大河「真田丸」も最終盤。『後藤基次』の死亡時の詳細が判明!
大河ドラマ「真田丸」も最終盤で盛り上がっています。
以前、真田幸村が最後に祈願した『志紀長吉神社』と討死したとされる『安居神社』をご紹介しました。
今日は、先日大阪五人衆の一人『後藤又兵衛基次』の最後を克明に記載した資料が発見されましたので、ご紹介します。
最後に珍しい、ある家に保存されていた大阪冬の陣の真田丸地図、(先日、なんと松江で新しい「元禄時代ですが」で見つかった物とは別物です。)をご紹介しましょう🎵
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『志紀長吉神社』
【六文銭軍旗 (真田信繁奉納)】
赤地に黒の六文銭の旗は、あまりに有名な真田家の軍旗。
「大阪夏の陣図屏風」にも、その旗が見られる真田の赤備えとして恐れられました。
六文銭(六道銭)は三途の川の渡し賃(通行料)とされており、死者を葬る時に遺体と一緒に埋めるものでした。
真田家は家紋に六文銭を用いることで、戦闘や日頃の駆け引きであっても、死さえもいとわない、決死の覚悟を表したと言われています。
神社に奉納されている軍旗には、銃弾の穴が二つ開いていますが、伊達軍からの銃弾の跡とされています。
奉納軍旗は一般公開されています。
例年正月2・3日5月4日午前10時~午後4時
平成28年のみ毎月第3日曜日も公開しているそうですが、私が訪れたのは、第1日曜日でした(残念)。
【真田信繁が志紀長吉神社に立ち寄った大阪夏の陣の戦い】
慶長20年5月6日、大和路から大坂城に向かう幕府軍35,000を豊臣勢が迎撃した道明寺・誉田合戦が行われました。
【道明寺誉田の戦い前半】
後藤又兵衛基次が活躍した、道明寺の戦いは、慶長20年(1615年)に発生した大坂夏の陣における最終決戦の始まりといえます。
豊臣方は、大坂城が大坂冬の陣ののち堀をすべて埋められてしまったため、夏の陣では城を出て戦わざるをえない状況に落ち入ります。
幕府軍は河内方面、大和方面および紀伊方面より大坂城に迫ります。
大和方面軍の第一陣は水野勝成を先鋒大将とし、総大将松平忠輝、後見役伊達政宗など総勢34,300の兵で構成されていました。
4月30日、大坂城内では、大和口から来る幕府軍に対し、河内平野に侵入してくるところを隘路で待ち受け、先頭部隊を叩く作戦を決定します。
5月1日、豊臣軍では、後藤又兵衛基次らの前隊6,400人が、その後毛利勝永、真田信繁ら後隊12,000人が大坂城を出発します。
5月5日、河内国平野で宿営した後藤、毛利、真田らは、同日夜半に出発し、翌払暁に道明寺村付近に集結、国分村の狭隘な地で幕府軍を迎え撃つことを取り決めていました。
5月6日午前0時、後藤又兵衛基次指揮の兵2,800は平野を出発し、藤井寺を経て夜明け前に道明寺に到着しました。
しかし、他に誰もまだ(後隊はおろか前隊さえも)到着していないばかりか、幕府軍が既に国分村に展開していることを知ります。
作戦が既に破綻していることを確認した後藤又兵衛は、石川を渡り小松山(現在の玉手山公園一帯)に登り陣を構えます。
幕府軍は小松山に敵が布陣していることに気が付き、包囲殲滅作戦を取ります。
午前4時、後藤又兵衛が松倉重政、奥田忠次勢に対し攻撃を仕掛けて、初戦の幕が切って落とされます。
奥田は戦死、松倉勢も崩れかかりますが、水野勝成、堀直寄の来援により、かろうじて助かります。
