東北の人々は、自らの国を日本、すなわち「ひのもと」と称していたとされます。
お世辞にも達筆とは言えない字体で「日本中央」と彫られていますが、彫ったのは平安時代の征夷大将軍・坂上田村麻呂と伝えられています。
征夷大将軍がこんな字を!?といった所からして大きな謎ですが、坂上田村麻呂が彫ったという確証は得られていません。
というよりは、坂上田村麻呂が青森に迄攻め込んだ記録が無いと思うのですが!
【「日本中央の碑発見地」はぬかるみの湿地帯に有った】
日本中央の碑保存館から車で5分ほど。青森方面に向かい、国道4号線から右折し、県道8号線に入り、青い森鉄道・千曳駅と交差した先に、日本中央の碑発見地があります。
発見地は、県道8号線沿いに大きな看板があって見つけやすく、完備された駐車場があり、そこから木造の階段を降りると、「日本中央の碑」と書かれた180cm(発見された石碑と同じ大きさ)の木造の碑が建っています(私が訪れた時には、現物が置かれて居ました。)。
石が発見された集落の名は、今でも残っている地名で、「石文(いしぶみ)」、隣の地名は「都母(つぼ)」で、これがまさに「つぼのいしぶみ」の伝説と地名の符合する場所だったのです(私には出来すぎに思えますが!)。
日本中央の碑発見地は、発見当時と変わらず今でも小川が流れる泥濘の湿地帯で、何かに曳きつけられるような不思議な雰囲気が漂っています(私の記憶では畑+林+雑木林のイメージでしたが。)。
【最北の真ん中?「日本中央の碑」を訪ねて…】
日本中央の碑は、その信憑性が証明されないためか国からの文化財指定はありません(失礼を承知で「そりゃそうだわな」)。
しかし、東北町の人々により大切に保管され、古くから信じられてきた伝説の「壷の碑」として、東北町の有形文化財に指定されています。
しかしこの碑の最大の謎は、ここに刻まれた文字「日本中央」です。
なぜこのような文字が日本の最北部に当たる青森県に置かれたのでしょうか?。
蝦夷征討の際に刻まれたという逸話から考えると、まだここは「日本」の領土ではなく、しかも「日本」という国号が使われていなかった時代です。
さらに付け加えると、この碑を刻んだとされる坂上田村麻呂はこの地まで遠征していません(後任の征夷大将軍・文屋綿麻呂がはじめてこの地域一帯まで足を運んだのが史実です。文屋綿麻呂が刻んだとも考えられますね。)。
実際のところ、ここに刻まれた「日本」という文字は「ひのもと」と読ませ、平安初期の文献によると、東北地方一帯を指す言葉として使われていたようです。
つまり、この「日本中央」とは、坂上田村麻呂以下の蝦夷征討軍が敵地の中央部分に当たる場所としてマークしたポイントではないでしょうか(若しくは全くの出鱈目、ロマン無いですね~(*^.^*))?
☆藤原顕昭
1130?~1209?。
平安末~鎌倉初期の歌僧。
六条藤家の中心的存在として活躍(本人は藤原氏の出身ではなく、養子として姓を賜う)。
当時最高峰の歌合と言われた「六百番歌合」にも参加しています。
『袖中抄』は文治年間(1185~1190年)に出されています。
☆つぼのいしぶみの歌枕
和泉式部・寂蓮・西行・慈円などが詠んで居ます。
「遠くにあるもの」や「どこにあるか分からないもの」という意味で使われることが多い様ですね。
☆多賀城碑
江戸時代初期に発見された古碑。
発見当初より「つぼのいしぶみ」であるとされてきた。
松尾芭蕉が『奥の細道』で「つぼのいしぶみ」と記しているのは、この碑のことでで、青森県の物では有りません(因みに、松尾芭蕉も奥の細道で青森には行っていませんね。)。
☆坂上田村麻呂
758~811。
平安初期の武官。
797年に征夷大将軍に任ぜられ、蝦夷征討の最高責任者となります。
801年に遠征を行い大勝、翌年に胆沢城(現・岩手県奥州市)を建設、さらに次の年に志波城(現・岩手県盛岡市)を建設しました。東北地方の多くの社寺の創建伝説、またその他の伝承に多数登場するが、そのほとんどは後年の創作と思われます。
日本の中心候補の中で最も異彩!数々の偉人たちが思いを馳せ、1000年以上も謎とされてきた「日本中央の碑(つぼのいしぶみ)」。
皆さんはどう考えられますか?
余談ですが、私学生時代を青森県で過ごした事もあり、青森県が大好きです。
そのなかでも、ねぶた祭りは日本一番の祭りだと思います(他のお祭りファンの方々m(__)m)。
他のお祭りも凄いと思うのですが、観光客がその日に御祭りの輪の中で参加できるお祭りが有るでしょうか?
ねぶた祭りは其が可能何です。
衣装さえちゃんとしていれば、あっという間に跳人の一人として祭りの中に溶け込む事が出来ます(跳ねるのにコツが有るので、地元の方には観光客だとすぐ解るようですが、地元の皆さんは優しく接して、楽しく過ご過ごす事が出来ます。)。
因みに私、二回跳ねてます(o^-')b !
その私の大好きなねぶた祭りの「ねぶた」最高賞が田村麿賞(ねぶた祭りでは田村麻呂ではなく田村麿です)だったのですが、昭和三十七年制定の、「田村麿賞」の名称が平成七年度より改称されました。
坂上田村麿が蝦夷征伐のため現在の青森県城に遠征した史実やその際にねぶたを用いた(大きな紙人形を威嚇に使用した言い伝えがあります。)ことが立証できないこと、田村麿と蝦夷征伐を結びつけてのネーミングは、民族の人権上からふさわしくないこと、国の重要無形民俗文化財指定にあたっても「ねむり流し(睡魔を払う行事。主として七夕 (たなばた) 行事として、水浴をしたり、形代 (かたしろ) などを模型船や灯籠・笹竹などにのせて川・海に送り流したりします。ねぶたも最終日は海上運航ですね。)」の習俗と明記されていること。
また、市民意識の変革 など、各界各層の意見、世論をふまえた結果、平成七年度より、青森ねぶたの最高賞は「ねぶた大賞」となりました。
此は、どうなんだろう?田村麿賞で良かったのではないかと思うのですが!
確かに私の産まれ年~ですから其ほどの歴史は無いですがねf(^_^;
会津若松でユニクロの不買運動が起きる感じなのかな(起きないけどね!)?
因みに、「ユニクロ」を中心とした企業グループ持株会社であるファーストリテイリング代表取締役会長兼社長「柳井 正」さんは山口県宇部市の出身です。
又は、戦後新嘗祭が勤労感謝の日に成った位?
どちらもしっくり来ないですね~(^^;
私的には、負けはしたが、強大な中央政権の大将軍に勇敢に戦いを挑んだ陸奥の人々の魂の鼓動がねぶた祭りにはあるように思いますし、勝利した後に武官としてではなく、執政官としての田村麻呂の手腕が陸奥の奥地に豊穣をもたらしたと考えてみたいです。
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