安産なら伊邪那美より霊力は上位?「壹宮神社」
大きなNEWSが入って来ましたね~(^^)d
滋賀県彦根市教育委員会は17日、同市の稲部遺跡で、弥生時代後期から古墳時代中期(2世紀から5世紀)までの大型建物や、鉄器を生産した鍜冶工房群の跡が見つかったと発表しました。
遺跡は邪馬台国が栄えた3世紀前半に最盛期を迎えた大規模集落跡で、建物や工房群は国内有数の規模らしいです。
市教委は「祭祀(さいし)・政治都市と工業都市の両面を持ち、巨大勢力の存在を示す」としています。
市教委は2013年度から市道改良工事に伴う遺跡調査を実施。
これまでに竪穴建物などが見つかっていたが、15年6月からの調査で、首長が居住した建物や儀礼施設、倉庫と考えられる大型建物7棟の跡、鉄片や鉄塊などが大量に出土した竪穴建物23棟の跡が新たに発見されました。
大型建物の中には、床面積が100平方メートル(10メートル四方ですね!)を超える国内有数の規模の建物が2棟あるほか、竪穴建物は鉄器を生産する鍜冶工房と考えられ、同時期の工房としては国内最大規模です。
凄いですね~(^^)d
「邪馬台国滋賀説有力に?」
新聞記事はさておき、私は本来の山陰「古事記」のミステリーにもどりましょう。
本日ご紹介するのは、「安産祈願」といえば地元では知らない人はいないというほど有名な「妻木壹宮神社」です。
毎月戌の日には、多くの妊婦さんとその家族が安産祈願に訪れます。
「市郎右衛門」の日本歴史ブログをお楽しみください。



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古代から、人間のの生活に欠くことができない「火」。
この火を作ろうと、幾多の神々が努力されたものの、ことごとく失敗。
神々の母といっても過言ではない「伊邪那美」ですら命を落としている中、やすやすと火を生み出したと伝えられる大国主の娘(大国主と多紀理毘売命の娘)「下照姫命」をお祀りしています。
JR山陰本線・大山口駅と淀江駅の中間あたり、県道242号線に面して鎮座する神社ですが、古資料には見当たりません。
弥生後期を中心とする集落遺跡として有名な妻木晩田遺跡のすぐ北に位置し、江戸時代までは特別な崇敬をうけ、明治5年に郷社に列し、同40年には神饌幣帛料供進社に指定されたというから、それなりの厚い信仰を集めた神社のようです。
社頭に掲げる案内(大山町教育委員会)には、当社は、古来「一宮大明神」といわれ、主神の天忍穂耳命(天孫邇邇芸命の父神)・下照姫命ほか数神(合祀によるものと推測します)を御祭神とし、この地方で厚く信仰されています。
下照姫命は昔から子授け・安産の神として知られ、各地から多くの参詣者でにぎわっています(私がお詣りした日も赤ちゃんを抱いてお詣りされていました)。
また、下照姫命について、上記案内は「下照姫命は大国主命の娘で、昔から子育て・安産の神として云々」というが、在地の伝承によれば、
下照姫命は、その夫神天若日子命(アメノワカヒコ)とともに当地に住まわれていました。
なお、天若日子命とは、国譲り交渉の使者として高天原から派遣された神(2番目)だが、下照姫命を妻として大国主の後継者となろうと欲して居着いてしまい、8年たっても報告せず、督促のために遣わされた使者(雉の鳴女)を天神から授かった弓矢で射殺してしまいます。
その矢が天上まで届き、高御産巣日神が「天若日子に邪心があれば当たるであろう」と占って投げかえした返し矢(呪矢)に当たって亡くなってしまいます(古事記)。
天若日子命がが亡くなったため、国譲りののち当地を去り、海路、伯耆国川村郡(現東伯郡湯梨浜町)に遷られた。
その場所が「倭文神社」であるともいわれます。
この伝承からみると、本来は下照姫命を主祭神とする神社とも思われますが、祭神中に天若日子命の名前が無いのは不思議です。
下照姫命が到来して安産の神として祀られたという伝承は、出雲のみならず各地にある様です。
尚、私のブログは基本「古事記」記載で記入しておりますが、神社御由緒、案内板などには「日本書紀」の記載も多く今回は混ざっています。
下照姫は「日本書紀」(古事記では、高比売命「たかひめのみこと」)表現です。
多紀理毘売命・伊邪那美・高御産巣日神・天忍穂耳命・邇邇芸命は「古事記」表現になってしまいました(お許しください)。
それにしても大国主のモテモテぶりは目を見張るものがあると思いませんか?
