「因幡の素兎(白兎じゃないんだよ~!)」で有名な『因幡の国・国分寺』をご紹介。
前回の「宇部神社」に引き続き因幡国(いなばのくに)の『国分寺』をご紹介しましょう。
因幡国は山陰道に属する、日本の地方行政区分だった令制国の一つですね(鳥取東部といえばわかりやすいですか)。
「古事記」大国主の「因幡の素兎(白兎ではありません素兎が本当です)」で有名です。
「因幡」の名称と由来については、「いなば」の表記について、古くは『古事記』で「稲羽」、『先代旧事本紀』で「稲葉」と記されます。
その由来は定かではありませんが、稲葉神社(鳥取市立川)では、社名を因幡国の名称の由来と伝えています。
以前に垂仁天皇(11代)の王子、誉津別皇子のお話で鳥取部が作られたお話を紹介しましたね。
鳥取が先か因幡が先か?(笑)卵と鶏ではありませんが、面白いではありませんか。
「市郎右衛門」の日本歴史ブログをお楽しみください。



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「因幡国分寺」の管轄領域因幡国ですが、明治維新の直前では現在の鳥取県鳥取市、岩美郡、八頭郡にあたります。
【因幡国府】
国府は法美郡(法味郡)にありました。
現在の鳥取市国府町中郷と考えられています。
平安時代末期から鎌倉時代にかけての国衙跡中心部の遺跡が発掘され、現在は史跡公園に整備されています。
因幡国は古く稲葉国造の所領域であったとされます。
令制国としての因幡国は7世紀に成立し、国司が派遣されます。
【国分寺・国分尼寺】
「因幡国分寺」の住所は、鳥取市国府町です(宇部神社も国府址に含まれていましたね。)。
千代川の沖積平野に位置しますが、塔跡と南門などが確認されたにとどまり、全容は不明です。
「国分尼寺跡」は国分寺跡の西方にある法花寺集落の周辺と推定されていますが、確認されていません。
痕跡を訪ねてみましたが、私の実家の近く「但馬国分寺」その他「伯耆国分寺」「出雲国分寺」「備中国分寺」等に比べると、礎石がぽつりの状態でここら辺だねの感じです(詰まる所写真が無いのを言い訳しているわけですが、笑)。
【因幡の室町~戦国時代】
室町時代は因幡山名氏の一族が因幡国の守護を務めたが、周辺の但馬や伯耆の山名家と比べて、守護家の支配基盤は脆弱でした。
そのため、但馬惣領家が家督争いに介入するなど政情が不安定な部分もありました。
また、八上・八東といった因幡南部には独立性の高い奉公衆系の国人が多数存在しており、これらの国人の一部は文明年間~長享年間にかけて2回に亘る反乱を起こしています(毛利次郎の乱)。
戦国時代も因幡山名氏の支配が続きますが、因幡山名氏の勢力が内紛などで衰えたため、因幡は織田・毛利の争乱の地となってしまいます。
また、毛利氏と手を結んだ武田高信が勢力を拡大したが、一国を支配する大名までには成長しきれませんでした(こちらは鳥取城の項目でご紹介しました)。
羽柴秀吉により鳥取城が陥落してからは因幡一国は織田氏の支配下に置かれます。
江戸時代初期は複数の大名に分割されましたが、その後は明治維新まで池田氏が鳥取藩32万石の大名として因幡を支配します。
さて取材不足を露呈している市郎右衛門ですが、私の専門から神話の真実に迫ってみる話題を一つ、『古事記』に出てくる「因幡の白兎」!(本当は素兎と記載)は学名Lepus brachyurusニホンノウサギ(日本野兎)Japanese hareのはずです。
毛色はもちろん野生色(アグーチ「野生色という意味と、A遺伝子座がA/AまたはA/aの遺伝子構成で野生色と同じ配色パターンという意味」)!
更に隠岐の島からワニを騙して渡ってきたことから、L. b. okiensis オキノウサギ(隠岐野兎)という日本野兎の固有亜種と考えられます。
さあ皆さんこんなうんちくどうですか?周りのみんなに自慢して見ようね(笑)
いつも応援、ありがとうございますm(__)m。
歴史って本当に面白いですよね~!