小松山を包囲した幕府軍は、伊達政宗、松平忠明らが激しい銃撃を加え、小松山にとりつこうとします。
後藤勢は、次々に新手を繰り出す幕府軍を数度にわたり撃退したが、数の力の前に、それも限界となります。
後藤又兵衛は負傷者らを後方に下げ、小松山を下り、幕府軍に最後の突撃を敢行します。
敵数隊を撃退するも丹羽氏信勢に側面を衝かれ立ち往生し、さらに伊達勢の銃撃により後藤又兵衛基次は被弾してしまいました。
正午頃、約8時間もの激闘の末、後藤は戦死、後藤隊も壊滅しました。
さてこの後藤又兵衛基次の戦死についての詳細な資料が発見されましたので、ご報告いたします。
【後藤又兵衛基次の最後】
岡山県立博物館は、10月夏の陣で後藤又兵衛が撃ちち死にしたことを配下の武士が豊臣秀頼に報告した書付が京都府内で見つかったと発表しました。
又兵衛は黒田官兵衛に仕えた後京都で浪人生活を送り、大阪夏の陣、道明寺の戦いで戦死します。
見つかったのは「後藤又兵衛討死之時」とする文面。
腰に重傷を負った又兵衛は敵に自分の首を取られないよう、部下に自分の首を討たせたが、書置きでは、その際に秀頼から授かった「行光」が使われていたことが初めてわかりました。
また秀頼に又兵衛の首を持参できなかったため、又兵衛の指物(刀か旗)の「かえり半月」を討ち死にした証拠として秀頼に渡したことが記されていました。
【道明寺誉田の戦い後半】
このころになって前隊の残り、薄田兼相、明石全登、山川賢信らが道明寺に到着し、幕府軍を迎え撃ちます。
薄田は自ら太刀を振るい奮戦しましたが戦死、残余の部隊は誉田(こんだ)村方面に後退します。
そこへ後隊の毛利勝永が道明寺に到着、真田信繁らは後退してきた兵を収容し誉田村付近に着陣します。
伊達勢の片倉小十郎重長は、真田勢を見るとこれに攻め寄せます。
片倉は部隊を前後2隊に分け、左右に鉄砲隊を展開させて攻撃します。
これに対し真田勢も鉄砲で応戦しつつ、兵を伏せ片倉勢の接近を待って迎え撃ちます。
片倉自身が馬上4騎を切り伏せたり、渡辺糺は負傷するなど激戦が展開されたが、真田勢が伊達勢を道明寺辺りまで押し込んだ後、真田信繁自身は藤井寺まで後退し、毛利勢と合流しました。
幕府軍は道明寺から誉田の辺りで陣を建て直し、豊臣軍は藤井寺から誉田の西にかけて布陣、両軍が対峙し、にらみ合いの状態になります。
午後2時半頃、大坂城から八尾・若江の敗報と退却の命令が豊臣軍に伝えられた。
豊臣軍は真田隊を殿軍とし、午後4時過ぎから順次天王寺方面へ撤退を開始し、水野勝成は追撃を主張したが、諸将は兵の疲労を理由に応じなかったとされます。
【何故真田信繁以下豊臣軍は遅参したのか?】
後藤又兵衛基次の部隊のみが予定通りの作戦行動が行え、他の各部隊がことごとく驚くべき遅参をしてしまった原因については、
濃霧で出立時刻を誤った。
寄せ集めの部隊だったため濃霧中や夜間では兵が分散してしまい行軍が上手く行えなかった。
もともと後藤勢は、後続が布陣するまでの遅滞戦術を行う作戦だった。
など諸説あ在ります。
道明寺合戦では真田信繁(幸村)は、退却時のしんがりを務めます。
そのとき残した言葉がとても有名ですね!「関東勢百万と候へ、男はひとりもなく候」 意味は(関東武者は百万居ても、男子は一人も居ないものだな) 。
徳川軍を嘲笑し悠然と去って行ったといわれています。
男前ですね~(*^^*)
