長寿世界一?「武内宿禰」を祀る因幡一の宮『宇倍神社』
やっべっ!ブログランキング、
の『出雲部門』で二位に転落してました~(^^;
出雲部門首位奪還を目指して、書き上げたのが~?「因幡」じゃん(東京か~爆)。
今日は、「因幡国一宮宇倍神社(うべじんじゃ)」を御紹介します。
「市郎右衛門」の日本歴史ブログをお楽しみください。



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『宇部神社』
鳥取県鳥取市国府町宮下にある神社です。
式内社(名神大社)、因幡国一宮。
旧社格は国幣中社で、現在は神社本庁の別表神社と成っております。
【宇倍神社社名について】
古代に清音で「うへ」神社と呼ばれましたが、語義は不明だそうです。
境内社の国府神社に合祀された「上神社」に由来するとする説も有ります(因幡国府もここにあったんですね♪)。
【御祭神武内宿禰命】
御神体の武内宿禰命は360余歳((゜ロ゜;ノ)ノ)の長寿であったため長寿の神とされています(解りやすいですよね。)。
明治32年(1899年)、神社で初めて拝殿が日本の紙幣の図案となり、その後も数度社殿や祭神が図案となったため、金運・財宝の神ともされます(神官の方が丁寧に教えて下さいました。小学生の頃に古銭収集「当時の小学生は、切手集めか、古銭集めを必ず?してましたね。」していて、確か持ってたと思ったので、実家探しましたが見つかりませんでした。)。
なお、『神祇志料』では祭神を『国造本紀』にある因幡国造の祖先、彦多都彦(ひこたつひこ)命としていますが、延暦3年(784年)撰述の『因幡国伊福部臣古志』にある伊福部氏の祖先、武牟口(たけむくち)命とする説もあり、本来は伊福部氏の祖神を祀り、後に武内宿禰命が祀られたとみられています。
『日本書紀』では「武内宿禰」、『古事記』では「建内宿禰」と記載されています。
他文献では「建内足尼」とも表記されます。
「宿禰」は尊称で、名称は「勇猛な、内廷の宿禰」の意だそうです。
景行天皇・成務天皇・仲哀天皇・応神天皇・仁徳天皇の5代(第12代から第16代)の各天皇に仕えたという伝説上の忠臣ですね。
紀氏・巨勢氏・平群氏・葛城氏・蘇我氏など中央有力豪族の祖ともされます。
当然ですが、300歳!実在の人物とは考えにくいかもしれませんが、皇紀2600年を作り上げようとすると、300歳もしょうがないのかも知れませんね(笑)。
けっして、皇紀が嘘などとは考えていませんよ、2600年前と成ると、日本の歴史は縄文時代後期、若しくは弥生時代初期に成りますか?
どちらにしても素晴らしい邑や数々の製品を造り上げる能力をすでに有していますし、その集団をまとめるカリスマリーダーが居たことは否定致しません(^^)d
そういえば、一昨年真田丸の取材で、大阪の「三光神社」にお詣りした時に、武内宿禰命が祀られておりました。
宮司は創建以来、武内宿禰の末裔武川家が神職として奉職しておられ、現在は86代目だそうです(これも凄い!)。
宇部神社に戻っていますよ。
【神社歴史】
祖神を祀ったとされる伊福部氏の居住したころが創建と思われます(私の但馬実家、江戸時代は伊福村といっておりまして、何か関係が有るのかもと考えています、笑。)。
『因幡国伊福部臣古志』には伊福部氏の第16世、伊其和斯彦宿禰(いきわしひこのすくね)が因幡国造となり、成務天皇から賜った太刀等を神として祀ったとあるのが宇部神社の創祀かもしれません。
吉田家本『延喜式神名帳』では、仁徳天皇55年、三百六十余歳の武内宿禰が因幡国の宇倍山中腹の亀金山に双履を残して行方知れずになったと書かれています。
なお、本殿裏に残る2つの「双履石」は古墳の一部のようで、後に武内宿禰に関する伝説がつくられたのではないでしょうか(双履石!ここで写真が欲しい所ですよね~残念!)。
