建御雷神のイメージ作りすぎてた?「国譲り稲佐の浜の『屏風岩』」
出雲神話に戻って「国譲り神話」について少しお話させて頂きます。
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古事記によると、天照大御神ら高天原にいた天津神は、「葦原中国を統治すべきは、天津神、とりわけ天照大御神の子孫だ」とし、何人かの神を出雲に遣わします。
大國主神の子である事代主神(ことしろぬし)と建御名方神(たけみなかた)が天津神に降ると、大国主神も自身の宮殿建設と引き換えに国を譲というお話です(葦原中国平定!簡単過ぎる?)。
一番の見処シーンは稲佐の浜の対決でしょうから、過程を省いてm(__)m、そこ行きます。
「建御雷の派遣!」
何度かの失敗の後、天照大御神が八百万の神々に今度はどの神を派遣すべきかと尋ねると、思金神と八百万の神々は、「稜威雄走神(いつのおはばり)か、その子の建御雷神(たけみかづち)を遣わすべき」と答えます。
天之尾羽張(あめのおはばり)は「建御雷神を遣わすべき」と答えたので、建御雷神に天鳥船神(あめのとりふね)を副えて葦原中国に遣わすことになります。
建御雷神は伊邪那岐が伊邪那美が死んだとき、火神軻遇突智(かぐつち)の首を切り落とした際、十束剣「天之尾羽張(あめのおはばり)」の根元についた血が岩に飛び散って生まれた三神の一柱です。
建御雷神と天鳥船神(この神は船なのか?)は、出雲国伊那佐の小濱(稲佐の浜)に降り至って、十掬剣(とつかのつるぎ)を抜いて逆さまに立て(このシーン凄く重要性があると思っています。)、その切先にあぐらをかいて座り(お尻痛いし、笑)、大国主に「この国は我が御子が治めるべきだと天照大御神は仰せである。そなたの意向はどうか?」と訊ねます。
大国主神は、自分の前に先ず、息子の事代主神(ことしろぬし)に訊ねるよう言言います。
事代主神は、美保関に釣りに行っていましたが、建御雷神に問われると「承知した」と答え、船を踏み傾け逆手(逆手については解明されていないようです。一種の呪い?か魔術の様なものです。)を打って青柴垣に化え、その中に隠れて消えてしまいます(つまりは怖くて逃げちゃゃっったのかな?)。
建御雷神が「事代主神は承知したが、他に意見を言う子はいるか」と大国主に訊ねると、大国主はもう一人の息子の建御名方神(たけみなかた、越の沼河姫の子供とされます。)にも訊くよう言います。
その間に建御名方神がやって来て、「ここでひそひそ話すのは誰だ?それならば力競べをしようではないか」と建御雷神の手を掴んだ(此も相撲の始まりとされています。今の大相撲と違い、柔術の様な攻撃的なものとされます。)。
すると、建御雷神は手をつららに変化させ、さらに剣に変化させた(ターミネーターの新型液体金属仕様のT-1000型みたいです(^^;))。
逆に建御雷神が建御名方神の手を掴むと、葦の若葉を摘むように握りつぶして投げつけたので、建御名方神は逃げ出した。
建御雷神は建御名方神を追いかけ、科野国の州羽の海(諏訪湖)まで追いつめます。
建御名方神は逃げきれないと思い、、「この地から出ないし、大国主神や事代主神が言った通り、葦原の国は神子に奉るから殺さないでくれ」と降参しました。
建御名方神は「諏訪神社」に祀られています。
建御雷神は出雲に戻り、大国主神に再度訊ねます。
大国主神は「二人の息子が天津神に従うのなら、私もこの国を天津神に差し上げよう、その代わり私の住む所として、天の御子が住むのと同じくらい大きな宮殿を建ててほしい。私の百八十神たちは、事代主神に従って天津神に背かないだろう」と言い、建御雷神による葦原中国平定は成し遂げられて、高天原に復命しました。
