流石は御三家筆頭!『名古屋城』
今回の中部地方城巡りも本当に(笑)最後に成りました。
最後は『名古屋城』です。
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『名古屋城』は、尾張国愛知郡名古屋(現在の愛知県名古屋市中区・北区)にある城跡(現存天守ではないので)です。
「名城」「金鯱城」「金城」の異名を持ち、日本100名城に選定されており、国の特別史跡に指定されています。
名古屋城は、織田信長誕生の城とされる那古野城跡の周辺に、徳川家康が九男義直のために「天下普請(江戸幕府が全国の諸大名に命令し、行わせた土木工事のこと。)」によって築城されました。
この時、各大名は関ヶ原で徳川方に味方した事を後悔したと思います(実質天下様の家康や将軍秀忠なら未だしも、いってみれば同格の筈の大名家なんですからね~(T^T))。
徳川御三家の一つでもある尾張徳川家17代の居城として、明治まで利用されました。
大阪城、熊本城(熊本城と熊本の一日でも早い復興を願います。)とともに日本三名城に数えられているます(三名城の基準が難しいですね。)。
大天守に上げられた金の鯱は、城だけでなく名古屋の街の象徴にもなっています。
大小天守と櫓、門、御殿などの一部は昭和前期まで残存していましたが、名古屋大空襲によって大部分を焼失してしまいました。
戦後に天守などの外観が復元され、城跡は名城公園として整備されています(私が行ったときも、本丸御殿が再現公開されていました。)。
歴史的には、戦国時代の前半に今川氏親が、尾張進出のために築いた柳ノ丸が名古屋城の起源とされます。
この城は、のちの名古屋城二之丸一帯にあったと考えられています。
1532年(天文元年)、織田信秀が今川氏豊から奪取し那古野城と改名しました。
信秀は一時期この城に居住し、彼の嫡男織田信長はこの城で生まれたといわれています。
のちに信秀は古渡城に移り、那古野城は信長の居城となリましたが、1555年(弘治元年)、信長が清須城(清洲城)に本拠を移したため、一時廃城にされました。
清須城は長く尾張の中心でしたが、関ヶ原の戦い以降の政治情勢や、水害に弱い清須の地形の問題などから、徳川家康は1609年(慶長14年) に、九男義直の尾張の居城として、名古屋に城を築くことを決定、1610年(慶長15年)、西国諸大名の助役による「天下普請」で築城が開始されます。
普請奉行は滝川忠征、佐久間政実ら5名、作事奉行には大久保長安、小堀政一ら9名が任ぜられます。
縄張は普請奉行の一人である牧長勝、石垣は諸大名の分担によって築かれ、中でも最も高度な技術を要した天守台石垣は普請助役として加藤清正が築きました。
天守は作事奉行の小堀政一、大工頭には中井正清と伝えられ、1612年(慶長17年)までに大天守が完成しました。
名古屋城築城普請助役としては、加藤清正以外に、寺沢広高、細川忠興、毛利高政、生駒正俊、黒田長政、木下延俊、福島正則、池田輝政、鍋島勝茂、毛利秀就、加藤嘉明、浅野幸長、田中忠政、山内忠義、竹中重利、稲葉典通、蜂須賀至鎮、金森可重、前田利光の外様大名が石に刻印を打って石垣工事を負担し延べ558万人の工事役夫で僅か1年足らずで石垣を完成させています(この大名が関ヶ原で西軍についていたならと思いますけれどね~f(^_^;)。
清須からの移住は、名古屋城下の地割・町割を実施した1612年(慶長17年)頃から徳川義直が名古屋城に移った1616年(元和2年)の間に行われたと思われます。
この移住は清須越しと称され、家臣、町人はもとより、社寺3社110か寺、清須城小天守も移るという徹底的ぶりでした。
戦国末期の物語も興味深いですが、江戸末期~明治維新時代のお話も少しいたしましょう。
尾張徳川家第十四代当主徳川慶勝(十七第も務めています。)は美濃高須松平家の出身です。
美濃高須松平家は、江戸時代、美濃国石津郡高須(岐阜県海津市)付近を領有し、尾張徳川家御連枝である事から江戸中期以降は尾張徳川支家でした。
美濃高須家の祖は、御三家尾張徳川第二代、徳川光友の二男松平義行で、高須家は小さいながらも神君家康の血が流れています。
高須家(三万石)の第十代当主松平義建には子が多く、息子達は、「高須四兄弟」を始めとして多くが幕末期に活躍しました。
義建の次男は尾張徳川家第十四代当主徳川慶勝(慶勝は十七第も努めて居り、名古屋城最期のお殿様です。)となり、三男は石見浜田松平家当主松平武成となり、五男は高須松平家第十一代当主松平義比となった後に尾張徳川家第十五代当主徳川茂徳、さらに後には御三卿一橋家当主一橋茂栄となっています。
七男が幕末に活躍した会津松平家当主松平容保で京都守護職として徳川宗家を支え美濃高須松平家から養子に入った人物です。
九男が桑名松平家当主松平定敬となり、十男義勇は高須松平家第十三代当主となっています。
つまり義建の子息達「高須四兄弟(何で四兄弟だけ特別?)」は、次男尾張徳川家当主徳川慶勝、五男一橋家当主一橋茂栄、七男会津松平家当主松平容保(京都守護職)、九男が桑名松平家当主松平定敬(京都所司代)と、それぞれ幕末から明治維新にかけてそれぞれ大きな役割を担い、歴史に名前を残しています。
