松江藩松平家の菩提寺、小泉八雲も愛した!『月照寺』
久々に出雲の国を御紹介致しますo(^o^)o
出雲神仏霊場第五番札所『月照寺(げっしょうじ)』です。
松江城から西へ程近く、島根県松江市外中原町に有る「歓喜山」『月照寺』は歴代松江藩主松平家の菩提寺です。
珍しい物が幾つか有るので、お楽しみにして下さいね(#^.^#)
其では、『市郎右衛門』の日本歴史ブログをお楽しみくださいね。



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『月照寺』をご紹介するのですが、その前に松江藩の変成について少し説明します。
【松江藩と松平家の成り立ち】
豊臣政権時代、出雲は中国地方西部を領していた毛利氏の支配下で、一族の吉川広家がかつて尼子氏の居城だった月山富田城(現島根県安来市)を政庁として出雲および隠岐の2国を経営していました。
慶長5年(1600年)関ヶ原の戦いの後、毛利氏は周防・長門2国に減封となり、吉川広家も岩国に移されます。
これにより遠江国浜松で12万石を領していた堀尾忠氏が、この前年に隠居して越前国府中に5万石の隠居料を得ていた父・堀尾吉晴とともに、あらためて出雲・隠岐2国24万石で入部、ここに出雲富田藩(いずもとだはん)が立藩します。
忠氏は慶長9年(1604年)に27歳で早世、後を継いだ忠晴はまだ5歳の幼児だったことから、祖父・吉晴がその後見として事実上の藩主に返り咲くことに成ります。
吉晴は月山富田城が山城で不便を感じたため、慶長12年(1607年)から足かけ5年をかけて松江城を築城するとともにその城下町の建設を行いました。
慶長16年(1611年)に吉晴は松江城に移り、ここに松江藩が成立しましたが、吉晴はこれを見届けると間もなく死去します。
忠晴は成人したものの男子に恵まれず、寛永10年(1633年)に33歳で死去すると堀尾家は無嗣改易となりますが、堀尾氏が築いた松江は以後も政治経済の中心として栄え、今日に至っています。
結局、堀尾氏に代わって寛永11年(1634年)若狭小浜藩より京極忠高が入部しました。
京極氏は戦国時代に守護代の尼子氏に支配権を奪われる以前の出雲守護であり、故地に復帰したことになりますね。
24万石の領地に加え、公儀御料の石見銀山、石見国邇摩郡・邑智郡の計4万石を預かることとなりました。
しかしわずか3年後の寛永14年(1637年)忠高は死去しました。
死に臨み末期養子として甥の高和を立てたが認められず改易となってしまいました。
寛永15年(1638年)、結城秀康の三男・松平直政が18万6000石で信濃松本藩より転封しました(松江藩松平家初代藩主)。
以後、出雲一国は越前松平家が領する事に成りました。
また松平家は公儀御料となった隠岐1万4000石も預かることになっっています。
【結城秀康うんちく】
此処で取り上げるのもなんだと思いますが、私の大好きな武将なので、彼の戦国乱世に翻弄された、運命が不可思議で興味深いので少しお話させて下さい。
天正7年(1579年)、武田勝頼との内通疑惑から、織田信長の命令により松平信康(家康長男)が切腹させられます(近年では信康が家康と対立したために切腹させられた、ともされます)。
このため、次男である秀康は本来ならば徳川氏の後継者となるはずでした。
しかし、天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦いの後、家康と羽柴秀吉が和解するときの条件として、秀康は秀吉のもとへ養子(実際は人質)として差し出され、家康の後継者は異母弟の長松(後の徳川秀忠)と成ります。
天正12年(1584年)12月22日、元服して、羽柴の名字、および、養父・秀吉と実父・家康の名から一字ずつ取った名を与えられ、羽柴秀康と名乗ることに成ります。
秀康は天正15年(1587年)の九州征伐で初陣を果たし、豊前岩石城攻めで先鋒を務めます(続く日向国平定戦でも抜群の功績を挙げています。)。
天正16年(1588年)、豊臣姓を下賜され、天正18年(1590年)の小田原征伐、天正20年(1592年)からの文禄・慶長の役にも参加しています。
しかし天正17年(1589年)、秀吉に実子の鶴松(秀頼とは別人です)が誕生すると、秀吉は鶴松を生後4ヶ月で豊臣氏の後継者として指名され、秀康は他の秀吉の養子同様に、他家へ養子に出されることとなりました。
