織田信長の子孫は?子孫転々!篠山市二つ目の「建勲神社」
今日は、日本に三つしかないといわれている、「建勲神社」のうちの一つ、兵庫県丹波市柏原に在る「建勲神社」を偶然に?作為的じゃ無いですよ❗
実はこの日、何かしらイベントは無いかと車を走らせておりましたら、私の好きな丹波布の展示会があることを知りまして、訪ねてみることにしました。
更に偶然なことに、お友達の丹波布作家の「イラズムス千尋」さんもいらっしゃって更に驚いたのですが、少し前に先輩ブロガーさんが柏原の建勲神社のお話をUPされていたので、「あれ~?」もしかしてこれか!となったわけです。
本当に偶然ですが、せっかくなのでご紹介しましょう。
ついでといっては失礼ですが素敵な丹波布もご覧ください。
「市郎右衛門」の日本歴史ブログをお楽しみください。




六男【織田信秀】
1571年生まれまれ、信長から美濃国揖斐地方に所領を与えられていたようです。
1582年本能寺の変が起きた時は美濃の仏照寺に逃れて事なきを得たようです。
清州会議後、近江国栗太郡へと所領を移され、1583年に元服し名を信秀と名乗るようになります。
秀吉が権力を握ると稲葉良通の口添えで秀吉の家臣となり1585年、羽柴姓を与えられます。
その後豊臣姓も与えられています。
キリスト教徒で1587年の九州征伐の際にはロザリオをつけて出陣したそうです。
晩年は剃髪し浦坊を号しました(キリスト様は?)。
七男【織田信高】
1576年織田信長の七男として生まれました。
1582年の本能寺の変で信長が自害すると、氏家行広に預けられ養育されます。
1585年兄・織田信秀が羽柴姓を与えられた際に仲介してもらい豊臣秀吉に仕えました。
1591年には自らも羽柴姓を与えられ、羽柴藤十郎と名乗りました。
1600年関ヶ原の闘いにおいては『関原軍記大成』などに、弟信吉・信貞らとともに西軍に属したが戦後赦免されたとされる。
1603年12月12日、死去。
享年28歳。
1616年(元和2年)1月、信高の嫡男高重は幕臣として召し出されて近江・安房に2000石を与えられた。
高重の孫信門は高家となり、以後、同家は明治維新まで高家旗本として存続しました。
因みに、アイススケートの織田信成君も彼の末裔に成りますね~(^^)d
八男【織田信吉】
1573年に織田信長と側室お鍋の方の間に生まれました。
七男の信高の方が3年遅く生まれていますが、織田家中の席次が信高の方が上であるため便宜上信高が兄とされています。
本能寺の変後、母お鍋の方(興雲院)とともに小倉にて蟄居していましたが、1583年に羽柴秀吉により召し出され、羽柴姓と武蔵守の官、近江国に2000石の所領を与えられています。
1600年の関ヶ原の戦いでは西軍につき弟の長次と共に平塚為広勢に加わりました。
本戦では同陣の諸将が討ち死にする中、脱出に成功。
戦後は豊臣家を頼り大阪城下で暮らしました。
晩年は剃髪し京都で暮らしていましたが、1615年死去。享年43歳。
九男【織田信貞】
1574年に生まれたとされています。
1582年信長が本能寺の変で死去したため埴原長久に養育されたようです。
埴原は信長の死後、次男の信雄に仕えていました。
1600年、関ヶ原の戦いでは西軍を支持し伏見城攻めに参加しました。
1614年の大阪の陣の際は徳川方として従軍、功績をあげました。
1624年6月6日死去。
享年51歳。
十男【織田信好】
1582年の本能寺の変が起きた時はまだ幼かったため、秀吉に引き取られ家臣になりました。
茶人だったようです。
1609年7月14日死去。
十一男【織田長次】
生年は不詳で1574年~1582年の間だと言われています。
謎が多く1582年本能寺の変で信長が自害した後は羽柴秀吉の馬廻になったそうですが、豊臣時代のその後は不明です。
1600年の関ヶ原の戦いでは西軍を支持し、信長の八男の兄信吉とともに平塚為広勢に加わり戦いました。
しかし、9月15日の本戦で所属していた大谷軍が壊滅し、為広らとともに戦死しました。
戦国の習いといえばそれまでですが、どの戦場でも各々の立場で戦っていますね。
関ヶ原の戦いでは東軍・西軍に兄弟も分かれて闘わざるを得なくなっています。
生まれた時には、自分の父親が最高の権力者でした。
その後は次々と変わる、権力や時代にほんろうされながらも、精一杯の人生を歩んだのでしょう。
名門ゆえの苦悩を感じざるを得ませんね。
いつも応援、ありがとうございますm(__)m。
歴史って本当に面白いですよね~!