家に入れば家を守る!時代の流れとはいえ、兄弟で分かれて戦わなければならないのは考えさせられます。
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『名古屋城』は、尾張国愛知郡名古屋(現在の愛知県名古屋市中区・北区)にある城跡(現存天守ではないので)です。
「名城」「金鯱城」「金城」の異名を持ち、日本100名城に選定されており、国の特別史跡に指定されています。
名古屋城は、織田信長誕生の城とされる那古野城跡の周辺に、徳川家康が九男義直のために「天下普請(江戸幕府が全国の諸大名に命令し、行わせた土木工事のこと。)」によって築城されました。
この時、各大名は関ヶ原で徳川方に味方した事を後悔したと思います(実質天下様の家康や将軍秀忠なら未だしも、いってみれば同格の筈の大名家なんですからね~(T^T))。
徳川御三家の一つでもある尾張徳川家17代の居城として、明治まで利用されました。
大阪城、熊本城(熊本城と熊本の一日でも早い復興を願います。)とともに日本三名城に数えられているます(三名城の基準が難しいですね。)。
大天守に上げられた金の鯱は、城だけでなく名古屋の街の象徴にもなっています。
大小天守と櫓、門、御殿などの一部は昭和前期まで残存していましたが、名古屋大空襲によって大部分を焼失してしまいました。
戦後に天守などの外観が復元され、城跡は名城公園として整備されています(私が行ったときも、本丸御殿が再現公開されていました。)。
歴史的には、戦国時代の前半に今川氏親が、尾張進出のために築いた柳ノ丸が名古屋城の起源とされます。
この城は、のちの名古屋城二之丸一帯にあったと考えられています。
1532年(天文元年)、織田信秀が今川氏豊から奪取し那古野城と改名しました。
信秀は一時期この城に居住し、彼の嫡男織田信長はこの城で生まれたといわれています。
のちに信秀は古渡城に移り、那古野城は信長の居城となリましたが、1555年(弘治元年)、信長が清須城(清洲城)に本拠を移したため、一時廃城にされました。
清須城は長く尾張の中心でしたが、関ヶ原の戦い以降の政治情勢や、水害に弱い清須の地形の問題などから、徳川家康は1609年(慶長14年) に、九男義直の尾張の居城として、名古屋に城を築くことを決定、1610年(慶長15年)、西国諸大名の助役による「天下普請」で築城が開始されます。
普請奉行は滝川忠征、佐久間政実ら5名、作事奉行には大久保長安、小堀政一ら9名が任ぜられます。
縄張は普請奉行の一人である牧長勝、石垣は諸大名の分担によって築かれ、中でも最も高度な技術を要した天守台石垣は普請助役として加藤清正が築きました。
天守は作事奉行の小堀政一、大工頭には中井正清と伝えられ、1612年(慶長17年)までに大天守が完成しました。
名古屋城築城普請助役としては、加藤清正以外に、寺沢広高、細川忠興、毛利高政、生駒正俊、黒田長政、木下延俊、福島正則、池田輝政、鍋島勝茂、毛利秀就、加藤嘉明、浅野幸長、田中忠政、山内忠義、竹中重利、稲葉典通、蜂須賀至鎮、金森可重、前田利光の外様大名が石に刻印を打って石垣工事を負担し延べ558万人の工事役夫で僅か1年足らずで石垣を完成させています(この大名が関ヶ原で西軍についていたならと思いますけれどね~f(^_^;)。
清須からの移住は、名古屋城下の地割・町割を実施した1612年(慶長17年)頃から徳川義直が名古屋城に移った1616年(元和2年)の間に行われたと思われます。
この移住は清須越しと称され、家臣、町人はもとより、社寺3社110か寺、清須城小天守も移るという徹底的ぶりでした。
戦国末期の物語も興味深いですが、江戸末期~明治維新時代のお話も少しいたしましょう。
尾張徳川家第十四代当主徳川慶勝(十七第も務めています。)は美濃高須松平家の出身です。
美濃高須松平家は、江戸時代、美濃国石津郡高須(岐阜県海津市)付近を領有し、尾張徳川家御連枝である事から江戸中期以降は尾張徳川支家でした。
美濃高須家の祖は、御三家尾張徳川第二代、徳川光友の二男松平義行で、高須家は小さいながらも神君家康の血が流れています。
高須家(三万石)の第十代当主松平義建には子が多く、息子達は、「高須四兄弟」を始めとして多くが幕末期に活躍しました。
義建の次男は尾張徳川家第十四代当主徳川慶勝(慶勝は十七第も努めて居り、名古屋城最期のお殿様です。)となり、三男は石見浜田松平家当主松平武成となり、五男は高須松平家第十一代当主松平義比となった後に尾張徳川家第十五代当主徳川茂徳、さらに後には御三卿一橋家当主一橋茂栄となっています。
七男が幕末に活躍した会津松平家当主松平容保で京都守護職として徳川宗家を支え美濃高須松平家から養子に入った人物です。
九男が桑名松平家当主松平定敬となり、十男義勇は高須松平家第十三代当主となっています。
つまり義建の子息達「高須四兄弟(何で四兄弟だけ特別?)」は、次男尾張徳川家当主徳川慶勝、五男一橋家当主一橋茂栄、七男会津松平家当主松平容保(京都守護職)、九男が桑名松平家当主松平定敬(京都所司代)と、それぞれ幕末から明治維新にかけてそれぞれ大きな役割を担い、歴史に名前を残しています。
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