所在地は遺跡が多く、因幡国府が置かれるなど、古くから因幡国の政治・文化の中心であり、宇部神社も尊崇され、『延喜式神名帳』では因幡国唯一の名神大社に列され、同一宮とされました。
承徳3年(1099年)、因幡守となった平時範が国府に初登庁した翌日に当社に参拝して奉幣や告文を行い、郡司からの利田請文を奉納した事が知られています。
中世以降、社領を失って衰退し、天正9年(1581年)、羽柴秀吉の鳥取城攻め(以前取り上げました、干殺しで有名ですね~(^^;)で社殿全てが灰燼となり、神職も離散てしまいますが、『鳥取藩史』によると、江戸時代初期、寛永10年(1633年)鳥取藩主池田光仲の社領25石の寄進を受けて社殿も復興し、歴代鳥取藩主の崇敬を受けました。
明治4年(1871年)に国幣中社に列し、戦後は神社本庁の別表神社となっています。
【神職について】
当初より伊福部氏が神職を世襲したとされます。
伊福部氏は『因幡国伊福部臣古志』によると、大己貴命(大国主)の神裔を称すが、第8世を櫛玉神饒速日命(神武東征の時に反抗した長髄彦の神として登場しています。)とするなどの混乱があります。
また、第14世の武牟口命を直接の祖として、平安時代の第36世助茂臣(すけもちのおみ)の子から2流に別れ、第37世厚孝宿禰(あつたかのすくね)の流れが「国造」「大宮司」と称して、第55世伊福部信世の時に戦乱により国を去ったこともありましたが、一貫して奉仕したと伝えられています。
明治13年(1880年)第65世の信世(作曲家伊福部昭の祖父だそうです)の時に神職を離れました。
【五円札の社殿】
『二十二社註式』にある大化4年(648年)の創建以降、社殿はたびたび再建され、現在の本殿は明治31年(1898年)の再建です。
正面三間側面二間の三間社流造の正面一間に向拝を縋破風で付け千木・鰹木が置かれています。
同年、本殿階下の正面一間側面二間の切妻造妻入の幣殿と、方三間の入母屋造妻入で正面に一間の向拝屋根を追加した拝殿(幣殿に接続)も再建されました。
なお、明治32年(1899年)発行の五円紙幣にある拝殿はこの時のものです。
【双履石】
後丘の亀金山に本殿を見下す位置にあり、祭神終焉の遺蹟と伝える磐境であるが、地下1.2mの所から竪穴式石室が発見され、古墳時代前期末から中期の円墳(もしくは前方後円墳)の一部と判明しています(宇部神社そのものがこの古墳を祀るためのものかも知れません)。
【鳥取県指定文化財麒麟獅子】
宇倍神社獅子舞(無形民俗文化財)昭和34年指定。
因幡地方特有の麒麟獅子舞で山陰独特の獅子舞の原形を伝え、先導役の猩々と獅子の頭役、後役が各1名、太鼓・鉦鼓・能管からなる囃子方3名の計6名で構成され、「入座の曲」の調べにあわせて舞う姿は勇壮です。
舞は「三方舞」を本式とし、単調でゆるやかな動作は伎楽や能楽に近いとされ、現在は廃れた樗谿神社獅子舞を受け継いでおり、因幡に伝承される各神社の麒麟獅子舞の多くは、この影響を受けたとされます。
宇倍神社御幸祭祭具(有形民俗文化財)23点が昭和39年に指定されました。
大神輿は明治年間の新調ですが、獅子舞に使用される獅子頭や楽器は、藩主池田家寄進の(正徳4年(1714年)の銘の台矛と平矛)物だそうです。
ちなみに、因幡が本流(百数十か所)かもしれませんが、但馬にも麒麟獅子(十数か所)あるんですよ~是非ご覧ください(私もまだ見ていないんですけどね(;^_^A)。
宇部神社では、東京からいらした素敵な一人旅のご婦人とお会いしました。
御朱印の旅で出雲まで行かれる途中とのこと、当日私も出雲へ行く予定でしたので、「御一緒いかがですか?」の一言を喉の奥にしまい込んだ市郎右衛門でした。
その後偶然?必然?「白兎神社」でまたもやお会いしました~(笑)!がやっぱり一言は胸の中にしまい込んだのでした。
意気地のない市郎右衛門でした(涙)。
いつも応援、ありがとうございますm(__)m。
歴史って本当に面白いですよね~!
