歴史の悪戯を垣間見る事に成った「大山寺」参拝!②
さて前回途中で尻切れ蜻蛉になった「大山寺」を紹介致します。
それとは別に(笑)、今回市郎右衛門の趣味の一つをご紹介させて頂きます。
ブログ記事写真のインパクトも考えてみました(^人^)。
それでは「市郎右衛門」の、日本歴史ブログをお楽しみください。



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さて今日御紹介するのは、申しました通りに「大山寺」です。
大山寺は鳥取県西伯郡大山町の伯耆大山中腹にある天台宗別格本山の寺です。
出雲神仏霊場の第十番です(大神神社が九番なので、一度に二つ廻れるんですよね♪)
中国三十三観音第二十九番。
山号は角磐山。
本尊は 地蔵菩薩(神号 大智明大権現)。
大山寺は奈良時代に成立した山岳信仰の霊場であり、養老2年(718年)に俊方(金蓮上人)によって開かれたとされます。
『選集抄』や『大山寺縁起』によると、俊方はある日大山で鹿を弓で射たが、その対象が鹿ではなく地蔵尊だったと知ります。
公式HPでは、出雲の国玉造りの人で依道と云う方によって山が開かれたと記載され、金色の狼を射っていますね?
この「起源」の説話が影響しているのか、現在も、大山には石造りの地蔵が多数みられます。
平安時代に入って天台宗が統括するようになり、西日本に於ける天台宗の一大拠点となります。
寺の住職である座主は比叡山から派遣され、ここでの任期を勤めた後、比叡山に戻って昇格するという、僧侶のキャリア形成の場となります(現代の国家公務員上級甲種試験 →国家公務員I種試験 → 国家公務員総合職試験「名前が変わった様です」合格者の感じですか?)。
古くから信仰の道である大山道が岡山県岡山市から南北に整備され、途中出雲街道とも交差することもあって、信仰だけでなく、商業交通の面でも発展しました。
中世には尼子氏・毛利氏などの戦国武将からも崇敬され、盛んに寄進や造営がなされます。
江戸時代に入ると一時、中村一忠によって寺領の一部が没収されましたが慶長15年(1610年)、西楽院の僧正豪円によって寺門の興隆がなされ、徳川家康に請願して慶長19年(1614年)3000石の寺領を得て、三谷四十二坊の制をしき寺勢を回復します。
ここで、中村一忠とは何者か、説明しときますね~。
米子藩主です(藩が使えると楽々ですね~(^^;)、伯耆国17万5000石の領主。
一忠は豊臣氏三中老の一人であった駿府城主中村一氏の子です。
一氏は関ヶ原本戦直前の7月17日に病により急死しましたが、死の前に駿府城下で徳川家康と会談しており、東軍に加わることを明らかにしていました。
一氏の功績により、一氏の嫡子である一忠に3万石が加増されて移封が実現し、米子藩が立藩されました。
話を戻しまして、江戸時代の宝永7年(1710年)より日光宮公辯法親王学頭に就任し、日光宮の大山寺御兼摂となり本坊西楽院に留守居僧が派遣されることになります。
明治維新時の戊辰戦争の影響で彰義隊がたまたま大山寺主座たる日光宮北白川能久親王(日光輪王寺門跡公現入道親王)を擁したため、一時朝敵になる地位にたち、対立していた鳥取藩は王政復古の流れに乗じて大山寺一山寺院に苛列な処分を行います(次回、日光宮北白川能久親王のお話を少し詳しくさせて頂きます)。
明治4年年(1871年)大政官布告により寺領は没収されます。
明治8年(1875年)廃仏毀釈により大山寺の号が廃されます。
大日堂(現在の本堂)に本尊を移し、本殿を大神山神社に引き渡します。
これにより大山寺は衰退してしまいました。
明治36年(1903年)に大山寺の号が復活しましたが七堂八社四十二坊も三堂十坊に減ってしまいました。
昭和3年(1928年)には4度の火災に見舞われてしまいます。
「歴史の悪戯を垣間見る事に成った」と題しました。
鳥取藩の最後の藩主池田慶徳は十五代将軍慶喜の兄です。
兄弟で有りながら、長州藩と京都の位置関係を考え、鳥取藩池田家の存続をも考えると、新政府に味方せざるを得なかったと思います。
日光宮北白川能久親王が三山管領宮「上野東叡山寛永寺貫主、日光日光山輪王寺門跡を兼務し、比叡山延暦寺天台座主も就任」でなければ、そしてその方が大山寺の大山寺主座でなければ、大山寺の衰退は無かったと思います。
正に神様の悪戯としか思えませんねぇ!
