兵庫県最大の前方後円墳「五色塚古墳」の謎!
前回30年も前の取材ソースでしたので、今回は一番新しい取材から『五色塚古墳』を御紹介致します(o^-')b !
とその前に、先月末にブログ友達のオフ会を行ったのですが、新しくお友達に成って頂いた上に、意気投合した「えたばりゅ」さんを御紹介致します。
ブログ共有もしていただきました~(^o^)v。
「えたばりゅ」さんのブログは、こちらです。
自然とペットとアラフォー野郎と 生命と人とのWinWinをめざして
私の専門でも有る、動物(犬猫~爬虫類・魚類は元より、過去の恐竜やシーラカンス迄)いいえ、生き物に対する愛情に溢れたブログなんです。
是非とも私のブログ共々、応援してくださいね(^人^)。
『五色塚古墳(千壺古墳)』
所在地は、兵庫県神戸市垂水区五色山4丁目
形状は、前方後円墳
規模は、墳丘長194.0m、高さ18.8m(後円部)
築造年代4世紀末~5世紀初頭埋葬施(推定)
竪穴式石室被葬者(伝)第14代仲哀天皇の偽陵(偽陵ってのが不思議ですし謎?気になりますね。)
出土品円筒埴輪・形象埴輪などが史跡指定され、「五色塚(千壺)古墳 小壺古墳」が国の史跡と成っています。
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【五色塚古墳】
兵庫県第1位の規模
『日本書紀』に佐紀陵山古墳(奈良県奈良市)と同形との記述が有ります。
五色塚古墳は、兵庫県神戸市垂水区五色山にある古墳です。
形状は前方後円墳、国の史跡に指定されているほか、出土埴輪は国の重要文化財に指定されています。
別称を「千壺古墳」ともいわれます。
兵庫県では最大規模の古墳で、4世紀末~5世紀初頭(古墳時代前期末~中期初頭)の築造と推測されます。
「五色塚古墳」の西側にある『小壺古墳』(五色塚古墳と合わせて国の史跡に指定!)についは次回御紹介します。
兵庫県南部、神戸市西部の垂水丘陵南端部において、眼下に明石海峡を、対岸に淡路島を望む位置に築造された巨大前方後円墳です。
古墳名の「五色塚」や「千壺」は江戸時代から呼ばれる呼称で、「五色塚」の由来は明らかでは有りませんが、「千壺」の由来は墳丘上の埴輪群による様です(数から言えば、二千坪古墳でも良いと思いますが(´∇`))。
古墳域は戦前には松林として保護されていましたが、戦中に松は油採取等に利用するため伐採され、戦後には畑として開墾されてしまいました。
加えて、前方部前面には山陽電鉄本線・JR神戸線が引かれたほか、古墳周囲にも道路が敷かれたため、周濠等も改変を受けてしまいました。
考古学的には、これまでに数回の発掘調査が実施されたほか、築造当時の姿へと復元整備も実施されており、日本で最初に復元整備が行われた古墳として知られています(知らなかった、そうだったんだ!)。
【歴史に残る記録】
明暦3年(1657年)の『摂津名所図会』に、「五色塚」の名称で図示。
元禄11年(1698年)の『諸陵周垣成就記』に、「仲哀天皇陵土俗五色塚千壺と云ふ」と記載(『兵庫縣史蹟名称天然記念物調査報告書 第一輯』に引用、ただし「勤王文庫」所収原本に記載なし)。
享保年間(1716-1736年)の『明石記』に詳述(宝暦12年(1762年)の『播磨鑑』にも引用)。
古墳域は、1921年(大正10年)に小壺古墳の古墳域と合わせて国の史跡に指定されました。
2012年(平成24年)9月6日には、出土品(円筒埴輪群)が国の重要文化財に指定されています。
【形状と規模】
墳形は前方後円形で、前方部を南方(瀬戸内海側)に向けています。
墳丘は3段築成。
墳丘長は194メートルですが、これは兵庫県では最大規模になります(全国では第40位程度ですね。)。
墳丘表面の各段には円筒埴輪列が巡らされるほか、各段斜面には葺石が葺かれています。
