地元民に愛される生け花発祥の地『六角堂頂法寺』
今日(10日)は充実した一日でした~(笑)
と二日前に投稿予定がPC不調で最悪の日曜日に成ってしたいました。
しかしながら、文章は土曜日のままなので、少し浮かれています。
それでは(笑)。
気分が良いので?京都の中心に入ってみましょうか。
以前からお花とお茶は、ぜひ習いたいと考えております(いまだ叶ってはおりませんが)。
母が「未生流」を学んでおり名取?(私には師範と名取がどう違うのかわかりませんが)実際に仕事を持っていたので、教えることは有りませんでしたが、分厚い板に「未生流〇〇所?」と母の名前「華郁(華道名?です)」が残っています。
先日Facebookでとても素敵な方からリクエストを頂き、鼻の下を伸ばした市郎右衛門ですが、和の文化を教えておられる先生の様で、お花も「池坊流」だそうです。
そこで今日は『六角堂頂法寺』というわけです。
「市郎右衛門」の日本歴史ブログをお楽しみください。



鎌倉時代の初め、比叡山で修行していた親鸞は、建仁元年(1201)二十九歳の時、六角堂に百日参籠するという誓いを立てました。
聖徳太子を深く尊敬していた親鸞は、京都における太子ゆかりの寺院として、六角堂に思いを寄せたのです。
参籠は、夜になると比叡山を下りて六角堂に籠もり、朝には山に戻る繰り返しだったといいます。
そして九十五日目の暁に如意輪観音からお告げを受け、浄土真宗を開くきっかけを得ました。
室町時代、寛正2年(1461)の飢饉にあたり、人々が集まってくる六角堂の門前で炊き出しがおこなわれました。
応仁の乱後、京都は上京と下京に分かれましたが、六角堂は下京の町堂として町衆の信仰を集め、集会所や公民館のような機能も果たすようになります。
また十数回の火災の度も本尊が救い出され、本堂も再建復興を重ねながらこの地にあり続けることが、京都の暮らしに根ざしている証ではないでしょうか。
更には、日本を代表する祭礼の一つ、祇園祭の山鉾巡行の順番を決めるくじ取り式は、江戸時代末まで六角堂でおこなわれていました。
これらのことから、六角堂は京都の中心と認識されるようになりました。
境内には聖徳太子が沐浴したと伝わる池が在り、小野妹子を始祖とする僧房の住坊が在ったことから「池坊(知らなかったです。勉強になりました。)」と呼ばれるようになったそうです。
朝夕ごとに仏前に供えていた花が華道の起こりとなって、最大流派「池坊流」が発祥、発展したと知られています。
池坊の家元が代々住職を務め、花行列や花供養といった独自の法要を営むようになりました。
寺の本尊である如意輪観世音菩薩様は、名前の通り、思いのままに願い事をかなえてくれる「宝珠(如意宝珠)」と、魔を打ち砕く「輪宝(法輪)」を持っておられます。
古来より六角堂ご本尊如意輪観世音菩薩様は、人々の苦しみを除き、願いをかなえ、特に寿命を延ばす、病気を治すなどの健康面でのご利益があるとされ、子宝に恵まれたり、難産を緩和させるといったご利益もあります。
観音様は人の音(声)を観(観察)て救ってくれるとされています。
仏教には六道輪廻という考え方があり、人間が輪廻を繰り返す際に生まれ出る世界が6つあり、仏道に入って悟りに至らなければ六道を永久に回り続けるのだとされます。
如意輪観音様はその中でも天道に迷う者を救うとして信仰されています。
平安時代に書かれた『今昔物語』に次のような話が載せられています。
ある時、観音様の熱心な信者であった年の若い侍が一条堀川の橋を渡る鬼に唾をかけられ姿が見えなくなってしまいました。
侍は信心する六角堂に篭って祈ったところ、観音様よりお告げがあり、朝早くに出会った牛飼いに付いていきました。
行った先には長者の家の姫君が病気で床に伏しており、そばにいた修験者が祈祷したところ侍の姿は元に戻り、姫君も病が治りました。それから先、侍も姫君も病になることは無く、観音様のご利益は希有なことであったと結ばれています。
PC不調でUPが遅れて申し訳ありません。
京都の町は、ブログを書く者にとって、ある意味怖い所だと感じています。
今回もそうですが、時代が幾重にも重なって、読み手にも難しいでしょうし、書き手にも(知識不足の私は特に)大変だと思います。
しかしながら歴史は川の流れ、上流には上流の楽しみ方が、中流下流にはまた違う楽しみを与えてくれます。
肩の力を抜いて、少しずつまいりましょうか(笑)
いつも応援、ありがとうございますm(__)m。
歴史って本当に面白いですよね~!
