天平時代の国分寺の雰囲気をそのまま残す『備中国分寺』を訪ねて。
今日は「備中国分寺」をご紹介いたします。
天平は、日本の元号の一つで、神亀の後~天平感宝の前となります。
西暦では729年か~749年までの期間を指し、この時代の天皇は聖武天皇です。
奈良時代の最盛期にあたるため、東大寺、唐招提寺などに残るその時代の文化を天平文化と呼びます。
備中国分寺は往時の雰囲気をそのままの姿で残している?なかなかの建物ですよ、但馬も含めて痕跡だけ(礎石だけとか!)に成っている所が多い中、しっかり国分寺でした(´∇`)
奈良時代に聖武天皇の詔により日本各地に建立された国分寺のうち、備中国国分寺の後継寺院にあたります。
現寺院と、創建当時の史跡である備中国分寺跡・備中国分尼寺跡についても御紹介します。
田園風景の中に建つ五重塔は、観光地吉備路のシンボル的な存在となっています。
寺伝では、廃寺となっていた国分寺を天正年間(1573年~1592年)に備中高松城主・清水宗治(あの秀吉の水攻めで切腹した猛将ですね。)が再興しましたが衰退し、江戸時代中期の宝永年間(1704年~1711年)に再建されたとされています。
五重塔(国の重要文化財)五重塔は、高さ34.32メートル。
南北朝時代に奈良時代の七重塔(推定50メートル、塔跡が残っています。)を焼失したのち、1821年(文政4年)に位置を変えて再建を開始、弘化年間(1844年~1847年)に完成しました。
江戸時代後期の様式を濃く残す岡山県内唯一の五重塔です(備前市に三重の塔は有った気がします。)。
当初は三重塔で計画されたのを五重塔に変更されたようです。
塔は国の重要文化財に指定されています。
備中国分寺跡は、創建当初の国分寺跡は現在の国分寺境内と重複しています。
寺域は東西160メートル・南北180メートルと推測され、出土した土器などから中世初期まで存続したと推定されています(なお国府は賀陽郡ですが、国分寺は窪屋郡に位置している。)。
旧伽藍は以下に示す通りで、配置は法起寺式(金堂の右に塔が配置される。現在とは逆配置に成りますか!)と考えられています。
一部は現伽藍と重複しており、詳細は明らかには成っていません。
南門は南端に位置し、間口5間・奥行2間、天平年間に3間1戸から5間1戸に大改修されています。
中門は間口5間・奥行2間、全体としては南門を上回る規模、南門との間には大井戸が見つかっています。
塔は高さ約50メートルの七重塔。
金堂・講堂は現在の境内伽藍の下にあり、位置・規模は不明です。
【聖武天皇の不可解な御幸】
国分寺建立の背景なんですが、聖武天皇の伊勢行幸が行われました(740年「天平12年」10月26日)。
折りから大宰小弐藤原広嗣が九州大宰府に反乱の兵を挙げ、都へと上がろうとする中、時の帝聖武天皇は不意に平城京を捨て、後世に『不可解な御幸(みゆき)』ともいわれる伊勢行幸をおこないます。
「朕(ちん)、意(おも)うところあるによって、今月末暫く関東に往かんとす。その時に非ずといえども、こと已むことあたわず」
こうして聖武天皇は、反乱征討軍の将軍大野朝臣東人(おおののあそんあずまひと)宛に一文を送ると、右大臣橘諸兄(たちばなのもろえ)を伴い、伊勢路をたどり、やがて遠く美濃、近江までも行幸とも彷徨ともつかない旅を続け、12月半ば、ようやく山背国恭仁(やましろのくにくに)郷へと着いたのでした。
直ちに恭仁京遷都がおこなわれ、都の造営が始まりましたが、明けて天平13年3月、この地から諸国に向けて発せられたのが「国分寺創建の詔」でした。
聖武天皇は、七重の塔に主眼を置いた金光明四天王護国之寺(国分僧寺)と、法華滅罪之寺(国分尼寺)の二寺の名を正式に定め、国家鎮護を目的とした寺院建立を広く諸国へ命じたのでした。
