「悪党」を祀る?建武新政の立役者『楠木正成』を祀る『湊川神社』
お盆で実家に帰省していて久しぶりになりましたが、毎日多くの方々に読んでいただいたようで感激です。
時代が極端に前後するのは私の不徳のいたすところです。ご勘弁ください。
今回は鎌倉時代の終焉と室町時代の始まりの頃のお話です。
建武の新政の立役者『楠木正成』の最期と正成をお祀りする『湊川神社』についてお話します。
その前に、ブログを書くに当たっての私の課題ですが、大きな城や神社仏閣だと、説明が長くなって論点が複雑化してずれてしまったり、時代背景部分の解説も当然長くなって詠みづらくなってしまいます。
例えば、姫路城(国宝という観点だけではなく、世界遺産、築城から何度もの建て替え、改修、さらには城主家の交代等)伊勢神宮(神話から建設、遷宮に内宮・外宮をはじめとする125の宮社等)や清水寺( 歴史、境内の建造物、御本尊、文化財、雑学 等)等はハッキリいって私には重くて、二の足を踏んでいます。
せっかく訪れた場所ですから、何時かはUPしなければいけない、とは勿論考えてはいるのですが、幾度もの投稿に分けないと書けないでしょうし、また書きたいこともいっぱいに成りますが、私の説明・解説力や文章力がまだまだだと自覚しておりますので、そう簡単にはまいりません。
気長にお待ち頂きますよう宜しくお願い致します。
『湊川神社』も大きな歴史有る神社(建築は新しいのですが)なので、その傾向に有ると思うのですが、時代背景は以前に、後醍醐天皇と名和長年のお話をUPさせて頂きましたので、二話程度?でまとめられるかと考えております。
湊川神社は、兵庫県神戸市中央区多聞通三丁目にある『楠木正成』を祭る神社です。
地元では親しみを込めて「楠公さん」と呼ばれている。
建武中興十五社の一社で、旧社格は別格官幣社です。
楠木正成は、鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての武将です。
【 元弘の変の始まりと 楠木正成の活躍】
1331年(元弘元年)8月、後醍醐天皇の側近である吉田定房が六波羅探題(幕府の出張機関として公家方の行動を監視させるとともに,洛中警固と西国御家人の統制を任務としました。)に倒幕計画を密告し、またも(正中の変での発覚に続いて!)計画は事前に発覚してしまいます。
六波羅探題は軍勢を御所の中にまで送り、後醍醐天皇は女装して御所を脱出し、比叡山へ向かうと見せかけて山城国笠置山で挙兵します。
後醍醐天皇の皇子・護良親王や、河内国の悪党・楠木正成もこれに呼応して、それぞれ大和国の吉野および河内国の下赤坂城で挙兵します。
これに対し、鎌倉幕府は大仏貞直、金沢貞冬、足利高氏(後の尊氏)、新田義貞らの討伐軍を差し向けます。
9月に笠置山は陥落(笠置山の戦い)、次いで吉野も陥落し、楠木軍が守る下赤坂城のみが残ることとなります。
ここで幕府軍は苦戦を強いられる事に成ります。
楠木軍は城壁に取り付いた幕府軍に対して大木を落としたり、熱湯を浴びせかけたり、予め設けておいた二重塀を落としたりといった奇策を駆使して城を死守します。
攻防戦としては勝ちをおさめた楠木正成ですが、長期間の抗戦は不可能であると理解していたようで、10月、自ら下赤坂城に火をかけて自害したように見せかけ、姿をくらませました(京都で鼻毛多聞として活躍とも、太平記ではね~笑!)。
鎌倉幕府からは「悪党」と呼ばれ、恐れられました。
その後時代は、後醍醐天皇の捕縛、隠岐配流、隠岐脱出、鎌倉幕府滅亡、建武の親政と進みますが、中略させて頂きます。
書いていたらブログUP数にきりがなくなりますので!以前紹介した投稿ページ(鎌倉幕府消滅の足音)を貼っておきますので、そちをご参考下さい。
鎌倉幕府消滅の足音『鎌倉幕府』VS『後醍醐天皇』をお読み下さいm(__)m
楠木正成は建武の新政の立役者として足利尊氏らと共に活躍して後醍醐天皇を助けました。