今後もランキングにはこだわって良い記事をUPしたいと思いますので宜しくお願い致します(^人^)
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実はこの日、何かしらイベントは無いかと車を走らせておりましたら、私の好きな丹波布の展示会があることを知りまして、訪ねてみることにしました。
更に偶然なことに、お友達の丹波布作家の「イラズムス千尋」さんもいらっしゃって更に驚いたのですが、少し前に先輩ブロガーさんが柏原の建勲神社のお話をUPされていたので、「あれ~?」もしかしてこれか!となったわけです。
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さて柏原の「建勲神社」をご紹介するのですが...
兵庫県丹波市柏原(かいばら)は織田家以外の大名はいませんでしたが、一家支配というわけではなく、前期織田家として織田信包が三代(織田信秀「信長の父」の三男、ちなみに次男信行は信長に殺害されています。本来は先に生まれた本当の長男といえる信広がいますが正妻の子ではないので信長を長男としています。)続き、後期織田家(織田信長の二男の織田信雄の子孫)に分かれ、系統が違います(織田家⇒天領⇒織田家ですね)。
織田家の血筋を引く大名家は、織田信長の二男の織田信雄の系統と、信長の弟、有楽斎織田長益の系統が、結果的には明治まで残ります(大河ドラマでは井上順さんが悪い役をこなしてます。)。
当初は、信長の三弟(本来は四弟)の織田信包が残っていました。
しかしこの織田信包家は、三代継ぐが無嗣絶家となってしまいました。
戦国時代に覇を唱え!天下布武の旗印の下、天下統一迄後一歩としながら、散っていった織田信長。
信長には彼を支えた妻たちと側室たちが生んだ子供が幾人もいました。
信長亡き後、彼の遺伝子を受け継ぐ子供たちが、どんな運命をたどったのか知りたく無い方はおられませんよね!
今回は信長が亡くなった本能寺の変の後の、織田信長の子供たちとその子孫について少しお話しましょう。
織田信長には血縁関係不明瞭な子も含めて男女合わせて20人を越える子供が居るようですが、今回は男子のをみ対象とさせて頂きましょう(^人^)。
まず長男【織田信忠】
織田信長の嫡男として生まれた信忠は、生まれながらにして信長の家督を継ぐことが決まっていました。
1576年11月には信長から織田家の家督を生前相続し、本能寺の変の際には信長と共に備中高松城攻めをしている羽柴秀吉の援軍に向かうべく京都の妙覚寺に滞在しており、明智光秀による謀反を知ると本能寺へ救助に走ります。
途中信長自害の報を受け二条御所に移動します。
誠仁親王を脱出させるとわずかな兵と共に籠城し善戦しましたが、明智軍の伊勢貞興に攻め込まれ自害しています。
享年26歳。
次男【織田信雄】
1558年に生駒屋敷にて生まれました。1569年に父・信長と北畠家の和睦条件として北畠具房の養嗣子になり、具房の妹・雪姫と結婚。
1572年、元服し北畠家の家督を相続します。
本能寺の変の折には近江国甲賀郡まで進軍しましたが戦わないまま撤退します。
兄・信忠亡き後清州会議において織田家の後継者一番手と言えますが、秀吉の策略も有り、当主候補にされることはありませんでした。
この時の不遇が、逆に彼の血脈を今日迄保った理由と言えますね。
1583年、秀吉と信孝・柴田勝家が争った賤ヶ岳の戦いでは秀吉方につき、信孝を岐阜城に攻め降伏させ、信孝は尾張に送られ自害します。
三法師(信忠の嫡男)の後見人として安土城へ入城しましたが、秀吉に退去させられ、妹徳姫(徳川家康嫡男信康正室)の縁をたどり徳川家康に接近します。
その後もことあるごとに徳川と豊臣の間を行き来し戦国時代を上手く乗り切った一人と言えないでしょうか?
