織田信長の天下取りへの第一歩は「岐阜城(稲葉山城)」ではなく『小牧城』だった!
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今回ご紹介するのは、愛知県の『小牧城』です。
小牧山は、愛知県小牧市にある標高86mの山です。
かつて織田信長の居城であった、「小牧城(記載に小牧山城とも在りましたが小牧城で統一しました)」が在りました。現在は山全体が公園となっており、桜の名所としても知られるます。なお現在、山頂にある模擬天守は、昭和48年(1967年)に建てられたものです(駐車場が無くて小牧青年の家の駐車場をお借りしました)。
いつもお話ししていますように、基本実際にその場に立って、実感したイメージを大事にしたいので、訪れた場所以外はほぼブログにすることはありません。神戸住まいの私が愛知県の城をブログにUPすることはごくまれなことに成りますね(今回はそのまれな例です、笑)。
その上に今回ご紹介する小牧城(笑)、ブログを書くことを前提に訪れていない(当時は御朱印集めに夢中でブログなど思いもよりませんでした。)上に、熱田神宮、名古屋城、犬山城、岐阜城、安土城巡りの強行軍中!この後ご紹介する発掘調査の途中で、城郭としての重要性も認知しておりませんでした。つまり写真が無い事のいいわけなのですが、お許しください。
かつてこの山の頂上には、織田信長の命により、山城が建てられていました。
濃尾平野の孤峰である小牧山に築城された城で、織田信長が美濃攻めを終えるまでの4年間しか使用されなかったため、急造の砦に近いものと想像されていましたが、近年の発掘調査の結果で、城郭を取り巻く三重の石垣(三段の石垣で一番下の段は腰巻石垣)が発見されました(これまでの通説「石垣が取り入れられたのは安土城」を覆す発見です)。
そして城の南部の発掘調査では、小牧山築城によって移転してきた住民によって営まれた町割も発見され、戦時急造の城ではなく、清州城に代わる新たな拠点として築かれた城郭であることが判明しています。
現在は小牧城が後に織豊系城郭と呼ばれる城郭体系の原点であるとされています。
築城の歴史ですが、織田信長は、永禄3年5月19日桶狭間の戦いに勝利したのち、念願の美濃国併呑を実現すべく、早くもその3ヶ月後から美濃攻めを開始します。
永禄5年1月15日には徳川家康と清須城において清洲同盟を結び、東国の脅威を排除します。
間を置かず、信長は美濃を攻める体制を整えるために、美濃に近い尾張北方へ本拠地を前進する策を実行します。
この新しい本拠地に選ばれたのが、広大な濃尾平野の中心地小牧山でした。
永禄6年、丹羽長秀を奉行として小牧山山頂に城を築き、7月には主要兵力を小牧城に移しています。
その後、美濃攻めに成功した信長が、永禄10年、岐阜城に本拠地を写したために、四年間で歴史の舞台から忘れ去られますが、後に豊臣秀吉VS徳川家康の小牧・長久手の戦いで、徳川家康が使用した事で脚光を浴びることに成ります。
家康がいち早く小牧山に目を付けて本陣を置き、遅れてきた秀吉を悔しがらせたといわれています。
この時、信長の築いた城跡の土塁、空堀などに大規模な改修が施され、「城」とみなせるほど強固な陣地が築かれました(前出のように、信長の築城時からかなりの城だったことが、新たな発掘調査で証明されました)。
秀吉の大軍も容易に手が出せず、焦った池田恒興や森長可が三河への長駆攻撃を敢行し、長久手方面へ突出して壊滅する事態となってしまいます。
急造?「小牧城」は、徳川勝利の一翼を担ったことになります。
平野の真中にあり周りに視界をさえぎる高い山も無いために、山の頂上にある小牧城からは周囲を見渡す事ができます。
山の大きさは、東西約600メートル、南北約400メートル程です。
公園内には、かつての城跡や、曲輪や井戸の跡、土塁を復元した物などの歴史的資料が展示されています。
最後の模擬天守もこんなで申し訳ございません(ちょうど石垣の発掘中で~笑!近頃言い訳が多いかな?次はびしっとね)
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小牧山は、愛知県小牧市にある標高86mの山です。
かつて織田信長の居城であった、「小牧城(記載に小牧山城とも在りましたが小牧城で統一しました)」が在りました。現在は山全体が公園となっており、桜の名所としても知られるます。なお現在、山頂にある模擬天守は、昭和48年(1967年)に建てられたものです(駐車場が無くて小牧青年の家の駐車場をお借りしました)。
いつもお話ししていますように、基本実際にその場に立って、実感したイメージを大事にしたいので、訪れた場所以外はほぼブログにすることはありません。神戸住まいの私が愛知県の城をブログにUPすることはごくまれなことに成りますね(今回はそのまれな例です、笑)。
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かつてこの山の頂上には、織田信長の命により、山城が建てられていました。
濃尾平野の孤峰である小牧山に築城された城で、織田信長が美濃攻めを終えるまでの4年間しか使用されなかったため、急造の砦に近いものと想像されていましたが、近年の発掘調査の結果で、城郭を取り巻く三重の石垣(三段の石垣で一番下の段は腰巻石垣)が発見されました(これまでの通説「石垣が取り入れられたのは安土城」を覆す発見です)。
そして城の南部の発掘調査では、小牧山築城によって移転してきた住民によって営まれた町割も発見され、戦時急造の城ではなく、清州城に代わる新たな拠点として築かれた城郭であることが判明しています。
現在は小牧城が後に織豊系城郭と呼ばれる城郭体系の原点であるとされています。
築城の歴史ですが、織田信長は、永禄3年5月19日桶狭間の戦いに勝利したのち、念願の美濃国併呑を実現すべく、早くもその3ヶ月後から美濃攻めを開始します。
永禄5年1月15日には徳川家康と清須城において清洲同盟を結び、東国の脅威を排除します。
間を置かず、信長は美濃を攻める体制を整えるために、美濃に近い尾張北方へ本拠地を前進する策を実行します。
この新しい本拠地に選ばれたのが、広大な濃尾平野の中心地小牧山でした。
永禄6年、丹羽長秀を奉行として小牧山山頂に城を築き、7月には主要兵力を小牧城に移しています。
その後、美濃攻めに成功した信長が、永禄10年、岐阜城に本拠地を写したために、四年間で歴史の舞台から忘れ去られますが、後に豊臣秀吉VS徳川家康の小牧・長久手の戦いで、徳川家康が使用した事で脚光を浴びることに成ります。
家康がいち早く小牧山に目を付けて本陣を置き、遅れてきた秀吉を悔しがらせたといわれています。
この時、信長の築いた城跡の土塁、空堀などに大規模な改修が施され、「城」とみなせるほど強固な陣地が築かれました(前出のように、信長の築城時からかなりの城だったことが、新たな発掘調査で証明されました)。
秀吉の大軍も容易に手が出せず、焦った池田恒興や森長可が三河への長駆攻撃を敢行し、長久手方面へ突出して壊滅する事態となってしまいます。
急造?「小牧城」は、徳川勝利の一翼を担ったことになります。
平野の真中にあり周りに視界をさえぎる高い山も無いために、山の頂上にある小牧城からは周囲を見渡す事ができます。
山の大きさは、東西約600メートル、南北約400メートル程です。
公園内には、かつての城跡や、曲輪や井戸の跡、土塁を復元した物などの歴史的資料が展示されています。
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