久しぶりに『但馬国分寺跡』と、ついでじゃないけど「国分寺」を訪れてみました。
小学六年生から42年振りに、地元但馬の国分寺跡を訪ねてみました~(^^;
国分寺は、741年(天平13年)に聖武天皇が仏教による国家鎮護のため、当時の日本の各国に建立を命じた寺院で、国分僧寺と国分尼寺に分かれます。
正式名称は、国分僧寺が「金光明四天王護国之寺」、国分尼寺が「法華滅罪之寺」です。
壱岐や対馬には「島分寺」が建てられました(成る程ね!)。
私が良く訪れる、京都の東寺の正式名称は「金光明四天王教王護国寺秘密伝法院」。
平城京と平安京の違いはあれど、国を護るための寺の意味合いは同じてすかね?
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現在の但馬国分寺は、兵庫県豊岡市日高町国分寺にある浄土宗の寺院です。
山号は護国山。
現国分寺は、聖武天皇の詔で創建された国分寺の法燈を継いで再興された寺院です。
つまり、奈良時代に聖武天皇の詔により日本各地に建立された国分寺のうち、但馬国国分僧寺の後継寺院にあたります。
現在の境内は創建期の国分寺跡と重複し、北方約1キロメートルの地には国分尼寺跡も立地します(私の母校日高東中学の駐輪所辺りです)。

勿論、現寺院とともに、古代寺院跡である但馬国分寺跡についてもご紹介します。
但馬国分寺跡は、豊岡市南部(旧城崎郡日高町)、円山川の形成する国府平野(多幸平野?中学の校歌はそう歌ってたけどな!)に位置します。
また、国分寺跡付近には平安時代以後の国府の遺構と推定される祢布ヶ森遺跡も立地し(平安時代以前の国府の位置は不詳!三度目の移動が有ったといわれています。三度目の場所も特定されていません。)、一帯は古代の但馬国における中心地です(わが家もその一角に有りますよ~(^^)d)。
古代国分寺跡については昭和48年(1973年)から発掘調査が実施されており、遺構は平成2年(1990年)に国の史跡に指定されています。
数十次を数える発掘調査のうちでは、特に昭和52年(1977年)の第5次調査において全国の国分寺跡では初めてとなる木簡の出土があったこと、および平成28年(2016年、今年の春でした!)の第34次調査においてこれも全国の国分寺跡では初めて主要伽藍以外で回廊が見つかったことが注目されましたね。
創建は不詳ですが、天平13年(741年)の国分寺建立の詔の頃に創建されたと考えて良いでしょう。
『続日本紀』天平勝宝8年(756年)12月20日条の但馬国ほか25国への聖武天皇一周忌御斎会のための下賜記事から、当時には完成していたと推測されています(国分寺以外で御斎会を行なった可能性もありますが)。
考古学的には、国分寺跡の井戸部材の伐採年が763年と判明しています。
宝亀8年(777年)7月14日には「震但馬国国分寺塔」として、塔が落雷被害に遭った旨の記事がみられます。
貞観4年(862年)には、但馬権守の豊井王から長さ1丈5尺の幡18旗の施入のことがあった事も記載されています。
延長5年(927年)成立の『延喜式』主税上の規定では、但馬国の国分寺料として稲2万束があてられています。
全国のほとんどの国分寺は、平安時代以降に律令制の衰退と時を同じくして衰退ししています。
但馬国分寺の場合には、どのような変遷を辿ったか詳らかではありませんが、やはりなのでしょうか?
弘安8年(1285年)の『但馬国太田文』では、「国分寺」の記載があります。
太田文は太田氏(源頼朝による義経攻略や、平泉討伐で活躍して但馬守護として但馬但東を領した一族で六代に渡り栄えていました。)による但馬歴史書です。
文書によれば国分寺領は法勝寺を本家として荘園化しており、建武5年(1338年)には光厳上皇の院宣によって「法勝寺領但馬国分寺」が白河中将(白河伊宗)に安堵されたほか、応安4年(1371年)にも白河侍従に安堵されました。
つまり、国立寺院だったものが、私立寺院に変わってしまったために、持ち主が落ち目になると同じように衰退していったと考えるべきでしょう。
観応2年(1351年)には、地頭の伊達朝綱が南北朝の戦いで「国分寺」に参陣した(一説に国分寺城を指す)と伝わります。
天正8年(1580年)、羽柴秀長による第2次但馬征伐で国分寺城の大坪又四郎が討たれたといわれるが、国分寺もまた焼亡したと伝えられます。
文化11年(1814年)には伊能忠敬が当地を訪れ、『測量日記』に国分寺跡・尼寺跡に関する記録を残しています。
国分寺は、741年(天平13年)に聖武天皇が仏教による国家鎮護のため、当時の日本の各国に建立を命じた寺院で、国分僧寺と国分尼寺に分かれます。
正式名称は、国分僧寺が「金光明四天王護国之寺」、国分尼寺が「法華滅罪之寺」です。
壱岐や対馬には「島分寺」が建てられました(成る程ね!)。
私が良く訪れる、京都の東寺の正式名称は「金光明四天王教王護国寺秘密伝法院」。
平城京と平安京の違いはあれど、国を護るための寺の意味合いは同じてすかね?