1630年4月30日京都北野邸で死去。
享年73歳。
三男【織田信孝】
1558年尾張衆岡本良勝の屋敷で生まれたとされます。
1568年、信長が伊勢国を平定した際、降伏した神戸(こうべじゃなくてかんべです。)城主、神戸具盛の養子となり、信長によって具盛が隠居させられた後の1572年に神戸氏の家督を相続します。
相続後は神戸検地と呼ばれる検地をおこない、城下には楽市楽座をしき、領地経営に力を注ぎました。
そのため神戸は伊勢神宮参拝の街道宿場町として大いに栄えたということです。
1582年5月から丹羽秀永と共に、四国攻めの準備をしており、本能寺の変の際は堺にて渡海の準備をしていました。
本能寺の変が勃発した際は逃亡兵が後を絶たず、積極的な行動には出られなかったため明智光秀の娘婿で四国攻めの副将を命じられていた従兄弟の津田信澄を自害に追い込んでいます。
山崎の戦いでは名目上の総大将になり明智光秀を撃破、後の清州会議では信忠の後を継いだ三法師の後見人になり、信忠の領地であった美濃国を与えられました。
その後、秀吉と対立していた柴田勝家に接近し勝家とお市の方の婚儀を仲介しますが、12月秀吉が信孝に向けて挙兵し岐阜城を囲まれてしまいます。
信孝は降伏せざるを得なくなり、母と娘を人質に取られ、三法師を秀吉に引き渡すことに成りました。
1583年賤ヶ岳の戦いが起きると信孝は再度挙兵します。
しかし、信雄に岐阜城を囲まれ、柴田勝家が北ノ庄城で自害すると岐阜城を開城し降伏。
信孝は尾張国の大御堂で自害させられました。
享年26歳。
信孝の子孫として側室・小妻氏と信孝の子である織田信豊の次男・織田信国の子孫だという川上家が現存しているようです。
四男【羽柴秀勝】
織田信長の四男として1568年に生まれました。
1576年10月側室との間に生まれた石松丸秀勝を亡くした秀吉が織田家に主家との養子縁組を願い出たため、四男の於次丸秀勝は羽柴秀吉の後継者になるために養子になりました。
残虐非道が信長のイメージですが意外と血族を優遇していたことから、秀吉が自分の地位を擁護するためだったと言われます。
1582年3月8日信長の命で秀吉が中国征伐に出征し備中を攻める際にはそれに従って17日の備前児島・常山城攻めで初陣を果たします。
4月からの高松城攻めにも参加。
6月2日の本能寺の変で信長が自害したのちは秀吉の中国大返しに同行。
信長の四男として山崎の戦いに参加、異母兄信孝と共に弔い合戦の旗印となりました。
秀吉が信長の葬儀を出すときの喪主となった事でも有名ですね。
信長の後継者を決める清州会議では秀吉が信長の孫である三法師を推したため後継者候補にはなりませんでした。
織田領の再分配により於次丸秀勝は丹波亀山城の城主となりました。
1583年賤ヶ岳の戦いにも参加し、1585年には正三位・権中納言にまでなりますが病に倒れ、1585年12月10日、母養観院に看取られながら、丹波亀山城で死去しました。
享年18歳。
五男【織田勝長】
勝長は岩村城主遠山景任の未亡人で織田信長の叔母であるおつやの方の養子になりました。
それは景任が嗣子がないまま死去してしまったため、遠山氏を継がせるためにおつやの方が信長に頼み込んだためといわれます。
1572年11月、甲斐の武田信玄が美濃国へ侵攻してきた際、武田の家臣・秋山虎繁に攻められ岩村城は降伏、武田の居城となってしまいます。
おつやの方は岩村城代となった虎繁を夫とし武田方との和議を結びました。
その際に勝長は甲斐国へ人質として送られ、信玄の養子になります。
これに激怒した信長は後年岩村城を奪回した際に秋山虎繁とおつやの方を逆さ磔にしています。
1581年11月、武田勝頼によって勝長は送還され同年元服。
尾張国犬山城主となります。
その後は兄・信忠の与力として活躍しますが、本能寺の変で信忠と共に明智光秀の軍勢に攻め込まれ二条御所にて奮戦するも討死しています。
五男までは有名で?私も知っておりました。
六男以下は調べはしましたがあまり印象には残りません。
ここらへんで柏原「建勲神社」をご紹介しましょう。
さて柏原の「建勲神社」をご紹介するのですが...
