大国主の正妻「須勢理姫命」誕生の地?『那賣佐神社』
今日は出雲の国『那賣佐神社』をご紹介します。
と!その前に、又皆様におことわりをしなければならなく成りました。(またかい(*`Д´)ノ!!!と怒らないで下さいm(__)m)
「ブログ表記の変更を御許し下さい(^人^)」のお願いです。
歴史を勉強された、若しくはお好きな片方は当然ご存知でしょうが、「記紀」の記述は、同じ神様で有っても呼び名が違う事が多いですし、当て字の漢字もほとんど違っています。
それは『古事記』が国内向けに音を漢字の当て字にしたのに比べて、『日本書紀』は対外的に朝鮮や中国にも通じる様に、漢文で書かれた為です。
此れまでは、「出雲の国『古事記』の神話を旅する」のテーマの基に、ブログをUPし始めた為に、一分を除いて(神社縁起の記入等)、表現を「古事記」の記載表記に統一していました。
例えばイザナギは古事記では伊邪那岐、日本書紀では、「伊弉諾神」と表記されます。
スサノオは須佐之男ですね、日本書紀ですと「素戔男尊、素戔嗚尊」です。
資料やデータに神社の縁起を使わして頂く事の多い私ですが、縁起は「日本書紀」の表記が多く使われておりますので、此れまでは訂正するのが大変でした(自分のテーマとの板挟みに悩んでおりました。汗)。
そこで、前回の「藩」使用解禁と同じように、縁起が日本書紀の表記の場合そちらを使わせて頂きますm(__)m。
出来るだけ併記もしくは説明を入れたいとは考えておりますので、宜しくお願い致しますm(__)m。
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同じ風土記の神門郡内の在神祇官社二十五所のうちに「⑨奈賣佐社」「⑱奈賣佐社」(頭書の番号は社名記載順を示す)と二社が載っています。
恐らく前者は「ナメサノヤシロ」と訓んでこの地を守護する在地神を祀るお社で、後者も同じ訓みですが、この神の意を受けてこの地を支配していた姫神を祀るお社だったと思われます(別々だったんだね!)。
風土記より約二百年後、平安時代に入って『延喜式』が編纂させた時に、神名帳巻第重要に出雲国神門郡二十七座が登載され、その中に「那賣佐神社(なめさのかみのやしろ)」と「同社坐和加須西利比賣神社(おなじきやしろにますわかすせりひめのかみのやしろ)」が鎮座していますが、これは風土記の神社に対応するものでした。
この時代には今まで二社だったのが「同社坐」と書かれていることでわかるように、すでに一社に合祀されてしまっています。
このように『延喜式』に載せられた神社のことを「式内社」といい、古来から由緒深い神社として尊崇されています。
中世のことははっきりしませんが、近世になって『雲陽誌』(黒沢長尚撰 享保二年)の神門郡東神在の項に、高倉明神 延喜式に那賣佐神社と書す、風土記に波加佐社、奈賣佐社あり、大己貴命・和加須西利比賣命をあわせて祭りて今俗に岩坪明神という、波加佐山に鎮座なり。
と書かれ、その項の諸文献には何れも高倉明神は岩坪明神ともいわれて、延喜式の那賣佐神社に当たるという書き方になっています。
もとは「滑磐石」の岩坪の傍にあって祀られていた那賣佐神社が、岩坪明神と名を改めて村人から崇敬されていたのが、自然災害等のためいつしか高倉山(波加佐山の一部)の中腹に移され、やがて高倉明神となったものと思われるのです。
さて御祭神の大己貴命が現在では葦原醜男命と改められていますが、これについては次のような伝承と解釈に基づくものとされています。
第十一代の垂仁天皇の皇子本牟智和気王が生まれてから言葉を発せられなかったので、出雲大神(杵築大社)に参拝し祈願ののち、都に還られる途中、肥の河のほとりに仮宮をつくり一時おとどまりになられたことがありました。
ここへ出雲国造(いづものくにのみやつこ)がやってきておもてなしをしたとき、「この川下に青葉の山のようなものが見えるが、山ではなくて出雲の石硐之曽宮(いわくまのそのみや)においでになる葦原醜男の大神をお祀り申し上げる神職の大庭ではないか」と初めて声を発せられた。
と『古事記』に記載されています。
