「藤吉郎」立身出世を始める!『墨俣一夜城』
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木下藤吉郎(豊臣秀吉)の一夜城で有名な『墨俣城』は、現在の岐阜県大垣市墨俣町墨俣にあった戦国時代の城です。
長良川西岸の洲股(墨俣)の地は交通戦略上の要地で、戦国時代以前からしばしば合戦の舞台となっていました。
1561年(永禄4年)ないし1566年(永禄9年)の織田信長による美濃侵攻にあたって、木下藤吉郎(後の豊臣秀吉)がわずかな期間でこの地に城を築いたと伝えられています。
これがいわゆる墨俣一夜城ですが、不明な点が多く、様々な議論がありますね。
現在、墨俣城跡の北西側は一夜城跡として公園に整備されています。
公園内には大垣城の天守を模した墨俣一夜城歴史資料館が建てられていますが、史実上の外観とは全く違う綺麗な模擬天守が立っています。
また、公園内にある白鬚神社(式内社荒方神社の説がある)には境内社として模擬天守閣が築かれたさいに分祀された豊国神社があり、豊臣秀吉が祀られています。
さて、何時も問題に成るのは、藤吉郎がいかにして一夜で城を作ったのか?ということですよね~?
蜂須賀小六との出合いや木曽の木材を切り出し、筏に組んで組み立てるだけにして、一夜にして城を築いたとの通説も有りますし、本やドラマでもその様な記述やシーンが有ります。
信長の生涯を記録した『信長公記』に大きなヒントが有りました。
『信長公記』巻首「十四条合戦の事」に、洲股要害の修築を命じ、十四条で美濃勢と合戦に及んで勝利、洲股帰城の後これを引き払う、との記述です。
「修築」と有りますね~。つまり修理築城!城は元から有ったのです。確かに木材の準備など、木下藤吉郎は周到だったかも知れませんが、元々城が有った場所に木材を持ち込んで、修理改修工事で強固な城にしたというのが事実かと考えます。
墨俣城が最後に歴史にその名を記すのは天正12年4月で、小牧・長久手の戦いを目前にして当時美濃を支配していた池田恒興の家臣伊木忠次が改修したとあります。
その2年後の天正14年6月、木曽三川の大氾濫で木曽川の流路が現在の位置に収まったので、墨俣は戦略上の重要性を失い、この地が城として使われることは有りませんでした。
立身出世を望む皆さん(窓際族ならぬベランダ迄追いやられている私には関係無いですがf(^_^;)是非訪れて見ては如何でしょうか?豊国神社と合わせて御利益が有りそうです。
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1561年(永禄4年)ないし1566年(永禄9年)の織田信長による美濃侵攻にあたって、木下藤吉郎(後の豊臣秀吉)がわずかな期間でこの地に城を築いたと伝えられています。
これがいわゆる墨俣一夜城ですが、不明な点が多く、様々な議論がありますね。
現在、墨俣城跡の北西側は一夜城跡として公園に整備されています。
公園内には大垣城の天守を模した墨俣一夜城歴史資料館が建てられていますが、史実上の外観とは全く違う綺麗な模擬天守が立っています。
また、公園内にある白鬚神社(式内社荒方神社の説がある)には境内社として模擬天守閣が築かれたさいに分祀された豊国神社があり、豊臣秀吉が祀られています。
さて、何時も問題に成るのは、藤吉郎がいかにして一夜で城を作ったのか?ということですよね~?
蜂須賀小六との出合いや木曽の木材を切り出し、筏に組んで組み立てるだけにして、一夜にして城を築いたとの通説も有りますし、本やドラマでもその様な記述やシーンが有ります。
信長の生涯を記録した『信長公記』に大きなヒントが有りました。
『信長公記』巻首「十四条合戦の事」に、洲股要害の修築を命じ、十四条で美濃勢と合戦に及んで勝利、洲股帰城の後これを引き払う、との記述です。
「修築」と有りますね~。つまり修理築城!城は元から有ったのです。確かに木材の準備など、木下藤吉郎は周到だったかも知れませんが、元々城が有った場所に木材を持ち込んで、修理改修工事で強固な城にしたというのが事実かと考えます。
墨俣城が最後に歴史にその名を記すのは天正12年4月で、小牧・長久手の戦いを目前にして当時美濃を支配していた池田恒興の家臣伊木忠次が改修したとあります。
その2年後の天正14年6月、木曽三川の大氾濫で木曽川の流路が現在の位置に収まったので、墨俣は戦略上の重要性を失い、この地が城として使われることは有りませんでした。
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