歴史の悪戯を垣間見る事に成った「大山寺」参拝!③
Christmas!優しい事に、成績ダウンの子供達にもサンタクロースさんは訪れてくれました(笑)。
高三の長女は本人もビックリのティファニーのリングが、長男にはアルファのMA-1、次女にはレジンを固めるUVライト(小物の工作や指先のお洒落に使います。)
何と優しいサンタクロースなんでしょうね(#^.^#)
それでは「市郎右衛門」の、日本歴史ブログをお楽しみください。



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大山寺アーカイブ
開山の経緯について、公式ホームページの記述がWikipediaと違い、面白いので参考迄にお借りして記載させて頂きますm(__)m
奈良時代養老二年(七一八)出雲の国玉造りの職人依道によって山が開かれました。
「大山寺縁起」によると依道がある日金色の狼を追って大山に入り一矢にして射ようとすると、矢の前方に地蔵菩薩が現れ信心の心がにわかに湧き起こり弓矢を捨てました。
狼はいつの間にか老尼と化し依道に話しかけました。
この出来事により依道は出家し仏教の修行をして、この山に地蔵権現を祀りその名を金蓮と改めたと記されています。
また「選集抄」にもほぼ同じ説話がのっています(Wikipediaでは鹿に成っているので前回UPと比べて下さい)。
【山号】
「大山寺縁起」によると、天空はるかかなたの兜率天( 六欲天の下から四番目の天。内外二院あり,内院には将来仏となるべき菩薩が住み,現在は弥勒菩薩がそこで修行されています。)の角が欠けて大きな盤石が地上に落ちて来ました。
盤石は三つに割れてその一つは熊野山になり、二つは金峰山になり、三つはこの大山になりました。
こうしたことからこの山は角磐山と名付けられました。
大山寺は山岳信仰の対象となる霊山大山に早くから山岳修行僧が入り「修験の山」として全国に知られました。
米子市にも角盤町の名前が有りますし、以前紹介致しました、市内の阿陀萱( あだかや)神社にも石が三つ堕ちてきた伝承が有りましたね~?
関係有るのかな?
【権現】
権現は、日本の神の神号の一つですね。
家康の「東照大権現」は有名ですね!
日本の神々を仏教の仏や菩薩が仮の姿で現れたものとする本地垂迹思想による神号です。
権という文字は「権大納言」などと同じく「臨時の」「仮の」という意味で、仏が「仮に」神の形を取って「現れた」ことを示します。
平安時代、村上天皇より大山権現(地蔵権現)を大智明菩薩とするみことのりが下され、御本尊を本殿権現社(現在の「大神山神社奥宮」)にまつり大智明権現というようになりました。
両部習合、すなわち神と仏とを一緒に御祀りする習わしで明治初めまで続きましたが当時の神仏分離の政策により別けられました。
【大山寺の兵力】
戦国時代の末世になり世が乱れ至る所に騒動が起こり、寺院も兵力を用いなければ保護する事が出来なくなりました。
大山寺も僧兵を蓄え強力な勢力を誇っていました。
戦国時代では有りませんが、元弘三年、当山の別当職にあった信濃坊源盛は兄名和長年が後醍醐天皇を奉じて船上山に立てこもった際、兄を助け当山の僧兵七百余騎をしたがえて船上山に馳せ参じ王事に勤めたのです。
船上山は以前御紹介しましたが、後醍醐天皇が隠岐島を脱出されて、鎌倉幕府打倒の詔を出された場所です。
正しく天然の要害!素晴らしいでしょう。
【衰退】
明治初年、神と仏とを別々に祀れという神仏分離の政令が出され、当時の座主北白川能久親王もどうする事もできず実に開山以来、一,二〇〇年の間、御本尊を御祀りしていた本殿を、明治八年神社に引き渡し大日堂にうつし祀らねばならなくなりました。
寺号も廃絶し、大山寺は急激に頽廃するに至ったのです。
さて前回北白川能久親王について少しお話させて頂く宿題を残していたのでお話します。
何故お話をさせて頂くかなのですが、戊辰戦争を皆さん「旧幕府軍対官軍」の戦いだと思われて居ませんか?