今後もランキングにはこだわって良い記事をUPしたいと思いますので宜しくお願い致します(^人^)
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出雲部門首位奪還を目指して、書き上げたのが~?「因幡」じゃん(東京か~爆)。
今日は、「因幡国一宮宇倍神社(うべじんじゃ)」を御紹介します。
「市郎右衛門」の日本歴史ブログをお楽しみください。




『宇部神社』
鳥取県鳥取市国府町宮下にある神社です。
式内社(名神大社)、因幡国一宮。
旧社格は国幣中社で、現在は神社本庁の別表神社と成っております。
【宇倍神社社名について】
古代に清音で「うへ」神社と呼ばれましたが、語義は不明だそうです。
境内社の国府神社に合祀された「上神社」に由来するとする説も有ります(因幡国府もここにあったんですね♪)。
【御祭神武内宿禰命】
御神体の武内宿禰命は360余歳((゜ロ゜;ノ)ノ)の長寿であったため長寿の神とされています(解りやすいですよね。)。
明治32年(1899年)、神社で初めて拝殿が日本の紙幣の図案となり、その後も数度社殿や祭神が図案となったため、金運・財宝の神ともされます(神官の方が丁寧に教えて下さいました。小学生の頃に古銭収集「当時の小学生は、切手集めか、古銭集めを必ず?してましたね。」していて、確か持ってたと思ったので、実家探しましたが見つかりませんでした。)。
なお、『神祇志料』では祭神を『国造本紀』にある因幡国造の祖先、彦多都彦(ひこたつひこ)命としていますが、延暦3年(784年)撰述の『因幡国伊福部臣古志』にある伊福部氏の祖先、武牟口(たけむくち)命とする説もあり、本来は伊福部氏の祖神を祀り、後に武内宿禰命が祀られたとみられています。
『日本書紀』では「武内宿禰」、『古事記』では「建内宿禰」と記載されています。
他文献では「建内足尼」とも表記されます。
「宿禰」は尊称で、名称は「勇猛な、内廷の宿禰」の意だそうです。
景行天皇・成務天皇・仲哀天皇・応神天皇・仁徳天皇の5代(第12代から第16代)の各天皇に仕えたという伝説上の忠臣ですね。
紀氏・巨勢氏・平群氏・葛城氏・蘇我氏など中央有力豪族の祖ともされます。
当然ですが、300歳!実在の人物とは考えにくいかもしれませんが、皇紀2600年を作り上げようとすると、300歳もしょうがないのかも知れませんね(笑)。
けっして、皇紀が嘘などとは考えていませんよ、2600年前と成ると、日本の歴史は縄文時代後期、若しくは弥生時代初期に成りますか?
どちらにしても素晴らしい邑や数々の製品を造り上げる能力をすでに有していますし、その集団をまとめるカリスマリーダーが居たことは否定致しません(^^)d
そういえば、一昨年真田丸の取材で、大阪の「三光神社」にお詣りした時に、武内宿禰命が祀られておりました。
宮司は創建以来、武内宿禰の末裔武川家が神職として奉職しておられ、現在は86代目だそうです(これも凄い!)。
宇部神社に戻っていますよ。
【神社歴史】
祖神を祀ったとされる伊福部氏の居住したころが創建と思われます(私の但馬実家、江戸時代は伊福村といっておりまして、何か関係が有るのかもと考えています、笑。)。
『因幡国伊福部臣古志』には伊福部氏の第16世、伊其和斯彦宿禰(いきわしひこのすくね)が因幡国造となり、成務天皇から賜った太刀等を神として祀ったとあるのが宇部神社の創祀かもしれません。
吉田家本『延喜式神名帳』では、仁徳天皇55年、三百六十余歳の武内宿禰が因幡国の宇倍山中腹の亀金山に双履を残して行方知れずになったと書かれています。
なお、本殿裏に残る2つの「双履石」は古墳の一部のようで、後に武内宿禰に関する伝説がつくられたのではないでしょうか(双履石!ここで写真が欲しい所ですよね~残念!)。
