通好みNo.1、渋すぎるぜ!国宝『犬山城』
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今回ご紹介するのは、国宝『犬山城』です、愛知県犬山市にある城です。
現在天守が現存し、江戸時代までに建造された「現存天守12城(少ないのです)」のひとつです。
また天守が国宝指定された5城のうちの一つに成ります(他は姫路城、松本城、彦根城、松江城!私が訪れていないのは松本城です~(ToT))。
木曽川沿いの高さ約88メートルほどの丘に築かれた平山城です。
別名は、「白帝城」木曽川沿いの丘上にある城のたたずまいを、長江流域の丘上にある白帝城を詠った李白の詩「早發白帝城」(早に白帝城を発す)にちなんで、荻生徂徠が命名したと伝えられています。
前身となる砦を織田信長の叔父・織田信康が改修して築いたものを石川貞清(光吉)が改修し現在のような城の形となりました。
この際の建築用材は美濃金山城の建物全てを解体移築したといわれ、「金山越」の伝承がありましたが、1961年(昭和36年)の解体修理の際の調査の結果、移築の痕跡がまったく発見されなかったため、移築説は現在は否定されています。
江戸時代に入って元和3年(1617年)、尾張藩の付家老成瀬正成が入城し、以来成瀬氏9代が明治まで城主として居城としました。
現存する天守が建てられた年代については天文期説、慶長期説などがありますが、現在のような姿となったのは成瀬正成が改修した1617年(元和3年)ごろと推測されます。
2004年まで、城主であった成瀬氏が個人所有する文化財でしたが、個人所有では財政面等、維持が困難なことから、成瀬一族の中から城主に選ばれた成瀬淳子(13代当主成瀬正浩の妹)は財団法人『犬山城白帝文庫』を設立して理事長に就任し、犬山城は個人所有でなくなりました。
戦国~安土桃山時代の城の歴史です、1469年(文明元年) 織田広近がこの地に砦を築いたのが始まりといわれます。1537年(天文6年) 織田信康は居城の木ノ下城を廃し、現在の位置に城郭(乾山の砦)を造営して移った。現存する天守の2階まではこのころ造られたと考えられています。
1544年(天文13年) 信康が斎藤道三との戦いで戦死して子の信清が城主となりますが、信清は織田信長と領地を巡って対立し、永禄8年(1565年)、ついに従兄弟である信長によって攻略されてしまいます。
犬山城攻略を足掛かりとして、信長は美濃への侵攻を本格化させていきました。
以後、池田恒興や織田勝長などが城主を務めました。
本能寺の変での信長の死後、時を経て天正12年(1584年)に起きた小牧長久手の戦いの折には織田信雄の家臣中川定成が城主となっていましたが、かつての城主池田恒興が突如、奇襲をかけ、信雄方から奪取します。
城は、羽柴秀吉の手に落ち、秀吉は犬山城を本営として小牧山城に陣を構えた徳川家康と戦いました。
戦後は再び織田信雄の城となりますが、信雄の失脚後は三好吉房などが城主を務めます。
豊臣時代には石川貞清が城主となりましたが、関ヶ原の戦いにおいては西軍の諸将入城に際して、戦わずして開城しています。
勿論西軍に属した為に没落したことはいうまでもありません。
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木曽川沿いの高さ約88メートルほどの丘に築かれた平山城です。
別名は、「白帝城」木曽川沿いの丘上にある城のたたずまいを、長江流域の丘上にある白帝城を詠った李白の詩「早發白帝城」(早に白帝城を発す)にちなんで、荻生徂徠が命名したと伝えられています。
前身となる砦を織田信長の叔父・織田信康が改修して築いたものを石川貞清(光吉)が改修し現在のような城の形となりました。
この際の建築用材は美濃金山城の建物全てを解体移築したといわれ、「金山越」の伝承がありましたが、1961年(昭和36年)の解体修理の際の調査の結果、移築の痕跡がまったく発見されなかったため、移築説は現在は否定されています。
江戸時代に入って元和3年(1617年)、尾張藩の付家老成瀬正成が入城し、以来成瀬氏9代が明治まで城主として居城としました。
現存する天守が建てられた年代については天文期説、慶長期説などがありますが、現在のような姿となったのは成瀬正成が改修した1617年(元和3年)ごろと推測されます。
2004年まで、城主であった成瀬氏が個人所有する文化財でしたが、個人所有では財政面等、維持が困難なことから、成瀬一族の中から城主に選ばれた成瀬淳子(13代当主成瀬正浩の妹)は財団法人『犬山城白帝文庫』を設立して理事長に就任し、犬山城は個人所有でなくなりました。
戦国~安土桃山時代の城の歴史です、1469年(文明元年) 織田広近がこの地に砦を築いたのが始まりといわれます。1537年(天文6年) 織田信康は居城の木ノ下城を廃し、現在の位置に城郭(乾山の砦)を造営して移った。現存する天守の2階まではこのころ造られたと考えられています。
1544年(天文13年) 信康が斎藤道三との戦いで戦死して子の信清が城主となりますが、信清は織田信長と領地を巡って対立し、永禄8年(1565年)、ついに従兄弟である信長によって攻略されてしまいます。
犬山城攻略を足掛かりとして、信長は美濃への侵攻を本格化させていきました。
以後、池田恒興や織田勝長などが城主を務めました。
本能寺の変での信長の死後、時を経て天正12年(1584年)に起きた小牧長久手の戦いの折には織田信雄の家臣中川定成が城主となっていましたが、かつての城主池田恒興が突如、奇襲をかけ、信雄方から奪取します。
城は、羽柴秀吉の手に落ち、秀吉は犬山城を本営として小牧山城に陣を構えた徳川家康と戦いました。
戦後は再び織田信雄の城となりますが、信雄の失脚後は三好吉房などが城主を務めます。
豊臣時代には石川貞清が城主となりましたが、関ヶ原の戦いにおいては西軍の諸将入城に際して、戦わずして開城しています。
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