兵庫県丹波市柏原(かいばら)は織田家以外の大名はいませんでしたが、一家支配というわけではなく、前期織田家として織田信包が三代(織田信秀「信長の父」の三男、ちなみに次男信行は信長に殺害されています。本来は先に生まれた本当の長男といえる信広がいますが正妻の子ではないので信長を長男としています。)続き、後期織田家(織田信長の二男の織田信雄の子孫)に分かれ、系統が違います(織田家⇒天領⇒織田家ですね)。
織田家の血筋を引く大名家は、織田信長の二男の織田信雄の系統と、信長の弟、有楽斎織田長益の系統が、結果的には明治まで残ります(大河ドラマでは井上順さんが悪い役をこなしてます。)。
当初は、信長の三弟(本来は四弟)の織田信包が残っていました。
しかしこの織田信包家は、三代継ぐが無嗣絶家となってしまいました。
戦国時代に覇を唱え!天下布武の旗印の下、天下統一迄後一歩としながら、散っていった織田信長。
信長には彼を支えた妻たちと側室たちが生んだ子供が幾人もいました。
信長亡き後、彼の遺伝子を受け継ぐ子供たちが、どんな運命をたどったのか知りたく無い方はおられませんよね!
今回は信長が亡くなった本能寺の変の後の、織田信長の子供たちとその子孫について少しお話しましょう。
織田信長には血縁関係不明瞭な子も含めて男女合わせて20人を越える子供が居るようですが、今回は男子のをみ対象とさせて頂きましょう(^人^)。
まず長男【織田信忠】
織田信長の嫡男として生まれた信忠は、生まれながらにして信長の家督を継ぐことが決まっていました。
1576年11月には信長から織田家の家督を生前相続し、本能寺の変の際には信長と共に備中高松城攻めをしている羽柴秀吉の援軍に向かうべく京都の妙覚寺に滞在しており、明智光秀による謀反を知ると本能寺へ救助に走ります。
途中信長自害の報を受け二条御所に移動します。
誠仁親王を脱出させるとわずかな兵と共に籠城し善戦しましたが、明智軍の伊勢貞興に攻め込まれ自害しています。
享年26歳。
次男【織田信雄】
1558年に生駒屋敷にて生まれました。1569年に父・信長と北畠家の和睦条件として北畠具房の養嗣子になり、具房の妹・雪姫と結婚。
1572年、元服し北畠家の家督を相続します。
本能寺の変の折には近江国甲賀郡まで進軍しましたが戦わないまま撤退します。
兄・信忠亡き後清州会議において織田家の後継者一番手と言えますが、秀吉の策略も有り、当主候補にされることはありませんでした。
この時の不遇が、逆に彼の血脈を今日迄保った理由と言えますね。
1583年、秀吉と信孝・柴田勝家が争った賤ヶ岳の戦いでは秀吉方につき、信孝を岐阜城に攻め降伏させ、信孝は尾張に送られ自害します。
三法師(信忠の嫡男)の後見人として安土城へ入城しましたが、秀吉に退去させられ、妹徳姫(徳川家康嫡男信康正室)の縁をたどり徳川家康に接近します。
その後もことあるごとに徳川と豊臣の間を行き来し戦国時代を上手く乗り切った一人と言えないでしょうか?