所在地は遺跡が多く、因幡国府が置かれるなど、古くから因幡国の政治・文化の中心であり、宇部神社も尊崇され、『延喜式神名帳』では因幡国唯一の名神大社に列され、同一宮とされました。
承徳3年(1099年)、因幡守となった平時範が国府に初登庁した翌日に当社に参拝して奉幣や告文を行い、郡司からの利田請文を奉納した事が知られています。
中世以降、社領を失って衰退し、天正9年(1581年)、羽柴秀吉の鳥取城攻め(以前取り上げました、干殺しで有名ですね~(^^;)で社殿全てが灰燼となり、神職も離散てしまいますが、『鳥取藩史』によると、江戸時代初期、寛永10年(1633年)鳥取藩主池田光仲の社領25石の寄進を受けて社殿も復興し、歴代鳥取藩主の崇敬を受けました。
明治4年(1871年)に国幣中社に列し、戦後は神社本庁の別表神社となっています。
【神職について】
当初より伊福部氏が神職を世襲したとされます。
伊福部氏は『因幡国伊福部臣古志』によると、大己貴命(大国主)の神裔を称すが、第8世を櫛玉神饒速日命(神武東征の時に反抗した長髄彦の神として登場しています。)とするなどの混乱があります。
また、第14世の武牟口命を直接の祖として、平安時代の第36世助茂臣(すけもちのおみ)の子から2流に別れ、第37世厚孝宿禰(あつたかのすくね)の流れが「国造」「大宮司」と称して、第55世伊福部信世の時に戦乱により国を去ったこともありましたが、一貫して奉仕したと伝えられています。
明治13年(1880年)第65世の信世(作曲家伊福部昭の祖父だそうです)の時に神職を離れました。
【五円札の社殿】
『二十二社註式』にある大化4年(648年)の創建以降、社殿はたびたび再建され、現在の本殿は明治31年(1898年)の再建です。
正面三間側面二間の三間社流造の正面一間に向拝を縋破風で付け千木・鰹木が置かれています。
同年、本殿階下の正面一間側面二間の切妻造妻入の幣殿と、方三間の入母屋造妻入で正面に一間の向拝屋根を追加した拝殿(幣殿に接続)も再建されました。
なお、明治32年(1899年)発行の五円紙幣にある拝殿はこの時のものです。
【双履石】
後丘の亀金山に本殿を見下す位置にあり、祭神終焉の遺蹟と伝える磐境であるが、地下1.2mの所から竪穴式石室が発見され、古墳時代前期末から中期の円墳(もしくは前方後円墳)の一部と判明しています(宇部神社そのものがこの古墳を祀るためのものかも知れません)。
【鳥取県指定文化財麒麟獅子】
宇倍神社獅子舞(無形民俗文化財)昭和34年指定。
因幡地方特有の麒麟獅子舞で山陰独特の獅子舞の原形を伝え、先導役の猩々と獅子の頭役、後役が各1名、太鼓・鉦鼓・能管からなる囃子方3名の計6名で構成され、「入座の曲」の調べにあわせて舞う姿は勇壮です。
舞は「三方舞」を本式とし、単調でゆるやかな動作は伎楽や能楽に近いとされ、現在は廃れた樗谿神社獅子舞を受け継いでおり、因幡に伝承される各神社の麒麟獅子舞の多くは、この影響を受けたとされます。
宇倍神社御幸祭祭具(有形民俗文化財)23点が昭和39年に指定されました。
大神輿は明治年間の新調ですが、獅子舞に使用される獅子頭や楽器は、藩主池田家寄進の(正徳4年(1714年)の銘の台矛と平矛)物だそうです。
ちなみに、因幡が本流(百数十か所)かもしれませんが、但馬にも麒麟獅子(十数か所)あるんですよ~是非ご覧ください(私もまだ見ていないんですけどね(;^_^A)。
宇部神社では、東京からいらした素敵な一人旅のご婦人とお会いしました。
御朱印の旅で出雲まで行かれる途中とのこと、当日私も出雲へ行く予定でしたので、「御一緒いかがですか?」の一言を喉の奥にしまい込んだ市郎右衛門でした。
その後偶然?必然?「白兎神社」でまたもやお会いしました~(笑)!がやっぱり一言は胸の中にしまい込んだのでした。
意気地のない市郎右衛門でした(涙)。
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