近代兵器?のお蔭で一人で攻略!『岐阜城(稲葉山城)』
今回の中部地方城巡りも最後に成りました。
最後を飾るのは『岐阜城』です。
近代兵器オープウエイのおかげで一人で攻略~!
「市郎右衛門」の歴史ブログをお楽しみください。
今回も写真が一杯です~(^-^)/お楽しみください!



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岐阜城は、岐阜県岐阜市(旧美濃国井之口)の金華山(稲葉山)にあった、山城跡です。
織田信長が、斎藤龍興(斎藤道三の孫)から奪取した稲葉山城の縄張りを破却して、新たに造営したものが岐阜城です。
『信長公記』に、「尾張国小真木山より濃州稲葉山へ御越しなり。井口と申すを今度改めて、岐阜と名付けさせられ」と記載されています。
さて歴史からまいりましょう!
1201年(建仁元年)二階堂行政が稲葉山に砦を築いたのが始まりとされます。
その後五代つ続きますが、廃城となっていました。
15世紀中頃 美濃守護代斎藤利永が、この城を修復して居城とします。
戦国時代の1525年(大永5年)斎藤氏家臣の長井長弘と長井新左衛門尉が謀反を起こして稲葉山城を攻撃、長井氏の支配下となりました。
1533年(天文2年)新左衛門尉が没すると、その子、長井新九郎規秀(斎藤利政、後の斎藤道三)が後を継ぎ、城主となります(ここらへんのお話は、司馬遼太郎の歴史小説、『国盗り物語』を読んで頂きますと面白いと思います。)。
1539年(天文8年)守護代になっていた斎藤利政(道三)が、稲葉山山頂に城作りを始めます。
1541年(天文10年)斎藤利政が守護の土岐頼芸を追放(下剋上の典型ですね。)。
1547年(天文16年)織田信秀、頼芸派の家臣と稲葉山城下まで攻め入るも大敗します(加納口の戦い)。
1554年(天文23年)利政、城と家督を嫡子の斎藤義龍に譲り剃髪、道三と名前を変えます。
1556年(弘治2年)4月 自分の出生を疑った義龍が(長良川の戦い)により、父道三を討ち取ります(美濃のまむしと呼ばれた斎藤道三の最後は哀れですね~)。
1561年(永禄4年)5月義龍の急死により、斎藤龍興が13歳で家督を継ぎ、城主となります。
1561年(永禄4年)6月十四条の戦い(墨俣の戦い)に勝利した織田信長が稲葉山城を攻めるも撃退されます。
1564年(永禄7年)2月斎藤氏の家臣であった竹中重治(半兵衛)と安藤守就が造反して挙兵、稲葉山城を攻めとります(一説には16名の少数だったともいわれます。)。
竹中重治らが城を半年間占拠します(竹中重治は半年間占拠した後、あっさり龍興に城を返して隠居してしまいます。)。
1567年(永禄10年)9月かねてから美濃攻略を狙っていた織田信長が西美濃三人衆の内応により稲葉山城下に進攻して城の奪取に成功(稲葉山城の戦い)。
龍興は城を捨てて長良川を舟で下り、伊勢長島へ逃亡しています。
同年信長は、本拠地を小牧城から稲葉山に移転し、古代中国で周王朝の文王が岐山によって天下を平定したのに因んで城と町の名を「岐阜」と改めます。
この後、信長は「天下布武」の朱印を用いるようになり、本格的に天下統一を目指すようになります。
1576年(天正4年)信長は嫡子織田信忠を岐阜城の城主とし、織田家の家督及び美濃、尾張の2ヶ国を譲ります。
岐阜城の整備改修は信忠によって更に追加されています。
1582年(天正10年)6月2日織田信長・信忠が本能寺の変で死亡、明智光秀は羽柴秀吉に(山崎の戦い)で敗れ、同年6月27日清洲会議により織田信孝が兄・信忠の遺領美濃国を拝領、岐阜城の城主及び、信忠の嫡子三法師の後見となります。
1583年(天正11年)4月16日信孝は、長島城主の滝川一益と呼応し再度反秀吉として挙兵。
(賤ヶ岳の戦い)によって柴田勝家が敗れ、兄織田信雄によって居城の岐阜城を包囲されると、これに降伏し信孝は切腹させられます。
その後池田氏が城主を務めた後豊臣秀勝、織田秀信(幼名・三法師)が岐阜城の城主となる。
1600年(慶長5年)織田秀信は、石田三成の挙兵に呼応し西軍につき、岐阜城に立てこもりますが、福島正則や池田輝政らに攻められて落城、輝政の説得で降伏するも、慶長10年高野山で死亡しました。
1601年(慶長6年)徳川家康は岐阜城廃城を決定!
以外な物を発見しました。板垣退助が刺されて「板垣死すとも自由は死せず」の名文句は此処で生まれたらしいです。
私、これまで板垣退助は、刺殺されたと思ってました。場所も地元土佐だと!