ただ、伊達家の片倉重長にはなにかしら感じる所が有ったのか、その日の夜に長女、次男以外数名の子供たちを、信頼して送り届けています。長女阿梅(おうめ) は片倉重長の後添いと成っていますし、次男は伊達家で真田の姓を名乗っています(信繁の血脈も現在まで続いたということですね)。
ここで、少し大阪夏の陣の豊臣軍最後の作戦についてお話します。冬の陣の結果大阪城の堀割は全て(本丸周り以外)埋められてしまったために、豊臣軍は少数(三分の一ともいわれています)にもかかわらずらず野戦を余儀なくされます。
真田丸が取り崩され、廃棄せざるを得なかった信繁は、冬の陣で徳川家康が本陣としていた、茶臼山を第二の真田丸として整備します。
元々、茶臼山自体が古墳であり水堀も有りますし、家康が本陣と定めた位ですから、陣地としては打ってつけの場所であったと考えられます。
しかしながら、豊臣軍は前日6月7日の道明寺の戦いで、善戦はしたものの 多勢に無勢の上に、連携の不備や天候(濃霧で集合時間がずれてしまった)までもが裏目に出て敗北してしまいます。
後藤又兵衛基次、薄田兼相らを失ってしまった豊臣軍は、士気を鼓舞するため豊臣秀頼の出馬を強く願うと同時に、決死の作戦に出ます。
真田信繁(幸村)は大野治房・明石全登・毛利勝永らと共に作戦を立案します。
それは、右翼として真田隊を茶臼山へ、左翼として毛利隊を四天王寺付近に布陣し、射撃戦と突撃を繰り返して、徳川軍をおびき寄せて、家康の本陣を孤立させた上で、明石全登の軽騎兵団を迂回待機させ、合図と共にこれを側面から突撃させるという作戦だったと、されているます。
経過は、毛利勝永隊が先に戦闘を始めてしまったために、十分に徳川軍をおびき寄せることができずに、信繁は家康本隊だけに、的を絞った突撃戦を決行することになってしまいます。
しかしながら、先に銃撃を仕掛け戦闘を始めた毛利勝永は、先手を打った勢いに乗り、徳川軍先鋒大将の本多忠朝勢を壊滅させ、忠朝を討ち取り一番手を突破します。
また毛利勝永隊に追随して前進して来た木村重成(惜しむらく、前日の八尾・若江合戦で打死にしています)の残余兵である木村宗明らが、本多勢の救援に駆けつけた小笠原秀政、小笠原忠脩勢を側面から攻撃。この不意打ちで忠脩は討死、秀政は重傷を負い戦場離脱しますが、後に死亡しています。
残る二番手の榊原康勝・仙石忠政・諏訪忠澄の三隊も暫く持ち堪えるものの混乱に巻き込まれ崩壊、これらの敗兵がなだれ込んだ三番手も、同様の事態に陥り、徳川家康本陣は丸出しとなります。
信繁は、自隊を先鋒・次鋒・本隊など数段に分け、天王寺口の松平忠直隊と一進一退の激戦を続けていましたが、「紀州(浅野長晟)が裏切った」という虚報(真田忍軍が幕府軍に紛れて発したともいわれます)に松平勢が動揺するのに乗じて突破をはかると、毛利隊などに苦戦する徳川家康の本陣へ強行突破を図り、三度に渡り本陣へ猛突撃を加えました。
この乾坤一擲の攻勢に、家康本陣は恐慌状態に陥り、後退を余儀なくされます。
三方ヶ原の戦い以降一度も倒れたことのない家康の馬印も倒れたと記録されています。さらに騎馬で逃げる家康自身も切腹を幾度もなく口走ったといわれます(一説には平野方面に逃げたと言われています)。また、旗本の中には三里も逃げたものがいたとも言われています。
しかしながら、死力を尽くした信繁の突撃も最後には力尽きて、この安居神社で休んでいるところを発見されて、打ち取られたとされています。
最後にお約束の新古地図「大阪冬の陣陣立て図」の一部です。
まずこの図面写真を見て頂きましょう。
大阪冬の陣の一部!真田丸です!

