秀吉の「第二次但馬攻略」スピンオフ「願入寺」!
折角先週末に、但馬に帰省したにも関わらず、ご存知の大雪で何処も?行けず!
唯一訪れる事が出来た、兵庫県養父市にある浄土真宗 本願寺派の寺院、 『願入寺』がちょっと興味深いので御紹介します。
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スピンオフ「願入寺」!と名打って、羽柴秀吉の但馬平定(征伐が一般的かもしれませんが、但馬人としては悪役みたいで納得出来ませんからね)に功績のあった養父(やぶ)の太郎左衛門を取り上げてみます。
織田信長による但馬攻略は一度のUPでは到底書ききれないので、いつかゆっくりとお伝えいたします。
時は戦国時代(活弁史みたい、笑)天下統一を進める織田信長の命令を受けた羽柴秀吉は弟秀長に命じて但馬を平定します(一般的に第二次但馬征伐といわれます)。
天正8年(1580)6月頃、羽柴秀吉の弟である羽柴秀長は、織田信長によって出石城主に任命され、但馬国で10万5千石の領地を与えられたました。
この時、羽柴秀長は功績のあった領内の農民に対して褒美を与えました。
鮎を捕る税金を免除して自由に鮎を撮る事を許す鮎漁免状です(この頃から鮎は有名だったんですね)。
5月15日岩中村の4人、6月25日浅間村と網場村の各1人、合計6人に免状を与えました。
養父の薮崎村、太郎左衛門(たろうざえもん)には、鮎漁免状では無く、土地にかかる税金の一部を免除する免状が与えられました。
羽柴の軍勢が大屋川を渡河するのを助けた褒美だと言われています。
古文書には「諸公事(しょくじ)免許せしむのところ、違儀あるべからず候也。小一郎、長秀。八月十三日。養父、太郎左衛門」。
年号は天正8年と推定されています。
秀長は当時、長秀と名乗っていました。
税金の一部を免除する諸公事免除は、鮎の免税漁業を許すという恩賞に比べて、格段に高い恩賞になります。
天正13年(信長が亡くなって三年、賤ケ岳の戦いも終わり秀吉が着々と天下統一への階段を上る頃です)、出石有子山城主(秀吉最古参の家臣である前野長康だと思います。)は同じような内容の諸公事免除の免状を広谷村に与えています。
市場を運営する特典として与えました。
出石藩は殿様が交代しても、江戸時代を通じて特典を認めました(280年間に及んでいます)。
薮崎区では太郎左衛門を顕彰し、羽柴秀長の恩賞に感謝する太閤祭(たいこうさい)を、毎年9月、太郎左衛門の供養塔の前で行っています。
その供養塔が有るのが「願入寺」というわけです。
江戸時代には太閤祭り・御免祭りと言って8月13日に行っていた伝統行事です。
供養塔は、二段の台座の上に置かれた高さ約150cmの三角形の立派な石材です。
太郎左衛門が武功によって、出石藩に減税を認めさせた功績が讃えられています。
当時但馬北部を攻めるに当たって、円山川を渡ることは大変重要なポイントでした。
実は罠が現豊岡市日高町の浅倉に仕掛けられていたのです(ここまたの機会に~~~~!)。
秀長は内通者の意見を取入れ、円山川を渡って出石周りで現日高町に攻め込む迂回ルートを取ります。
中でも養父の太郎左衛門他8名(もう一人は?)増水した円山川を船で対岸まで渡したのです。
これにより羽柴勢は北上ルートを取らず出石に入ります。
そして但馬勢の籠る水生城へ、東と北から進軍、東と北の二方向から攻められた但馬勢はひとたまりもなく壊滅しました(ちょっと残念!)。
当時の但馬は守護の山名氏の力が低下し、丹波や播磨からの攻撃を受ける一方で毛利氏の影響も受けるという、複雑な時代背景がありました。
新興勢力とはいえ、絶大な力の羽柴(織田)軍に新しい時代の到来を感じて、行動を起こした郷士が居たのですね~!。
いつも応援、ありがとうございますm(__)m。
歴史って本当に面白いですよね~!
今後もランキングにはこだわって良い記事をUPしたいと思いますので宜しくお願い致します(^人^)
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織田信長による但馬攻略は一度のUPでは到底書ききれないので、いつかゆっくりとお伝えいたします。
時は戦国時代(活弁史みたい、笑)天下統一を進める織田信長の命令を受けた羽柴秀吉は弟秀長に命じて但馬を平定します(一般的に第二次但馬征伐といわれます)。
天正8年(1580)6月頃、羽柴秀吉の弟である羽柴秀長は、織田信長によって出石城主に任命され、但馬国で10万5千石の領地を与えられたました。
この時、羽柴秀長は功績のあった領内の農民に対して褒美を与えました。
鮎を捕る税金を免除して自由に鮎を撮る事を許す鮎漁免状です(この頃から鮎は有名だったんですね)。
5月15日岩中村の4人、6月25日浅間村と網場村の各1人、合計6人に免状を与えました。
養父の薮崎村、太郎左衛門(たろうざえもん)には、鮎漁免状では無く、土地にかかる税金の一部を免除する免状が与えられました。
羽柴の軍勢が大屋川を渡河するのを助けた褒美だと言われています。
古文書には「諸公事(しょくじ)免許せしむのところ、違儀あるべからず候也。小一郎、長秀。八月十三日。養父、太郎左衛門」。
年号は天正8年と推定されています。
秀長は当時、長秀と名乗っていました。
税金の一部を免除する諸公事免除は、鮎の免税漁業を許すという恩賞に比べて、格段に高い恩賞になります。
天正13年(信長が亡くなって三年、賤ケ岳の戦いも終わり秀吉が着々と天下統一への階段を上る頃です)、出石有子山城主(秀吉最古参の家臣である前野長康だと思います。)は同じような内容の諸公事免除の免状を広谷村に与えています。
市場を運営する特典として与えました。
出石藩は殿様が交代しても、江戸時代を通じて特典を認めました(280年間に及んでいます)。
薮崎区では太郎左衛門を顕彰し、羽柴秀長の恩賞に感謝する太閤祭(たいこうさい)を、毎年9月、太郎左衛門の供養塔の前で行っています。
その供養塔が有るのが「願入寺」というわけです。
江戸時代には太閤祭り・御免祭りと言って8月13日に行っていた伝統行事です。
供養塔は、二段の台座の上に置かれた高さ約150cmの三角形の立派な石材です。
太郎左衛門が武功によって、出石藩に減税を認めさせた功績が讃えられています。
当時但馬北部を攻めるに当たって、円山川を渡ることは大変重要なポイントでした。
実は罠が現豊岡市日高町の浅倉に仕掛けられていたのです(ここまたの機会に~~~~!)。
秀長は内通者の意見を取入れ、円山川を渡って出石周りで現日高町に攻め込む迂回ルートを取ります。
中でも養父の太郎左衛門他8名(もう一人は?)増水した円山川を船で対岸まで渡したのです。
これにより羽柴勢は北上ルートを取らず出石に入ります。
そして但馬勢の籠る水生城へ、東と北から進軍、東と北の二方向から攻められた但馬勢はひとたまりもなく壊滅しました(ちょっと残念!)。
当時の但馬は守護の山名氏の力が低下し、丹波や播磨からの攻撃を受ける一方で毛利氏の影響も受けるという、複雑な時代背景がありました。
新興勢力とはいえ、絶大な力の羽柴(織田)軍に新しい時代の到来を感じて、行動を起こした郷士が居たのですね~!。
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