神様以外に誰が投げ入れられる?「三徳山三仏寺」『投げ入れ堂』
鳥取県の三徳山「投入堂」が昨年の鳥取中部地震の影響を受けて、登る事が出来ず見る事が出来なかったようなのですが、安全が確保されて、開山式が平成29年4月18日(火)10時からと決定しました。
開山法要及び、慶雲入峰修行後、一般の方も入山可能となりましたので、皆様にも是非とも御紹介したいと思い、今日は国宝三徳山三仏寺「投入堂」をご覧頂きます。
其では、『市郎右衛門』の日本歴史ブログをお楽しみくださいね。




奥の院(投入堂)実は、平安時代後期の建立(つまり役行者とは時代が違うんです、残念!)。
国宝指定名称は「三仏寺奥院(投入堂)」となっています。
愛染堂、棟札1枚、古材43点が国宝の附(つけたり)として指定されています。
永和元年(1375年)の修理棟札によると、当時は「蔵王殿」と呼ばれていた様ですね~。
「投入堂」左手奥にわずかに見えるくっついた小さい棟が「愛染堂」です。
当寺の奥の院たる「投入堂」は、前述の険しい登山道(行者道)を登った先、三徳山の北側中腹の断崖絶壁の窪みの中に建てられており、堂の上方は岩壁がオーバーハングしています。
堂が所在する場所は文字通りの絶壁となっており、参拝者は堂を斜め上方に見上げる地点までは立ち入りが出来るが、堂に近付くことは危険なため固く禁じられています。
過去に投入堂に近付こうとして滑落死した人もいるそうです。
投入堂の東(向かって左)には小規模な愛染堂が付属しています。
愛染堂は桁行一間、梁間一間、切妻造、檜皮葺きで、投入堂側の西面に両開きの板扉が設けられています。
投入堂の縁の東端は格子でふさがれており、投入堂・愛染堂間の行き来はできなくなっているそうです。
投入堂の写真から明らかなように、堂の正面・側面のいずれにも入口はなく、特別に許可されて入堂する者は、崖伝いに堂の床下を通って背面から縁に這い上がるしかないそうです。
前記の通り立ち入りが固く禁じられている投入堂であるが、2007年11月14日に約100年ぶりに修復されたことを祝する落慶法要が同堂内に於いて営まれ、その際に約60年ぶりに同堂の一般拝観が許可され、18歳以上の身体健康な約340名の応募者の中から選出された3名が、草鞋に作務衣・輪袈裟姿に着替えた上で、当寺住職・米田良中や当寺境内に構える三徳山皆成院住職の清水成眞などと共に行者道を登って入堂し、同法要に参列しました(凄!)。
日本建築史上他に例を見ない特異な建造物であるとともに、屋根の軽快な反り、堂を支える長短さまざまな柱の構成など、建築美の観点からも優れた作品ですよね。
建造時期については、様式上平安時代後期と言われてきましたが、確実な史料がなく、修験道の開祖、役小角がその法力でもって建物ごと平地から投げ入れたという伝説が語り継がれていたそうです(「投入堂」の名称はこの伝説に由来する)。
【さあ投入堂まで行ってみよう】
投入堂は険しい登山道(行者道)のみによりアクセス可能な山上区域内(区域末端)に所在します。
このため、同堂の参拝には本堂裏手に設置されている登山事務所で入山手続きを済ませる必要があります(受付時間「8:00~15:00」)。
この際、寺側による靴と服装のチェックを受けます。
三仏寺では投入堂への入山はあくまでも観光ではなく修行であるとされていて、三仏寺拝観料とは別にここで入山料(800円)を支払い、入山届に記入した上、貸与された「六根清浄」と書かれた輪袈裟を身につけ、すぐ裏にかかる宿入橋から行者道を登ることになります。
そして下山時には登山事務所でたすきを返納すると共に下山時間を入山届に記入してもらうことで、入山者の下山の確認を行い、不慮の事故に備えています。
投入堂への行者道は非常に険しく、登山に不適当な服装や靴を着用している者は入山を拒否されることがあり、特に女性のスカート姿は厳禁で、スラックスも望ましくないとされています。