少し説明がいるのですが、20年ほど前に偶然入手したものです。
デジタルカメラではなかったので、美しい写真ではありません(その上スキャン取り込みなので余計です)。
大阪冬の陣で、真田丸の一番近くのに布陣していた南部家(陣立てでは真田丸の右側で対陣しています。)、南部の殿様、南部利直(前田利家が烏帽子親なので利の一時を貰っています。)側近の新渡戸家(旧五千円札の新渡戸稲造の御先祖です)に伝わっていた物の中に紛れていたようです。
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『志紀長吉神社』
【六文銭軍旗 (真田信繁奉納)】
赤地に黒の六文銭の旗は、あまりに有名な真田家の軍旗。
「大阪夏の陣図屏風」にも、その旗が見られる真田の赤備えとして恐れられました。
六文銭(六道銭)は三途の川の渡し賃(通行料)とされており、死者を葬る時に遺体と一緒に埋めるものでした。
真田家は家紋に六文銭を用いることで、戦闘や日頃の駆け引きであっても、死さえもいとわない、決死の覚悟を表したと言われています。
神社に奉納されている軍旗には、銃弾の穴が二つ開いていますが、伊達軍からの銃弾の跡とされています。
奉納軍旗は一般公開されています。
例年正月2・3日5月4日午前10時~午後4時
平成28年のみ毎月第3日曜日も公開しているそうですが、私が訪れたのは、第1日曜日でした(残念)。
(神社のHPからお借りしました)
【真田信繁が志紀長吉神社に立ち寄った大阪夏の陣の戦い】
慶長20年5月6日、大和路から大坂城に向かう幕府軍35,000を豊臣勢が迎撃した道明寺・誉田合戦が行われました。
【道明寺誉田の戦い前半】
後藤又兵衛基次が活躍した、道明寺の戦いは、慶長20年(1615年)に発生した大坂夏の陣における最終決戦の始まりといえます。
豊臣方は、大坂城が大坂冬の陣ののち堀をすべて埋められてしまったため、夏の陣では城を出て戦わざるをえない状況に落ち入ります。
幕府軍は河内方面、大和方面および紀伊方面より大坂城に迫ります。
大和方面軍の第一陣は水野勝成を先鋒大将とし、総大将松平忠輝、後見役伊達政宗など総勢34,300の兵で構成されていました。
4月30日、大坂城内では、大和口から来る幕府軍に対し、河内平野に侵入してくるところを隘路で待ち受け、先頭部隊を叩く作戦を決定します。
5月1日、豊臣軍では、後藤又兵衛基次らの前隊6,400人が、その後毛利勝永、真田信繁ら後隊12,000人が大坂城を出発します。
5月5日、河内国平野で宿営した後藤、毛利、真田らは、同日夜半に出発し、翌払暁に道明寺村付近に集結、国分村の狭隘な地で幕府軍を迎え撃つことを取り決めていました。
5月6日午前0時、後藤又兵衛基次指揮の兵2,800は平野を出発し、藤井寺を経て夜明け前に道明寺に到着しました。
しかし、他に誰もまだ(後隊はおろか前隊さえも)到着していないばかりか、幕府軍が既に国分村に展開していることを知ります。
作戦が既に破綻していることを確認した後藤又兵衛は、石川を渡り小松山(現在の玉手山公園一帯)に登り陣を構えます。
幕府軍は小松山に敵が布陣していることに気が付き、包囲殲滅作戦を取ります。
午前4時、後藤又兵衛が松倉重政、奥田忠次勢に対し攻撃を仕掛けて、初戦の幕が切って落とされます。
奥田は戦死、松倉勢も崩れかかりますが、水野勝成、堀直寄の来援により、かろうじて助かります。
小松山を包囲した幕府軍は、伊達政宗、松平忠明らが激しい銃撃を加え、小松山にとりつこうとします。
後藤勢は、次々に新手を繰り出す幕府軍を数度にわたり撃退したが、数の力の前に、それも限界となります。