1630年4月30日京都北野邸で死去。
享年73歳。
三男【織田信孝】
1558年尾張衆岡本良勝の屋敷で生まれたとされます。
1568年、信長が伊勢国を平定した際、降伏した神戸(こうべじゃなくてかんべです。)城主、神戸具盛の養子となり、信長によって具盛が隠居させられた後の1572年に神戸氏の家督を相続します。
相続後は神戸検地と呼ばれる検地をおこない、城下には楽市楽座をしき、領地経営に力を注ぎました。
そのため神戸は伊勢神宮参拝の街道宿場町として大いに栄えたということです。
1582年5月から丹羽秀永と共に、四国攻めの準備をしており、本能寺の変の際は堺にて渡海の準備をしていました。
本能寺の変が勃発した際は逃亡兵が後を絶たず、積極的な行動には出られなかったため明智光秀の娘婿で四国攻めの副将を命じられていた従兄弟の津田信澄を自害に追い込んでいます。
山崎の戦いでは名目上の総大将になり明智光秀を撃破、後の清州会議では信忠の後を継いだ三法師の後見人になり、信忠の領地であった美濃国を与えられました。
その後、秀吉と対立していた柴田勝家に接近し勝家とお市の方の婚儀を仲介しますが、12月秀吉が信孝に向けて挙兵し岐阜城を囲まれてしまいます。
信孝は降伏せざるを得なくなり、母と娘を人質に取られ、三法師を秀吉に引き渡すことに成りました。
1583年賤ヶ岳の戦いが起きると信孝は再度挙兵します。
しかし、信雄に岐阜城を囲まれ、柴田勝家が北ノ庄城で自害すると岐阜城を開城し降伏。
信孝は尾張国の大御堂で自害させられました。
享年26歳。
信孝の子孫として側室・小妻氏と信孝の子である織田信豊の次男・織田信国の子孫だという川上家が現存しているようです。
四男【羽柴秀勝】
織田信長の四男として1568年に生まれました。
1576年10月側室との間に生まれた石松丸秀勝を亡くした秀吉が織田家に主家との養子縁組を願い出たため、四男の於次丸秀勝は羽柴秀吉の後継者になるために養子になりました。
残虐非道が信長のイメージですが意外と血族を優遇していたことから、秀吉が自分の地位を擁護するためだったと言われます。
1582年3月8日信長の命で秀吉が中国征伐に出征し備中を攻める際にはそれに従って17日の備前児島・常山城攻めで初陣を果たします。
4月からの高松城攻めにも参加。
6月2日の本能寺の変で信長が自害したのちは秀吉の中国大返しに同行。
信長の四男として山崎の戦いに参加、異母兄信孝と共に弔い合戦の旗印となりました。
秀吉が信長の葬儀を出すときの喪主となった事でも有名ですね。
信長の後継者を決める清州会議では秀吉が信長の孫である三法師を推したため後継者候補にはなりませんでした。
織田領の再分配により於次丸秀勝は丹波亀山城の城主となりました。
1583年賤ヶ岳の戦いにも参加し、1585年には正三位・権中納言にまでなりますが病に倒れ、1585年12月10日、母養観院に看取られながら、丹波亀山城で死去しました。
享年18歳。
五男【織田勝長】
勝長は岩村城主遠山景任の未亡人で織田信長の叔母であるおつやの方の養子になりました。
それは景任が嗣子がないまま死去してしまったため、遠山氏を継がせるためにおつやの方が信長に頼み込んだためといわれます。
1572年11月、甲斐の武田信玄が美濃国へ侵攻してきた際、武田の家臣・秋山虎繁に攻められ岩村城は降伏、武田の居城となってしまいます。
おつやの方は岩村城代となった虎繁を夫とし武田方との和議を結びました。
その際に勝長は甲斐国へ人質として送られ、信玄の養子になります。
これに激怒した信長は後年岩村城を奪回した際に秋山虎繁とおつやの方を逆さ磔にしています。
1581年11月、武田勝頼によって勝長は送還され同年元服。
尾張国犬山城主となります。
その後は兄・信忠の与力として活躍しますが、本能寺の変で信忠と共に明智光秀の軍勢に攻め込まれ二条御所にて奮戦するも討死しています。