前出の古事記と違い「日本書紀」では、「国譲り神話」の交渉に經津主神(ふつぬし、千葉県香取市「香取神宮」に祀られています。)、武甕槌神(たけみかづち、茨城県鹿島市「鹿島神宮」に祀られる。)の二柱を派遣しています(二対一はずるいかな?)。
經津主神に武甕槌神を副(そ)えて葦原中國を平定させることにしたと成っています。
建御雷神が建御名方神の対決が相撲の発祥とされていますが、現代の大相撲で勝者が懸賞金をもらう折に手刀を切りますが、私は「心技体」の『心』の文字を表すと教わっていたのですが、どうも違うようです。
軍配に向かって左・右・中の順に手刀を切ります。
この作法は、左が神産巣日神(かみむすびのかみ)、右が高御産巣日神(たかみむすびのかみ)、中が天御中主神(あまのなかぬしのかみ)の五穀の守り三神に感謝する礼儀だそうです。
しかし、建御名方神が祀られる諏訪神社の奉納相撲の手刀は左右中を「鹿島・香取・諏訪大明神」と切るとか!面白いですね。
さて私の勘違いですが、国譲り神話の舞台、出雲大社の西方1kmにある海岸で、国譲り、国引きの神話で知られる稲佐の浜に弁天島がありますね~浜に一際目立つ丸い島です。
地元では「べんてんさん」と呼ばれて親しまれている島で、かつては稲佐湾のはるか沖にあったため、沖ノ御前、沖ノ島と呼ばれていました。
神仏習合の頃には「弁財天」が祀られていましたが、明治のころから豊玉毘古命(とよたまひこのみこと)が祀られています。、
この岩が、大国主大神と建御雷神が国譲りの交渉をしたという『屏風岩』だと思っていたんです。
本当の屏風岩は弁天島からすぐの道路向こうにありました。
この屏風岩地元の人も知らないくらいに?有名で無いかもです(実際に近くの民宿のおじさん知りませんでした、(;´・ω・))。
屏風岩(別名国譲り岩)は高天原からの使者として派遣された建御雷神(たけみかづちのかみ)は、この岩を背にして、大国主大神と国譲りの話し合いをされたと伝えられています。
「十掬剣(とつかのつるぎ)を抜いて逆さまに立てたシーン凄く重要性があると思っています」のお話は建御雷神の正体として次回のお楽しみです。
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「建御雷の派遣!」
何度かの失敗の後、天照大御神が八百万の神々に今度はどの神を派遣すべきかと尋ねると、思金神と八百万の神々は、「稜威雄走神(いつのおはばり)か、その子の建御雷神(たけみかづち)を遣わすべき」と答えます。
天之尾羽張(あめのおはばり)は「建御雷神を遣わすべき」と答えたので、建御雷神に天鳥船神(あめのとりふね)を副えて葦原中国に遣わすことになります。
建御雷神は伊邪那岐が伊邪那美が死んだとき、火神軻遇突智(かぐつち)の首を切り落とした際、十束剣「天之尾羽張(あめのおはばり)」の根元についた血が岩に飛び散って生まれた三神の一柱です。
建御雷神と天鳥船神(この神は船なのか?)は、出雲国伊那佐の小濱(稲佐の浜)に降り至って、十掬剣(とつかのつるぎ)を抜いて逆さまに立て(このシーン凄く重要性があると思っています。)、その切先にあぐらをかいて座り(お尻痛いし、笑)、大国主に「この国は我が御子が治めるべきだと天照大御神は仰せである。そなたの意向はどうか?」と訊ねます。
大国主神は、自分の前に先ず、息子の事代主神(ことしろぬし)に訊ねるよう言言います。
事代主神は、美保関に釣りに行っていましたが、建御雷神に問われると「承知した」と答え、船を踏み傾け逆手(逆手については解明されていないようです。一種の呪い?か魔術の様なものです。)を打って青柴垣に化え、その中に隠れて消えてしまいます(つまりは怖くて逃げちゃゃっったのかな?)。
