但馬五社の最後は『小田井縣神社』
但馬五社巡りも最後になりました。
但馬にはまだまだ多くの寺社仏閣があるので、これからもご紹介していきますが、但馬五社は『小田井縣神社』で最後です。
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『国司文書・但馬神社系譜伝』には、上座「国作大己貴命」中座「天照国照彦天火明命」下座 「海童神」以上、三座を祀ります。
しかし、天正3年(1575年)、羽柴秀吉の但馬征伐の戦で森に火を放たれ焼失、ご神霊はみこしで一日市に火難を避けられたと伝えられています。
同じ天正年中、秀吉が中国征伐に陣営を置き、多くの神領・神供田を没収、社家社僧は離散してしまいました。
貞享年間中(1684~1687年)に社殿を再興し、鳥居を建て、元文年中(1736~1740年)に神殿を改造しました。
昭和になってから、円山川河川工事で移転や境内の改築が行われ、現在に至っています。
境内社に「柳の宮神社」、「川下神社」、「恵比須神社」、「稲荷神社」の4社があり、豊岡最大の「柳まつり」(子供の頃によく行きました。)は 八月一日、この柳の宮神社の例大祭から始まります。
この「柳の宮神社」は、特産業「杞柳・かばん産業」の守護神として、5男3女神(誓約によって生まれた神)が祀られています。
【本当は~のうんちく】
名物柳行李(現在の鞄産業)は石束 毎明(石塚源五右衛門)の業績!
但馬国豊岡京極家の筆頭家老(妹に赤穂浪士で有名な赤穂浅野家家老大石良雄の妻りくがいます。)
元禄16年(1703年)に石束家の家督と家老職を相続しました。
この際に新地300石を加増され、石束家の家禄は都合1500石となります。
しかし享保12年(1727年)主家京極家が無嗣になり、京極高永に家督相続が認められたものの3万石から1万5千石に半地(末期養子の決りですね~(^^;)される事件があり、石束家の家禄も半減します。
毎明はこの半地に対応するため、積極的に藩士のリストラと倹約にあたり、豊岡京極家の財政維持にあたります。
殖産興業に力を尽くし、のちに豊岡名物品となる柳行李を生産させたのも彼の業績なんですよ~。
出雲神話の事代主命は大国主の息子で美保神社(海の神様、恵比寿神)に祀られています。
奉納の額はまさに大蛇と闘う、二神かもしれません。
但馬の民話に瀬戸を切り開くと、大蛇が現れて邪魔をするお話があります。
それを神様が、頭としっぽをもって引き裂いて洪水を収めたお話があるんです。
それが八月八朔だったので毎年太い綱を作って引き合う八朔行事(ちぎれない年は洪水に見舞われるとか?)が始まったとか?ん~みすてりーですね~。
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但馬にはまだまだ多くの寺社仏閣があるので、これからもご紹介していきますが、但馬五社は『小田井縣神社』で最後です。
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『国司文書・但馬神社系譜伝』には、上座「国作大己貴命」中座「天照国照彦天火明命」下座 「海童神」以上、三座を祀ります。
(祀れているのは5男3女神「誓約によって生まれた神様」です。)
「国作大己貴命」=国造大国主命
大昔、この豊岡附近一帯は泥湖で、湖水が氾濫して平地のないとき、来日岳のふもとを穿ち瀬戸の水門をきり開いて水を北の海に流し、水利を治めて農業を開発したのが、御祭神である国作大己貴命だといわれます。
面白いことに、同じ話が但馬五社のうちで三つも出て来ました。
出石神社では瀬戸の水門をきり開いたのは「天日槍」でした。
絹巻神社では瀬戸の水門をきり開いたのは「海部直の子西刀宿禰」でした。
小田井縣神社では瀬戸の水門をきり開いたのは「国作大己貴命」でした。
どのお話が本当なのでしょうか?