この「いわくまのそのみや」について、江戸時代の国学者本居宣長が『古事記伝』の中で、「この宮は、何れの社を申せるにか詳ならず、杵築大社には非ず、(中略)抄(『出雲風土記抄』)に奈賣佐神社は滑狭郷神西村にあり、大穴持命と須世理比賣とを合祭る。」と「いわくまのそのみや」に比定した内山真龍(『出雲風土記解』の著者)の説を引用しています。
つまりこの神社は古事記の第十一代の垂仁天皇の皇子本牟智和気王の言葉を採用して、大己貴命の名を葦原醜男命に改めたとされています(大穴持命・大己貴命→葦原醜男→大国主と変化?私的には一人とは考えていません。系統かな?)。
なお合殿として伊邪那岐命が加えられていますが、この神は滑狭郷内に鎮座していた風土記所載の波加佐社の祭神と考えられています。
後に明治維新を迎え、王政復古の機運から神社制度が改められ、式内社が復活し、明治五年高倉明神の社名を改めて社地・社殿そのままに「那賣佐神社」となり、滑狭郷たるの故を以て、郷社の社格を与えられたのです。
当時神門郡で郷社に列せられたのは八社だけで、その中に加えられる程に重んぜられた神社だったわけです。
以前実家但馬は豊岡市の「中嶋神社」のところで、『日本書紀』の誉津別命(ほむつわけのみこと)の発声については『ある日、鵠(くぐい、今の白鳥)が渡るさまを見て「是何物ぞ」と初めて言葉を発しました。天皇は喜び、その鵠を捕まえることを命じます。湯河板挙(鳥取造の祖)が出雲(一書に但馬)で捕まえて献上し、鵠を遊び相手にすると、誉津別命は言葉を発するようになります。』と記載しました。
『古事記』では、あるとき本牟智和気王(誉津別命と記載されます)は天を往く鵠を見て何かを言おうとしたので、天皇はそれを見て鵠を捕らえるように命じ捕らえましたが、皇子は鵠を得てもまだ発声しません。ある晩、天皇の夢に何者かが現れて「我が宮を天皇の宮のごとく造り直したなら、皇子はしゃべれるようになるだろう」と述べた。そこで天皇は太占で夢に現れたのが何者であるか占わせると、言語(物言わぬ)は出雲大神の祟りとわかった。天皇は皇子を曙立王・菟上王とともに出雲に遣わし、大神を拝させると皇子はしゃべれるようになったという。
此処ですね(笑)出雲の呪いは征服者にとっても恐ろしいものでした。
日本書紀は対外的な物なので弱い所は書けませんでした。
しかし実際は出雲大社を作って鎮まるようにしたんですね~。
古事記の神話の部分がほとんど出雲であるのもうなずかませんか?
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と!その前に、又皆様におことわりをしなければならなく成りました。(またかい(*`Д´)ノ!!!と怒らないで下さいm(__)m)
「ブログ表記の変更を御許し下さい(^人^)」のお願いです。
歴史を勉強された、若しくはお好きな片方は当然ご存知でしょうが、「記紀」の記述は、同じ神様で有っても呼び名が違う事が多いですし、当て字の漢字もほとんど違っています。
それは『古事記』が国内向けに音を漢字の当て字にしたのに比べて、『日本書紀』は対外的に朝鮮や中国にも通じる様に、漢文で書かれた為です。
此れまでは、「出雲の国『古事記』の神話を旅する」のテーマの基に、ブログをUPし始めた為に、一分を除いて(神社縁起の記入等)、表現を「古事記」の記載表記に統一していました。
例えばイザナギは古事記では伊邪那岐、日本書紀では、「伊弉諾神」と表記されます。
スサノオは須佐之男ですね、日本書紀ですと「素戔男尊、素戔嗚尊」です。
資料やデータに神社の縁起を使わして頂く事の多い私ですが、縁起は「日本書紀」の表記が多く使われておりますので、此れまでは訂正するのが大変でした(自分のテーマとの板挟みに悩んでおりました。汗)。
そこで、前回の「藩」使用解禁と同じように、縁起が日本書紀の表記の場合そちらを使わせて頂きますm(__)m。
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さて「那賣佐神社」ですね。
さて御由緒記の記載ですが!
