伯耆の国『国分寺跡』と『国府跡』とりあえず本当に行きましたって!
少し前に因幡の国分寺跡をご紹介しました。
今日はお隣の伯耆の国分寺です(投げやりな題名ですが、写真不足なんです、笑)。
伯耆国分寺は、鳥取県倉吉市国分寺にあった伯耆国の国分寺跡です。
国分寺は奈良時代の741年(天平13年)聖武天皇の発願により全国の国ごと(60余国)に造営された国立の寺院跡の一つです。
寺院域は2.9ヘクタール,東西182m・南北160mです。
主要建物の遺構は・南門・金堂・講堂・塔などが残っていました 。
1974年(昭和49年)国の史跡に指定されています。
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【国分寺とは何か?】
国分寺に付いて少し詳しく説明しましょう!
国分寺は、聖武天皇が仏教による国家鎮護のため、当時の日本の各国に建立を命じた寺院であり、国分僧寺(こくぶんそうじ)と国分尼寺(こくぶんにじ)に分かれます。
正式名称は、国分僧寺が「金光明四天王護国之寺(こんこうみょうしてんのうごこくのてら)」、国分尼寺が「法華滅罪之寺(ほっけめつざいのてら)」といいます。
なお、壱岐や対馬には「島分寺(とうぶんじ)」が建てられました。
また、大和国の東大寺及び法華寺は総国分寺と総国分尼寺とされ、全国の国分寺と国分尼寺の総本山に位置づけられました。
【うんちく】
平安京の「東寺」は平安京鎮護のための官寺として建立が始められた後、嵯峨天皇より空海(弘法大師)に下賜され、真言密教の根本道場としての役目を担いました。
正式名称を「金光明四天王教王護国寺秘密伝法院」といいます。
そっくりでしょう、役目も同じくするということですかね。
【国分寺の建設】
『続日本紀』『類聚三代格』によれば、天平13年(741年)2月14日(日付は『類聚三代格』による)、聖武天皇から「国分寺建立の詔」が出されました。
その内容は、各国に七重塔を建て、金光明最勝王経(金光明経)と妙法蓮華経(法華経)を写経すること、自らも金字の金光明最勝王経を写し、塔ごとに納めること、国ごとに国分僧寺と国分尼寺を1つずつ設置することにを命じました。
寺の財源として、僧寺には封戸50戸と水田10町、尼寺には水田10町を施すこと、僧寺には僧20人・尼寺には尼僧10人を置くことも定められました。
国分寺の多くは国府区域内か周辺に置かれ、国庁とともにその国の最大の建築物でした。
なお聖武天皇は、この詔の以前から、天平9年(737年)には国ごとに釈迦仏像1躯と挟侍菩薩像2躯の造像と大般若経を写すこと、天平12年(740年)には法華経10部を写し七重塔を建てるようにとの詔を出しています。
律令体制が弛緩して官による財政支持がなくなると、国分寺・国分尼寺の多くは廃れてしまいます。
ただし、中世以後も相当数の国分寺が、当初の国分寺とは異なる宗派あるいは性格を持った寺院として存置し続けたことが明らかになっており、国分尼寺の多くは復興されませんでしたが、後世に法華宗などに再興されるなどして現在まで維持している寺院もあります。
なおかつての国分寺跡地近くの寺や公共施設(発掘調査など)で、国分寺の遺品を保存している所があります。
私の実家近くにも、但馬国国分寺が有り
豊岡市立歴史博物館「但馬国府・国分寺館」が有り、但馬国分寺の遺品や資料を展示してますので是非いらして下さい。
伯耆国分寺に戻りまして、当遺跡は国分僧寺跡です。
鳥取県倉吉市国府(こうです、こくふじゃないのね!)国分寺にある奈良時代に創建された国分寺跡です。
国分川左岸の丘陵上にあり、伯耆国庁跡の東側にある。
また、東北側には国分尼寺跡と推定されている法華寺畑遺跡があります。