その動機について、当時、飢饉と疫病の流行がうち続き、また藤原広嗣の乱による政情不安から一層悩みを深くした聖武天皇が、仏の加護による安寧を求めておこなったものである、と歴史書の多くは時代背景を説いています。
また、天然痘の流行により一気に壊滅に瀕した藤原一族の余命を支えるため、光明皇后(藤原不比等(ふじわらふひと)の娘)が仏教を奉じて、亡父不比等の封戸3,000戸を国分寺に施入した結果 である、と後宮政治説の立場からの解釈もあります。
【仏教および国分寺の必要性って何?】
聖武天皇の詔に先立つこと200年、宣化天皇代の538年(一説に552年)、百済からはじめて仏教が日本へと伝えられたといわれています。
663年の白村江の戦に敗れ朝鮮半島における足掛かりを失った日本は、壬申の乱を経て、やがて内政充実の方向へと向かって行きました。
律令国家建設の大きな柱として、国分寺建立の思想はすでに六世紀中ごろからあったともいわれます。
その推進者である天武天皇代の676年、全国に使者を遣わして「金光明経」「仁王経」を購読させています。
天武14年(685年)3月には諸国に仏舎を造り、仏像や経を礼拝せよとの詔が出されています。
持統7年(693年)10月には諸国で仁王経を講じさせ、翌年金光明経百部を全国へ配布しています。
神亀5年(728年)12月には、金光明経が再び全国へ配布されました。
天平9年(737年)3月には釈迦仏像と挟持菩薩を造り、大般若経を写経せよとの詔が出されます。
天平13年(741年)3月、国分寺(国分僧寺、国分尼寺)造営の詔が出されます。
これらの流れを考えますと、改まって寺の造営を命じたというよりも、むしろ今までに出した仏像造営と写経、そして仏教崇拝の詔を徹底する為の、最後の一押しが「国分寺創建の詔」だったのではないでしょうか。
仏教による中央集権国家体制の安定を目指した六世紀の初めでしたが、文武天皇代の703年に端を発した凶作は、続く疫病の流行と相まって治まるところを知らず、諸国に飢餓と疫疾を蔓延させました。
そんな状況の中でおこなわれた元明(げんみょう)天皇の平城京遷都(710年)は、造都にかり出された民衆の多くが帰郷の途に餓死するという悲惨な結果となってしまいます。
聖武天皇の即位(724年)は、政教一致による律令国家構想がわずか20年にわたる天災によって、危機に瀕した、そんな時代状況の中でおこなわれたのでした。
即位 と同時に、聖武天皇は仏教界の立て直しを図ります。
『続日本紀』によると、国分寺創建の詔よりも以前に、
「国毎に釈迦仏の像一、挟侍(きょうじ)菩薩二を造り、兼て大般若経一部を写 さしめよ」(737年3月)
「天下の諸国をして国毎に法華経十部を写し、ならびに七重の塔を建てしむ」(740年6月)
と、二度にわたり、諸国国分寺の存在を思わせる聖武天皇の詔が発せられています。
天平13年(741年)3月の聖武天皇による「国分寺創建の詔」は、永年にわたる国分寺構想の集大成であったと考えられます。
聖武天皇は、日本全国に護国の教典をまつる寺院を建立し、平城京には全国の国分寺の総寺として東大寺と大仏を、国分尼寺の総寺として法華寺を建立しました。
国分寺は「金光明経(金光明最勝王経)」に基づき、国分尼寺は「法華経」に基づき建立されました(正式名称を「法華滅罪之寺」)。
「金光明経」「法華経」、そして「仁王経」を総称し「護国三部経」といいます。
「金光明経」には「この経を広め、また読誦して正法をもって国王が施政すれば国は豊かになり、四天王をはじめ弁才天や吉祥天、堅牢地神などの諸天善神が国を守護する」と説かれています。
「法華経」にも「この教典に帰依すれば仏法によって国土が夜叉から守られる」と説かれてます。(「法華経」は女人の往生を説いている関係から、こちらをまつる寺院が「尼寺」となったのではないでしょうか?)