特に埴輪は推計2,200本、葺石は推計2,233,500個(数えたんか?)・2,784トンにおよび、上段・中段の葺石は淡路島産と判明しています。
墳丘周囲には深い周濠・浅い外部周溝が2重(二重部分は分からなかったです。)で巡らされており、周濠内では、墳丘のくびれ部左右・後円部北東の3ヶ所に方形の島状遺構(マウンド)が認められています。
くびれ部左右の島状遺構は一辺20メートル。
後円部北東の島状遺構では円筒埴輪棺および副葬品が出土しています。
これらの島状遺構の用途は明らかでないが、一説にくびれ部の遺構は祭壇(後の造出?)、後円部北東の遺構は陪塚(中心となる大型の古墳に埋葬された首長の親族、臣下を埋葬するもののほか、大型の古墳の埋葬者のための副葬品を埋納するために建設されたものもあるようです。)と推測されます。
主体部の埋葬施設は明らかでは有りませんが、竪穴式石室の使用が推定されています。
この五色塚古墳は、墳形・出土埴輪から古墳時代前期末~中期初頭の4世紀末~5世紀初頭頃の築造と推定されています。
被葬者は明らかでは無いのですが(ここが重要です。)、明石海峡やその周辺を支配した豪族首長では無いかとと推測されています。
特に、築造に際して明石海峡対岸の淡路島から多量の石が運ばれたという事実は、『日本書紀』神功皇后紀の記事と対応するものとして注目され、これより被葬者の支配領域は淡路島まで及んだとする説もあります。
また、当時としてはヤマト王権の大王墓(佐紀古墳群)に匹敵する規模の古墳になりますが、一帯は明石海峡を押さえる要衝でありながら、巨大古墳を築造できるだけの経済基盤の無い地域であることから、築造に際してはヤマト王権中枢からの強い関与が推測されます。
加えて、当時はヤマト王権の大王墓が大和(佐紀古墳群)から河内(百舌鳥・古市古墳群)へと移行する時期にも重なるため、ヤマト王権中枢の移動との関係を想定する説もあります。
古墳の規模は次の通り(括弧内は信頼性に欠ける推定値です)。
長さ・後円部直径・くびれ部幅・前方部幅の順番に記載。
上段(3段目)150.5m72.2m19.0m33.5m
中段(2段目)171.0m100.0m37.0m53.7m
下段(1段目)194.0m125.5m65.2m(82.4m)
五色塚古墳の墳形は佐紀陵山古墳(奈良県奈良市)伝日葉酢媛命陵とほぼ同一規格とされます。
墳丘周囲には鍵穴形と見られる周濠(水を張らない空濠)が巡らされています。
前方部前面には山陽電鉄本線・JR神戸線が通過し、墳丘周囲には道路が敷かれているため周濠の全体像は明らかでは有りませんが、元来の周濠は墳丘を全周していたと推測されています。
周濠の前方部南側では、通路状遺構(土橋)も検出されました。
また後円部側では、周濠のさらに外側に周溝も巡らされていたようです。
この周溝は西側で小壺古墳の周濠外側へと沿うように変形しますが、これが五色塚古墳・小壺古墳の同時築造を示すものか、いずれかが後に築造された際に溝に変形を加えたものかは定かでは有りません。
【埴輪】
墳丘表面では、墳頂・テラスの各段に円筒埴輪列が巡らされています。
埴輪列は10メートルに18本程度とし、鰭付円筒埴輪5~6本に1本の割合で鰭付朝顔形埴輪が、いずれも鰭を墳丘と平行に置かれています。
各段計3重に巡らされる埴輪の総数2,200本程度と推計され、検出された埴輪は全て黒斑を有しています。
また鰭付円筒埴輪は4条突帯5段構成・5条突帯6段構成の2型で、高さはそれぞれ100センチメートル・114センチメートルと異なりますが、突帯間隔は約17.5センチメートルと共通しています。
なお、同様の埴輪列は一部の周濠外堤でも見つかっています。
なお、五色塚古墳の円筒埴輪と同様の埴輪は、西隣の小壺古墳のほか、歌敷山東古墳、歌敷山西古墳、舞子浜遺跡、幣塚古墳でも検出されています。
【葺石「石にも歴史有り」】
墳丘各段の斜面には、葺石が葺かれ、古墳全体としては2,233,500個・2,784トンにも達します。