今後もランキングにはこだわって良い記事をUPしたいと思いますので宜しくお願い致します(^人^)
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しかしながら、文章は土曜日のままなので、少し浮かれています。
それでは(笑)。
気分が良いので?京都の中心に入ってみましょうか。
以前からお花とお茶は、ぜひ習いたいと考えております(いまだ叶ってはおりませんが)。
母が「未生流」を学んでおり名取?(私には師範と名取がどう違うのかわかりませんが)実際に仕事を持っていたので、教えることは有りませんでしたが、分厚い板に「未生流〇〇所?」と母の名前「華郁(華道名?です)」が残っています。
先日Facebookでとても素敵な方からリクエストを頂き、鼻の下を伸ばした市郎右衛門ですが、和の文化を教えておられる先生の様で、お花も「池坊流」だそうです。
そこで今日は『六角堂頂法寺』というわけです。
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西国三十三観音霊場第十八番
紫雲山『六角堂頂法寺』
西国三十三観音霊場第十八番
紫雲山『六角堂頂法寺』
散歩や仕事の合間に参詣する人が終日絶えず、正式な寺号は頂法寺ですが、地元の人々からは御堂の形から「六角堂」「六角さん」と呼ばれ、親しまれています。
門前を東西に走る道も六角通りといいます。
淡路島に漂着した如意輪観音像を念持仏としていた聖徳太子は、用明天皇2年(587)、四天王寺建立の材木を求め、京都盆地を訪れました。
太子が池で身を清めるにあたり、念持仏を木に掛けたところ動かなくなり、この地にとどまって人々を救いたいと太子に告げたため、六角形の御堂を建てて安置したといわれます。
聖徳太子開創の古刹ということは、つまり平安遷都以前から京都の中心に佇み町の変化を見守り続けて来たといえますね。
門前を東西に走る道も六角通りといいます。
淡路島に漂着した如意輪観音像を念持仏としていた聖徳太子は、用明天皇2年(587)、四天王寺建立の材木を求め、京都盆地を訪れました。
太子が池で身を清めるにあたり、念持仏を木に掛けたところ動かなくなり、この地にとどまって人々を救いたいと太子に告げたため、六角形の御堂を建てて安置したといわれます。
聖徳太子開創の古刹ということは、つまり平安遷都以前から京都の中心に佇み町の変化を見守り続けて来たといえますね。
鎌倉時代の初め、比叡山で修行していた親鸞は、建仁元年(1201)二十九歳の時、六角堂に百日参籠するという誓いを立てました。
聖徳太子を深く尊敬していた親鸞は、京都における太子ゆかりの寺院として、六角堂に思いを寄せたのです。
参籠は、夜になると比叡山を下りて六角堂に籠もり、朝には山に戻る繰り返しだったといいます。
そして九十五日目の暁に如意輪観音からお告げを受け、浄土真宗を開くきっかけを得ました。
室町時代、寛正2年(1461)の飢饉にあたり、人々が集まってくる六角堂の門前で炊き出しがおこなわれました。
応仁の乱後、京都は上京と下京に分かれましたが、六角堂は下京の町堂として町衆の信仰を集め、集会所や公民館のような機能も果たすようになります。
また十数回の火災の度も本尊が救い出され、本堂も再建復興を重ねながらこの地にあり続けることが、京都の暮らしに根ざしている証ではないでしょうか。
更には、日本を代表する祭礼の一つ、祇園祭の山鉾巡行の順番を決めるくじ取り式は、江戸時代末まで六角堂でおこなわれていました。
これらのことから、六角堂は京都の中心と認識されるようになりました。
境内には聖徳太子が沐浴したと伝わる池が在り、小野妹子を始祖とする僧房の住坊が在ったことから「池坊(知らなかったです。勉強になりました。)」と呼ばれるようになったそうです。
朝夕ごとに仏前に供えていた花が華道の起こりとなって、最大流派「池坊流」が発祥、発展したと知られています。
池坊の家元が代々住職を務め、花行列や花供養といった独自の法要を営むようになりました。
寺の本尊である如意輪観世音菩薩様は、名前の通り、思いのままに願い事をかなえてくれる「宝珠(如意宝珠)」と、魔を打ち砕く「輪宝(法輪)」を持っておられます。
古来より六角堂ご本尊如意輪観世音菩薩様は、人々の苦しみを除き、願いをかなえ、特に寿命を延ばす、病気を治すなどの健康面でのご利益があるとされ、子宝に恵まれたり、難産を緩和させるといったご利益もあります。
観音様は人の音(声)を観(観察)て救ってくれるとされています。
仏教には六道輪廻という考え方があり、人間が輪廻を繰り返す際に生まれ出る世界が6つあり、仏道に入って悟りに至らなければ六道を永久に回り続けるのだとされます。
如意輪観音様はその中でも天道に迷う者を救うとして信仰されています。
平安時代に書かれた『今昔物語』に次のような話が載せられています。
ある時、観音様の熱心な信者であった年の若い侍が一条堀川の橋を渡る鬼に唾をかけられ姿が見えなくなってしまいました。
侍は信心する六角堂に篭って祈ったところ、観音様よりお告げがあり、朝早くに出会った牛飼いに付いていきました。
行った先には長者の家の姫君が病気で床に伏しており、そばにいた修験者が祈祷したところ侍の姿は元に戻り、姫君も病が治りました。それから先、侍も姫君も病になることは無く、観音様のご利益は希有なことであったと結ばれています。
PC不調でUPが遅れて申し訳ありません。
京都の町は、ブログを書く者にとって、ある意味怖い所だと感じています。
今回もそうですが、時代が幾重にも重なって、読み手にも難しいでしょうし、書き手にも(知識不足の私は特に)大変だと思います。
しかしながら歴史は川の流れ、上流には上流の楽しみ方が、中流下流にはまた違う楽しみを与えてくれます。
肩の力を抜いて、少しずつまいりましょうか(笑)
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