後藤又兵衛は負傷者らを後方に下げ、小松山を下り、幕府軍に最後の突撃を敢行します。
敵数隊を撃退するも丹羽氏信勢に側面を衝かれ立ち往生し、さらに伊達勢の銃撃により後藤又兵衛基次は被弾してしまいました。
正午頃、約8時間もの激闘の末、後藤は戦死、後藤隊も壊滅しました。
さてこの後藤又兵衛基次の戦死についての詳細な資料が発見されましたので、ご報告いたします。
【後藤又兵衛基次の最後】
岡山県立博物館は、10月夏の陣で後藤又兵衛が撃ちち死にしたことを配下の武士が豊臣秀頼に報告した書付が京都府内で見つかったと発表しました。
又兵衛は黒田官兵衛に仕えた後京都で浪人生活を送り、大阪夏の陣、道明寺の戦いで戦死します。
見つかったのは「後藤又兵衛討死之時」とする文面。
腰に重傷を負った又兵衛は敵に自分の首を取られないよう、部下に自分の首を討たせたが、書置きでは、その際に秀頼から授かった「行光」が使われていたことが初めてわかりました。
また秀頼に又兵衛の首を持参できなかったため、又兵衛の指物(刀か旗)の「かえり半月」を討ち死にした証拠として秀頼に渡したことが記されていました。
【道明寺誉田の戦い後半】
このころになって前隊の残り、薄田兼相、明石全登、山川賢信らが道明寺に到着し、幕府軍を迎え撃ちます。
薄田は自ら太刀を振るい奮戦しましたが戦死、残余の部隊は誉田(こんだ)村方面に後退します。
そこへ後隊の毛利勝永が道明寺に到着、真田信繁らは後退してきた兵を収容し誉田村付近に着陣します。
伊達勢の片倉小十郎重長は、真田勢を見るとこれに攻め寄せます。
片倉は部隊を前後2隊に分け、左右に鉄砲隊を展開させて攻撃します。
これに対し真田勢も鉄砲で応戦しつつ、兵を伏せ片倉勢の接近を待って迎え撃ちます。
片倉自身が馬上4騎を切り伏せたり、渡辺糺は負傷するなど激戦が展開されたが、真田勢が伊達勢を道明寺辺りまで押し込んだ後、真田信繁自身は藤井寺まで後退し、毛利勢と合流しました。
幕府軍は道明寺から誉田の辺りで陣を建て直し、豊臣軍は藤井寺から誉田の西にかけて布陣、両軍が対峙し、にらみ合いの状態になります。
午後2時半頃、大坂城から八尾・若江の敗報と退却の命令が豊臣軍に伝えられた。
豊臣軍は真田隊を殿軍とし、午後4時過ぎから順次天王寺方面へ撤退を開始し、水野勝成は追撃を主張したが、諸将は兵の疲労を理由に応じなかったとされます。
【何故真田信繁以下豊臣軍は遅参したのか?】
後藤又兵衛基次の部隊のみが予定通りの作戦行動が行え、他の各部隊がことごとく驚くべき遅参をしてしまった原因については、
濃霧で出立時刻を誤った。
寄せ集めの部隊だったため濃霧中や夜間では兵が分散してしまい行軍が上手く行えなかった。
もともと後藤勢は、後続が布陣するまでの遅滞戦術を行う作戦だった。
など諸説あ在ります。
道明寺合戦では真田信繁(幸村)は、退却時のしんがりを務めます。
そのとき残した言葉がとても有名ですね!「関東勢百万と候へ、男はひとりもなく候」 意味は(関東武者は百万居ても、男子は一人も居ないものだな) 。
徳川軍を嘲笑し悠然と去って行ったといわれています。
男前ですね~(*^^*)
ただ、伊達家の片倉重長にはなにかしら感じる所が有ったのか、その日の夜に長女、次男以外数名の子供たちを、信頼して送り届けています。長女阿梅(おうめ) は片倉重長の後添いと成っていますし、次男は伊達家で真田の姓を名乗っています(信繁の血脈も現在まで続いたということですね)。
ここで、少し大阪夏の陣の豊臣軍最後の作戦についてお話します。冬の陣の結果大阪城の堀割は全て(本丸周り以外)埋められてしまったために、豊臣軍は少数(三分の一ともいわれています)にもかかわらずらず野戦を余儀なくされます。