石材は、上段・中段(推計714,800個・2,278トン)では主に斑糲岩(一部に花崗岩等)で、地質学的には明石海峡対岸の淡路島北東岸産と推定されました。
下段では主にチャート・珪石で、古墳付近の海岸・河川産です。
『日本書紀』神功皇后紀の記載では、淡路島の石を運んで赤石(= 明石)に陵を築いたとする伝承が記されており、上の事実はその伝承を裏付けるものとして注目されます(面白いじゃないですか~(^^;)。
【埋葬施設】
埋葬施設は調査が実施されておらず、明らかでは有りません(未盗掘ですかね?)。
復元整備前の墳丘後円部において結晶片岩(徳島県東部産か)の出土が見られたことから、竪穴式石室(竪穴式石槨)が存在するものと推測されますが、詳らかでは有りません。
文献上では、『播磨鑑』が『明石記』から引用して本古墳について「石棺露」と記すことから、石棺(一説に長持形石棺)が使用されたと推測する説がありますが、これについて近年の『発掘調査・復元整備報告書』では、この「石棺露」は実際には「竪穴式石槨の一部の露出」を指したものであって、時代的には割竹形木棺が埋納されている可能性が高いと考えられます。
なお、『日本書紀』神功皇后紀の記事では遺骸を伴わない「偽陵」が赤石(= 明石)に築かれたとされますが(ワクワク(*^.^*))、考古学的には本古墳が古墳時代の人物の墓であることは確実とされています(ロマンぶち壊し~(*`Д´)ノ!!!)。
【出土品】
出土埴輪(国の重要文化財)五色塚古墳からの出土品としては、前述の円筒埴輪群が代表的なものとして知られます。
埴輪は総数2,200本と推計されるうち600本が採集されています。
特に採集埴輪のうち鰭付円筒埴輪42点・鰭付朝顔形埴輪3点・円筒埴輪3点の計48点は全形が復元されており、国の重要文化財に指定されています。
以上の出土品の多くは、神戸市埋蔵文化財センターで保管されています。
五色塚古墳の築造には、『日本書紀』に有るように、神功皇后の三韓征伐帰途に応神天皇の母違い兄弟の謀略目的によって造られた説が、私的には古代ロマンを掻き立てられるのですが、其は又お話致します(^人^)。
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『五色塚古墳(千壺古墳)』
所在地は、兵庫県神戸市垂水区五色山4丁目
形状は、前方後円墳
規模は、墳丘長194.0m、高さ18.8m(後円部)
築造年代4世紀末~5世紀初頭埋葬施(推定)
竪穴式石室被葬者(伝)第14代仲哀天皇の偽陵(偽陵ってのが不思議ですし謎?気になりますね。)
出土品円筒埴輪・形象埴輪などが史跡指定され、「五色塚(千壺)古墳 小壺古墳」が国の史跡と成っています。
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【五色塚古墳】
兵庫県第1位の規模
『日本書紀』に佐紀陵山古墳(奈良県奈良市)と同形との記述が有ります。
五色塚古墳は、兵庫県神戸市垂水区五色山にある古墳です。
形状は前方後円墳、国の史跡に指定されているほか、出土埴輪は国の重要文化財に指定されています。
別称を「千壺古墳」ともいわれます。
兵庫県では最大規模の古墳で、4世紀末~5世紀初頭(古墳時代前期末~中期初頭)の築造と推測されます。
「五色塚古墳」の西側にある『小壺古墳』(五色塚古墳と合わせて国の史跡に指定!)についは次回御紹介します。
兵庫県南部、神戸市西部の垂水丘陵南端部において、眼下に明石海峡を、対岸に淡路島を望む位置に築造された巨大前方後円墳です。
古墳名の「五色塚」や「千壺」は江戸時代から呼ばれる呼称で、「五色塚」の由来は明らかでは有りませんが、「千壺」の由来は墳丘上の埴輪群による様です(数から言えば、二千坪古墳でも良いと思いますが(´∇`))。