建御雷神が「事代主神は承知したが、他に意見を言う子はいるか」と大国主に訊ねると、大国主はもう一人の息子の建御名方神(たけみなかた、越の沼河姫の子供とされます。)にも訊くよう言います。
その間に建御名方神がやって来て、「ここでひそひそ話すのは誰だ?それならば力競べをしようではないか」と建御雷神の手を掴んだ(此も相撲の始まりとされています。今の大相撲と違い、柔術の様な攻撃的なものとされます。)。
すると、建御雷神は手をつららに変化させ、さらに剣に変化させた(ターミネーターの新型液体金属仕様のT-1000型みたいです(^^;))。
逆に建御雷神が建御名方神の手を掴むと、葦の若葉を摘むように握りつぶして投げつけたので、建御名方神は逃げ出した。
建御雷神は建御名方神を追いかけ、科野国の州羽の海(諏訪湖)まで追いつめます。
建御名方神は逃げきれないと思い、、「この地から出ないし、大国主神や事代主神が言った通り、葦原の国は神子に奉るから殺さないでくれ」と降参しました。
建御名方神は「諏訪神社」に祀られています。
建御雷神は出雲に戻り、大国主神に再度訊ねます。
大国主神は「二人の息子が天津神に従うのなら、私もこの国を天津神に差し上げよう、その代わり私の住む所として、天の御子が住むのと同じくらい大きな宮殿を建ててほしい。私の百八十神たちは、事代主神に従って天津神に背かないだろう」と言い、建御雷神による葦原中国平定は成し遂げられて、高天原に復命しました。
前出の古事記と違い「日本書紀」では、「国譲り神話」の交渉に經津主神(ふつぬし、千葉県香取市「香取神宮」に祀られています。)、武甕槌神(たけみかづち、茨城県鹿島市「鹿島神宮」に祀られる。)の二柱を派遣しています(二対一はずるいかな?)。
經津主神に武甕槌神を副(そ)えて葦原中國を平定させることにしたと成っています。
建御雷神が建御名方神の対決が相撲の発祥とされていますが、現代の大相撲で勝者が懸賞金をもらう折に手刀を切りますが、私は「心技体」の『心』の文字を表すと教わっていたのですが、どうも違うようです。
軍配に向かって左・右・中の順に手刀を切ります。
この作法は、左が神産巣日神(かみむすびのかみ)、右が高御産巣日神(たかみむすびのかみ)、中が天御中主神(あまのなかぬしのかみ)の五穀の守り三神に感謝する礼儀だそうです。
しかし、建御名方神が祀られる諏訪神社の奉納相撲の手刀は左右中を「鹿島・香取・諏訪大明神」と切るとか!面白いですね。
さて私の勘違いですが、国譲り神話の舞台、出雲大社の西方1kmにある海岸で、国譲り、国引きの神話で知られる稲佐の浜に弁天島がありますね~浜に一際目立つ丸い島です。
地元では「べんてんさん」と呼ばれて親しまれている島で、かつては稲佐湾のはるか沖にあったため、沖ノ御前、沖ノ島と呼ばれていました。
神仏習合の頃には「弁財天」が祀られていましたが、明治のころから豊玉毘古命(とよたまひこのみこと)が祀られています。、
この岩が、大国主大神と建御雷神が国譲りの交渉をしたという『屏風岩』だと思っていたんです。
本当の屏風岩は弁天島からすぐの道路向こうにありました。
この屏風岩地元の人も知らないくらいに?有名で無いかもです(実際に近くの民宿のおじさん知りませんでした、(;´・ω・))。
屏風岩(別名国譲り岩)は高天原からの使者として派遣された建御雷神(たけみかづちのかみ)は、この岩を背にして、大国主大神と国譲りの話し合いをされたと伝えられています。
「十掬剣(とつかのつるぎ)を抜いて逆さまに立てたシーン凄く重要性があると思っています」のお話は建御雷神の正体として次回のお楽しみです。
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