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因幡国は山陰道に属する、日本の地方行政区分だった令制国の一つですね(鳥取東部といえばわかりやすいですか)。
「古事記」大国主の「因幡の素兎(白兎ではありません素兎が本当です)」で有名です。
「因幡」の名称と由来については、「いなば」の表記について、古くは『古事記』で「稲羽」、『先代旧事本紀』で「稲葉」と記されます。
その由来は定かではありませんが、稲葉神社(鳥取市立川)では、社名を因幡国の名称の由来と伝えています。
以前に垂仁天皇(11代)の王子、誉津別皇子のお話で鳥取部が作られたお話を紹介しましたね。
鳥取が先か因幡が先か?(笑)卵と鶏ではありませんが、面白いではありませんか。
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「因幡国分寺」の管轄領域因幡国ですが、明治維新の直前では現在の鳥取県鳥取市、岩美郡、八頭郡にあたります。
【因幡国府】
国府は法美郡(法味郡)にありました。
現在の鳥取市国府町中郷と考えられています。
平安時代末期から鎌倉時代にかけての国衙跡中心部の遺跡が発掘され、現在は史跡公園に整備されています。
因幡国は古く稲葉国造の所領域であったとされます。
令制国としての因幡国は7世紀に成立し、国司が派遣されます。
【国分寺・国分尼寺】
「因幡国分寺」の住所は、鳥取市国府町です(宇部神社も国府址に含まれていましたね。)。
千代川の沖積平野に位置しますが、塔跡と南門などが確認されたにとどまり、全容は不明です。
「国分尼寺跡」は国分寺跡の西方にある法花寺集落の周辺と推定されていますが、確認されていません。
痕跡を訪ねてみましたが、私の実家の近く「但馬国分寺」その他「伯耆国分寺」「出雲国分寺」「備中国分寺」等に比べると、礎石がぽつりの状態でここら辺だねの感じです(詰まる所写真が無いのを言い訳しているわけですが、笑)。
【因幡の室町~戦国時代】
室町時代は因幡山名氏の一族が因幡国の守護を務めたが、周辺の但馬や伯耆の山名家と比べて、守護家の支配基盤は脆弱でした。
そのため、但馬惣領家が家督争いに介入するなど政情が不安定な部分もありました。
また、八上・八東といった因幡南部には独立性の高い奉公衆系の国人が多数存在しており、これらの国人の一部は文明年間~長享年間にかけて2回に亘る反乱を起こしています(毛利次郎の乱)。
戦国時代も因幡山名氏の支配が続きますが、因幡山名氏の勢力が内紛などで衰えたため、因幡は織田・毛利の争乱の地となってしまいます。
また、毛利氏と手を結んだ武田高信が勢力を拡大したが、一国を支配する大名までには成長しきれませんでした(こちらは鳥取城の項目でご紹介しました)。
羽柴秀吉により鳥取城が陥落してからは因幡一国は織田氏の支配下に置かれます。
江戸時代初期は複数の大名に分割されましたが、その後は明治維新まで池田氏が鳥取藩32万石の大名として因幡を支配します。
さて取材不足を露呈している市郎右衛門ですが、私の専門から神話の真実に迫ってみる話題を一つ、『古事記』に出てくる「因幡の白兎」!(本当は素兎と記載)は学名Lepus brachyurusニホンノウサギ(日本野兎)Japanese hareのはずです。
毛色はもちろん野生色(アグーチ「野生色という意味と、A遺伝子座がA/AまたはA/aの遺伝子構成で野生色と同じ配色パターンという意味」)!
更に隠岐の島からワニを騙して渡ってきたことから、L. b. okiensis オキノウサギ(隠岐野兎)という日本野兎の固有亜種と考えられます。
さあ皆さんこんなうんちくどうですか?周りのみんなに自慢して見ようね(笑)
いつも応援、ありがとうございますm(__)m。
歴史って本当に面白いですよね~!
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コメント
がーん
素手とか素足の、素。すっぴんの、す・・・?まあ!なんておそろしい!
あわてんぼーの私は、せっかく漢字も併記してくださっているのに、日本のウサギ、と読んでしまいました。
白兎と書かれてしまったのは、冬毛だったのでしょうか?
でも蒲の花は冬じゃないし、サメの季節は冬だし。
にほんのうさぎは、剥いたら白いのですか?
すみません、お馬鹿さんです。
2017-01-30 22:31 つねまる URL 編集
Re: がーん
でも蒲の花は冬じゃないなんて流石!
なんで白ウサギになったんですかね~?
不思議です(笑)野兎はヤトと呼ぶことが多いのですが、剥いでも白くないですよ。
明治政府の陰謀だと思います?
2017-02-02 22:05 市朗右衛門 URL 編集