養子先の結城氏は下野国の守護に任命されたこともある名家、秀康は関東に下り黒田孝高の取り成しで結城晴朝の姪と婚姻して結城氏の家督および結城領11万1000石を継ぎました。
また改めて称号として羽柴姓を贈られ、官位から羽柴結城少将と呼ばれました。
パチンコやスロットをされる方は「鬼武者(蒼鬼)」で有名なのでご存知かもしれません。
その結城秀康の三男・松平直政公が生母月照院の冥福を祈って造立したのが『月照寺』です(創建:開創寛文四年「1664」)。
この地には洞雲寺(とううんじ)という禅寺がありました。
永く荒廃していましたが、松江藩松平家初代藩主・松平直政は生母の月照院の霊牌安置所として、1664年(寛文4年)に、この寺を再興します。
浄土宗の長誉を開基とし、「蒙光山(むこうさん)月照寺」と改めました。
直政は1666年(寛文6年)に江戸で死去しましたが、臨終の際に「我百年の後命終わらば此所に墳墓を築き、そこの所をば葬送の地となさん」と遺言しました。
2代藩主・綱隆は父・直政の遺命を継ぎ境内に直政の廟所を造りました(この際に山号を現在の「歓喜山」と改めました。)。
以後、9代藩主までの墓所となっています。
茶人藩主として著名な7代藩主・不昧の廟門は松江の名工・小林如泥の作によるとされ、見事な彫刻が見られます。
境内には不昧お抱えの力士であった雷電爲右衞門の碑があります(次回ご紹介します。)。
また、不昧が建てた茶室・大円庵があります。
1891年(明治24年)、松江に訪れた小泉八雲はこの寺をこよなく愛し、墓所をここに定めたいと思っていたそうです。
「松江藩主松平家墓所」として1996年(平成8年)3月29日に国の史跡に指定されました。
高真院(直政)と大円庵(治郷(不昧))の廟門は島根県の有形文化財に指定されています。
境内には宝物殿があり歴代藩主の遺品が展示されています。
また、アジサイが数多く植えられており「アジサイ寺」として開花時期には多くの観光客が訪れます。
一度でご紹介しようと思いましたが、とても無理、もう一・二度係りそうです。
本当に城下町というのは素敵な場所が多いのですね~。
いつも応援、ありがとうございますm(__)m。
歴史って本当に面白いですよね~!
今後もランキングにはこだわって良い記事をUPしたいと思いますので宜しくお願い致します(^人^)
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出雲神仏霊場第五番札所『月照寺(げっしょうじ)』です。
松江城から西へ程近く、島根県松江市外中原町に有る「歓喜山」『月照寺』は歴代松江藩主松平家の菩提寺です。
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【松江藩と松平家の成り立ち】
豊臣政権時代、出雲は中国地方西部を領していた毛利氏の支配下で、一族の吉川広家がかつて尼子氏の居城だった月山富田城(現島根県安来市)を政庁として出雲および隠岐の2国を経営していました。
慶長5年(1600年)関ヶ原の戦いの後、毛利氏は周防・長門2国に減封となり、吉川広家も岩国に移されます。
これにより遠江国浜松で12万石を領していた堀尾忠氏が、この前年に隠居して越前国府中に5万石の隠居料を得ていた父・堀尾吉晴とともに、あらためて出雲・隠岐2国24万石で入部、ここに出雲富田藩(いずもとだはん)が立藩します。
忠氏は慶長9年(1604年)に27歳で早世、後を継いだ忠晴はまだ5歳の幼児だったことから、祖父・吉晴がその後見として事実上の藩主に返り咲くことに成ります。
吉晴は月山富田城が山城で不便を感じたため、慶長12年(1607年)から足かけ5年をかけて松江城を築城するとともにその城下町の建設を行いました。
慶長16年(1611年)に吉晴は松江城に移り、ここに松江藩が成立しましたが、吉晴はこれを見届けると間もなく死去します。
忠晴は成人したものの男子に恵まれず、寛永10年(1633年)に33歳で死去すると堀尾家は無嗣改易となりますが、堀尾氏が築いた松江は以後も政治経済の中心として栄え、今日に至っています。
結局、堀尾氏に代わって寛永11年(1634年)若狭小浜藩より京極忠高が入部しました。
京極氏は戦国時代に守護代の尼子氏に支配権を奪われる以前の出雲守護であり、故地に復帰したことになりますね。