楠木正成の木、同じく建武の新政下で重用された、名和長年は伯耆(キ)守、結城(キ)親光、千種(クサ)忠顕と合わせて「三木一草」と称されました。
建武2年(1335年)、中先代の乱を討伐に向かった足利尊氏が、鎌倉で新政に離反し、追討の命を受けた新田義貞を破って京へ迫りました。
楠木正成は北畠顕家らと連携し、足利方を京より駆逐しました。
次に行かせていただきますm(__)m
足利尊氏の離反後は、南朝側の軍の一翼を担い奮戦しますが、九州に逃れて力を蓄えた足利尊氏に、神戸湊川の戦いで破れて自害しました。
さあ、神社の様子をご紹介いたしましょう。
以前近くに勤務していたので、塀の外をよく通りました。
夕方になるとよく蝙蝠が神社の森から出てきて飛びまわってました。
神戸のど真ん中なのにね~!(驚)。

(時代は江戸末期に移るのですが、勤皇思想は受け継がれたようです。)
ちなみに、黄門とは官職「中納言」の事で水戸権中納言が正式の官職です。
水戸家は将軍補佐のため参勤交代もなく江戸定府が決まりで、水戸光圀は日本漫遊はおろか江戸からも移動していないと思います。
江戸期を通じて副将軍が置かれたことは有りません。
角さんの「先の副将軍!水戸光圀公に在らせられるぞ~」は勿論作り話というわけです。
楠木正成は後醍醐天皇から菊紋を下賜されましたが、畏れ多いとして下半分を水に流したといわれています。
正に正成の紋にふさわしいですね。
次回は、離反した足利尊氏との最終決戦と特別に見せて頂いた自害の場所等をご紹介します。
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時代が極端に前後するのは私の不徳のいたすところです。ご勘弁ください。
今回は鎌倉時代の終焉と室町時代の始まりの頃のお話です。
建武の新政の立役者『楠木正成』の最期と正成をお祀りする『湊川神社』についてお話します。
その前に、ブログを書くに当たっての私の課題ですが、大きな城や神社仏閣だと、説明が長くなって論点が複雑化してずれてしまったり、時代背景部分の解説も当然長くなって詠みづらくなってしまいます。
例えば、姫路城(国宝という観点だけではなく、世界遺産、築城から何度もの建て替え、改修、さらには城主家の交代等)伊勢神宮(神話から建設、遷宮に内宮・外宮をはじめとする125の宮社等)や清水寺( 歴史、境内の建造物、御本尊、文化財、雑学 等)等はハッキリいって私には重くて、二の足を踏んでいます。
せっかく訪れた場所ですから、何時かはUPしなければいけない、とは勿論考えてはいるのですが、幾度もの投稿に分けないと書けないでしょうし、また書きたいこともいっぱいに成りますが、私の説明・解説力や文章力がまだまだだと自覚しておりますので、そう簡単にはまいりません。
気長にお待ち頂きますよう宜しくお願い致します。
『湊川神社』も大きな歴史有る神社(建築は新しいのですが)なので、その傾向に有ると思うのですが、時代背景は以前に、後醍醐天皇と名和長年のお話をUPさせて頂きましたので、二話程度?でまとめられるかと考えております。
湊川神社は、兵庫県神戸市中央区多聞通三丁目にある『楠木正成』を祭る神社です。
地元では親しみを込めて「楠公さん」と呼ばれている。
建武中興十五社の一社で、旧社格は別格官幣社です。
楠木正成は、鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての武将です。
【 元弘の変の始まりと 楠木正成の活躍】
1331年(元弘元年)8月、後醍醐天皇の側近である吉田定房が六波羅探題(幕府の出張機関として公家方の行動を監視させるとともに,洛中警固と西国御家人の統制を任務としました。)に倒幕計画を密告し、またも(正中の変での発覚に続いて!)計画は事前に発覚してしまいます。
六波羅探題は軍勢を御所の中にまで送り、後醍醐天皇は女装して御所を脱出し、比叡山へ向かうと見せかけて山城国笠置山で挙兵します。
後醍醐天皇の皇子・護良親王や、河内国の悪党・楠木正成もこれに呼応して、それぞれ大和国の吉野および河内国の下赤坂城で挙兵します。
