「.....」言葉が見つからない!『東大寺南大門』
箸墓古墳で古墳を一息つかせていただきまして?アッ!「渋谷向山古墳」伝・景行天皇陵が残っとるがな(;^_^A、ということで、次の機会に置いておかせていただきまして、今日は奈良といえば東大寺!しかしながら、東大寺を一度でお話しするのは凄い量に成ってしまいますので、まずは国宝「東大寺南大門」をご紹介いたします。
その前に、Facebookでお友達に成って頂いていた、森本喜久男(もりもと・きくお)さんがお亡くなりに成りました。1996年にカンボジアの現地NGOとしてIKTTをプノンペン郊外のタクマオ市に設立以来、内戦下で途絶えかけていたカンボジア伝統の絹織物の復興と、伝統的養蚕の再開に取り組まれておられました。いつも私がブログをFacebookシェアするとカンボジアから最初にいいねを頂き私のブログも国際的になったなどと喜んでおりました。先日放送された「情熱大陸」ではお元気なお姿を見せられておられましたので、残念でなりません。心よりご冥福をお祈り申し上げますと共に同じく(僭越ですが)伝統を愛すものとして、追悼ブログを書かせて頂けたらと考えております。
さて今日は、森本さんの「伝統は作るものだ」の言葉を心に留めながら、『東大寺南大門』のご紹介です。
其では、『市郎右衛門』の日本歴史ブログをお楽しみくださいね(人´ω`*).☆.。



天平創建時の門は平安時代の応和2年(962年)8月に台風で倒壊しました。現在の門は平重衡によって焼かれてしまった東大寺を復興した中興の祖である俊乗房重源上人(ちょうげんしょうにん)が正治元年に、その総供養に際して再建したもので、今はない鎌倉再建の大仏殿の威容を偲ばせる貴重な遺構です。正治元年(1199)に上棟し、建仁3年(1203)には門内に安置する仁王像とともに竣工されました。入母屋造、五間三戸二重門で、ただ下層は天井がなく腰屋根構造となっています。また屋根裏まで達する大円柱18本は、21mにも及び、門の高さは基壇上25.46mもあり。大仏殿にふさわしいわが国最大の山門です。
仁王像二体は、昭和63年から5年間にわたって全面解体修理が行われ、天平創建期から向かい会って立っていたことや、山口県で伐採された木材が、約1年程で搬送され、古文書の記述通り、ほぼ70日間で二体同時進行で、造像されたことも証明されました。
【南大門の特徴】
俊乗房重源上人が中国・宋から伝えた建築様式といわれる大仏様(だいぶつよう、天竺様ともいう)を採用した建築として有名です。大仏様の特色は、貫と呼ばれる、柱を貫通する水平材を多用して構造を堅固にしていること、天井を張らずに構造材をそのまま見せて装飾としていることなどが挙げられます。門内左右には金剛力士(仁王)像と石造獅子1対(重文)を安置します。
上層の正面中央には「大華厳寺」と書かれた扁額が掲げられていますが、これは古い記録にそのような扁額があったと書かれていたことに基づき、2006年10月10日に行われた「重源上人八百年御遠忌法要」に合わせて新調されたものです。
高さ8.4メートルの巨大な木造金剛力士立像(国宝)は、建仁3年(1203年)に、わずか69日で造られました(あれをわずか二か月ちょい!)。門の向かって右に吽形(うんぎょう、口を閉じた像)、左に阿形(あぎょう、口を開いた像)が安置されています。これは一般的な仁王像の安置方法とは左右逆に成っています。『東大寺別当次第』という史料により、本像は建仁3年(1203年)、大仏師運慶、備中法橋(湛慶)、安阿弥陀仏(快慶)、越後法橋(定覚)によって造立されたことが、従来から知られており、阿形像と吽形像の作風の違いから、阿形像は快慶、吽形像は運慶が主となって制作したと考えられていました。
1988年から1993年にかけて造像以来初めての解体修理が実施され、像内からは多数の納入品や墨書が発見された。阿形像の持物の金剛杵の内面には、建仁3年の年紀とともに「大仏師法眼運慶」「अं〔アン、梵字〕阿弥陀仏」(快慶のこと)の名が記され、吽形像の像内に納入されていた『宝篋印陀羅尼経』(ほうきょういんだらにきょう)の奥書には大仏師として「定覚」「湛慶」の名と小仏師12名の名が記されていました。運慶が制作の総指揮に当たったとする点では研究者の意見は一致しているようですが、修理解体の過程で出てきた資料の考察を巡っては、阿形像・吽形像の現場での制作を運慶、快慶、定覚、湛慶がどのように分担したかについては解釈が分かれています。