兵庫県土木科に勤務する同級生によると、豊岡平野の地下は40メートルからすべて粘土だそうです。
つまり沼であったことは、間違いありません!ではだれが瀬戸を切り開いたのでしょうか?または三人の協力か、または三人は同じ人物かもしれませんね~(笑)
「天照国照彦天火明命」=天孫族「邇邇芸命(ににぎのみこと)」の兄、「播磨風土記」では大己貴命の子とされています。
「大海童神」=神功皇后新羅征伐の際、小田井縣主が、勅を奉じて大海童神を当社・下座に配祀したとされます。
延喜式神名帳(905年)に記されいる式内神社で、国作大己貴(くにつくりおおなむち)命を祭神に祀っています。
弘安年中(1278~1287年)の但馬大田文(以前説明しました。)には、小田井社々領31町3反あまり神供田25町1反あまりとあり、当時は神仏習合で社家(四社)、社僧(4ヶ寺・金剛、妙楽、正法、三坂)が祭事をとり行っていたとされています。
大昔、この豊岡附近一帯は泥湖で、湖水が氾濫して平地のないとき、来日岳のふもとを穿ち瀬戸の水門をきり開いて水を北の海に流し、水利を治めて農業を開発したのが、御祭神である国作大己貴命だといわれます。
面白いことに、同じ話が但馬五社のうちで三つも出て来ました。
出石神社では瀬戸の水門をきり開いたのは「天日槍」でした。
絹巻神社では瀬戸の水門をきり開いたのは「海部直の子西刀宿禰」でした。
小田井縣神社では瀬戸の水門をきり開いたのは「国作大己貴命」でした。
どのお話が本当なのでしょうか?
兵庫県土木科に勤務する同級生によると、豊岡平野の地下は40メートルからすべて粘土だそうです。
つまり沼であったことは、間違いありません!ではだれが瀬戸を切り開いたのでしょうか?または三人の協力か、または三人は同じ人物かもしれませんね~(笑)
「天照国照彦天火明命」=天孫族「邇邇芸命(ににぎのみこと)」の兄、「播磨風土記」では大己貴命の子とされています。
「大海童神」=神功皇后新羅征伐の際、小田井縣主が、勅を奉じて大海童神を当社・下座に配祀したとされます。
延喜式神名帳(905年)に記されいる式内神社で、国作大己貴(くにつくりおおなむち)命を祭神に祀っています。
弘安年中(1278~1287年)の但馬大田文(以前説明しました。)には、小田井社々領31町3反あまり神供田25町1反あまりとあり、当時は神仏習合で社家(四社)、社僧(4ヶ寺・金剛、妙楽、正法、三坂)が祭事をとり行っていたとされています。
しかし、天正3年(1575年)、羽柴秀吉の但馬征伐の戦で森に火を放たれ焼失、ご神霊はみこしで一日市に火難を避けられたと伝えられています。
同じ天正年中、秀吉が中国征伐に陣営を置き、多くの神領・神供田を没収、社家社僧は離散してしまいました。
貞享年間中(1684~1687年)に社殿を再興し、鳥居を建て、元文年中(1736~1740年)に神殿を改造しました。
昭和になってから、円山川河川工事で移転や境内の改築が行われ、現在に至っています。
境内社に「柳の宮神社」、「川下神社」、「恵比須神社」、「稲荷神社」の4社があり、豊岡最大の「柳まつり」(子供の頃によく行きました。)は 八月一日、この柳の宮神社の例大祭から始まります。
この「柳の宮神社」は、特産業「杞柳・かばん産業」の守護神として、5男3女神(誓約によって生まれた神)が祀られています。
【本当は~のうんちく】
名物柳行李(現在の鞄産業)は石束 毎明(石塚源五右衛門)の業績!
但馬国豊岡京極家の筆頭家老(妹に赤穂浪士で有名な赤穂浅野家家老大石良雄の妻りくがいます。)
元禄16年(1703年)に石束家の家督と家老職を相続しました。
この際に新地300石を加増され、石束家の家禄は都合1500石となります。
しかし享保12年(1727年)主家京極家が無嗣になり、京極高永に家督相続が認められたものの3万石から1万5千石に半地(末期養子の決りですね~(^^;)される事件があり、石束家の家禄も半減します。
毎明はこの半地に対応するため、積極的に藩士のリストラと倹約にあたり、豊岡京極家の財政維持にあたります。
殖産興業に力を尽くし、のちに豊岡名物品となる柳行李を生産させたのも彼の業績なんですよ~。
出雲神話の事代主命は大国主の息子で美保神社(海の神様、恵比寿神)に祀られています。
奉納の額はまさに大蛇と闘う、二神かもしれません。
但馬の民話に瀬戸を切り開くと、大蛇が現れて邪魔をするお話があります。
それを神様が、頭としっぽをもって引き裂いて洪水を収めたお話があるんです。
それが八月八朔だったので毎年太い綱を作って引き合う八朔行事(ちぎれない年は洪水に見舞われるとか?)が始まったとか?ん~みすてりーですね~。
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