以前から丘陵末端で瓦などが発見されており、また、寺域の西辺と北辺には土塁と堀が残っていたので、伯耆国分寺跡であることは知られていたが、伽藍(がらん)配置などのくわしいことは不明でした。
1970年(昭和45年)以来の発掘調査の結果、寺域は東西182m・南北160mの規模で寺域の周囲に溝を巡らせ、溝の内側の南側に築地塀、残り三方には土塁が築かれていることが確認されました。
寺域の西寄りの区域に金堂・講堂・回廊の跡が検出され、金堂と講堂は南北に近接して位置し、これらの南方に南門跡、寺域の東南隅に塔跡があり、塔は回廊外に建っていました。
寺院域の西寄りに南門、金堂、講堂などの遺構が、東南隅近くで塔の遺構が確認されました。
塔跡からは風鐸(ふうたく)や錫杖(しゃくじょう)頭、多量の瓦をはじめ土師器・須恵器などが出土しています。
伯耆国分寺は『続左丞抄』に948年(天暦2年)に火災で焼失したと記されており、それを裏付けるかのように塔の付近には火災時に塔が西北方向に倒れたことを示唆する焦土の堆積が残されていました。
国分寺跡から出土した遺物から、造営時の軒丸瓦(のきまるがわら)や軒平瓦は、伯耆国分寺特有の文様をもつことが判明していますし、風鐸はほぼ完全な形の稀な例でした。
西側には伯耆国庁跡、北側には国分尼寺跡とされる法華寺畑遺跡が近接して所在しています。
現在は歴史公園として整備されています。
(倉吉市教育委員会『伯耆国分寺跡発掘調査報告Ⅰ』(1971年)より抜粋)
私が訪れた国分寺のなかではとても良く整備されていますが礎石は塔部分だけであとは綺麗な公園なんです。(写真が無いのもそのせいです。地図を航空写真で見ていただければご理解して頂けると思います。)
何故国分寺を建設しなければならなかったかについては、複雑な時代背景があるのですが、それについてはまた次回のどかの国分寺の機会にお話しいたしましょう。
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今日はお隣の伯耆の国分寺です(投げやりな題名ですが、写真不足なんです、笑)。
伯耆国分寺は、鳥取県倉吉市国分寺にあった伯耆国の国分寺跡です。
国分寺は奈良時代の741年(天平13年)聖武天皇の発願により全国の国ごと(60余国)に造営された国立の寺院跡の一つです。
寺院域は2.9ヘクタール,東西182m・南北160mです。
主要建物の遺構は・南門・金堂・講堂・塔などが残っていました 。
1974年(昭和49年)国の史跡に指定されています。
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【国分寺とは何か?】
国分寺に付いて少し詳しく説明しましょう!
国分寺は、聖武天皇が仏教による国家鎮護のため、当時の日本の各国に建立を命じた寺院であり、国分僧寺(こくぶんそうじ)と国分尼寺(こくぶんにじ)に分かれます。
正式名称は、国分僧寺が「金光明四天王護国之寺(こんこうみょうしてんのうごこくのてら)」、国分尼寺が「法華滅罪之寺(ほっけめつざいのてら)」といいます。
なお、壱岐や対馬には「島分寺(とうぶんじ)」が建てられました。
また、大和国の東大寺及び法華寺は総国分寺と総国分尼寺とされ、全国の国分寺と国分尼寺の総本山に位置づけられました。
【うんちく】
平安京の「東寺」は平安京鎮護のための官寺として建立が始められた後、嵯峨天皇より空海(弘法大師)に下賜され、真言密教の根本道場としての役目を担いました。
正式名称を「金光明四天王教王護国寺秘密伝法院」といいます。
そっくりでしょう、役目も同じくするということですかね。
(こちらは京都東寺の五重塔勿論国宝です。この特別公開日の写真は貴重ですよ~!)
