ひこにゃんも気になる大河ドラマ「おんな城主直虎」の視聴率!『国宝 彦根城見参』
彦根城(ひこねじょう)に行ったのは、五年前に成ると思います。
勿論、当時は大河ドラマで井伊直虎が取り上げられると思ってもおらず!
むしろ当時の大河ドラマ2011年の「江~姫たちの戦国~」の宣伝ポスターが有ったと記憶してます。
実は海洋堂フィギュアミュージアム(長浜)が主な目的だったので、長浜城にもいきませんでした(今考えるともったいないな~)。
勿論ブログを書くこと等考えてもおらず、写真も家族のスナップ写真で少ないです。
それでも、今回大河ドラマの人気にあやかって(姑息な考えですね~(^^;)、国宝彦根城を御紹介します。
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『彦根城』は日本の滋賀県彦根市金亀町にある城で~す。
天守、附櫓及び多聞櫓は国宝に指定されています。
城跡は特別史跡かつ、琵琶湖国定公園第1種特別地域に成っています。
【築城について!】
江戸時代初期、現在の滋賀県彦根市金亀町にある彦根山に、徳川幕府の鎮西を担う井伊氏の拠点として置かれた平山城です。山は「金亀山(こんきやま)」(標高50m)との異名を持つため、城は「金亀城(こんきじょう)」とも言われます。
多くの大老を輩出した譜代大名である井伊家14代の居城でした。
明治時代初期の廃城令(此が無ければもっとお城が残ってたと思うと残念でなりません。)に伴う破却を免れ、天守が現存します(戦国~江戸初期の現存天守の数は12だったと思います。「国宝五城」、「重文七城」)。
天守と附櫓(つけやぐら)及び多聞櫓(たもんやぐら)の2棟が国宝に指定されるほか、安土桃山時代から江戸時代の櫓・門など5棟が現存し、国の重要文化財に指定されている。
中でも馬屋は重要文化財指定物件として全国的に稀少だそうです。
天守が国宝指定された五城の一つに数えられます。
姫路城とともに遺構をよく遺している城郭で、1992年(平成4年)に日本の世界遺産暫定リストに掲載されましたが、近年の世界遺産登録の厳格化の下、20年以上推薦は見送られています(残念です!)。
滋賀県下で唯一、城郭建築が保存されました。
滋賀県は戦国時代は名城の宝庫でしたね~数々残っていれば凄いと思いますけどねぇ。
【築城の経緯】
徳川四天王の一人・井伊直政は、1600年(慶長5年)関ヶ原の戦いの後、家康は直政に全幅の信頼を寄せ、その軍功により彼を近江佐和山城18万石の大名(近江国北東部)に任じます。
佐和山城は石田三成が改築した後は「三成に過ぎたるものが二つあり、島の左近に佐和山の城(ご存知だとは思いますが、武将島左近と佐和山城です。)」の一つともいわれた名城ですが、直政は、中世的な古い縄張りや三成の居城であったことを嫌い、湖岸に近い磯山(現在の米原市磯)に居城を移すことを計画していました。
しかしながら、関ヶ原の戦いでの戦傷が癒えず、1602年(慶長7年)直政は数え42歳で亡くなっています。
その後直継が家督を継ぎますが、幼少であったため、直政の遺臣である家老の木俣守勝が徳川家康と相談して彼の遺志を継ぎ、1603年(慶長8年)琵琶湖に浮かぶ彦根山(金亀山、現在の彦根城の場所)に彦根城が築城されました。
築城には公儀御奉行3名が付けられ、尾張藩や越前藩など7か国12大名(15大名とも)が手伝いを命じられる天下普請であった。1606年(慶長11年)2期までの工事が完了し、同年の天守完成と同じ頃に直継が入城しました。
1616年(元和2年)彦根藩のみの手により第3期工事が開始され、この時に御殿が建造され、1622年(元和8年)すべての工事が完了彦根城は完成しました。