また靴では底面にスパイクが付いたものについても、行者道や木の根の損傷防止の観点から、禁じられていました。
寺側では、投入堂の参拝に際し、動きやすい服装に登山に適した靴の着用、更に荷物をリュックサックに纏める等して両手が使える状態にすることを要求していますが、更に手袋(軍手、確か借りられました。)やタオルも準備しておくことが望ましいとされています(私は用意して行ったので問題はありませんでした)。
ここで使用する靴について、寺側では金具の付いていない登山用シューズの使用を推奨していますが、深い溝のついたゴム底を備えた靴であってもOKです。
登山事務所では、登山に適しない靴を履いて来た参拝者のため、草履を販売していました(私は勿論登山靴です。)。
なお、行者道には水分補給のための水場が無く、水筒等の装備も準備しておいたほうが望ましいが、途中トイレも無いため、初めから水分を摂り過ぎるのはよくない点にも注意が必要です。
登山事務所には飲料の自動販売機、トイレが備え付けられています。
以上のように寺側、滑落事故はあとを絶たないため、現在では1人での入山は拒否されている様です(私は一人でもOKでした?記憶違いかなぁ、同じ時間に来られた男性グループと一緒に成ったかも?)。
投入堂へ向かう途中には野際稲荷、文殊堂、地蔵堂、鐘楼堂、納経堂、観音堂、元結掛堂、不動堂などが建っています(文殊堂、地蔵堂、納経堂は重要文化財、他は鳥取県指定保護文化財)。
いかにも山岳信仰の中心地らしく、山の麓から投入堂までの道程のうち、特に麓から鐘楼までは、起伏に富んだ自然の山道がほとんど改良されることなく、以前のままの状態で残されているため、非常に過酷な部分が多かったです。
本堂裏の宿入橋からの高低差200メートル、全長ほぼ700メートルの行程は全て難所と言っても過言ではありません。
ところによっては鉄の鎖やロープ、時にはむき出しになっている木の根だけを頼りにしがみついて、その都度足場を確保しながら登り下りすることになります。
なお、難所は下りの方がはるかに通過困難ですから注意してください。
開山法要及び、慶雲入峰修行後、一般の方も入山可能となりましたので、皆様にも是非とも御紹介したいと思い、今日は国宝三徳山三仏寺「投入堂」をご覧頂きます。
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【三徳山 三佛寺ててどんなお寺なの?】
山号は三徳山、三仏寺は宗派天台宗の寺院です。
住所は、鳥取県東伯郡三朝町三徳1010
御本尊は、「釈迦如来」「阿弥陀如来」「大日如来」です。
創建年は嘉祥2年(849年)とされ、開基は慈覚大師と伝わっています。
『札所』中国三十三観音霊場31番
伯耆観音霊場29番
中国四十九薬師43番(皆成院)
『文化財』
投入堂(国宝)
文殊堂、地蔵堂、納経堂ほか(重要文化財)
元々は、慶雲3年(706年)に役行者(ここにも役行者が!)が修験道の行場として開いたとされ、その後、慈覚大師円仁により嘉祥2年(849年)に本尊釈迦如来・阿弥陀如来・大日如来の三仏が安置され開山に至ったとされています。
鳥取県のほぼ中央に位置する三徳山(標高900メートル)に境内を持つ山岳寺院です。
古くは三徳山全体を境内としていた様です。
「投入堂」(なげいれどう)の通称で知られる奥院の建物は、垂直に切り立った絶壁の窪みに建てられた他に類を見ない建築物で、国宝に指定されています(これを是非ご覧頂きたいです。)。
伝説では草創の時期や事情についてははっきりわかっていない様ですが、近世の地誌『伯耆民談記』によれば、慶雲3年(706年)、修験道の開祖である役小角が子守権現、勝手権現、蔵王権現の三所権現を祀ったのが始めとされています。