所在地 出雲市東神西町字牛谷720番地
【御祭神】
主祭神 葦原醜男命(アシハラシコオ)
配祀神 須勢理姫命(スセリヒメ)
合殿 伊邪那岐命(イザナギ)
【御由緒】
古代は、現在の島根県出雲市東・西両神西町と簸川郡湖陵町江南とを併せた地域を神門郡滑狭郷といっていました。
奈良時代に編纂された『出雲国風土記』の中に、次のような地名伝承が載っています。
須佐能袁命の御子、和加須世理比賣命(以下姫神と略称)が、この地に住んでおられ、そこへ所造天下大神(アメノシタツクラシシオオカミ)(⇒大穴持命=大己貴命=葦原醜男命「いずれも大国主命の別名です」)が妻問いに通ってこられた時、姫神のお住いになっている宮の前に大きな岩があって、谷川の水が、その上を大変滑らかに流れている様子を見て、「滑し磐石なるかも(滑らかな岩が在るものだな)」と感嘆して仰せられたので、「なめしいわ」がつづまって「なめさ」となり、この地を「南佐(なめさ)」というようになりました。
後に「滑狭」と書き改められます。
「出雲国風土記」迄出てくると大変ですね~(^^;、スサノオ・スセリヒメ・オオクニヌシの三人が出てきました(汗)。
これは、この地域に伝えられた神話であり、地名伝承ですが、ここには重要なことが三点隠されていると思われます。
一つは、この地に住んだ人々が現在の九景川の奥の谷間に大きな岩磐(高さ二メートル長さ十数メートルにわたる集塊岩)が存在し、流れで造成された二つの大きな穴と数ヶ所の小さな穴(これらの穴は甌穴で、俗に岩坪といわれます。)があることを知っていたこと、二つには人々が祖先神と崇める神が姫神であること、三つめにはその姫神のところへ大穴持神が外部から妻問いに通ってこられたということです。
岩磐の平滑なことや岩に大きな穴がうがたれているということは自然現象ですが、昔の人にとっては、この自然の神秘は神のなせるわざだと畏怖したことでしょう。
そして、その神秘の中から生まれる水の恩恵を受けて、農耕生活ができることに感謝の誠を捧げ、いつまでもそれが続くように、また不幸な災害などが起こらないように守護してほしいとの願いをこめて神を祀り、祈りを捧げたことでしょう。
さらに、この神の意を伝えるのが祖先神と仰ぐ姫神であり、その祀りの斎場(祭りの庭)が、神が造成した岩坪付近だったと考えた事です。
さて「那賣佐神社」ですね。
さて御由緒記の記載ですが!
