『天下分け目の天王山』京都府乙訓郡大山崎町『おじ散歩』①
今日はお日柄よろしく?
京都符乙訓郡大山崎町JR 山崎駅近辺の史跡を訪ねる「おじさんと散歩」です。
最初にご紹介するのは「離宮八幡宮」です。
「市郎右衛門」の日本歴史ブログをお楽しみください。



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JR山崎駅からも阪急大山崎駅からも、歩いてすぐのところにある「離宮八幡宮」。
京都で八幡宮というと、石清水八幡宮(いわしみずはちまんぐう)が有名ですが、実はその発祥に離宮八幡宮が深く関係しています。
つまり離宮八幡宮は、石清水八幡宮の元社にあたる神社です。
離宮八幡宮が創建されたのは、今から千年以上前の平安初期といわれています。
勿論、八幡大神を祭神とします。
貞観元年(859年当時、京の都は治安が悪く、宮廷内では不安の声が高まっていました。)に清和天皇が、神託により国家安泰のため「宇佐神宮(大分県)」から分霊し平安京の守護神として奉安することとし、「八幡神の霊を都に安置せよ」と大安寺の僧行教が九州に使わされました。
行教が帰途山崎の津(当時の淀川水運の拠点港)で神降山に霊光を見、その地より石清水の湧いたのを帰京後に天皇に奏上したところ、国家鎮護のため清和天皇の勅命により「石清水八幡宮」が建立されました。
その後、石清水八幡宮は山崎から見て淀川の対岸にある男山(八幡市)に移され、山崎の八幡宮は名前を変えて呼ばれるようになります。
その名前が、嵯峨天皇の離宮「河陽(かや)離宮」跡であったので離宮八幡宮と変わりました。
また、貞観年間に神官が神示を受けて「長木」(てこを応用した搾油器)を発明し荏胡麻(えごま)油の製造が始まったことから、日本における製油発祥地であるともされています。
「大山崎油座」の制度で荏胡麻油の販売権を独占して、離宮八幡宮は幕府・朝廷の保護の下、油の専売特許を持ち栄えていきます。
安土桃山から江戸時代には、「西の日光」と呼ばれるほどの壮大な社殿を構え栄華を極めたそうです。
その後多くの兵火に焼かれながらも江戸時代まで栄えました。
今なお、離宮八幡宮の境内に、石清水八幡宮と書かれた灯籠があるのはその名残です。
歴史ブログですから、大河ドラマの「国盗り物語(司馬遼太郎原作)」をご紹介しましょう。
美濃の蝮と呼ばれた「斎藤道三」と「織田信長」を扱った作品ですが、斎藤道三が最初にのし上がるきっかけとなったのが、一文銭の四角い穴の間に油を通してこぼれたら、ただでお代は取らない油売りののパフォーマンスです。
信長役の高橋秀樹さんの人気が凄かったようですが、斎藤道三を演じられた平幹二朗さんの「とうとうたらり、とうたら~り」の文句が忘れられませんね(名優の御逝去のニュースに接し、ご冥福をお祈りいたします)。
油屋に婿に入り込み、付けた屋号は「山崎屋」でした。
「大山崎油座」の制度で荏胡麻油の販売権を独占がいかにうまみのある商売だったかもわかりますし。
斎藤道三(父親だとも言われていますが)の先見の明がわかる逸話です。
平安時代より、毎年4月3日には天皇の勅使が離宮八幡宮を参り、その後淀川を渡って石清水八幡宮を参拝する「日使頭祭(ひのとうさい)」が行われ、かつて淀川に50隻もの船が出るなど、京を代表する大変華やかなお祭りとして知られていました。
規模を縮小して、今も離宮八幡宮の重要な祭事として日使頭祭は行われています(近年は毎年4月初旬に行われています)。
しかし、幕末「禁門の変」時に萩毛利家屯所が山崎にあったため、攻撃を受けて多くの商家とともに焼失。廃藩置県により社殿のすぐ西から大阪府に割譲し、さらに1871年(明治4年)に境内北側を国策による鉄道事業にささげ、境内はさらに縮小されてしまいました(残念)。
次回は国宝の茶室が見られるかもしれません。
いつも応援、ありがとうございますm(__)m。歴史って本当に面白いですよね~!