役小角は伝説的要素の多い人物で、この伝承を文字通り信じることはできないのが残念ですが、三徳山(近世以前は「美徳山」と書くことが多いそうです。)は、同じ鳥取県所在の大山や船上山(両方登りましたしブログにUPさせて頂きました。)と同様、山岳信仰の霊地として古くから開けていたことが想像されます。
なお、子守権現、勝手権現、蔵王権現はいずれも奈良県の吉野山(修験道の霊地)に祀られる神です。
前出の『伯耆民談記』によれば、嘉祥2年(849年)慈覚大師円仁が釈迦如来・阿弥陀如来・大日如来の三仏を安置して「浄土院美徳山三佛寺」と号したといわれていますが、この説も伝承の域を出ないものですね(^_^;)。
中世になると、平安時代末期頃までの寺史はあまりはっきりしていないが、現存する奥院(投入堂)の本尊「蔵王権現像」の像内に納められていた文書には仁安3年(1168年)の年記があり、奥院の建物自体も様式上平安時代後期にまでさかのぼるもので、この頃には山岳修験の霊場として寺観が整っていたものと思われます。
中世以降、文書、記録等に「美徳山」の名が散見されるが、「三佛寺」の寺号が文献に現われるのは江戸時代中期以降に成ります。
近世に入って、慶長4年(1599年)には近隣の坂本村(三朝町坂本)のうち百石が三仏寺に寄進され、寛永10年(1633年)には鳥取藩主池田光仲から百石を寄進されます(これらの寺領は幕末まで維持されています)。
天保10年(1839年)には池田斉訓が本堂を再建するなど、近世を通じて鳥取藩主の庇護を受けました。
境内は、石段など一般的な参道によりアクセス可能な山下区域と、険しい登山道(行者道)によってのみアクセス可能な山上区域とに実質分かれています。
本堂裏にかかる宿入橋を境に、これより先は滑落事故の前歴を有する険しい行者道によってのみアクセス可能な山上区域となり、野際稲荷(十一面観音堂)、文殊堂、地蔵堂、鐘楼、納経堂、観音堂、元結耕堂、不動堂、投入堂などが所在します。
なお、山上区域への進入は「8時から15時まで」とされており、当該時間帯以外はもちろんのこと、冬季(12月~翌年3月)および荒天時には進入禁止となります。
加えて、進入に際しては寺側が定める入山手続きを踏む必要があります(結構厳しい約束事が在ります)。
【投入堂って何?勿論知ってるよね】
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山号は三徳山、三仏寺は宗派天台宗の寺院です。
住所は、鳥取県東伯郡三朝町三徳1010
御本尊は、「釈迦如来」「阿弥陀如来」「大日如来」です。
創建年は嘉祥2年(849年)とされ、開基は慈覚大師と伝わっています。
『札所』中国三十三観音霊場31番
伯耆観音霊場29番
中国四十九薬師43番(皆成院)
『文化財』
投入堂(国宝)
文殊堂、地蔵堂、納経堂ほか(重要文化財)
元々は、慶雲3年(706年)に役行者(ここにも役行者が!)が修験道の行場として開いたとされ、その後、慈覚大師円仁により嘉祥2年(849年)に本尊釈迦如来・阿弥陀如来・大日如来の三仏が安置され開山に至ったとされています。
鳥取県のほぼ中央に位置する三徳山(標高900メートル)に境内を持つ山岳寺院です。
古くは三徳山全体を境内としていた様です。
「投入堂」(なげいれどう)の通称で知られる奥院の建物は、垂直に切り立った絶壁の窪みに建てられた他に類を見ない建築物で、国宝に指定されています(これを是非ご覧頂きたいです。)。
伝説では草創の時期や事情についてははっきりわかっていない様ですが、近世の地誌『伯耆民談記』によれば、慶雲3年(706年)、修験道の開祖である役小角が子守権現、勝手権現、蔵王権現の三所権現を祀ったのが始めとされています。
役小角は伝説的要素の多い人物で、この伝承を文字通り信じることはできないのが残念ですが、三徳山(近世以前は「美徳山」と書くことが多いそうです。)は、同じ鳥取県所在の大山や船上山(両方登りましたしブログにUPさせて頂きました。)と同様、山岳信仰の霊地として古くから開けていたことが想像されます。