所在地 出雲市東神西町字牛谷720番地
【御祭神】
主祭神 葦原醜男命(アシハラシコオ)
配祀神 須勢理姫命(スセリヒメ)
合殿 伊邪那岐命(イザナギ)
【御由緒】
古代は、現在の島根県出雲市東・西両神西町と簸川郡湖陵町江南とを併せた地域を神門郡滑狭郷といっていました。
奈良時代に編纂された『出雲国風土記』の中に、次のような地名伝承が載っています。
須佐能袁命の御子、和加須世理比賣命(以下姫神と略称)が、この地に住んでおられ、そこへ所造天下大神(アメノシタツクラシシオオカミ)(⇒大穴持命=大己貴命=葦原醜男命「いずれも大国主命の別名です」)が妻問いに通ってこられた時、姫神のお住いになっている宮の前に大きな岩があって、谷川の水が、その上を大変滑らかに流れている様子を見て、「滑し磐石なるかも(滑らかな岩が在るものだな)」と感嘆して仰せられたので、「なめしいわ」がつづまって「なめさ」となり、この地を「南佐(なめさ)」というようになりました。
後に「滑狭」と書き改められます。
「出雲国風土記」迄出てくると大変ですね~(^^;、スサノオ・スセリヒメ・オオクニヌシの三人が出てきました(汗)。
これは、この地域に伝えられた神話であり、地名伝承ですが、ここには重要なことが三点隠されていると思われます。
一つは、この地に住んだ人々が現在の九景川の奥の谷間に大きな岩磐(高さ二メートル長さ十数メートルにわたる集塊岩)が存在し、流れで造成された二つの大きな穴と数ヶ所の小さな穴(これらの穴は甌穴で、俗に岩坪といわれます。)があることを知っていたこと、二つには人々が祖先神と崇める神が姫神であること、三つめにはその姫神のところへ大穴持神が外部から妻問いに通ってこられたということです。
岩磐の平滑なことや岩に大きな穴がうがたれているということは自然現象ですが、昔の人にとっては、この自然の神秘は神のなせるわざだと畏怖したことでしょう。
そして、その神秘の中から生まれる水の恩恵を受けて、農耕生活ができることに感謝の誠を捧げ、いつまでもそれが続くように、また不幸な災害などが起こらないように守護してほしいとの願いをこめて神を祀り、祈りを捧げたことでしょう。
さらに、この神の意を伝えるのが祖先神と仰ぐ姫神であり、その祀りの斎場(祭りの庭)が、神が造成した岩坪付近だったと考えた事です。
同じ風土記の神門郡内の在神祇官社二十五所のうちに「⑨奈賣佐社」「⑱奈賣佐社」(頭書の番号は社名記載順を示す)と二社が載っています。
恐らく前者は「ナメサノヤシロ」と訓んでこの地を守護する在地神を祀るお社で、後者も同じ訓みですが、この神の意を受けてこの地を支配していた姫神を祀るお社だったと思われます(別々だったんだね!)。
風土記より約二百年後、平安時代に入って『延喜式』が編纂させた時に、神名帳巻第重要に出雲国神門郡二十七座が登載され、その中に「那賣佐神社(なめさのかみのやしろ)」と「同社坐和加須西利比賣神社(おなじきやしろにますわかすせりひめのかみのやしろ)」が鎮座していますが、これは風土記の神社に対応するものでした。
この時代には今まで二社だったのが「同社坐」と書かれていることでわかるように、すでに一社に合祀されてしまっています。
このように『延喜式』に載せられた神社のことを「式内社」といい、古来から由緒深い神社として尊崇されています。
中世のことははっきりしませんが、近世になって『雲陽誌』(黒沢長尚撰 享保二年)の神門郡東神在の項に、高倉明神 延喜式に那賣佐神社と書す、風土記に波加佐社、奈賣佐社あり、大己貴命・和加須西利比賣命をあわせて祭りて今俗に岩坪明神という、波加佐山に鎮座なり。
と書かれ、その項の諸文献には何れも高倉明神は岩坪明神ともいわれて、延喜式の那賣佐神社に当たるという書き方になっています。
もとは「滑磐石」の岩坪の傍にあって祀られていた那賣佐神社が、岩坪明神と名を改めて村人から崇敬されていたのが、自然災害等のためいつしか高倉山(波加佐山の一部)の中腹に移され、やがて高倉明神となったものと思われるのです。