真田丸が取り崩され、廃棄せざるを得なかった信繁は、冬の陣で徳川家康が本陣としていた、茶臼山を第二の真田丸として整備します。
元々、茶臼山自体が古墳であり水堀も有りますし、家康が本陣と定めた位ですから、陣地としては打ってつけの場所であったと考えられます。
しかしながら、豊臣軍は前日6月7日の道明寺の戦いで、善戦はしたものの 多勢に無勢の上に、連携の不備や天候(濃霧で集合時間がずれてしまった)までもが裏目に出て敗北してしまいます。
後藤又兵衛基次、薄田兼相らを失ってしまった豊臣軍は、士気を鼓舞するため豊臣秀頼の出馬を強く願うと同時に、決死の作戦に出ます。
真田信繁(幸村)は大野治房・明石全登・毛利勝永らと共に作戦を立案します。
それは、右翼として真田隊を茶臼山へ、左翼として毛利隊を四天王寺付近に布陣し、射撃戦と突撃を繰り返して、徳川軍をおびき寄せて、家康の本陣を孤立させた上で、明石全登の軽騎兵団を迂回待機させ、合図と共にこれを側面から突撃させるという作戦だったと、されているます。
経過は、毛利勝永隊が先に戦闘を始めてしまったために、十分に徳川軍をおびき寄せることができずに、信繁は家康本隊だけに、的を絞った突撃戦を決行することになってしまいます。
しかしながら、先に銃撃を仕掛け戦闘を始めた毛利勝永は、先手を打った勢いに乗り、徳川軍先鋒大将の本多忠朝勢を壊滅させ、忠朝を討ち取り一番手を突破します。
また毛利勝永隊に追随して前進して来た木村重成(惜しむらく、前日の八尾・若江合戦で打死にしています)の残余兵である木村宗明らが、本多勢の救援に駆けつけた小笠原秀政、小笠原忠脩勢を側面から攻撃。この不意打ちで忠脩は討死、秀政は重傷を負い戦場離脱しますが、後に死亡しています。
残る二番手の榊原康勝・仙石忠政・諏訪忠澄の三隊も暫く持ち堪えるものの混乱に巻き込まれ崩壊、これらの敗兵がなだれ込んだ三番手も、同様の事態に陥り、徳川家康本陣は丸出しとなります。
信繁は、自隊を先鋒・次鋒・本隊など数段に分け、天王寺口の松平忠直隊と一進一退の激戦を続けていましたが、「紀州(浅野長晟)が裏切った」という虚報(真田忍軍が幕府軍に紛れて発したともいわれます)に松平勢が動揺するのに乗じて突破をはかると、毛利隊などに苦戦する徳川家康の本陣へ強行突破を図り、三度に渡り本陣へ猛突撃を加えました。
この乾坤一擲の攻勢に、家康本陣は恐慌状態に陥り、後退を余儀なくされます。
三方ヶ原の戦い以降一度も倒れたことのない家康の馬印も倒れたと記録されています。さらに騎馬で逃げる家康自身も切腹を幾度もなく口走ったといわれます(一説には平野方面に逃げたと言われています)。また、旗本の中には三里も逃げたものがいたとも言われています。
しかしながら、死力を尽くした信繁の突撃も最後には力尽きて、この安居神社で休んでいるところを発見されて、打ち取られたとされています。
最後にお約束の新古地図「大阪冬の陣陣立て図」の一部です。
まずこの図面写真を見て頂きましょう。
大阪冬の陣の一部!真田丸です!

少し説明がいるのですが、20年ほど前に偶然入手したものです。
デジタルカメラではなかったので、美しい写真ではありません(その上スキャン取り込みなので余計です)。
大阪冬の陣で、真田丸の一番近くのに布陣していた南部家(陣立てでは真田丸の右側で対陣しています。)、南部の殿様、南部利直(前田利家が烏帽子親なので利の一時を貰っています。)側近の新渡戸家(旧五千円札の新渡戸稲造の御先祖です)に伝わっていた物の中に紛れていたようです。
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