【国分寺の建設】
『続日本紀』『類聚三代格』によれば、天平13年(741年)2月14日(日付は『類聚三代格』による)、聖武天皇から「国分寺建立の詔」が出されました。
その内容は、各国に七重塔を建て、金光明最勝王経(金光明経)と妙法蓮華経(法華経)を写経すること、自らも金字の金光明最勝王経を写し、塔ごとに納めること、国ごとに国分僧寺と国分尼寺を1つずつ設置することにを命じました。
寺の財源として、僧寺には封戸50戸と水田10町、尼寺には水田10町を施すこと、僧寺には僧20人・尼寺には尼僧10人を置くことも定められました。
国分寺の多くは国府区域内か周辺に置かれ、国庁とともにその国の最大の建築物でした。
なお聖武天皇は、この詔の以前から、天平9年(737年)には国ごとに釈迦仏像1躯と挟侍菩薩像2躯の造像と大般若経を写すこと、天平12年(740年)には法華経10部を写し七重塔を建てるようにとの詔を出しています。
律令体制が弛緩して官による財政支持がなくなると、国分寺・国分尼寺の多くは廃れてしまいます。
ただし、中世以後も相当数の国分寺が、当初の国分寺とは異なる宗派あるいは性格を持った寺院として存置し続けたことが明らかになっており、国分尼寺の多くは復興されませんでしたが、後世に法華宗などに再興されるなどして現在まで維持している寺院もあります。
なおかつての国分寺跡地近くの寺や公共施設(発掘調査など)で、国分寺の遺品を保存している所があります。
私の実家近くにも、但馬国国分寺が有り
豊岡市立歴史博物館「但馬国府・国分寺館」が有り、但馬国分寺の遺品や資料を展示してますので是非いらして下さい。
伯耆国分寺に戻りまして、当遺跡は国分僧寺跡です。
鳥取県倉吉市国府(こうです、こくふじゃないのね!)国分寺にある奈良時代に創建された国分寺跡です。
国分川左岸の丘陵上にあり、伯耆国庁跡の東側にある。
また、東北側には国分尼寺跡と推定されている法華寺畑遺跡があります。
以前から丘陵末端で瓦などが発見されており、また、寺域の西辺と北辺には土塁と堀が残っていたので、伯耆国分寺跡であることは知られていたが、伽藍(がらん)配置などのくわしいことは不明でした。
1970年(昭和45年)以来の発掘調査の結果、寺域は東西182m・南北160mの規模で寺域の周囲に溝を巡らせ、溝の内側の南側に築地塀、残り三方には土塁が築かれていることが確認されました。
寺域の西寄りの区域に金堂・講堂・回廊の跡が検出され、金堂と講堂は南北に近接して位置し、これらの南方に南門跡、寺域の東南隅に塔跡があり、塔は回廊外に建っていました。
寺院域の西寄りに南門、金堂、講堂などの遺構が、東南隅近くで塔の遺構が確認されました。
塔跡からは風鐸(ふうたく)や錫杖(しゃくじょう)頭、多量の瓦をはじめ土師器・須恵器などが出土しています。
伯耆国分寺は『続左丞抄』に948年(天暦2年)に火災で焼失したと記されており、それを裏付けるかのように塔の付近には火災時に塔が西北方向に倒れたことを示唆する焦土の堆積が残されていました。
国分寺跡から出土した遺物から、造営時の軒丸瓦(のきまるがわら)や軒平瓦は、伯耆国分寺特有の文様をもつことが判明していますし、風鐸はほぼ完全な形の稀な例でした。
西側には伯耆国庁跡、北側には国分尼寺跡とされる法華寺畑遺跡が近接して所在しています。
現在は歴史公園として整備されています。
(倉吉市教育委員会『伯耆国分寺跡発掘調査報告Ⅰ』(1971年)より抜粋)
私が訪れた国分寺のなかではとても良く整備されていますが礎石は塔部分だけであとは綺麗な公園なんです。(写真が無いのもそのせいです。地図を航空写真で見ていただければご理解して頂けると思います。)
何故国分寺を建設しなければならなかったかについては、複雑な時代背景があるのですが、それについてはまた次回のどかの国分寺の機会にお話しいたしましょう。
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