天下分け目は天王山じゃなかった~山崎の戦い 『故事成語』 - 「高天原の縁側日記」
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2016/11/12

天下分け目は天王山じゃなかった~山崎の戦い 『故事成語』

今日は写真要らず?のブログに成りそうです。

まずその前に、5000アクセス突破しました~(^人^)
ありがとうございました。
これもひとえに、私の下手くそなブログに付き合ってくださっていてくださる皆さんのお陰です。
近頃忙しくて、予定通り(二日に一度ペース)にUP出来ておりませんが、見放さずに宜しくお願い致しますm(__)m

さて「天下分け目の天王山?」と言われる、山崎の戦いですが、その戦いに因って派生した、故事成語が有るので紹介しましょう。

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先ずは「洞ヶ峠(ほらがとうげ)」です。
二大勢力が争っているときに、有利な方へ味方しようと日和見することを「洞ヶ峠(ほらがとうげ)」といいます。

次に、ものごとの勝敗を決める正念場や運命の分かれ目のことを「天王山(てんのうざん)」といいます。(「天下分け目の天王山」と呼ばれる場合も多いですがが、正しい使い方では有りません~(^^;,
散々使ってきたお前が言うな!(;´・ω・))。

最後は、権力を極めて短い期間のみ握ることを「三日天下(みっかてんが/みっかでんか)」といいますね。

これらはいずれもこの「山崎の戦い」に由来する成語です。
ただし必ずしも史実に即したものではなく、むしろその伝説に由来している様です。

まず最初の「洞ヶ峠」ですが、織田信長から大和一国に封じられていた筒井順慶(居城は大和郡山城です。)は、光秀が率いる畿内方面軍の中では光秀に次ぐ勢力があり、また単に光秀の与力大名としてではなく、光秀とは個人的にも極めて親しい間柄でも有りました。

CIMG1691.jpg(写真いらずですが、寂しいので郡山城址を少しだけお目にかけます。)
CIMG1661.jpg(筒井順慶の後、羽柴秀長も居城としているので立派なお城です。)
CIMG1665.jpg(堀や石垣も大ですね。)
CIMG1690.jpg(イベントが行われていました。といいますか、このイベントが目的で訪れているのでした~笑。)

本能寺の変後、光秀から味方につくように誘われると、順慶は去就に迷います。


(京都府八幡市八幡南山 と 大阪府枚方市高野道・長尾峠町の境にある峠、近くのお茶さんを出してみました。すぐの交差点の地名が洞ヶ峠です。)

伝承では、順慶は光秀に乞われて洞ヶ峠まで出陣しながら、光秀方に加勢することを逡巡、合戦が始まっても形勢を窺うばかりで兵を動かさなかったということになっています。

確かに順慶は光秀の求めに応じて少人数の配下を山城国に派遣していましたが、実際には密かに秀吉方に寝返ることを決めており、居城で籠城の準備に取り掛かっていた様です。

そうとは知らない光秀は、煮え切らない順慶に加勢の催促をしようと会談を申し入れ、次男を連れて「洞ヶ峠」まで赴きましたが、約束の日時になっても順慶は現れませんでした。
つまり、光秀はすっぽかされてしまったのです。

二番目の「天王山」山崎の戦いは、羽柴軍の中川清秀の隊が高山右近隊の横に陣取ろうと、天王山の山裾に移動してきたことが合戦の緒端となりました(西国街道が狭いんですよね)。

CIMG3261.jpg(以前にもお見せした、鉄道フアンに人気のサントリーカーブ西は直ぐ天王山東は西国街道を挟んで鴨川まですぐです。狭い戦場!)

この両隊に明智軍が襲いかかり、一時は崩壊寸前まで追いつめられますが、羽柴の援軍が到着したことにより辛くも窮地を脱し、一進一退の後に、最終的には光秀方を押し返すことに成功しました。
これがいつしか「秀吉方が天王山を占拠して光秀方を牽制したことが戦いの帰趨を決めた」と言われるようになり、そこからこの合戦は「天王山の戦い」と呼ばれるまでになります。

しかし実際には、天王山の争奪は戦局に大きな影響を与えておらず、そもそも天王山の争奪戦そのものがあったかどうかも定かでないとの疑問も有ります。

『中川家記』『太閤記』などがこの逸話を創作した、あるいは風聞を写し書きしたとする史家も多く、そのため今日ではこの合戦を「天王山の戦い」ではなく「山崎の戦い」と呼ぶことが大勢となっています。

詰まるところ「天下分け目の天王山」じゃないばかりか、「天王山の戦い」すら無いかもって事ですね、もうこれは「天下分け目」が付けば「関ヶ原」という訳ですね(笑、散々天下分け目の天王山ってブログUPしてきました(^人^))。

最後は「三日天下」ですね。
肥後細川家に伝わる『明智光秀公家譜覚書』には、本能寺の変後光秀が細川藤孝・忠興父子に味方になることを説得した書状が所収されており、その中で光秀は変の後参内し、従三位・中将に叙任された上で征夷大将軍の宣下を受けたと書かれています(事実なら、錦の御幡を背に羽柴討伐軍を組織することもできたはずですね。)。

この史料の信憑性には疑問の余地があるものの、本能寺の変後政局が光秀を中心として展開したことは間違いないと思います。

では光秀の「天下」が実際にはどのくらいだったのかというと、本能寺の変が天正10年6月2日、山崎の戦いが同月13日、差し引き11日ないし12日間の「天下」だった事に成り「三日天下」では無かった訳ですね(笑)。

いつも応援、ありがとうございますm(__)m。歴史って本当に面白いですよね~!
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