今後もランキングには拘って良い記事を発信したいと思いますので宜しくお願い致します(^人^)
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JR山崎駅からも阪急大山崎駅からも、歩いてすぐのところにある「離宮八幡宮」。
京都で八幡宮というと、石清水八幡宮(いわしみずはちまんぐう)が有名ですが、実はその発祥に離宮八幡宮が深く関係しています。
つまり離宮八幡宮は、石清水八幡宮の元社にあたる神社です。
離宮八幡宮が創建されたのは、今から千年以上前の平安初期といわれています。
勿論、八幡大神を祭神とします。
貞観元年(859年当時、京の都は治安が悪く、宮廷内では不安の声が高まっていました。)に清和天皇が、神託により国家安泰のため「宇佐神宮(大分県)」から分霊し平安京の守護神として奉安することとし、「八幡神の霊を都に安置せよ」と大安寺の僧行教が九州に使わされました。
行教が帰途山崎の津(当時の淀川水運の拠点港)で神降山に霊光を見、その地より石清水の湧いたのを帰京後に天皇に奏上したところ、国家鎮護のため清和天皇の勅命により「石清水八幡宮」が建立されました。
その後、石清水八幡宮は山崎から見て淀川の対岸にある男山(八幡市)に移され、山崎の八幡宮は名前を変えて呼ばれるようになります。
その名前が、嵯峨天皇の離宮「河陽(かや)離宮」跡であったので離宮八幡宮と変わりました。
また、貞観年間に神官が神示を受けて「長木」(てこを応用した搾油器)を発明し荏胡麻(えごま)油の製造が始まったことから、日本における製油発祥地であるともされています。
「大山崎油座」の制度で荏胡麻油の販売権を独占して、離宮八幡宮は幕府・朝廷の保護の下、油の専売特許を持ち栄えていきます。
安土桃山から江戸時代には、「西の日光」と呼ばれるほどの壮大な社殿を構え栄華を極めたそうです。
その後多くの兵火に焼かれながらも江戸時代まで栄えました。
今なお、離宮八幡宮の境内に、石清水八幡宮と書かれた灯籠があるのはその名残です。
歴史ブログですから、大河ドラマの「国盗り物語(司馬遼太郎原作)」をご紹介しましょう。
美濃の蝮と呼ばれた「斎藤道三」と「織田信長」を扱った作品ですが、斎藤道三が最初にのし上がるきっかけとなったのが、一文銭の四角い穴の間に油を通してこぼれたら、ただでお代は取らない油売りののパフォーマンスです。
信長役の高橋秀樹さんの人気が凄かったようですが、斎藤道三を演じられた平幹二朗さんの「とうとうたらり、とうたら~り」の文句が忘れられませんね(名優の御逝去のニュースに接し、ご冥福をお祈りいたします)。
油屋に婿に入り込み、付けた屋号は「山崎屋」でした。
「大山崎油座」の制度で荏胡麻油の販売権を独占がいかにうまみのある商売だったかもわかりますし。
斎藤道三(父親だとも言われていますが)の先見の明がわかる逸話です。
平安時代より、毎年4月3日には天皇の勅使が離宮八幡宮を参り、その後淀川を渡って石清水八幡宮を参拝する「日使頭祭(ひのとうさい)」が行われ、かつて淀川に50隻もの船が出るなど、京を代表する大変華やかなお祭りとして知られていました。
規模を縮小して、今も離宮八幡宮の重要な祭事として日使頭祭は行われています(近年は毎年4月初旬に行われています)。
しかし、幕末「禁門の変」時に萩毛利家屯所が山崎にあったため、攻撃を受けて多くの商家とともに焼失。廃藩置県により社殿のすぐ西から大阪府に割譲し、さらに1871年(明治4年)に境内北側を国策による鉄道事業にささげ、境内はさらに縮小されてしまいました(残念)。
次回は国宝の茶室が見られるかもしれません。
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