彦根城の建築物には、近江の名族京極高次が城主を務めた大津城からの天守を始め、佐和山城から佐和口多門櫓(非現存)と太鼓櫓門、小谷城から西ノ丸三重櫓、観音寺城からや、どこのものかは不明とされているが太鼓門、などの移築伝承が多くあります。
建物や石材の移築転用は縁起担ぎの他、コスト削減と工期短縮のために行われたといわれています。
その後、井伊家は加増を重ね、1633年(寛永10年)には徳川幕府下の譜代大名の中では最高となる35万石を得るに至りました。
なお、筆頭家老・木俣家は1万石を領していましたが、陣屋を持たなかったため、月間20日は西の丸三重櫓で執務を行っていました。
これは、徳川統治下の太平の世においては、城郭というものがすでに軍事施設としての役目を終えて、その存在理由が、権勢の象徴物へと変じたためでした。
江戸幕府の西国への重要な備えとしての役割を担う彦根城も、彦根藩の各組織の管轄で天守以下倉庫等として江戸時代を通して使われました。
なお、幕末における幕府の大老井伊直弼は、藩主となるまでをこの城下で過ごしています。
直弼が青春時代を過ごした屋敷は「埋木舎(うもれぎのや)」として現存しています。
【計画者の井伊直政について】
徳川四天王のひとり、井伊直政は赤備え(真田信繁も赤備えで有名すよね)の軍装で知られる猛将です。
少年時代から家康に仕えた直政は、一説にはその美少年ぶりから家康の寵童(衆道(しゅどう、英: Shudō)とは日本における男性の同性愛関係「男色」の中で、武士同士のものをいいます。)となり、やがて家康から武田家の旧臣を附属されて一手の大将となりました。
その戦いぶりは勇猛果敢で、つねに陣頭でみずから刃をまじえ、家康から「直政はいつも重装備の甲冑に身を包んでいても負傷が絶えないな」とからかわれるほどでした。
慶長5年(1600)の関ヶ原合戦の後、家康はそんな直政の歴戦の功を賞して「開国の元勲(げんくん)」と称えています(『寛政重修諸家譜』)。
この合戦の前後、外交手腕にも長けていた直政は、多数派工作や戦後処理にも活躍し、家康の政権樹立を輔佐しました。
ちなみに関ケ原の戦いでは待ちきれずに戦端を開いた事で有名です。
直政の死因は関ヶ原の戦いでの負傷による破傷風とされますが、2年もかけて苦しむ破傷風は無いですし、2年前の古傷が開いて破傷風に感染するなど、どうにも不自然に感じられますね。
此処は素直に、破傷風は直ったが歴戦の疲れが、直政の命を縮めたと考えておきます。
【残った彦根城】
明治に入り各地の城が廃城令で破壊・売却されていく中、彦根城も例外ではありませんでした。
しかし、明治11年10月、明治天皇が巡幸で彦根を通過した際に城の保存を命じたため破却は逃れたといわれています。
その際、巡幸に随行していた大隈重信が城の破却中止を天皇に奉上したという説と、天皇の従妹にあたるかね子(住持攝専夫人)が奉上したという説があります。
【戦略拠点としての彦根城】
湖と山の間、5キロメートルほどの狭い平地に立地する彦根は、中山道と北陸道(俗に北国街道ともいう)が合流し、水陸から京に至る東国と西国の結節点であり、壬申の乱(672年「白鳳元年」)・姉川の戦い(1570年「元亀元年」)・賤ヶ岳の戦い(1583年「天正11年」)・関ヶ原の戦い(1600年「慶長5年」)など、古来、多くの天下を目指した合戦がこの地域で行われました。
戦略拠点として注目され、織田信長は佐和山城に丹羽長秀を入れ、ほど近い長浜城を羽柴秀吉に与えています。
豊臣秀吉と徳川家康がそれぞれ譜代筆頭の石田三成と井伊直政を、この地に配置したことが、この彦根の地がいかに天下取りにとって重要な場所だったのかを物語っていますね。
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勿論、当時は大河ドラマで井伊直虎が取り上げられると思ってもおらず!