国分寺や大仏には天皇および朝廷の権威を示す、公共事業、文化の普及、といった政治的意図もあったとは思いますが、やはり仏教によって国を守り、繁栄させるというのが国分寺・国分尼寺建立の基本精神だったと考えます。
さて~備中国分尼寺跡ですが、国分寺の東方に位置します。
寺域は東西108メートル・南北216メートル、南北朝時代の戦火で焼失したとされるが、多くの礎石・遺構が残っています。
持統天皇、元明天皇、元正天皇が皇位を繋ぎ、藤原氏に実権がうつった後は、藤原不比等の娘達が皇后となって政治力を握って行くことになります。
この時代の女性は強かったですね~(笑)
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天平は、日本の元号の一つで、神亀の後~天平感宝の前となります。
西暦では729年か~749年までの期間を指し、この時代の天皇は聖武天皇です。
奈良時代の最盛期にあたるため、東大寺、唐招提寺などに残るその時代の文化を天平文化と呼びます。
備中国分寺は往時の雰囲気をそのままの姿で残している?なかなかの建物ですよ、但馬も含めて痕跡だけ(礎石だけとか!)に成っている所が多い中、しっかり国分寺でした(´∇`)
(岡山市内で邪馬台国サミットが迫っておりまして、写真が少ないです。まだブロガーじゃ無かったし…言い訳です。)
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【備中国分寺】
住所:岡山県総社市上林
山号:日照山宗派真言宗御室派
本尊:薬師如来
創建年:天平13年(741年)
開基:聖武天皇(官立)
中興年:江戸時代中期
備中西国三十三所観音霊場28番
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【備中国分寺】
住所:岡山県総社市上林
山号:日照山宗派真言宗御室派
本尊:薬師如来
創建年:天平13年(741年)
開基:聖武天皇(官立)
中興年:江戸時代中期
備中西国三十三所観音霊場28番
(田んぼの中の国分寺、天平時代もこんな感じだったのでしょうか?五重の塔は七重でしたけどね。)
奈良時代に聖武天皇の詔により日本各地に建立された国分寺のうち、備中国国分寺の後継寺院にあたります。
現寺院と、創建当時の史跡である備中国分寺跡・備中国分尼寺跡についても御紹介します。
田園風景の中に建つ五重塔は、観光地吉備路のシンボル的な存在となっています。
寺伝では、廃寺となっていた国分寺を天正年間(1573年~1592年)に備中高松城主・清水宗治(あの秀吉の水攻めで切腹した猛将ですね。)が再興しましたが衰退し、江戸時代中期の宝永年間(1704年~1711年)に再建されたとされています。
(これでも35メートルほど、最初は50メートルですから)
五重塔(国の重要文化財)五重塔は、高さ34.32メートル。
南北朝時代に奈良時代の七重塔(推定50メートル、塔跡が残っています。)を焼失したのち、1821年(文政4年)に位置を変えて再建を開始、弘化年間(1844年~1847年)に完成しました。
江戸時代後期の様式を濃く残す岡山県内唯一の五重塔です(備前市に三重の塔は有った気がします。)。
当初は三重塔で計画されたのを五重塔に変更されたようです。
塔は国の重要文化財に指定されています。
備中国分寺跡は、創建当初の国分寺跡は現在の国分寺境内と重複しています。
寺域は東西160メートル・南北180メートルと推測され、出土した土器などから中世初期まで存続したと推定されています(なお国府は賀陽郡ですが、国分寺は窪屋郡に位置している。)。
旧伽藍は以下に示す通りで、配置は法起寺式(金堂の右に塔が配置される。現在とは逆配置に成りますか!)と考えられています。
一部は現伽藍と重複しており、詳細は明らかには成っていません。
南門は南端に位置し、間口5間・奥行2間、天平年間に3間1戸から5間1戸に大改修されています。
中門は間口5間・奥行2間、全体としては南門を上回る規模、南門との間には大井戸が見つかっています。
塔は高さ約50メートルの七重塔。
金堂・講堂は現在の境内伽藍の下にあり、位置・規模は不明です。
【聖武天皇の不可解な御幸】
国分寺建立の背景なんですが、聖武天皇の伊勢行幸が行われました(740年「天平12年」10月26日)。
折りから大宰小弐藤原広嗣が九州大宰府に反乱の兵を挙げ、都へと上がろうとする中、時の帝聖武天皇は不意に平城京を捨て、後世に『不可解な御幸(みゆき)』ともいわれる伊勢行幸をおこないます。
「朕(ちん)、意(おも)うところあるによって、今月末暫く関東に往かんとす。その時に非ずといえども、こと已むことあたわず」
こうして聖武天皇は、反乱征討軍の将軍大野朝臣東人(おおののあそんあずまひと)宛に一文を送ると、右大臣橘諸兄(たちばなのもろえ)を伴い、伊勢路をたどり、やがて遠く美濃、近江までも行幸とも彷徨ともつかない旅を続け、12月半ば、ようやく山背国恭仁(やましろのくにくに)郷へと着いたのでした。