24万石の領地に加え、公儀御料の石見銀山、石見国邇摩郡・邑智郡の計4万石を預かることとなりました。
しかしわずか3年後の寛永14年(1637年)忠高は死去しました。
死に臨み末期養子として甥の高和を立てたが認められず改易となってしまいました。
寛永15年(1638年)、結城秀康の三男・松平直政が18万6000石で信濃松本藩より転封しました(松江藩松平家初代藩主)。
以後、出雲一国は越前松平家が領する事に成りました。
また松平家は公儀御料となった隠岐1万4000石も預かることになっっています。
【結城秀康うんちく】
此処で取り上げるのもなんだと思いますが、私の大好きな武将なので、彼の戦国乱世に翻弄された、運命が不可思議で興味深いので少しお話させて下さい。
天正7年(1579年)、武田勝頼との内通疑惑から、織田信長の命令により松平信康(家康長男)が切腹させられます(近年では信康が家康と対立したために切腹させられた、ともされます)。
このため、次男である秀康は本来ならば徳川氏の後継者となるはずでした。
しかし、天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦いの後、家康と羽柴秀吉が和解するときの条件として、秀康は秀吉のもとへ養子(実際は人質)として差し出され、家康の後継者は異母弟の長松(後の徳川秀忠)と成ります。
天正12年(1584年)12月22日、元服して、羽柴の名字、および、養父・秀吉と実父・家康の名から一字ずつ取った名を与えられ、羽柴秀康と名乗ることに成ります。
秀康は天正15年(1587年)の九州征伐で初陣を果たし、豊前岩石城攻めで先鋒を務めます(続く日向国平定戦でも抜群の功績を挙げています。)。
天正16年(1588年)、豊臣姓を下賜され、天正18年(1590年)の小田原征伐、天正20年(1592年)からの文禄・慶長の役にも参加しています。
しかし天正17年(1589年)、秀吉に実子の鶴松(秀頼とは別人です)が誕生すると、秀吉は鶴松を生後4ヶ月で豊臣氏の後継者として指名され、秀康は他の秀吉の養子同様に、他家へ養子に出されることとなりました。
養子先の結城氏は下野国の守護に任命されたこともある名家、秀康は関東に下り黒田孝高の取り成しで結城晴朝の姪と婚姻して結城氏の家督および結城領11万1000石を継ぎました。
また改めて称号として羽柴姓を贈られ、官位から羽柴結城少将と呼ばれました。
パチンコやスロットをされる方は「鬼武者(蒼鬼)」で有名なのでご存知かもしれません。
その結城秀康の三男・松平直政公が生母月照院の冥福を祈って造立したのが『月照寺』です(創建:開創寛文四年「1664」)。
この地には洞雲寺(とううんじ)という禅寺がありました。
永く荒廃していましたが、松江藩松平家初代藩主・松平直政は生母の月照院の霊牌安置所として、1664年(寛文4年)に、この寺を再興します。
浄土宗の長誉を開基とし、「蒙光山(むこうさん)月照寺」と改めました。
直政は1666年(寛文6年)に江戸で死去しましたが、臨終の際に「我百年の後命終わらば此所に墳墓を築き、そこの所をば葬送の地となさん」と遺言しました。
2代藩主・綱隆は父・直政の遺命を継ぎ境内に直政の廟所を造りました(この際に山号を現在の「歓喜山」と改めました。)。
以後、9代藩主までの墓所となっています。
茶人藩主として著名な7代藩主・不昧の廟門は松江の名工・小林如泥の作によるとされ、見事な彫刻が見られます。
境内には不昧お抱えの力士であった雷電爲右衞門の碑があります(次回ご紹介します。)。
また、不昧が建てた茶室・大円庵があります。
1891年(明治24年)、松江に訪れた小泉八雲はこの寺をこよなく愛し、墓所をここに定めたいと思っていたそうです。
「松江藩主松平家墓所」として1996年(平成8年)3月29日に国の史跡に指定されました。
高真院(直政)と大円庵(治郷(不昧))の廟門は島根県の有形文化財に指定されています。
境内には宝物殿があり歴代藩主の遺品が展示されています。
また、アジサイが数多く植えられており「アジサイ寺」として開花時期には多くの観光客が訪れます。
一度でご紹介しようと思いましたが、とても無理、もう一・二度係りそうです。
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