羽柴秀吉は山崎の戦いで何故勝てたのか?
天下分け目の後に続く言葉は?「関ヶ原」?それとも「天王山」?7:3で関ヶ原かな~(^^;
そもそもどっちが本物なのでしょうか?
関ヶ原は新幹線や車で通り過ぎた事は有っても、古戦場や佐和山城はまだ行ってないんです。
其では今日は、「天下分け目の天王山」の羽柴秀吉の勝因について少しお話させて頂きますm(__)m!
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「スピード」まずは、中国大返しのスピードが羽柴軍に勝利をもたらせた事は、周知の事実ですね。
中国大返しまたは備中大返しは、天正10年6月(西暦1582年6月-7月)、備中高松城の戦いにあった羽柴秀吉が主君織田信長の本能寺の変での死を知った後、速やかに毛利氏との講和を取りまとめ、主君の仇明智光秀を討つため京に向けて全軍を取って返した軍団大移動のことです。
備中高松城(岡山県岡山市北区)から山城山崎(京都府乙訓郡大山崎町)までの約200 km を約10日間で踏破したといわれています。
その中でも私が注目したいのは、羽柴軍の兵站能力です。
兵站(へいたん)あるいはLogistics:ロジスティクス、(現代ではビジネス用語としても用いられるように成りました。)とは、
戦闘地帯から後方の、軍の諸活動・機関・諸施設を総称したものです。
戦争において作戦を行う部隊の移動と支援を計画し、また、実施する活動を指す用語でもあり、例えば兵站には物資の配給や整備、兵員の展開や衛生、施設の構築や維持などが含まれます。
現代戦では当たり前の兵站が当時(戦国時代)余り重要視されていなかった中で、羽柴軍の兵站を担った、石田三成ら文官武将の能力の高さが目につきますね!
次は何でしょう?
「戦術よりも戦略!」
秀吉の勝因はまず兵力差が挙げられます(戦闘の基本ですね。)。
これには羽柴軍の動きが、光秀の予想を遥かに上回る迅速さだったこと、中国平定のために秀吉が織田軍の主力を任されていたこと、光秀が周辺勢力の助力を得られなかったこと(特に畿内の有力大名であった細川・筒井両氏)、兵を近江方面に割いていたことなど様々な要因が絡んでおり、結果的に光秀は十分な兵力を揃えられないまま京と西国を結ぶ最後の要所である山崎での決戦に挑まざるを得ない状況に立たされました。
羽柴方にも強行軍による将兵の疲弊という不安要素はあったはずですが、総じて戦略段階で既に大勢は決していたと言えます。
これには、黒田官兵衛孝高の策略が有ったとも言われています。
畿内の有力大名であった細川・筒井両氏が光秀に味方しなかった理由の一つに、秀吉が「大殿健在」の書簡を送ったからだとも言われます。
本能寺焼き討ちの後信長の死体を探せなかった事が、光秀にとっての最初の不運でした。
信長が生きていた場合、光秀に味方することは、謀叛に加担したのと同じ事に成るからです。
『太閤記』による光秀軍の構成は、以下の通りです。
羽柴軍(約4万0000)高山右近・木村重茲・中川清秀・池田恒興・池田元助・加藤光泰・丹羽長秀・織田信孝・秀吉本隊(羽柴秀長・黒田孝高・蜂須賀正勝・堀秀政・中村一氏・堀尾吉晴・神子田正治・蜂屋頼隆など)
秀吉本隊中には他に直番衆として加藤清正・福島正則・大谷吉継・山内一豊・増田長盛・仙石秀久・田中吉政といった顔ぶれもいました。
明智軍(約1万6000)斎藤利三・柴田勝定・阿閉貞征・溝尾茂朝(明智茂朝)松田政近・並河易家・伊勢貞興・諏訪盛直・御牧兼顕・津田正時・光秀本隊(藤田行政など)
その他、小川祐忠・進士貞連・可児吉長・津田信春が参加しています。
山崎合戦之地!
