『柳田國男』の生家で「河童の河太朗」に出会った!
少し前に、Facebookのお友達の上に、小・中・高校の先輩が企画された、日本最初の高速道路「銀の馬車道」を歩くイベントが有ったのですが、忙しくて参加出来なかったので、お昼休憩の場所だった?柳田國男(民族学者)の生家だけでも見てこようと、次女と出掛けました(次回の最終回6月10日は歩きたいけど(((^_^;))。
驚いた事に、河童に出会うことが出来ました(笑)
其では、『市郎右衛門』の日本歴史ブログをお楽しみくださいね。




銀の馬車道とは(About Old Silver Mine Carriage Road)、若き(明治)日本が挑んだ前人未到のプロジェクトです。
その名も「銀の馬道」、名前も素敵~~~ですよね!。
この馬車道は「殖産興業」を国策に掲げた明治新政府が産業を支える新たな物流手段の確立を考え、日本で初めて築いた高速産業道路です。
「銀の馬車道」は、先取先進で時代を切り拓いていくという、その後のわが国の姿勢を指し示し体現するものでした。
より速く、より安全に、生野から飾磨津の間、約49kmを結ぶ夢の道路は、経済性、社会性、利便性の絶妙なバランスと秀逸な道路計画によって史実としての興味深さと迫力、遺産として価値を礎、誕生当初の役割を終えてなお、時代を全力で駆け抜けた人々の輝きを、時を超えて現在に伝えています(褒めすぎちゃいまっか?)。
という道路なんです(´∇`)。
【柳田國男って誰?知ってますよね~。】
柳田 國男(やなぎた くにお、1875年(明治8年)7月31日~1962年(昭和37年)8月8日)は、日本の民俗学者・官僚です。
現在の兵庫県神崎郡福崎町生まれで、最晩年に名誉町民第1号となりました。
没後に正三位勲一等授賞。
当時の池田勇人首相が「民間人とはいえ、これだけの人物に瑞宝章では軽い」と発言し旭日大綬章が供えられました。
帝国憲法下の農務官僚で貴族院書記官長、終戦後から廃止になるまで最後の枢密顧問官に就いています(枢密院(すうみついん、旧字体:樞密院)は、枢密顧問(顧問官)により組織される天皇の諮問機関。憲法問題も扱ったため、「憲法の番人」とも呼ばれました。)。
「日本人とは何か」その答えを求め、日本列島各地や当時の日本領の外地を調査旅行し、初期は山の生活に着目し、『遠野物語』で「願わくは之を語りて平地人を戦慄せしめよ」と述べています。
日本民俗学の開拓者で、多数の著作「遠野物語」や「蝸牛考」(各地のカタツムリの呼び名の方言分布を比較検討することにより、言葉が近畿から地方へ伝播していったことを明らかにしたもの。この中で提唱された理論が方言周圏論です。)「桃太郎の誕生」等は今日まで重版され続けています。
【柳田國男の生家】
1875年(明治8年)7月31日、飾磨県(兵庫県)神東郡田原村辻川(現:兵庫県神崎郡福崎町辻川)に儒者で医者の松岡操の六男(男ばかりの8人兄弟)として出生します。
辻川は兵庫県のほぼ中央を北から南へ流れる市川が山間部から播州平野へ抜けて間もなく因幡街道と交わるあたりに位置し、古くから農村として開けていました。
字の辻川は京から鳥取に至る街道と姫路から北上し生野へ至る街道とが十字形に交差している地点にあたるためといわれ、そこに生家がありました。
生家は街道に面し、さまざまな花を植えており、白桃、八重桜などが植えられ、道行く人々の口上に上るほど美しかったといわれます。
生家は狭く、國男は「私の家は日本一小さい家」だったといっています(確かに小さいですね~(^^;)。
家が小さかったことに起因する悲劇が幼き日の國男に強い影響を与え、将来的にも大きな影響を与えました(小さな家に八人の男の子、長男が嫁を貰うと?まあ問題がおきますね(#^.^#))。
父・操は旧幕時代、姫路藩の儒者・角田心蔵の娘婿、田島家の弟として一時籍に入り、田島賢次という名で仁寿山黌(じんじゅさんこう)や、好古堂という学校で修学し、医者となり、姫路の熊川舎(ゆうせんしゃ)という町学校の舎主として1863年(文久3年)に赴任しました。
明治初年まで相応な暮らしをしたが、維新の大変革の時には予期せざる家の変動もあり、操の悩みも激しかったらしく、一時はひどい神経衰弱に陥いる程でした。
