またミステリーが一つ解き明かされる?山陰出雲国の法隆寺!『上淀廃寺跡』
『上淀廃寺』ご存知ですか?
まず知らない方がほとんどだと思います。
私も米子市に単身赴任しなければ、一生知る今年は無かったかもしれません!
正式には「上淀廃寺跡」になりますが、凄いお寺ですし、古代の出雲国がいかに、中央(大和政権)にとって重要であったか、解る気がします。
それでは「廃寺跡」をご紹介しましょう(笑)。
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「上淀廃寺跡」は、現在の米子市淀江町福岡に存在した、飛鳥時代(7世紀終り頃)に建てられた寺院の跡です。
上淀廃寺跡が創建されたのは、白鳳時代(狭義では天武~持統朝 (673~697) から平城京遷都 (710) までの約 40年間をいい,広義には大化改新 (645) から平城京遷都までの約 60年間)で、法隆寺と並ぶ国内最古の彩色された仏教壁画が発見されました。
平成3年2月(1991年)から発掘調査を行い、5月には金堂跡から法隆寺金堂壁画と並ぶ我が国最古の寺院壁画が出土し、飛鳥時代の堂塔内部を復元しうる数少ない寺院跡として、平成8年(1996年)に国の史跡に指定されました。
壁画は金堂の壁の内側に描かれていたもので、自然の絵の具を使って、仏や風景が描かれており、「変相図」と呼ばれる仏教の物語が描かれていたものと考えられます。
壁土は現在までに約4,300点が出土し、そのうち約1,300点の壁画が含まれ、そのほか壁土に混じって仏像の破片約1,900点やコンテナ約1,800箱分の瓦などが出土しました。
三つの塔を建立する例は、奈良時代以前の国内には例がなく、また、南北に並ぶ例は朝鮮半島にもありません。
現在は、塔の心礎や基壇を忠実に再現したものを見学することができます。
建立者はわかっていませんが、堂塔以外にも倉庫など多くの付属施設をもつ、地方では大規模な寺院であったことは間違いありません。
古代社会制度の崩壊が進む平安時代中期(11世紀)に焼失してしまいその後再建されることはありませんでした。
上淀地区にあった名前のわからない寺という意味で「上淀廃寺」と呼ばれています。
上淀白鳳の丘展示館で復元された実寸大の金堂をあわせて見学することで、まるで当時の風景が甦ってくるようです(申し訳ありません見ていません、ソフトクリームだけ外で買って次へ、取材は厳し~い)。
この遺跡横の道は、牛馬市が盛んであった大山博労座(ばくろうざ)へ続きます。
商人たちが行きかい、とても賑わいのあった場所だとも言われています。
法隆寺金堂壁画に匹敵するほどの壁画を備える大寺院が存在したこの地には、ほかにも「妻木晩田遺跡」、「向山古墳群」など山陰地方の弥生時代像の見直しを迫る資料が数多く発見されており、先人の息吹と古代ロマンにおのずと興味を掻き立てられます。
常々申しておりますように、私理系で歴史は好きですが、専門的に研究したわけではありません。
ですから必ず現地に赴いて、感じたことをブログに書かせていただいております。
この地でも、太古の岡にたたずみながら、しばし歴史の偉大さを実感。
感慨にふけりながら、山陰「広義の出雲国」とは中央の大和(倭)政権にとってなんだったのだろうと、改めて歴史の面白さを実感した市郎右衛門でした。
いつも応援、ありがとうございますm(__)m。
歴史って本当に面白いですよね~!
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まず知らない方がほとんどだと思います。
私も米子市に単身赴任しなければ、一生知る今年は無かったかもしれません!
正式には「上淀廃寺跡」になりますが、凄いお寺ですし、古代の出雲国がいかに、中央(大和政権)にとって重要であったか、解る気がします。
それでは「廃寺跡」をご紹介しましょう(笑)。
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「上淀廃寺跡」は、現在の米子市淀江町福岡に存在した、飛鳥時代(7世紀終り頃)に建てられた寺院の跡です。
上淀廃寺跡が創建されたのは、白鳳時代(狭義では天武~持統朝 (673~697) から平城京遷都 (710) までの約 40年間をいい,広義には大化改新 (645) から平城京遷都までの約 60年間)で、法隆寺と並ぶ国内最古の彩色された仏教壁画が発見されました。
平成3年2月(1991年)から発掘調査を行い、5月には金堂跡から法隆寺金堂壁画と並ぶ我が国最古の寺院壁画が出土し、飛鳥時代の堂塔内部を復元しうる数少ない寺院跡として、平成8年(1996年)に国の史跡に指定されました。
壁画は金堂の壁の内側に描かれていたもので、自然の絵の具を使って、仏や風景が描かれており、「変相図」と呼ばれる仏教の物語が描かれていたものと考えられます。
壁土は現在までに約4,300点が出土し、そのうち約1,300点の壁画が含まれ、そのほか壁土に混じって仏像の破片約1,900点やコンテナ約1,800箱分の瓦などが出土しました。
(こちらの復元図にも三番目の塔が見えません、発掘調査でも微妙だったのかな?)
また、西に金堂、東に南北三つの塔が配置され、他に例のない独特な配置となっており、堂塔配置が規格的である古代の寺院において他に例が無く、建立者の独創性が窺えるこの寺院の特徴となっています。三つの塔を建立する例は、奈良時代以前の国内には例がなく、また、南北に並ぶ例は朝鮮半島にもありません。
現在は、塔の心礎や基壇を忠実に再現したものを見学することができます。
建立者はわかっていませんが、堂塔以外にも倉庫など多くの付属施設をもつ、地方では大規模な寺院であったことは間違いありません。
古代社会制度の崩壊が進む平安時代中期(11世紀)に焼失してしまいその後再建されることはありませんでした。
上淀地区にあった名前のわからない寺という意味で「上淀廃寺」と呼ばれています。
上淀白鳳の丘展示館で復元された実寸大の金堂をあわせて見学することで、まるで当時の風景が甦ってくるようです(申し訳ありません見ていません、ソフトクリームだけ外で買って次へ、取材は厳し~い)。
この遺跡横の道は、牛馬市が盛んであった大山博労座(ばくろうざ)へ続きます。
商人たちが行きかい、とても賑わいのあった場所だとも言われています。
法隆寺金堂壁画に匹敵するほどの壁画を備える大寺院が存在したこの地には、ほかにも「妻木晩田遺跡」、「向山古墳群」など山陰地方の弥生時代像の見直しを迫る資料が数多く発見されており、先人の息吹と古代ロマンにおのずと興味を掻き立てられます。
常々申しておりますように、私理系で歴史は好きですが、専門的に研究したわけではありません。
ですから必ず現地に赴いて、感じたことをブログに書かせていただいております。
この地でも、太古の岡にたたずみながら、しばし歴史の偉大さを実感。
感慨にふけりながら、山陰「広義の出雲国」とは中央の大和(倭)政権にとってなんだったのだろうと、改めて歴史の面白さを実感した市郎右衛門でした。
いつも応援、ありがとうございますm(__)m。
歴史って本当に面白いですよね~!
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