現在の大山崎JCTあたりを挟んで両軍が対陣したと言われています。
そして最後に「運」としておきましょう(笑)本能寺の変は謎が多く日本史最大のミステリーです。
他の有力家臣団よりも有利な場所で戦闘を行っていました。
やはり後の天下人!運も味方につけなくては天下は手に入りません。
いつも応援、ありがとうございますm(__)m。歴史って本当に面白いですよね~!
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そもそもどっちが本物なのでしょうか?
関ヶ原は新幹線や車で通り過ぎた事は有っても、古戦場や佐和山城はまだ行ってないんです。
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中国大返しまたは備中大返しは、天正10年6月(西暦1582年6月-7月)、備中高松城の戦いにあった羽柴秀吉が主君織田信長の本能寺の変での死を知った後、速やかに毛利氏との講和を取りまとめ、主君の仇明智光秀を討つため京に向けて全軍を取って返した軍団大移動のことです。
備中高松城(岡山県岡山市北区)から山城山崎(京都府乙訓郡大山崎町)までの約200 km を約10日間で踏破したといわれています。
その中でも私が注目したいのは、羽柴軍の兵站能力です。
兵站(へいたん)あるいはLogistics:ロジスティクス、(現代ではビジネス用語としても用いられるように成りました。)とは、
戦闘地帯から後方の、軍の諸活動・機関・諸施設を総称したものです。
戦争において作戦を行う部隊の移動と支援を計画し、また、実施する活動を指す用語でもあり、例えば兵站には物資の配給や整備、兵員の展開や衛生、施設の構築や維持などが含まれます。
現代戦では当たり前の兵站が当時(戦国時代)余り重要視されていなかった中で、羽柴軍の兵站を担った、石田三成ら文官武将の能力の高さが目につきますね!
次は何でしょう?
「戦術よりも戦略!」
秀吉の勝因はまず兵力差が挙げられます(戦闘の基本ですね。)。
これには羽柴軍の動きが、光秀の予想を遥かに上回る迅速さだったこと、中国平定のために秀吉が織田軍の主力を任されていたこと、光秀が周辺勢力の助力を得られなかったこと(特に畿内の有力大名であった細川・筒井両氏)、兵を近江方面に割いていたことなど様々な要因が絡んでおり、結果的に光秀は十分な兵力を揃えられないまま京と西国を結ぶ最後の要所である山崎での決戦に挑まざるを得ない状況に立たされました。
羽柴方にも強行軍による将兵の疲弊という不安要素はあったはずですが、総じて戦略段階で既に大勢は決していたと言えます。
これには、黒田官兵衛孝高の策略が有ったとも言われています。
畿内の有力大名であった細川・筒井両氏が光秀に味方しなかった理由の一つに、秀吉が「大殿健在」の書簡を送ったからだとも言われます。
本能寺焼き討ちの後信長の死体を探せなかった事が、光秀にとっての最初の不運でした。
信長が生きていた場合、光秀に味方することは、謀叛に加担したのと同じ事に成るからです。
『太閤記』による光秀軍の構成は、以下の通りです。
羽柴軍(約4万0000)高山右近・木村重茲・中川清秀・池田恒興・池田元助・加藤光泰・丹羽長秀・織田信孝・秀吉本隊(羽柴秀長・黒田孝高・蜂須賀正勝・堀秀政・中村一氏・堀尾吉晴・神子田正治・蜂屋頼隆など)
秀吉本隊中には他に直番衆として加藤清正・福島正則・大谷吉継・山内一豊・増田長盛・仙石秀久・田中吉政といった顔ぶれもいました。
明智軍(約1万6000)斎藤利三・柴田勝定・阿閉貞征・溝尾茂朝(明智茂朝)松田政近・並河易家・伊勢貞興・諏訪盛直・御牧兼顕・津田正時・光秀本隊(藤田行政など)
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そして最後に「運」としておきましょう(笑)本能寺の変は謎が多く日本史最大のミステリーです。
他の有力家臣団よりも有利な場所で戦闘を行っていました。
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