古墳域は戦前には松林として保護されていましたが、戦中に松は油採取等に利用するため伐採され、戦後には畑として開墾されてしまいました。
加えて、前方部前面には山陽電鉄本線・JR神戸線が引かれたほか、古墳周囲にも道路が敷かれたため、周濠等も改変を受けてしまいました。
考古学的には、これまでに数回の発掘調査が実施されたほか、築造当時の姿へと復元整備も実施されており、日本で最初に復元整備が行われた古墳として知られています(知らなかった、そうだったんだ!)。
【歴史に残る記録】
明暦3年(1657年)の『摂津名所図会』に、「五色塚」の名称で図示。
元禄11年(1698年)の『諸陵周垣成就記』に、「仲哀天皇陵土俗五色塚千壺と云ふ」と記載(『兵庫縣史蹟名称天然記念物調査報告書 第一輯』に引用、ただし「勤王文庫」所収原本に記載なし)。
享保年間(1716-1736年)の『明石記』に詳述(宝暦12年(1762年)の『播磨鑑』にも引用)。
古墳域は、1921年(大正10年)に小壺古墳の古墳域と合わせて国の史跡に指定されました。
2012年(平成24年)9月6日には、出土品(円筒埴輪群)が国の重要文化財に指定されています。
【形状と規模】
墳形は前方後円形で、前方部を南方(瀬戸内海側)に向けています。
墳丘は3段築成。
墳丘長は194メートルですが、これは兵庫県では最大規模になります(全国では第40位程度ですね。)。
墳丘表面の各段には円筒埴輪列が巡らされるほか、各段斜面には葺石が葺かれています。
特に埴輪は推計2,200本、葺石は推計2,233,500個(数えたんか?)・2,784トンにおよび、上段・中段の葺石は淡路島産と判明しています。
墳丘周囲には深い周濠・浅い外部周溝が2重(二重部分は分からなかったです。)で巡らされており、周濠内では、墳丘のくびれ部左右・後円部北東の3ヶ所に方形の島状遺構(マウンド)が認められています。
くびれ部左右の島状遺構は一辺20メートル。
後円部北東の島状遺構では円筒埴輪棺および副葬品が出土しています。
これらの島状遺構の用途は明らかでないが、一説にくびれ部の遺構は祭壇(後の造出?)、後円部北東の遺構は陪塚(中心となる大型の古墳に埋葬された首長の親族、臣下を埋葬するもののほか、大型の古墳の埋葬者のための副葬品を埋納するために建設されたものもあるようです。)と推測されます。
主体部の埋葬施設は明らかでは有りませんが、竪穴式石室の使用が推定されています。
この五色塚古墳は、墳形・出土埴輪から古墳時代前期末~中期初頭の4世紀末~5世紀初頭頃の築造と推定されています。
被葬者は明らかでは無いのですが(ここが重要です。)、明石海峡やその周辺を支配した豪族首長では無いかとと推測されています。
特に、築造に際して明石海峡対岸の淡路島から多量の石が運ばれたという事実は、『日本書紀』神功皇后紀の記事と対応するものとして注目され、これより被葬者の支配領域は淡路島まで及んだとする説もあります。
また、当時としてはヤマト王権の大王墓(佐紀古墳群)に匹敵する規模の古墳になりますが、一帯は明石海峡を押さえる要衝でありながら、巨大古墳を築造できるだけの経済基盤の無い地域であることから、築造に際してはヤマト王権中枢からの強い関与が推測されます。
加えて、当時はヤマト王権の大王墓が大和(佐紀古墳群)から河内(百舌鳥・古市古墳群)へと移行する時期にも重なるため、ヤマト王権中枢の移動との関係を想定する説もあります。
古墳の規模は次の通り(括弧内は信頼性に欠ける推定値です)。
長さ・後円部直径・くびれ部幅・前方部幅の順番に記載。
上段(3段目)150.5m72.2m19.0m33.5m
中段(2段目)171.0m100.0m37.0m53.7m
下段(1段目)194.0m125.5m65.2m(82.4m)
五色塚古墳の墳形は佐紀陵山古墳(奈良県奈良市)伝日葉酢媛命陵とほぼ同一規格とされます。