「勝てば官軍」の言葉の通りに、勝った薩摩藩長州藩土佐藩(肥前は少し考え方が違ったようですが)が賊軍を作り上げたと考えるからです。
明治天皇即位は16歳!数え歳ですから、実際は14歳(今の中学二年生です。)です。
政治力や軍を率いる力が有ったとは思えませんね。
実質的な総大将は、有栖川宮 熾仁親王です。
有栖川宮 熾仁親王は孝明天皇の妹和宮親子内親王の婚約者だった人です。
北白川能久親王は明治天皇の義理の叔父にあたられる方です。
東京オリンピック招致理事長の竹田 恆和さん(憲法学者、竹田 恒泰さんのお父様です。)のひいおじいさまに当たります。
北白川能久親王は「三山管領宮」「日光宮」「上野宮」「東叡大王」など様々な呼称をもちました。
朝廷や公家からは「輪王寺宮様」、江戸幕府や武士からは「日光御門主様」、江戸庶民からは「上野宮様」と呼ばれました。
輪王寺宮は輪王寺(日光)と江戸上野の輪王寺及び寛永寺(徳川将軍家の菩提寺)の住持を兼ね、比叡山(延暦寺)、日光、上野のすべてを管轄して強大な権威をもっていました。
これは、敵対勢力が京都の天皇を擁して倒幕運動を起こした場合、徳川家が朝敵とされるのを防ぐため、独自に擁立できる皇統を関東に置いておくという江戸幕府の策だったとも考えられます。
これにより朝廷対朝敵の図式を、単なる朝廷の内部抗争と位置づけることができ、実際に幕末には北白川能久親王が東武皇帝(東武天皇)として即位したかたちに成りました。
つまり戊辰戦争は薩長土肥連合が担ぎ上げた「有栖川宮 熾仁親王」VS奥羽越列藩同盟が担ぎ上げた「北白川宮能久親王(東武皇帝)」の構図といえます。
決して官軍VS賊軍の戦いでは無かったと考えます。
いつも応援、ありがとうございますm(__)m。
歴史って本当に面白いですよね~!
今後もランキングにはこだわって良い記事をUPしたいと思いますので宜しくお願い致します(^人^)
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大山寺アーカイブ
開山の経緯について、公式ホームページの記述がWikipediaと違い、面白いので参考迄にお借りして記載させて頂きますm(__)m
奈良時代養老二年(七一八)出雲の国玉造りの職人依道によって山が開かれました。
「大山寺縁起」によると依道がある日金色の狼を追って大山に入り一矢にして射ようとすると、矢の前方に地蔵菩薩が現れ信心の心がにわかに湧き起こり弓矢を捨てました。
狼はいつの間にか老尼と化し依道に話しかけました。
この出来事により依道は出家し仏教の修行をして、この山に地蔵権現を祀りその名を金蓮と改めたと記されています。
また「選集抄」にもほぼ同じ説話がのっています(Wikipediaでは鹿に成っているので前回UPと比べて下さい)。
【山号】
「大山寺縁起」によると、天空はるかかなたの兜率天( 六欲天の下から四番目の天。内外二院あり,内院には将来仏となるべき菩薩が住み,現在は弥勒菩薩がそこで修行されています。)の角が欠けて大きな盤石が地上に落ちて来ました。
盤石は三つに割れてその一つは熊野山になり、二つは金峰山になり、三つはこの大山になりました。
こうしたことからこの山は角磐山と名付けられました。
大山寺は山岳信仰の対象となる霊山大山に早くから山岳修行僧が入り「修験の山」として全国に知られました。
米子市にも角盤町の名前が有りますし、以前紹介致しました、市内の阿陀萱( あだかや)神社にも石が三つ堕ちてきた伝承が有りましたね~?
関係有るのかな?
【権現】
権現は、日本の神の神号の一つですね。
家康の「東照大権現」は有名ですね!