幼少期より非凡な記憶力を持ち、11歳のときに地元辻川の旧家三木家に預けられ、その膨大な蔵書を読破し、12歳の時、医者を開業していた長男の鼎に引き取られ茨城県と千葉県の境である下総の利根川べりの布川(現・利根町)に移り住みます。
生地とは異なった利根川の風物や貧困にあえぐ人たちに強い印象を受け、徳満寺という寺では、間引き絵馬(母親が、生んだばかりの我が子の命を奪っている姿を描いている)を見て、終生忘れることの出来ない衝撃を受けます。
ここでも、隣家の小川家の蔵書を乱読し、知識をおおいに増やしています。
16歳のときに東京に住んでいた三兄井上通泰(帝国大学医科大学に在学中)と同居、図書館に通い読書を続けます。
三兄の紹介で森鴎外の門をたたき17歳の時、尋常中学共立学校(のちの開成高等学校)に編入学(驚!)、この年田山花袋に出会っていますね。
翌年、郁文館中学校に転校し進級し、19歳にして第一高等中学校に進学、青年期を迎えます。
東京帝国大学法科大学政治科(現・東京大学法学部政治学科)卒業後、明治33年(1900年)に農商務省に入り、主に東北地方の農村の実態を調査・研究するようになりました~(^^;。
今回は、柳田国男の少年期~青年期を紹介しました。
河童のインパクト強かったですか?(笑)
民俗学者、柳田國男の生家や特産館もちむぎのやかた近くにある「辻川山公園」のため池に、河童の河太郎(がたろう)と河次郎(がじろう)が出没します。
これは、柳田國男が幼い頃を過ごした福崎町辻川での暮らしぶりなど、自身の人生を回顧して書いた著書『故郷七十年』に登場する、市川の駒ヶ岩の河童のガタロ(河太郎)をモチーフにした河童の兄弟で、1匹は池のほとりにいますが、もう1匹は池の中にいて、9時~17時の毎時0分・15分・30分・45分に水中から飛び出てきます。
実は出てくるのは河童だけでは無いのですよ~!
次回はもうひとり?と柳田國男の優秀な兄弟についてご紹介できれば良いと思っています。
いつも応援、ありがとうございます(^人^)。
歴史って本当に面白いですよね~!
今後もランキングにはこだわって良い記事をUPしたいと思いますので宜しくお願い致します(^人^)
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|o´艸)。oO(Thank you)。
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【銀の馬車道って何?】
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その名も「銀の馬道」、名前も素敵~~~ですよね!。
この馬車道は「殖産興業」を国策に掲げた明治新政府が産業を支える新たな物流手段の確立を考え、日本で初めて築いた高速産業道路です。
「銀の馬車道」は、先取先進で時代を切り拓いていくという、その後のわが国の姿勢を指し示し体現するものでした。
より速く、より安全に、生野から飾磨津の間、約49kmを結ぶ夢の道路は、経済性、社会性、利便性の絶妙なバランスと秀逸な道路計画によって史実としての興味深さと迫力、遺産として価値を礎、誕生当初の役割を終えてなお、時代を全力で駆け抜けた人々の輝きを、時を超えて現在に伝えています(褒めすぎちゃいまっか?)。
という道路なんです(´∇`)。
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柳田 國男(やなぎた くにお、1875年(明治8年)7月31日~1962年(昭和37年)8月8日)は、日本の民俗学者・官僚です。
現在の兵庫県神崎郡福崎町生まれで、最晩年に名誉町民第1号となりました。
没後に正三位勲一等授賞。
当時の池田勇人首相が「民間人とはいえ、これだけの人物に瑞宝章では軽い」と発言し旭日大綬章が供えられました。
帝国憲法下の農務官僚で貴族院書記官長、終戦後から廃止になるまで最後の枢密顧問官に就いています(枢密院(すうみついん、旧字体:樞密院)は、枢密顧問(顧問官)により組織される天皇の諮問機関。憲法問題も扱ったため、「憲法の番人」とも呼ばれました。)。