五男までは有名で?私も知っておりました。
六男以下は調べはしましたがあまり印象には残りません。
ここらへんで柏原「建勲神社」をご紹介しましょう。
六男【織田信秀】
1571年生まれまれ、信長から美濃国揖斐地方に所領を与えられていたようです。
1582年本能寺の変が起きた時は美濃の仏照寺に逃れて事なきを得たようです。
清州会議後、近江国栗太郡へと所領を移され、1583年に元服し名を信秀と名乗るようになります。
秀吉が権力を握ると稲葉良通の口添えで秀吉の家臣となり1585年、羽柴姓を与えられます。
その後豊臣姓も与えられています。
キリスト教徒で1587年の九州征伐の際にはロザリオをつけて出陣したそうです。
晩年は剃髪し浦坊を号しました(キリスト様は?)。
七男【織田信高】
1576年織田信長の七男として生まれました。
1582年の本能寺の変で信長が自害すると、氏家行広に預けられ養育されます。
1585年兄・織田信秀が羽柴姓を与えられた際に仲介してもらい豊臣秀吉に仕えました。
1591年には自らも羽柴姓を与えられ、羽柴藤十郎と名乗りました。
1600年関ヶ原の闘いにおいては『関原軍記大成』などに、弟信吉・信貞らとともに西軍に属したが戦後赦免されたとされる。
1603年12月12日、死去。
享年28歳。
1616年(元和2年)1月、信高の嫡男高重は幕臣として召し出されて近江・安房に2000石を与えられた。
高重の孫信門は高家となり、以後、同家は明治維新まで高家旗本として存続しました。
因みに、アイススケートの織田信成君も彼の末裔に成りますね~(^^)d
八男【織田信吉】
1573年に織田信長と側室お鍋の方の間に生まれました。
七男の信高の方が3年遅く生まれていますが、織田家中の席次が信高の方が上であるため便宜上信高が兄とされています。
本能寺の変後、母お鍋の方(興雲院)とともに小倉にて蟄居していましたが、1583年に羽柴秀吉により召し出され、羽柴姓と武蔵守の官、近江国に2000石の所領を与えられています。
1600年の関ヶ原の戦いでは西軍につき弟の長次と共に平塚為広勢に加わりました。
本戦では同陣の諸将が討ち死にする中、脱出に成功。
戦後は豊臣家を頼り大阪城下で暮らしました。
晩年は剃髪し京都で暮らしていましたが、1615年死去。享年43歳。
九男【織田信貞】
1574年に生まれたとされています。
1582年信長が本能寺の変で死去したため埴原長久に養育されたようです。
埴原は信長の死後、次男の信雄に仕えていました。
1600年、関ヶ原の戦いでは西軍を支持し伏見城攻めに参加しました。
1614年の大阪の陣の際は徳川方として従軍、功績をあげました。
1624年6月6日死去。
享年51歳。
十男【織田信好】
1582年の本能寺の変が起きた時はまだ幼かったため、秀吉に引き取られ家臣になりました。
茶人だったようです。
1609年7月14日死去。
十一男【織田長次】
生年は不詳で1574年~1582年の間だと言われています。
謎が多く1582年本能寺の変で信長が自害した後は羽柴秀吉の馬廻になったそうですが、豊臣時代のその後は不明です。
1600年の関ヶ原の戦いでは西軍を支持し、信長の八男の兄信吉とともに平塚為広勢に加わり戦いました。
しかし、9月15日の本戦で所属していた大谷軍が壊滅し、為広らとともに戦死しました。
戦国の習いといえばそれまでですが、どの戦場でも各々の立場で戦っていますね。
関ヶ原の戦いでは東軍・西軍に兄弟も分かれて闘わざるを得なくなっています。
生まれた時には、自分の父親が最高の権力者でした。
その後は次々と変わる、権力や時代にほんろうされながらも、精一杯の人生を歩んだのでしょう。
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