これに対し、鎌倉幕府は大仏貞直、金沢貞冬、足利高氏(後の尊氏)、新田義貞らの討伐軍を差し向けます。
9月に笠置山は陥落(笠置山の戦い)、次いで吉野も陥落し、楠木軍が守る下赤坂城のみが残ることとなります。
ここで幕府軍は苦戦を強いられる事に成ります。
楠木軍は城壁に取り付いた幕府軍に対して大木を落としたり、熱湯を浴びせかけたり、予め設けておいた二重塀を落としたりといった奇策を駆使して城を死守します。
攻防戦としては勝ちをおさめた楠木正成ですが、長期間の抗戦は不可能であると理解していたようで、10月、自ら下赤坂城に火をかけて自害したように見せかけ、姿をくらませました(京都で鼻毛多聞として活躍とも、太平記ではね~笑!)。
鎌倉幕府からは「悪党」と呼ばれ、恐れられました。
その後時代は、後醍醐天皇の捕縛、隠岐配流、隠岐脱出、鎌倉幕府滅亡、建武の親政と進みますが、中略させて頂きます。
書いていたらブログUP数にきりがなくなりますので!以前紹介した投稿ページ(鎌倉幕府消滅の足音)を貼っておきますので、そちをご参考下さい。
鎌倉幕府消滅の足音『鎌倉幕府』VS『後醍醐天皇』をお読み下さいm(__)m
楠木正成は建武の新政の立役者として足利尊氏らと共に活躍して後醍醐天皇を助けました。
楠木正成の木、同じく建武の新政下で重用された、名和長年は伯耆(キ)守、結城(キ)親光、千種(クサ)忠顕と合わせて「三木一草」と称されました。
建武2年(1335年)、中先代の乱を討伐に向かった足利尊氏が、鎌倉で新政に離反し、追討の命を受けた新田義貞を破って京へ迫りました。
楠木正成は北畠顕家らと連携し、足利方を京より駆逐しました。
次に行かせていただきますm(__)m
足利尊氏の離反後は、南朝側の軍の一翼を担い奮戦しますが、九州に逃れて力を蓄えた足利尊氏に、神戸湊川の戦いで破れて自害しました。
さあ、神社の様子をご紹介いたしましょう。
以前近くに勤務していたので、塀の外をよく通りました。
夕方になるとよく蝙蝠が神社の森から出てきて飛びまわってました。
神戸のど真ん中なのにね~!(驚)。

(時代は江戸末期に移るのですが、勤皇思想は受け継がれたようです。)
吉田松陰は、楠木正成公を非常に崇拝しており、水戸光圀公が正成公墓碑「嗚呼忠臣楠子之墓」を建立した後、楠公墓前に4度も参詣しています。
松陰は墓碑の拓本を表装して松下村塾に掲げ、久坂玄瑞、高杉晋作など沢山の門下生に楠木正成の話を聞かせました。
また「七生説」では、楠公の忠誠節義を説き、尊皇攘夷に駆ける門下生を奮起させました。
吉田松陰の維新の勤王思想の母体となったものは、正成公への尊崇の念と密接に関係しているといっても過言ではないのです。
吉田松陰繋がりで坂本龍馬もかなり影響を受けたようですね!
松陰は墓碑の拓本を表装して松下村塾に掲げ、久坂玄瑞、高杉晋作など沢山の門下生に楠木正成の話を聞かせました。
また「七生説」では、楠公の忠誠節義を説き、尊皇攘夷に駆ける門下生を奮起させました。
吉田松陰の維新の勤王思想の母体となったものは、正成公への尊崇の念と密接に関係しているといっても過言ではないのです。
吉田松陰繋がりで坂本龍馬もかなり影響を受けたようですね!
ちなみに、黄門とは官職「中納言」の事で水戸権中納言が正式の官職です。
水戸家は将軍補佐のため参勤交代もなく江戸定府が決まりで、水戸光圀は日本漫遊はおろか江戸からも移動していないと思います。
江戸期を通じて副将軍が置かれたことは有りません。
角さんの「先の副将軍!水戸光圀公に在らせられるぞ~」は勿論作り話というわけです。
楠木正成は後醍醐天皇から菊紋を下賜されましたが、畏れ多いとして下半分を水に流したといわれています。
正に正成の紋にふさわしいですね。
次回は、離反した足利尊氏との最終決戦と特別に見せて頂いた自害の場所等をご紹介します。
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