むしろ当時の大河ドラマ2011年の「江~姫たちの戦国~」の宣伝ポスターが有ったと記憶してます。
実は海洋堂フィギュアミュージアム(長浜)が主な目的だったので、長浜城にもいきませんでした(今考えるともったいないな~)。
勿論ブログを書くこと等考えてもおらず、写真も家族のスナップ写真で少ないです。
それでも、今回大河ドラマの人気にあやかって(姑息な考えですね~(^^;)、国宝彦根城を御紹介します。
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『彦根城』は日本の滋賀県彦根市金亀町にある城で~す。
天守、附櫓及び多聞櫓は国宝に指定されています。
城跡は特別史跡かつ、琵琶湖国定公園第1種特別地域に成っています。
【築城について!】
江戸時代初期、現在の滋賀県彦根市金亀町にある彦根山に、徳川幕府の鎮西を担う井伊氏の拠点として置かれた平山城です。山は「金亀山(こんきやま)」(標高50m)との異名を持つため、城は「金亀城(こんきじょう)」とも言われます。
多くの大老を輩出した譜代大名である井伊家14代の居城でした。
明治時代初期の廃城令(此が無ければもっとお城が残ってたと思うと残念でなりません。)に伴う破却を免れ、天守が現存します(戦国~江戸初期の現存天守の数は12だったと思います。「国宝五城」、「重文七城」)。
天守と附櫓(つけやぐら)及び多聞櫓(たもんやぐら)の2棟が国宝に指定されるほか、安土桃山時代から江戸時代の櫓・門など5棟が現存し、国の重要文化財に指定されている。
中でも馬屋は重要文化財指定物件として全国的に稀少だそうです。
天守が国宝指定された五城の一つに数えられます。
姫路城とともに遺構をよく遺している城郭で、1992年(平成4年)に日本の世界遺産暫定リストに掲載されましたが、近年の世界遺産登録の厳格化の下、20年以上推薦は見送られています(残念です!)。
滋賀県下で唯一、城郭建築が保存されました。
滋賀県は戦国時代は名城の宝庫でしたね~数々残っていれば凄いと思いますけどねぇ。
【築城の経緯】
徳川四天王の一人・井伊直政は、1600年(慶長5年)関ヶ原の戦いの後、家康は直政に全幅の信頼を寄せ、その軍功により彼を近江佐和山城18万石の大名(近江国北東部)に任じます。
佐和山城は石田三成が改築した後は「三成に過ぎたるものが二つあり、島の左近に佐和山の城(ご存知だとは思いますが、武将島左近と佐和山城です。)」の一つともいわれた名城ですが、直政は、中世的な古い縄張りや三成の居城であったことを嫌い、湖岸に近い磯山(現在の米原市磯)に居城を移すことを計画していました。
しかしながら、関ヶ原の戦いでの戦傷が癒えず、1602年(慶長7年)直政は数え42歳で亡くなっています。
その後直継が家督を継ぎますが、幼少であったため、直政の遺臣である家老の木俣守勝が徳川家康と相談して彼の遺志を継ぎ、1603年(慶長8年)琵琶湖に浮かぶ彦根山(金亀山、現在の彦根城の場所)に彦根城が築城されました。
築城には公儀御奉行3名が付けられ、尾張藩や越前藩など7か国12大名(15大名とも)が手伝いを命じられる天下普請であった。1606年(慶長11年)2期までの工事が完了し、同年の天守完成と同じ頃に直継が入城しました。
1616年(元和2年)彦根藩のみの手により第3期工事が開始され、この時に御殿が建造され、1622年(元和8年)すべての工事が完了彦根城は完成しました。
彦根城の建築物には、近江の名族京極高次が城主を務めた大津城からの天守を始め、佐和山城から佐和口多門櫓(非現存)と太鼓櫓門、小谷城から西ノ丸三重櫓、観音寺城からや、どこのものかは不明とされているが太鼓門、などの移築伝承が多くあります。