墳丘周囲には鍵穴形と見られる周濠(水を張らない空濠)が巡らされています。
前方部前面には山陽電鉄本線・JR神戸線が通過し、墳丘周囲には道路が敷かれているため周濠の全体像は明らかでは有りませんが、元来の周濠は墳丘を全周していたと推測されています。
周濠の前方部南側では、通路状遺構(土橋)も検出されました。
また後円部側では、周濠のさらに外側に周溝も巡らされていたようです。
この周溝は西側で小壺古墳の周濠外側へと沿うように変形しますが、これが五色塚古墳・小壺古墳の同時築造を示すものか、いずれかが後に築造された際に溝に変形を加えたものかは定かでは有りません。
【埴輪】
墳丘表面では、墳頂・テラスの各段に円筒埴輪列が巡らされています。
埴輪列は10メートルに18本程度とし、鰭付円筒埴輪5~6本に1本の割合で鰭付朝顔形埴輪が、いずれも鰭を墳丘と平行に置かれています。
各段計3重に巡らされる埴輪の総数2,200本程度と推計され、検出された埴輪は全て黒斑を有しています。
また鰭付円筒埴輪は4条突帯5段構成・5条突帯6段構成の2型で、高さはそれぞれ100センチメートル・114センチメートルと異なりますが、突帯間隔は約17.5センチメートルと共通しています。
なお、同様の埴輪列は一部の周濠外堤でも見つかっています。
なお、五色塚古墳の円筒埴輪と同様の埴輪は、西隣の小壺古墳のほか、歌敷山東古墳、歌敷山西古墳、舞子浜遺跡、幣塚古墳でも検出されています。
【葺石「石にも歴史有り」】
墳丘各段の斜面には、葺石が葺かれ、古墳全体としては2,233,500個・2,784トンにも達します。
石材は、上段・中段(推計714,800個・2,278トン)では主に斑糲岩(一部に花崗岩等)で、地質学的には明石海峡対岸の淡路島北東岸産と推定されました。
下段では主にチャート・珪石で、古墳付近の海岸・河川産です。
『日本書紀』神功皇后紀の記載では、淡路島の石を運んで赤石(= 明石)に陵を築いたとする伝承が記されており、上の事実はその伝承を裏付けるものとして注目されます(面白いじゃないですか~(^^;)。
【埋葬施設】
埋葬施設は調査が実施されておらず、明らかでは有りません(未盗掘ですかね?)。
復元整備前の墳丘後円部において結晶片岩(徳島県東部産か)の出土が見られたことから、竪穴式石室(竪穴式石槨)が存在するものと推測されますが、詳らかでは有りません。
文献上では、『播磨鑑』が『明石記』から引用して本古墳について「石棺露」と記すことから、石棺(一説に長持形石棺)が使用されたと推測する説がありますが、これについて近年の『発掘調査・復元整備報告書』では、この「石棺露」は実際には「竪穴式石槨の一部の露出」を指したものであって、時代的には割竹形木棺が埋納されている可能性が高いと考えられます。
なお、『日本書紀』神功皇后紀の記事では遺骸を伴わない「偽陵」が赤石(= 明石)に築かれたとされますが(ワクワク(*^.^*))、考古学的には本古墳が古墳時代の人物の墓であることは確実とされています(ロマンぶち壊し~(*`Д´)ノ!!!)。
【出土品】
出土埴輪(国の重要文化財)五色塚古墳からの出土品としては、前述の円筒埴輪群が代表的なものとして知られます。
埴輪は総数2,200本と推計されるうち600本が採集されています。
特に採集埴輪のうち鰭付円筒埴輪42点・鰭付朝顔形埴輪3点・円筒埴輪3点の計48点は全形が復元されており、国の重要文化財に指定されています。
以上の出土品の多くは、神戸市埋蔵文化財センターで保管されています。
五色塚古墳の築造には、『日本書紀』に有るように、神功皇后の三韓征伐帰途に応神天皇の母違い兄弟の謀略目的によって造られた説が、私的には古代ロマンを掻き立てられるのですが、其は又お話致します(^人^)。
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