さて御祭神の大己貴命が現在では葦原醜男命と改められていますが、これについては次のような伝承と解釈に基づくものとされています。
第十一代の垂仁天皇の皇子本牟智和気王が生まれてから言葉を発せられなかったので、出雲大神(杵築大社)に参拝し祈願ののち、都に還られる途中、肥の河のほとりに仮宮をつくり一時おとどまりになられたことがありました。
ここへ出雲国造(いづものくにのみやつこ)がやってきておもてなしをしたとき、「この川下に青葉の山のようなものが見えるが、山ではなくて出雲の石硐之曽宮(いわくまのそのみや)においでになる葦原醜男の大神をお祀り申し上げる神職の大庭ではないか」と初めて声を発せられた。
と『古事記』に記載されています。
この「いわくまのそのみや」について、江戸時代の国学者本居宣長が『古事記伝』の中で、「この宮は、何れの社を申せるにか詳ならず、杵築大社には非ず、(中略)抄(『出雲風土記抄』)に奈賣佐神社は滑狭郷神西村にあり、大穴持命と須世理比賣とを合祭る。」と「いわくまのそのみや」に比定した内山真龍(『出雲風土記解』の著者)の説を引用しています。
つまりこの神社は古事記の第十一代の垂仁天皇の皇子本牟智和気王の言葉を採用して、大己貴命の名を葦原醜男命に改めたとされています(大穴持命・大己貴命→葦原醜男→大国主と変化?私的には一人とは考えていません。系統かな?)。
なお合殿として伊邪那岐命が加えられていますが、この神は滑狭郷内に鎮座していた風土記所載の波加佐社の祭神と考えられています。
後に明治維新を迎え、王政復古の機運から神社制度が改められ、式内社が復活し、明治五年高倉明神の社名を改めて社地・社殿そのままに「那賣佐神社」となり、滑狭郷たるの故を以て、郷社の社格を与えられたのです。
当時神門郡で郷社に列せられたのは八社だけで、その中に加えられる程に重んぜられた神社だったわけです。
以前実家但馬は豊岡市の「中嶋神社」のところで、『日本書紀』の誉津別命(ほむつわけのみこと)の発声については『ある日、鵠(くぐい、今の白鳥)が渡るさまを見て「是何物ぞ」と初めて言葉を発しました。天皇は喜び、その鵠を捕まえることを命じます。湯河板挙(鳥取造の祖)が出雲(一書に但馬)で捕まえて献上し、鵠を遊び相手にすると、誉津別命は言葉を発するようになります。』と記載しました。
『古事記』では、あるとき本牟智和気王(誉津別命と記載されます)は天を往く鵠を見て何かを言おうとしたので、天皇はそれを見て鵠を捕らえるように命じ捕らえましたが、皇子は鵠を得てもまだ発声しません。ある晩、天皇の夢に何者かが現れて「我が宮を天皇の宮のごとく造り直したなら、皇子はしゃべれるようになるだろう」と述べた。そこで天皇は太占で夢に現れたのが何者であるか占わせると、言語(物言わぬ)は出雲大神の祟りとわかった。天皇は皇子を曙立王・菟上王とともに出雲に遣わし、大神を拝させると皇子はしゃべれるようになったという。
此処ですね(笑)出雲の呪いは征服者にとっても恐ろしいものでした。
日本書紀は対外的な物なので弱い所は書けませんでした。
しかし実際は出雲大社を作って鎮まるようにしたんですね~。
古事記の神話の部分がほとんど出雲であるのもうなずかませんか?
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コメント
No title
一昨日はほんとにありがとうございました。
楽しすぎてあっという間のひとときでしたね。
また新しい仲間ができて自分も新しい勉強をさせていただきました。
これを機に歴史の勉強になればと思います。
出雲は今年1月に行きましたが観光が目的じゃなかったので
出雲大社しか行きませんでした (^_^;)
今後またこちらを訪問させていただきます。
よろしくお願い致します♪
2016-12-29 14:12 たうい URL 編集
たういさんコメントありがとうございます
本年もよろしくお願いいたします。
また色々教えてください。
よろしくお願いいたします。
OF会もまたご一緒出来ましたらうれしいです。
2017-01-03 08:20 市朗右衛門 URL 編集