日本の神々を仏教の仏や菩薩が仮の姿で現れたものとする本地垂迹思想による神号です。
権という文字は「権大納言」などと同じく「臨時の」「仮の」という意味で、仏が「仮に」神の形を取って「現れた」ことを示します。
平安時代、村上天皇より大山権現(地蔵権現)を大智明菩薩とするみことのりが下され、御本尊を本殿権現社(現在の「大神山神社奥宮」)にまつり大智明権現というようになりました。
両部習合、すなわち神と仏とを一緒に御祀りする習わしで明治初めまで続きましたが当時の神仏分離の政策により別けられました。
【大山寺の兵力】
戦国時代の末世になり世が乱れ至る所に騒動が起こり、寺院も兵力を用いなければ保護する事が出来なくなりました。
大山寺も僧兵を蓄え強力な勢力を誇っていました。
戦国時代では有りませんが、元弘三年、当山の別当職にあった信濃坊源盛は兄名和長年が後醍醐天皇を奉じて船上山に立てこもった際、兄を助け当山の僧兵七百余騎をしたがえて船上山に馳せ参じ王事に勤めたのです。
船上山は以前御紹介しましたが、後醍醐天皇が隠岐島を脱出されて、鎌倉幕府打倒の詔を出された場所です。
正しく天然の要害!素晴らしいでしょう。
【衰退】
明治初年、神と仏とを別々に祀れという神仏分離の政令が出され、当時の座主北白川能久親王もどうする事もできず実に開山以来、一,二〇〇年の間、御本尊を御祀りしていた本殿を、明治八年神社に引き渡し大日堂にうつし祀らねばならなくなりました。
寺号も廃絶し、大山寺は急激に頽廃するに至ったのです。
さて前回北白川能久親王について少しお話させて頂く宿題を残していたのでお話します。
何故お話をさせて頂くかなのですが、戊辰戦争を皆さん「旧幕府軍対官軍」の戦いだと思われて居ませんか?
「勝てば官軍」の言葉の通りに、勝った薩摩藩長州藩土佐藩(肥前は少し考え方が違ったようですが)が賊軍を作り上げたと考えるからです。
明治天皇即位は16歳!数え歳ですから、実際は14歳(今の中学二年生です。)です。
政治力や軍を率いる力が有ったとは思えませんね。
実質的な総大将は、有栖川宮 熾仁親王です。
有栖川宮 熾仁親王は孝明天皇の妹和宮親子内親王の婚約者だった人です。
北白川能久親王は明治天皇の義理の叔父にあたられる方です。
東京オリンピック招致理事長の竹田 恆和さん(憲法学者、竹田 恒泰さんのお父様です。)のひいおじいさまに当たります。
北白川能久親王は「三山管領宮」「日光宮」「上野宮」「東叡大王」など様々な呼称をもちました。
朝廷や公家からは「輪王寺宮様」、江戸幕府や武士からは「日光御門主様」、江戸庶民からは「上野宮様」と呼ばれました。
輪王寺宮は輪王寺(日光)と江戸上野の輪王寺及び寛永寺(徳川将軍家の菩提寺)の住持を兼ね、比叡山(延暦寺)、日光、上野のすべてを管轄して強大な権威をもっていました。
これは、敵対勢力が京都の天皇を擁して倒幕運動を起こした場合、徳川家が朝敵とされるのを防ぐため、独自に擁立できる皇統を関東に置いておくという江戸幕府の策だったとも考えられます。
これにより朝廷対朝敵の図式を、単なる朝廷の内部抗争と位置づけることができ、実際に幕末には北白川能久親王が東武皇帝(東武天皇)として即位したかたちに成りました。
つまり戊辰戦争は薩長土肥連合が担ぎ上げた「有栖川宮 熾仁親王」VS奥羽越列藩同盟が担ぎ上げた「北白川宮能久親王(東武皇帝)」の構図といえます。
決して官軍VS賊軍の戦いでは無かったと考えます。
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