なお、子守権現、勝手権現、蔵王権現はいずれも奈良県の吉野山(修験道の霊地)に祀られる神です。
前出の『伯耆民談記』によれば、嘉祥2年(849年)慈覚大師円仁が釈迦如来・阿弥陀如来・大日如来の三仏を安置して「浄土院美徳山三佛寺」と号したといわれていますが、この説も伝承の域を出ないものですね(^_^;)。
中世になると、平安時代末期頃までの寺史はあまりはっきりしていないが、現存する奥院(投入堂)の本尊「蔵王権現像」の像内に納められていた文書には仁安3年(1168年)の年記があり、奥院の建物自体も様式上平安時代後期にまでさかのぼるもので、この頃には山岳修験の霊場として寺観が整っていたものと思われます。
中世以降、文書、記録等に「美徳山」の名が散見されるが、「三佛寺」の寺号が文献に現われるのは江戸時代中期以降に成ります。
近世に入って、慶長4年(1599年)には近隣の坂本村(三朝町坂本)のうち百石が三仏寺に寄進され、寛永10年(1633年)には鳥取藩主池田光仲から百石を寄進されます(これらの寺領は幕末まで維持されています)。
天保10年(1839年)には池田斉訓が本堂を再建するなど、近世を通じて鳥取藩主の庇護を受けました。
境内は、石段など一般的な参道によりアクセス可能な山下区域と、険しい登山道(行者道)によってのみアクセス可能な山上区域とに実質分かれています。
本堂裏にかかる宿入橋を境に、これより先は滑落事故の前歴を有する険しい行者道によってのみアクセス可能な山上区域となり、野際稲荷(十一面観音堂)、文殊堂、地蔵堂、鐘楼、納経堂、観音堂、元結耕堂、不動堂、投入堂などが所在します。
なお、山上区域への進入は「8時から15時まで」とされており、当該時間帯以外はもちろんのこと、冬季(12月~翌年3月)および荒天時には進入禁止となります。
加えて、進入に際しては寺側が定める入山手続きを踏む必要があります(結構厳しい約束事が在ります)。
【投入堂って何?勿論知ってるよね】
奥の院(投入堂)実は、平安時代後期の建立(つまり役行者とは時代が違うんです、残念!)。
国宝指定名称は「三仏寺奥院(投入堂)」となっています。
愛染堂、棟札1枚、古材43点が国宝の附(つけたり)として指定されています。
永和元年(1375年)の修理棟札によると、当時は「蔵王殿」と呼ばれていた様ですね~。
「投入堂」左手奥にわずかに見えるくっついた小さい棟が「愛染堂」です。
当寺の奥の院たる「投入堂」は、前述の険しい登山道(行者道)を登った先、三徳山の北側中腹の断崖絶壁の窪みの中に建てられており、堂の上方は岩壁がオーバーハングしています。
堂が所在する場所は文字通りの絶壁となっており、参拝者は堂を斜め上方に見上げる地点までは立ち入りが出来るが、堂に近付くことは危険なため固く禁じられています。
過去に投入堂に近付こうとして滑落死した人もいるそうです。
投入堂の東(向かって左)には小規模な愛染堂が付属しています。
愛染堂は桁行一間、梁間一間、切妻造、檜皮葺きで、投入堂側の西面に両開きの板扉が設けられています。
投入堂の縁の東端は格子でふさがれており、投入堂・愛染堂間の行き来はできなくなっているそうです。
投入堂の写真から明らかなように、堂の正面・側面のいずれにも入口はなく、特別に許可されて入堂する者は、崖伝いに堂の床下を通って背面から縁に這い上がるしかないそうです。
前記の通り立ち入りが固く禁じられている投入堂であるが、2007年11月14日に約100年ぶりに修復されたことを祝する落慶法要が同堂内に於いて営まれ、その際に約60年ぶりに同堂の一般拝観が許可され、18歳以上の身体健康な約340名の応募者の中から選出された3名が、草鞋に作務衣・輪袈裟姿に着替えた上で、当寺住職・米田良中や当寺境内に構える三徳山皆成院住職の清水成眞などと共に行者道を登って入堂し、同法要に参列しました(凄!)。