「日本人とは何か」その答えを求め、日本列島各地や当時の日本領の外地を調査旅行し、初期は山の生活に着目し、『遠野物語』で「願わくは之を語りて平地人を戦慄せしめよ」と述べています。
日本民俗学の開拓者で、多数の著作「遠野物語」や「蝸牛考」(各地のカタツムリの呼び名の方言分布を比較検討することにより、言葉が近畿から地方へ伝播していったことを明らかにしたもの。この中で提唱された理論が方言周圏論です。)「桃太郎の誕生」等は今日まで重版され続けています。
【柳田國男の生家】
1875年(明治8年)7月31日、飾磨県(兵庫県)神東郡田原村辻川(現:兵庫県神崎郡福崎町辻川)に儒者で医者の松岡操の六男(男ばかりの8人兄弟)として出生します。
辻川は兵庫県のほぼ中央を北から南へ流れる市川が山間部から播州平野へ抜けて間もなく因幡街道と交わるあたりに位置し、古くから農村として開けていました。
字の辻川は京から鳥取に至る街道と姫路から北上し生野へ至る街道とが十字形に交差している地点にあたるためといわれ、そこに生家がありました。
生家は街道に面し、さまざまな花を植えており、白桃、八重桜などが植えられ、道行く人々の口上に上るほど美しかったといわれます。
生家は狭く、國男は「私の家は日本一小さい家」だったといっています(確かに小さいですね~(^^;)。
家が小さかったことに起因する悲劇が幼き日の國男に強い影響を与え、将来的にも大きな影響を与えました(小さな家に八人の男の子、長男が嫁を貰うと?まあ問題がおきますね(#^.^#))。
父・操は旧幕時代、姫路藩の儒者・角田心蔵の娘婿、田島家の弟として一時籍に入り、田島賢次という名で仁寿山黌(じんじゅさんこう)や、好古堂という学校で修学し、医者となり、姫路の熊川舎(ゆうせんしゃ)という町学校の舎主として1863年(文久3年)に赴任しました。
明治初年まで相応な暮らしをしたが、維新の大変革の時には予期せざる家の変動もあり、操の悩みも激しかったらしく、一時はひどい神経衰弱に陥いる程でした。
幼少期より非凡な記憶力を持ち、11歳のときに地元辻川の旧家三木家に預けられ、その膨大な蔵書を読破し、12歳の時、医者を開業していた長男の鼎に引き取られ茨城県と千葉県の境である下総の利根川べりの布川(現・利根町)に移り住みます。
生地とは異なった利根川の風物や貧困にあえぐ人たちに強い印象を受け、徳満寺という寺では、間引き絵馬(母親が、生んだばかりの我が子の命を奪っている姿を描いている)を見て、終生忘れることの出来ない衝撃を受けます。
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16歳のときに東京に住んでいた三兄井上通泰(帝国大学医科大学に在学中)と同居、図書館に通い読書を続けます。
三兄の紹介で森鴎外の門をたたき17歳の時、尋常中学共立学校(のちの開成高等学校)に編入学(驚!)、この年田山花袋に出会っていますね。
翌年、郁文館中学校に転校し進級し、19歳にして第一高等中学校に進学、青年期を迎えます。
東京帝国大学法科大学政治科(現・東京大学法学部政治学科)卒業後、明治33年(1900年)に農商務省に入り、主に東北地方の農村の実態を調査・研究するようになりました~(^^;。
今回は、柳田国男の少年期~青年期を紹介しました。
河童のインパクト強かったですか?(笑)
民俗学者、柳田國男の生家や特産館もちむぎのやかた近くにある「辻川山公園」のため池に、河童の河太郎(がたろう)と河次郎(がじろう)が出没します。
これは、柳田國男が幼い頃を過ごした福崎町辻川での暮らしぶりなど、自身の人生を回顧して書いた著書『故郷七十年』に登場する、市川の駒ヶ岩の河童のガタロ(河太郎)をモチーフにした河童の兄弟で、1匹は池のほとりにいますが、もう1匹は池の中にいて、9時~17時の毎時0分・15分・30分・45分に水中から飛び出てきます。
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