建物や石材の移築転用は縁起担ぎの他、コスト削減と工期短縮のために行われたといわれています。
その後、井伊家は加増を重ね、1633年(寛永10年)には徳川幕府下の譜代大名の中では最高となる35万石を得るに至りました。
なお、筆頭家老・木俣家は1万石を領していましたが、陣屋を持たなかったため、月間20日は西の丸三重櫓で執務を行っていました。
これは、徳川統治下の太平の世においては、城郭というものがすでに軍事施設としての役目を終えて、その存在理由が、権勢の象徴物へと変じたためでした。
江戸幕府の西国への重要な備えとしての役割を担う彦根城も、彦根藩の各組織の管轄で天守以下倉庫等として江戸時代を通して使われました。
なお、幕末における幕府の大老井伊直弼は、藩主となるまでをこの城下で過ごしています。
直弼が青春時代を過ごした屋敷は「埋木舎(うもれぎのや)」として現存しています。
【計画者の井伊直政について】
徳川四天王のひとり、井伊直政は赤備え(真田信繁も赤備えで有名すよね)の軍装で知られる猛将です。
少年時代から家康に仕えた直政は、一説にはその美少年ぶりから家康の寵童(衆道(しゅどう、英: Shudō)とは日本における男性の同性愛関係「男色」の中で、武士同士のものをいいます。)となり、やがて家康から武田家の旧臣を附属されて一手の大将となりました。
その戦いぶりは勇猛果敢で、つねに陣頭でみずから刃をまじえ、家康から「直政はいつも重装備の甲冑に身を包んでいても負傷が絶えないな」とからかわれるほどでした。
慶長5年(1600)の関ヶ原合戦の後、家康はそんな直政の歴戦の功を賞して「開国の元勲(げんくん)」と称えています(『寛政重修諸家譜』)。
この合戦の前後、外交手腕にも長けていた直政は、多数派工作や戦後処理にも活躍し、家康の政権樹立を輔佐しました。
ちなみに関ケ原の戦いでは待ちきれずに戦端を開いた事で有名です。
直政の死因は関ヶ原の戦いでの負傷による破傷風とされますが、2年もかけて苦しむ破傷風は無いですし、2年前の古傷が開いて破傷風に感染するなど、どうにも不自然に感じられますね。
此処は素直に、破傷風は直ったが歴戦の疲れが、直政の命を縮めたと考えておきます。
【残った彦根城】
明治に入り各地の城が廃城令で破壊・売却されていく中、彦根城も例外ではありませんでした。
しかし、明治11年10月、明治天皇が巡幸で彦根を通過した際に城の保存を命じたため破却は逃れたといわれています。
その際、巡幸に随行していた大隈重信が城の破却中止を天皇に奉上したという説と、天皇の従妹にあたるかね子(住持攝専夫人)が奉上したという説があります。
【戦略拠点としての彦根城】
湖と山の間、5キロメートルほどの狭い平地に立地する彦根は、中山道と北陸道(俗に北国街道ともいう)が合流し、水陸から京に至る東国と西国の結節点であり、壬申の乱(672年「白鳳元年」)・姉川の戦い(1570年「元亀元年」)・賤ヶ岳の戦い(1583年「天正11年」)・関ヶ原の戦い(1600年「慶長5年」)など、古来、多くの天下を目指した合戦がこの地域で行われました。
戦略拠点として注目され、織田信長は佐和山城に丹羽長秀を入れ、ほど近い長浜城を羽柴秀吉に与えています。
豊臣秀吉と徳川家康がそれぞれ譜代筆頭の石田三成と井伊直政を、この地に配置したことが、この彦根の地がいかに天下取りにとって重要な場所だったのかを物語っていますね。
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