日本建築史上他に例を見ない特異な建造物であるとともに、屋根の軽快な反り、堂を支える長短さまざまな柱の構成など、建築美の観点からも優れた作品ですよね。
建造時期については、様式上平安時代後期と言われてきましたが、確実な史料がなく、修験道の開祖、役小角がその法力でもって建物ごと平地から投げ入れたという伝説が語り継がれていたそうです(「投入堂」の名称はこの伝説に由来する)。
【さあ投入堂まで行ってみよう】
投入堂は険しい登山道(行者道)のみによりアクセス可能な山上区域内(区域末端)に所在します。
このため、同堂の参拝には本堂裏手に設置されている登山事務所で入山手続きを済ませる必要があります(受付時間「8:00~15:00」)。
この際、寺側による靴と服装のチェックを受けます。
三仏寺では投入堂への入山はあくまでも観光ではなく修行であるとされていて、三仏寺拝観料とは別にここで入山料(800円)を支払い、入山届に記入した上、貸与された「六根清浄」と書かれた輪袈裟を身につけ、すぐ裏にかかる宿入橋から行者道を登ることになります。
そして下山時には登山事務所でたすきを返納すると共に下山時間を入山届に記入してもらうことで、入山者の下山の確認を行い、不慮の事故に備えています。
投入堂への行者道は非常に険しく、登山に不適当な服装や靴を着用している者は入山を拒否されることがあり、特に女性のスカート姿は厳禁で、スラックスも望ましくないとされています。
また靴では底面にスパイクが付いたものについても、行者道や木の根の損傷防止の観点から、禁じられていました。
寺側では、投入堂の参拝に際し、動きやすい服装に登山に適した靴の着用、更に荷物をリュックサックに纏める等して両手が使える状態にすることを要求していますが、更に手袋(軍手、確か借りられました。)やタオルも準備しておくことが望ましいとされています(私は用意して行ったので問題はありませんでした)。
ここで使用する靴について、寺側では金具の付いていない登山用シューズの使用を推奨していますが、深い溝のついたゴム底を備えた靴であってもOKです。
登山事務所では、登山に適しない靴を履いて来た参拝者のため、草履を販売していました(私は勿論登山靴です。)。
なお、行者道には水分補給のための水場が無く、水筒等の装備も準備しておいたほうが望ましいが、途中トイレも無いため、初めから水分を摂り過ぎるのはよくない点にも注意が必要です。
登山事務所には飲料の自動販売機、トイレが備え付けられています。
以上のように寺側、滑落事故はあとを絶たないため、現在では1人での入山は拒否されている様です(私は一人でもOKでした?記憶違いかなぁ、同じ時間に来られた男性グループと一緒に成ったかも?)。
投入堂へ向かう途中には野際稲荷、文殊堂、地蔵堂、鐘楼堂、納経堂、観音堂、元結掛堂、不動堂などが建っています(文殊堂、地蔵堂、納経堂は重要文化財、他は鳥取県指定保護文化財)。
いかにも山岳信仰の中心地らしく、山の麓から投入堂までの道程のうち、特に麓から鐘楼までは、起伏に富んだ自然の山道がほとんど改良されることなく、以前のままの状態で残されているため、非常に過酷な部分が多かったです。
本堂裏の宿入橋からの高低差200メートル、全長ほぼ700メートルの行程は全て難所と言っても過言ではありません。
ところによっては鉄の鎖やロープ、時にはむき出しになっている木の根だけを頼りにしがみついて、その都度足場を確保しながら登り下りすることになります。
なお、難所は下りの方がはるかに通過困難ですから注意してください。
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