直ちに恭仁京遷都がおこなわれ、都の造営が始まりましたが、明けて天平13年3月、この地から諸国に向けて発せられたのが「国分寺創建の詔」でした。
聖武天皇は、七重の塔に主眼を置いた金光明四天王護国之寺(国分僧寺)と、法華滅罪之寺(国分尼寺)の二寺の名を正式に定め、国家鎮護を目的とした寺院建立を広く諸国へ命じたのでした。
その動機について、当時、飢饉と疫病の流行がうち続き、また藤原広嗣の乱による政情不安から一層悩みを深くした聖武天皇が、仏の加護による安寧を求めておこなったものである、と歴史書の多くは時代背景を説いています。
また、天然痘の流行により一気に壊滅に瀕した藤原一族の余命を支えるため、光明皇后(藤原不比等(ふじわらふひと)の娘)が仏教を奉じて、亡父不比等の封戸3,000戸を国分寺に施入した結果 である、と後宮政治説の立場からの解釈もあります。
【仏教および国分寺の必要性って何?】
聖武天皇の詔に先立つこと200年、宣化天皇代の538年(一説に552年)、百済からはじめて仏教が日本へと伝えられたといわれています。
663年の白村江の戦に敗れ朝鮮半島における足掛かりを失った日本は、壬申の乱を経て、やがて内政充実の方向へと向かって行きました。
律令国家建設の大きな柱として、国分寺建立の思想はすでに六世紀中ごろからあったともいわれます。
その推進者である天武天皇代の676年、全国に使者を遣わして「金光明経」「仁王経」を購読させています。
天武14年(685年)3月には諸国に仏舎を造り、仏像や経を礼拝せよとの詔が出されています。
持統7年(693年)10月には諸国で仁王経を講じさせ、翌年金光明経百部を全国へ配布しています。
神亀5年(728年)12月には、金光明経が再び全国へ配布されました。
天平9年(737年)3月には釈迦仏像と挟持菩薩を造り、大般若経を写経せよとの詔が出されます。
天平13年(741年)3月、国分寺(国分僧寺、国分尼寺)造営の詔が出されます。
これらの流れを考えますと、改まって寺の造営を命じたというよりも、むしろ今までに出した仏像造営と写経、そして仏教崇拝の詔を徹底する為の、最後の一押しが「国分寺創建の詔」だったのではないでしょうか。
仏教による中央集権国家体制の安定を目指した六世紀の初めでしたが、文武天皇代の703年に端を発した凶作は、続く疫病の流行と相まって治まるところを知らず、諸国に飢餓と疫疾を蔓延させました。
そんな状況の中でおこなわれた元明(げんみょう)天皇の平城京遷都(710年)は、造都にかり出された民衆の多くが帰郷の途に餓死するという悲惨な結果となってしまいます。
聖武天皇の即位(724年)は、政教一致による律令国家構想がわずか20年にわたる天災によって、危機に瀕した、そんな時代状況の中でおこなわれたのでした。
即位 と同時に、聖武天皇は仏教界の立て直しを図ります。
『続日本紀』によると、国分寺創建の詔よりも以前に、
「国毎に釈迦仏の像一、挟侍(きょうじ)菩薩二を造り、兼て大般若経一部を写 さしめよ」(737年3月)
「天下の諸国をして国毎に法華経十部を写し、ならびに七重の塔を建てしむ」(740年6月)
と、二度にわたり、諸国国分寺の存在を思わせる聖武天皇の詔が発せられています。
天平13年(741年)3月の聖武天皇による「国分寺創建の詔」は、永年にわたる国分寺構想の集大成であったと考えられます。
聖武天皇は、日本全国に護国の教典をまつる寺院を建立し、平城京には全国の国分寺の総寺として東大寺と大仏を、国分尼寺の総寺として法華寺を建立しました。
国分寺は「金光明経(金光明最勝王経)」に基づき、国分尼寺は「法華経」に基づき建立されました(正式名称を「法華滅罪之寺」)。
「金光明経」「法華経」、そして「仁王経」を総称し「護国三部経」といいます。
「金光明経」には「この経を広め、また読誦して正法をもって国王が施政すれば国は豊かになり、四天王をはじめ弁才天や吉祥天、堅牢地神などの諸天善神が国を守護する」と説かれています。
「法華経」にも「この教典に帰依すれば仏法によって国土が夜叉から守られる」と説かれてます。(「法華経」は女人の往生を説いている関係から、こちらをまつる寺院が「尼寺」となったのではないでしょうか?)
国分寺や大仏には天皇および朝廷の権威を示す、公共事業、文化の普及、といった政治的意図もあったとは思いますが、やはり仏教によって国を守り、繁栄させるというのが国分寺・国分尼寺建立の基本精神だったと考えます。
さて~備中国分尼寺跡ですが、国分寺の東方に位置します。
寺域は東西108メートル・南北216メートル、南北朝時代の戦火で焼失したとされるが、多くの礎石・遺構が残っています。
持統天皇、元明天皇、元正天皇が皇位を繋ぎ、藤原氏に実権がうつった後は、藤原不比等の娘達が皇后となって政治力を握って行くことになります。
この時代の女性は強かったですね~(笑)
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