『天下分け目の天王山』を旅する。大山崎町「おじさんと登山」②
気持ちの良い秋の日、京都と大阪のちょうど間あたり、大山崎町を散策してみてはどうでしょう。
京都符乙訓郡大山崎町、JR 山崎駅から天王山の史跡を訪ねる「おじさんと登山」です。
今日は本気で登山「天下分け目の天王山」続編です。
「市郎右衛門」の日本歴史ブログをお楽しみください。



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天王寺ハイキングコースももうすぐで山頂!といっても標高270.4メートルですからすぐなんですけどね~(笑)
山頂手前の山中に墓石群を発見し近づいてみると十七烈士の墓とあります(なんなんでしょうね?)。
十七烈士の墓は、幕末の禁門の変(1864年「蛤御門の変」)の時、尊王攘夷運動を旗印に戦い敗れ天王山中で自刃した隊長、「真木和泉守」(私、真木和泉と久坂玄瑞がこんがらがっていたので、真木和泉は御所で割腹したと思っていました、なんで?こんな所に墓が?と勉強不足を暴露してしまいました。)、以下十七名の眠る墓です。
十七名は天王山に踏みとどまり、殿軍(しんがり)をつとめ、一戦交えた後、全員割腹自刃しました(禁門の変「蛤御門の変」は又どこかでご紹介いたします)。
又、少し登りますと、「自玉手祭来酒解神社(酒解神社) 神社」が在ります。
場所は天王山山頂より約百メートルほど下つたところに位置し、本殿の手前に建つ「神輿庫」は鎌倉時代の建築で日本にある板倉式倉庫としては最古の例であり、国の重要文化財に指定されています。
牛頭天王を祀る旧山崎天王社は天王山の名前の由来になっていますので、お参りしていきましょうか。
さてついに到着~!麓から歩くこと、約1時間程度、270.4メートルの標高の高さにある山頂です。
山頂は大きく広場のようになっており、土肌がみえています。
かつて城が築かれており、その痕跡を発見できるところにあります。
広場には山の上には似つかわしくない石が散見され、五輪の塔、石仏、墓石、井戸の跡などが見つかります。
さて下山しながらご紹介できなかったお寺を二つご紹介いたします(いつもの言い訳ですが、ブログを書く予定が無かったので、写真が・・・)。

天王山山中地図を見てください。
「観音寺」は通称、山崎聖天(やまざきしょうてん)と言う古寺です。
山号は妙音山といい、地中から現れた薬師如来の石像に「妙音山寛平法皇剏建地(そうけんち)」と彫ってあったことに由来します。
桜と紅葉の名所としても有名で、春と秋のシーズンには多くの行楽客が訪れるそうです。
もう一つ、「宝積寺」は寺伝では724年、聖武天皇の勅命を受けたに行基が建てたと伝えられる真言宗の寺院お寺で、行基が山崎橋という対岸八幡への往来の橋を建てた際に、橋寺として創建した「山崎院」の後身と考える説があります。
歴史上しばしば登場するお寺であり、寺宝や重要文化財が多く残り、聖武天皇が夢で竜神から授けられたという「打出」と「小槌」を祀ることから通称「宝寺」(たからでら)の別名があり、大黒天宝寺として商売繁盛のお寺として知られています。
宝積寺は貞永元年(1232年)の火災で一度焼失し、現存する仏像等はこれ以降のものです。
宝積寺は山崎の戦いでは秀吉の本陣となり、禁門の変では尊皇攘夷派の真木保臣を始めとする十七烈士らの陣地が置かれた場所です。
ちなみに、お寺の途中にあるお墓には、十七烈士の碑があります。
三重塔は山崎の合戦に勝利した羽柴秀吉が寄進したものだそうです。
家族で楽しい登山が出来ました。
次回は?山崎の戦いの羽柴秀吉軍の勝因について、考察してみますか。
あ~と!敗北を悟った明智光秀が逃げ込んだ「勝竜寺城」のご紹介をわすれていました。
いつも応援、ありがとうございますm(__)m。歴史って本当に面白いですよね~!
今後もランキングには拘って良い記事を発信したいと思いますので宜しくお願い致します(^人^)
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今日は本気で登山「天下分け目の天王山」続編です。
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山頂手前の山中に墓石群を発見し近づいてみると十七烈士の墓とあります(なんなんでしょうね?)。
十七烈士の墓は、幕末の禁門の変(1864年「蛤御門の変」)の時、尊王攘夷運動を旗印に戦い敗れ天王山中で自刃した隊長、「真木和泉守」(私、真木和泉と久坂玄瑞がこんがらがっていたので、真木和泉は御所で割腹したと思っていました、なんで?こんな所に墓が?と勉強不足を暴露してしまいました。)、以下十七名の眠る墓です。
十七名は天王山に踏みとどまり、殿軍(しんがり)をつとめ、一戦交えた後、全員割腹自刃しました(禁門の変「蛤御門の変」は又どこかでご紹介いたします)。
又、少し登りますと、「自玉手祭来酒解神社(酒解神社) 神社」が在ります。
場所は天王山山頂より約百メートルほど下つたところに位置し、本殿の手前に建つ「神輿庫」は鎌倉時代の建築で日本にある板倉式倉庫としては最古の例であり、国の重要文化財に指定されています。
牛頭天王を祀る旧山崎天王社は天王山の名前の由来になっていますので、お参りしていきましょうか。
さてついに到着~!麓から歩くこと、約1時間程度、270.4メートルの標高の高さにある山頂です。
山頂は大きく広場のようになっており、土肌がみえています。
かつて城が築かれており、その痕跡を発見できるところにあります。
広場には山の上には似つかわしくない石が散見され、五輪の塔、石仏、墓石、井戸の跡などが見つかります。
さて下山しながらご紹介できなかったお寺を二つご紹介いたします(いつもの言い訳ですが、ブログを書く予定が無かったので、写真が・・・)。

天王山山中地図を見てください。
「観音寺」は通称、山崎聖天(やまざきしょうてん)と言う古寺です。
山号は妙音山といい、地中から現れた薬師如来の石像に「妙音山寛平法皇剏建地(そうけんち)」と彫ってあったことに由来します。
桜と紅葉の名所としても有名で、春と秋のシーズンには多くの行楽客が訪れるそうです。
もう一つ、「宝積寺」は寺伝では724年、聖武天皇の勅命を受けたに行基が建てたと伝えられる真言宗の寺院お寺で、行基が山崎橋という対岸八幡への往来の橋を建てた際に、橋寺として創建した「山崎院」の後身と考える説があります。
歴史上しばしば登場するお寺であり、寺宝や重要文化財が多く残り、聖武天皇が夢で竜神から授けられたという「打出」と「小槌」を祀ることから通称「宝寺」(たからでら)の別名があり、大黒天宝寺として商売繁盛のお寺として知られています。
宝積寺は貞永元年(1232年)の火災で一度焼失し、現存する仏像等はこれ以降のものです。
宝積寺は山崎の戦いでは秀吉の本陣となり、禁門の変では尊皇攘夷派の真木保臣を始めとする十七烈士らの陣地が置かれた場所です。
ちなみに、お寺の途中にあるお墓には、十七烈士の碑があります。
三重塔は山崎の合戦に勝利した羽柴秀吉が寄進したものだそうです。
家族で楽しい登山が出来ました。
次回は?山崎の戦いの羽柴秀吉軍の勝因について、考察してみますか。
あ~と!敗北を悟った明智光秀が逃げ込んだ「勝竜寺城」のご紹介をわすれていました。
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