南大門の金剛力士像の背面には、石獅子が置かれています。 『東大寺造立供養記』は、「建久7年(1196年)、中門石獅子、堂内石脇士、同四天王像を宋人・字六郎など4人が造った。石材は宋より買い求めて運ばれた」と伝えています。
南大門の石獅子は中門にあったもので、このとき造られた石像で残されているのは、この像のみ。一説には大仏鋳造と大仏殿再建に尽力した陳和卿の作ともいわれる。
【金剛力士って何】
金剛力士(こんごうりきし、梵: वज्रधर、Vajradhara)は、仏教の護法善神(守護神)である天部の一つになります。サンスクリットでは「ヴァジュラダラ」と言い、「金剛杵(こんごうしょ、仏敵を退散させる武器)を持つもの」を意味します。開口の阿形(あぎょう)像と、口を結んだ吽形(うんぎょう)像の2体を一対として、寺院の表門などに安置されることが多いですね。一般には仁王(におう、二王)様の名で親しまれています。
日本では寺院の入口の門の左右に仁王像が立っているのをしばしば見かけます。像は上半身裸形で、筋骨隆々とし、阿形像は怒りの表情を顕わにし、吽形像は怒りを内に秘めた表情に表すものが多いようです。こうした造形は、寺院内に仏敵が入り込むことを防ぐ守護神としての性格を表しています。
【平重衡の焼き討ち】
東大寺は二度にわたって焼討されています。一度目が平重衡によるもの、二度目は1567年、松永久秀と三好義継(よしつぐ)の連合軍対三好三人衆と筒井順慶(じゅんけい)の同盟軍の戦いです。大仏の仏頭、伽監、念仏堂、大菩提院、唐弾院、四聖坊、安楽坊などが焼失しています。
平重衡の南都焼討(なんとやきうち)は、治承4年12月28日(1181年1月15日)に平清盛の命を受けた平重衡ら平氏軍が、東大寺・興福寺など奈良(南都)の仏教寺院を焼討にした事件です。平氏政権に反抗的な態度を取り続けるこれらの寺社勢力に属する大衆(だいしゅ)の討伐を目的としており、治承・寿永の乱と呼ばれる一連の戦役の1つです。
東大寺は金堂(大仏殿)など主要建築物の殆どを失い、中心から離れた法華堂と二月堂・転害門・正倉院以外は全て灰燼に帰するなど大打撃を蒙りました。
二度目の戦禍では、南大門に被害はなく現在もその威容を見ることが出来ます。
私が最初に覚えた百人一首です。阿部仲麻呂と同じように、異国の地で活躍された森本喜久男さんを偲んで!(市郎右衛門)
いつも応援、ありがとうございます(^人^)。
歴史って本当に面白いですよね~!
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【南大門の歴史】
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【南大門の歴史】
天平創建時の門は平安時代の応和2年(962年)8月に台風で倒壊しました。現在の門は平重衡によって焼かれてしまった東大寺を復興した中興の祖である俊乗房重源上人(ちょうげんしょうにん)が正治元年に、その総供養に際して再建したもので、今はない鎌倉再建の大仏殿の威容を偲ばせる貴重な遺構です。正治元年(1199)に上棟し、建仁3年(1203)には門内に安置する仁王像とともに竣工されました。入母屋造、五間三戸二重門で、ただ下層は天井がなく腰屋根構造となっています。また屋根裏まで達する大円柱18本は、21mにも及び、門の高さは基壇上25.46mもあり。大仏殿にふさわしいわが国最大の山門です。
仁王像二体は、昭和63年から5年間にわたって全面解体修理が行われ、天平創建期から向かい会って立っていたことや、山口県で伐採された木材が、約1年程で搬送され、古文書の記述通り、ほぼ70日間で二体同時進行で、造像されたことも証明されました。
【南大門の特徴】
俊乗房重源上人が中国・宋から伝えた建築様式といわれる大仏様(だいぶつよう、天竺様ともいう)を採用した建築として有名です。大仏様の特色は、貫と呼ばれる、柱を貫通する水平材を多用して構造を堅固にしていること、天井を張らずに構造材をそのまま見せて装飾としていることなどが挙げられます。門内左右には金剛力士(仁王)像と石造獅子1対(重文)を安置します。