いつも応援、ありがとうございますm(__)m。
歴史って本当に面白いですよね~!
今後もランキングにはこだわって良い記事をUPしたいと思いますので宜しくお願い致します(^人^)
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さて今日御紹介するのは、申しました通りに「大山寺」です。
大山寺は鳥取県西伯郡大山町の伯耆大山中腹にある天台宗別格本山の寺です。
出雲神仏霊場の第十番です(大神神社が九番なので、一度に二つ廻れるんですよね♪)
中国三十三観音第二十九番。
山号は角磐山。
本尊は 地蔵菩薩(神号 大智明大権現)。
大山寺は奈良時代に成立した山岳信仰の霊場であり、養老2年(718年)に俊方(金蓮上人)によって開かれたとされます。
『選集抄』や『大山寺縁起』によると、俊方はある日大山で鹿を弓で射たが、その対象が鹿ではなく地蔵尊だったと知ります。
公式HPでは、出雲の国玉造りの人で依道と云う方によって山が開かれたと記載され、金色の狼を射っていますね?
この「起源」の説話が影響しているのか、現在も、大山には石造りの地蔵が多数みられます。
平安時代に入って天台宗が統括するようになり、西日本に於ける天台宗の一大拠点となります。
寺の住職である座主は比叡山から派遣され、ここでの任期を勤めた後、比叡山に戻って昇格するという、僧侶のキャリア形成の場となります(現代の国家公務員上級甲種試験 →国家公務員I種試験 → 国家公務員総合職試験「名前が変わった様です」合格者の感じですか?)。
古くから信仰の道である大山道が岡山県岡山市から南北に整備され、途中出雲街道とも交差することもあって、信仰だけでなく、商業交通の面でも発展しました。
中世には尼子氏・毛利氏などの戦国武将からも崇敬され、盛んに寄進や造営がなされます。
江戸時代に入ると一時、中村一忠によって寺領の一部が没収されましたが慶長15年(1610年)、西楽院の僧正豪円によって寺門の興隆がなされ、徳川家康に請願して慶長19年(1614年)3000石の寺領を得て、三谷四十二坊の制をしき寺勢を回復します。
ここで、中村一忠とは何者か、説明しときますね~。
米子藩主です(藩が使えると楽々ですね~(^^;)、伯耆国17万5000石の領主。
一忠は豊臣氏三中老の一人であった駿府城主中村一氏の子です。
一氏は関ヶ原本戦直前の7月17日に病により急死しましたが、死の前に駿府城下で徳川家康と会談しており、東軍に加わることを明らかにしていました。
一氏の功績により、一氏の嫡子である一忠に3万石が加増されて移封が実現し、米子藩が立藩されました。
話を戻しまして、江戸時代の宝永7年(1710年)より日光宮公辯法親王学頭に就任し、日光宮の大山寺御兼摂となり本坊西楽院に留守居僧が派遣されることになります。
明治維新時の戊辰戦争の影響で彰義隊がたまたま大山寺主座たる日光宮北白川能久親王(日光輪王寺門跡公現入道親王)を擁したため、一時朝敵になる地位にたち、対立していた鳥取藩は王政復古の流れに乗じて大山寺一山寺院に苛列な処分を行います(次回、日光宮北白川能久親王のお話を少し詳しくさせて頂きます)。
明治4年年(1871年)大政官布告により寺領は没収されます。
明治8年(1875年)廃仏毀釈により大山寺の号が廃されます。
大日堂(現在の本堂)に本尊を移し、本殿を大神山神社に引き渡します。
これにより大山寺は衰退してしまいました。
明治36年(1903年)に大山寺の号が復活しましたが七堂八社四十二坊も三堂十坊に減ってしまいました。
昭和3年(1928年)には4度の火災に見舞われてしまいます。
「歴史の悪戯を垣間見る事に成った」と題しました。
鳥取藩の最後の藩主池田慶徳は十五代将軍慶喜の兄です。
兄弟で有りながら、長州藩と京都の位置関係を考え、鳥取藩池田家の存続をも考えると、新政府に味方せざるを得なかったと思います。
日光宮北白川能久親王が三山管領宮「上野東叡山寛永寺貫主、日光日光山輪王寺門跡を兼務し、比叡山延暦寺天台座主も就任」でなければ、そしてその方が大山寺の大山寺主座でなければ、大山寺の衰退は無かったと思います。
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