何人の妻がいるのか?今度その話題でブログ書いてみましょう。
いつも応援、ありがとうございますm(__)m。歴史って本当に面白いですよね~!
今後もランキングには拘って良い記事を発信したいと思いますので宜しくお願い致します(^人^)
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滋賀県彦根市教育委員会は17日、同市の稲部遺跡で、弥生時代後期から古墳時代中期(2世紀から5世紀)までの大型建物や、鉄器を生産した鍜冶工房群の跡が見つかったと発表しました。
遺跡は邪馬台国が栄えた3世紀前半に最盛期を迎えた大規模集落跡で、建物や工房群は国内有数の規模らしいです。
市教委は「祭祀(さいし)・政治都市と工業都市の両面を持ち、巨大勢力の存在を示す」としています。
市教委は2013年度から市道改良工事に伴う遺跡調査を実施。
これまでに竪穴建物などが見つかっていたが、15年6月からの調査で、首長が居住した建物や儀礼施設、倉庫と考えられる大型建物7棟の跡、鉄片や鉄塊などが大量に出土した竪穴建物23棟の跡が新たに発見されました。
大型建物の中には、床面積が100平方メートル(10メートル四方ですね!)を超える国内有数の規模の建物が2棟あるほか、竪穴建物は鉄器を生産する鍜冶工房と考えられ、同時期の工房としては国内最大規模です。
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「邪馬台国滋賀説有力に?」
新聞記事はさておき、私は本来の山陰「古事記」のミステリーにもどりましょう。
本日ご紹介するのは、「安産祈願」といえば地元では知らない人はいないというほど有名な「妻木壹宮神社」です。
毎月戌の日には、多くの妊婦さんとその家族が安産祈願に訪れます。
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古代から、人間のの生活に欠くことができない「火」。
この火を作ろうと、幾多の神々が努力されたものの、ことごとく失敗。
神々の母といっても過言ではない「伊邪那美」ですら命を落としている中、やすやすと火を生み出したと伝えられる大国主の娘(大国主と多紀理毘売命の娘)「下照姫命」をお祀りしています。
JR山陰本線・大山口駅と淀江駅の中間あたり、県道242号線に面して鎮座する神社ですが、古資料には見当たりません。
弥生後期を中心とする集落遺跡として有名な妻木晩田遺跡のすぐ北に位置し、江戸時代までは特別な崇敬をうけ、明治5年に郷社に列し、同40年には神饌幣帛料供進社に指定されたというから、それなりの厚い信仰を集めた神社のようです。
社頭に掲げる案内(大山町教育委員会)には、当社は、古来「一宮大明神」といわれ、主神の天忍穂耳命(天孫邇邇芸命の父神)・下照姫命ほか数神(合祀によるものと推測します)を御祭神とし、この地方で厚く信仰されています。
下照姫命は昔から子授け・安産の神として知られ、各地から多くの参詣者でにぎわっています(私がお詣りした日も赤ちゃんを抱いてお詣りされていました)。
また、下照姫命について、上記案内は「下照姫命は大国主命の娘で、昔から子育て・安産の神として云々」というが、在地の伝承によれば、
下照姫命は、その夫神天若日子命(アメノワカヒコ)とともに当地に住まわれていました。
なお、天若日子命とは、国譲り交渉の使者として高天原から派遣された神(2番目)だが、下照姫命を妻として大国主の後継者となろうと欲して居着いてしまい、8年たっても報告せず、督促のために遣わされた使者(雉の鳴女)を天神から授かった弓矢で射殺してしまいます。
その矢が天上まで届き、高御産巣日神が「天若日子に邪心があれば当たるであろう」と占って投げかえした返し矢(呪矢)に当たって亡くなってしまいます(古事記)。
天若日子命がが亡くなったため、国譲りののち当地を去り、海路、伯耆国川村郡(現東伯郡湯梨浜町)に遷られた。
その場所が「倭文神社」であるともいわれます。
この伝承からみると、本来は下照姫命を主祭神とする神社とも思われますが、祭神中に天若日子命の名前が無いのは不思議です。
下照姫命が到来して安産の神として祀られたという伝承は、出雲のみならず各地にある様です。
尚、私のブログは基本「古事記」記載で記入しておりますが、神社御由緒、案内板などには「日本書紀」の記載も多く今回は混ざっています。
下照姫は「日本書紀」(古事記では、高比売命「たかひめのみこと」)表現です。
多紀理毘売命・伊邪那美・高御産巣日神・天忍穂耳命・邇邇芸命は「古事記」表現になってしまいました(お許しください)。
それにしても大国主のモテモテぶりは目を見張るものがあると思いませんか?
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