上層の正面中央には「大華厳寺」と書かれた扁額が掲げられていますが、これは古い記録にそのような扁額があったと書かれていたことに基づき、2006年10月10日に行われた「重源上人八百年御遠忌法要」に合わせて新調されたものです。
高さ8.4メートルの巨大な木造金剛力士立像(国宝)は、建仁3年(1203年)に、わずか69日で造られました(あれをわずか二か月ちょい!)。門の向かって右に吽形(うんぎょう、口を閉じた像)、左に阿形(あぎょう、口を開いた像)が安置されています。これは一般的な仁王像の安置方法とは左右逆に成っています。『東大寺別当次第』という史料により、本像は建仁3年(1203年)、大仏師運慶、備中法橋(湛慶)、安阿弥陀仏(快慶)、越後法橋(定覚)によって造立されたことが、従来から知られており、阿形像と吽形像の作風の違いから、阿形像は快慶、吽形像は運慶が主となって制作したと考えられていました。
1988年から1993年にかけて造像以来初めての解体修理が実施され、像内からは多数の納入品や墨書が発見された。阿形像の持物の金剛杵の内面には、建仁3年の年紀とともに「大仏師法眼運慶」「अं〔アン、梵字〕阿弥陀仏」(快慶のこと)の名が記され、吽形像の像内に納入されていた『宝篋印陀羅尼経』(ほうきょういんだらにきょう)の奥書には大仏師として「定覚」「湛慶」の名と小仏師12名の名が記されていました。運慶が制作の総指揮に当たったとする点では研究者の意見は一致しているようですが、修理解体の過程で出てきた資料の考察を巡っては、阿形像・吽形像の現場での制作を運慶、快慶、定覚、湛慶がどのように分担したかについては解釈が分かれています。
南大門の金剛力士像の背面には、石獅子が置かれています。 『東大寺造立供養記』は、「建久7年(1196年)、中門石獅子、堂内石脇士、同四天王像を宋人・字六郎など4人が造った。石材は宋より買い求めて運ばれた」と伝えています。
南大門の石獅子は中門にあったもので、このとき造られた石像で残されているのは、この像のみ。一説には大仏鋳造と大仏殿再建に尽力した陳和卿の作ともいわれる。
【金剛力士って何】
金剛力士(こんごうりきし、梵: वज्रधर、Vajradhara)は、仏教の護法善神(守護神)である天部の一つになります。サンスクリットでは「ヴァジュラダラ」と言い、「金剛杵(こんごうしょ、仏敵を退散させる武器)を持つもの」を意味します。開口の阿形(あぎょう)像と、口を結んだ吽形(うんぎょう)像の2体を一対として、寺院の表門などに安置されることが多いですね。一般には仁王(におう、二王)様の名で親しまれています。
日本では寺院の入口の門の左右に仁王像が立っているのをしばしば見かけます。像は上半身裸形で、筋骨隆々とし、阿形像は怒りの表情を顕わにし、吽形像は怒りを内に秘めた表情に表すものが多いようです。こうした造形は、寺院内に仏敵が入り込むことを防ぐ守護神としての性格を表しています。
【平重衡の焼き討ち】
東大寺は二度にわたって焼討されています。一度目が平重衡によるもの、二度目は1567年、松永久秀と三好義継(よしつぐ)の連合軍対三好三人衆と筒井順慶(じゅんけい)の同盟軍の戦いです。大仏の仏頭、伽監、念仏堂、大菩提院、唐弾院、四聖坊、安楽坊などが焼失しています。
平重衡の南都焼討(なんとやきうち)は、治承4年12月28日(1181年1月15日)に平清盛の命を受けた平重衡ら平氏軍が、東大寺・興福寺など奈良(南都)の仏教寺院を焼討にした事件です。平氏政権に反抗的な態度を取り続けるこれらの寺社勢力に属する大衆(だいしゅ)の討伐を目的としており、治承・寿永の乱と呼ばれる一連の戦役の1つです。
東大寺は金堂(大仏殿)など主要建築物の殆どを失い、中心から離れた法華堂と二月堂・転害門・正倉院以外は全て灰燼に帰するなど大打撃を蒙りました。
二度目の戦禍では、南大門に被害はなく現在もその威容を見ることが出来ます。
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