それに前出の名文句、秘書の発言らしい~!知らないって面白い事もあるんだな~(笑)
まだまだ勉強不足だなと感じた岐阜城でした。
さて中部城巡りも終わり~?アッ!名古屋城忘れてた。
またいつかご紹介させていただきます。
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織田信長が、斎藤龍興(斎藤道三の孫)から奪取した稲葉山城の縄張りを破却して、新たに造営したものが岐阜城です。
『信長公記』に、「尾張国小真木山より濃州稲葉山へ御越しなり。井口と申すを今度改めて、岐阜と名付けさせられ」と記載されています。
さて歴史からまいりましょう!
1201年(建仁元年)二階堂行政が稲葉山に砦を築いたのが始まりとされます。
その後五代つ続きますが、廃城となっていました。
15世紀中頃 美濃守護代斎藤利永が、この城を修復して居城とします。
戦国時代の1525年(大永5年)斎藤氏家臣の長井長弘と長井新左衛門尉が謀反を起こして稲葉山城を攻撃、長井氏の支配下となりました。
1533年(天文2年)新左衛門尉が没すると、その子、長井新九郎規秀(斎藤利政、後の斎藤道三)が後を継ぎ、城主となります(ここらへんのお話は、司馬遼太郎の歴史小説、『国盗り物語』を読んで頂きますと面白いと思います。)。
1539年(天文8年)守護代になっていた斎藤利政(道三)が、稲葉山山頂に城作りを始めます。
1541年(天文10年)斎藤利政が守護の土岐頼芸を追放(下剋上の典型ですね。)。
1547年(天文16年)織田信秀、頼芸派の家臣と稲葉山城下まで攻め入るも大敗します(加納口の戦い)。
1554年(天文23年)利政、城と家督を嫡子の斎藤義龍に譲り剃髪、道三と名前を変えます。
1556年(弘治2年)4月 自分の出生を疑った義龍が(長良川の戦い)により、父道三を討ち取ります(美濃のまむしと呼ばれた斎藤道三の最後は哀れですね~)。
1561年(永禄4年)5月義龍の急死により、斎藤龍興が13歳で家督を継ぎ、城主となります。
1561年(永禄4年)6月十四条の戦い(墨俣の戦い)に勝利した織田信長が稲葉山城を攻めるも撃退されます。
1564年(永禄7年)2月斎藤氏の家臣であった竹中重治(半兵衛)と安藤守就が造反して挙兵、稲葉山城を攻めとります(一説には16名の少数だったともいわれます。)。
竹中重治らが城を半年間占拠します(竹中重治は半年間占拠した後、あっさり龍興に城を返して隠居してしまいます。)。
1567年(永禄10年)9月かねてから美濃攻略を狙っていた織田信長が西美濃三人衆の内応により稲葉山城下に進攻して城の奪取に成功(稲葉山城の戦い)。
龍興は城を捨てて長良川を舟で下り、伊勢長島へ逃亡しています。
同年信長は、本拠地を小牧城から稲葉山に移転し、古代中国で周王朝の文王が岐山によって天下を平定したのに因んで城と町の名を「岐阜」と改めます。
この後、信長は「天下布武」の朱印を用いるようになり、本格的に天下統一を目指すようになります。
1576年(天正4年)信長は嫡子織田信忠を岐阜城の城主とし、織田家の家督及び美濃、尾張の2ヶ国を譲ります。
岐阜城の整備改修は信忠によって更に追加されています。
1582年(天正10年)6月2日織田信長・信忠が本能寺の変で死亡、明智光秀は羽柴秀吉に(山崎の戦い)で敗れ、同年6月27日清洲会議により織田信孝が兄・信忠の遺領美濃国を拝領、岐阜城の城主及び、信忠の嫡子三法師の後見となります。
1583年(天正11年)4月16日信孝は、長島城主の滝川一益と呼応し再度反秀吉として挙兵。
(賤ヶ岳の戦い)によって柴田勝家が敗れ、兄織田信雄によって居城の岐阜城を包囲されると、これに降伏し信孝は切腹させられます。
その後池田氏が城主を務めた後豊臣秀勝、織田秀信(幼名・三法師)が岐阜城の城主となる。
1600年(慶長5年)織田秀信は、石田三成の挙兵に呼応し西軍につき、岐阜城に立てこもりますが、福島正則や池田輝政らに攻められて落城、輝政の説得で降伏するも、慶長10年高野山で死亡しました。
1601年(慶長6年)徳川家康は岐阜城廃城を決定!
以外な物を発見しました。板垣退助が刺されて「板垣死すとも自由は死せず」の名文句は此処で生まれたらしいです。
私、これまで板垣退助は、刺殺されたと思ってました。場所も地元土佐だと!
それに前出の名文句、秘書の発言らしい~!知らないって面白い事もあるんだな~(笑)
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