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現在の但馬国分寺は、兵庫県豊岡市日高町国分寺にある浄土宗の寺院です。
山号は護国山。
現国分寺は、聖武天皇の詔で創建された国分寺の法燈を継いで再興された寺院です。
つまり、奈良時代に聖武天皇の詔により日本各地に建立された国分寺のうち、但馬国国分僧寺の後継寺院にあたります。
現在の境内は創建期の国分寺跡と重複し、北方約1キロメートルの地には国分尼寺跡も立地します(私の母校日高東中学の駐輪所辺りです)。

(但馬国分尼寺跡です。後ろに白く見えるのが中学の体育館ですね。)
勿論、現寺院とともに、古代寺院跡である但馬国分寺跡についてもご紹介します。
但馬国分寺跡は、豊岡市南部(旧城崎郡日高町)、円山川の形成する国府平野(多幸平野?中学の校歌はそう歌ってたけどな!)に位置します。
また、国分寺跡付近には平安時代以後の国府の遺構と推定される祢布ヶ森遺跡も立地し(平安時代以前の国府の位置は不詳!三度目の移動が有ったといわれています。三度目の場所も特定されていません。)、一帯は古代の但馬国における中心地です(わが家もその一角に有りますよ~(^^)d)。
古代国分寺跡については昭和48年(1973年)から発掘調査が実施されており、遺構は平成2年(1990年)に国の史跡に指定されています。
数十次を数える発掘調査のうちでは、特に昭和52年(1977年)の第5次調査において全国の国分寺跡では初めてとなる木簡の出土があったこと、および平成28年(2016年、今年の春でした!)の第34次調査においてこれも全国の国分寺跡では初めて主要伽藍以外で回廊が見つかったことが注目されましたね。
創建は不詳ですが、天平13年(741年)の国分寺建立の詔の頃に創建されたと考えて良いでしょう。
『続日本紀』天平勝宝8年(756年)12月20日条の但馬国ほか25国への聖武天皇一周忌御斎会のための下賜記事から、当時には完成していたと推測されています(国分寺以外で御斎会を行なった可能性もありますが)。
考古学的には、国分寺跡の井戸部材の伐採年が763年と判明しています。
宝亀8年(777年)7月14日には「震但馬国国分寺塔」として、塔が落雷被害に遭った旨の記事がみられます。
貞観4年(862年)には、但馬権守の豊井王から長さ1丈5尺の幡18旗の施入のことがあった事も記載されています。
延長5年(927年)成立の『延喜式』主税上の規定では、但馬国の国分寺料として稲2万束があてられています。
全国のほとんどの国分寺は、平安時代以降に律令制の衰退と時を同じくして衰退ししています。
但馬国分寺の場合には、どのような変遷を辿ったか詳らかではありませんが、やはりなのでしょうか?
弘安8年(1285年)の『但馬国太田文』では、「国分寺」の記載があります。
太田文は太田氏(源頼朝による義経攻略や、平泉討伐で活躍して但馬守護として但馬但東を領した一族で六代に渡り栄えていました。)による但馬歴史書です。
文書によれば国分寺領は法勝寺を本家として荘園化しており、建武5年(1338年)には光厳上皇の院宣によって「法勝寺領但馬国分寺」が白河中将(白河伊宗)に安堵されたほか、応安4年(1371年)にも白河侍従に安堵されました。
つまり、国立寺院だったものが、私立寺院に変わってしまったために、持ち主が落ち目になると同じように衰退していったと考えるべきでしょう。
観応2年(1351年)には、地頭の伊達朝綱が南北朝の戦いで「国分寺」に参陣した(一説に国分寺城を指す)と伝わります。
天正8年(1580年)、羽柴秀長による第2次但馬征伐で国分寺城の大坪又四郎が討たれたといわれるが、国分寺もまた焼亡したと伝えられます。
文化11年(1814年)には伊能忠敬が当地を訪れ、『測量日記』に国分寺跡・尼寺跡に関する記録を残しています。
コメント
原っぱ…
私もここを訪れたのですが、ぽーっと見て、わかんないなぁーっと地図とにらめっこしました。
でもよそに比べたらパネルも指標もしっかりしていて、探検には楽しかったです。
今年の発見はわくわくしましたね。
豊岡市立歴史博物館は、倉庫かと勘違いしました。パネルを引っ張り出して見るところとか、面白い展示ですね。
2016-10-12 18:31 つねまる URL 編集
つねまるさんいつもコメントありがとう。
原っぱですよね~!私が子供の頃は家や田んぼでした。
田んぼは早くに調査が行われましたが、家の場所は無理な立ち退きはせず、建て替えなどの時期に行っているようです。
豊岡市立歴史博物館は正直一度行ったきりです。汗!
2016-10-13 21:18 市朗右衛門 URL 編集