韓竈神社で出会った者は素盞嗚命の化身か?
日本神話の「三貴神」中でも須佐之男だけが少し他のお二方とは異質な感じがします。
伊邪那岐の体から生まれた場所も天照と月読は目なのに対して須佐之男は鼻!取って付けた様だと思いませんか?
出雲に伊邪那美、須佐之男、大国主の活躍の痕跡は多いのですが、天照の話は無いんですよね、やはり高天原は出雲近辺には無かったのかもしれませんね。
さて話を戻して「韓竈神社」の紹介の続きをお話させて頂きます。
(参考までに鰐淵寺の場所も載せます。すぐ?近くです。)
韓竈神社は、紅葉で有名な鰐淵寺(出雲神仏霊場の札所で韓竈神社の近くに在ります。ご紹介はまた今度)から、山を隔て西側に位置しています。
鳥居の800mくらい手前から道が狭くなり、杉木立の中を通っていきます。舗装路がなくなり、携帯の電波も届かないところにあります。
前回階段が急な事は話しましたが、高所恐怖症と肥満の方(私も肥満ですが、笑)、ヒールの方は、ちょっと参拝は厳しいかも知れません。スニーカーもしくは軽登山靴(ちなみにサンダルで登り怖い思いをしました、汗)が良いかと思います。
韓竈神社は新羅から国引きした土地(「出雲風土記」の国引き神話で新羅から引いて来た部分)にあります。鳥居からがたがたの非常に急な自然石の階段を約20分程度登ります。神社前の岩間入口は数十センチしかない大きな岩の割れ目の間を通ります。
ここは女性の産道に見立てられ、子宝に恵まれるという言い伝えがあります。
韓竈神社は、「岩船」伝説でも知られており、この大岩は、新羅から植林法や鉄器文化を伝えられるときに、須佐之男が乗られた船であるといわれています。
須佐之男が新羅に渡るときに乗ったとされる「岩船」として大きな平石があり、この岩の続きにある大きな丸い岩を「帆柱岩」として船をすすめ、この地に天降りしたと伝えられています。
しかし出雲市観光協会のHPでは、「鰐淵寺を開かれた智春上人(ちしゅんしょうにん)が信濃の国から来られたとき、三人の老翁が船で出迎え、鰐淵寺へと案内されました。
その後、老翁は別所・唐川・旅伏の三所に飛び去り、唐川の智那尾権現(韓竈神社の別称です)は岩船となり、別所の白瀧権現は帆柱石となり、旅伏山の旅伏権現は帆形の石となったと伝えられています。
現在も唐川と旅伏山には大岩が現存していますが、別所の帆柱岩だけは、昭和時代に地滑りのため無くなってしまいました。」
このように記載されています。
この出雲市観光協会の説明には疑問が残ります。韓竈神社鳥居前の駐車場?何と岩船でした。松江松平家の資料地方紙「雲陽詩」(1717年)には、 「スサノヲノミコトが乗り給いし船なりとて、二間四方ほどの平石あり、これを「岩船」という。この岩は本社の上へ西方より屋根の如くさしかざしたる故に、雨露も当たらず世俗に「屋方石」という。又、岩船のつづきに周二丈余り、高さ六間ほどの丸木立岩あり、これを「帆柱石」という。」と社上と横にに「岩船」「帆立岩」と記載されているでそうですが?
さあ!登ってご案内しましょう。
勿論新羅行が事実なら、岩船はありませんから、後に都合よく創作されたものかもしれませんが、神様方のなされること、なんでもOKですよね~(笑)
馬鹿にしているわけではありません、伝承を語り継ぐためにはシンボルも必要だと思うのです。
今回の私にとってのシンボルはこの須佐之男命の化身です。
いつも応援いただき、本当にありがとうございます。
ランキングを競わせていただいています。お立ちより記念に「ぽちっと」バナークリックをお願いいたします。
👇👇👇👇👇👇👇 👇👇👇👇👇




伊邪那岐の体から生まれた場所も天照と月読は目なのに対して須佐之男は鼻!取って付けた様だと思いませんか?
出雲に伊邪那美、須佐之男、大国主の活躍の痕跡は多いのですが、天照の話は無いんですよね、やはり高天原は出雲近辺には無かったのかもしれませんね。
さて話を戻して「韓竈神社」の紹介の続きをお話させて頂きます。
(参考までに鰐淵寺の場所も載せます。すぐ?近くです。)
韓竈神社は、紅葉で有名な鰐淵寺(出雲神仏霊場の札所で韓竈神社の近くに在ります。ご紹介はまた今度)から、山を隔て西側に位置しています。
鳥居の800mくらい手前から道が狭くなり、杉木立の中を通っていきます。舗装路がなくなり、携帯の電波も届かないところにあります。
前回階段が急な事は話しましたが、高所恐怖症と肥満の方(私も肥満ですが、笑)、ヒールの方は、ちょっと参拝は厳しいかも知れません。スニーカーもしくは軽登山靴(ちなみにサンダルで登り怖い思いをしました、汗)が良いかと思います。
韓竈神社は新羅から国引きした土地(「出雲風土記」の国引き神話で新羅から引いて来た部分)にあります。鳥居からがたがたの非常に急な自然石の階段を約20分程度登ります。神社前の岩間入口は数十センチしかない大きな岩の割れ目の間を通ります。
ここは女性の産道に見立てられ、子宝に恵まれるという言い伝えがあります。
韓竈神社は、「岩船」伝説でも知られており、この大岩は、新羅から植林法や鉄器文化を伝えられるときに、須佐之男が乗られた船であるといわれています。
須佐之男が新羅に渡るときに乗ったとされる「岩船」として大きな平石があり、この岩の続きにある大きな丸い岩を「帆柱岩」として船をすすめ、この地に天降りしたと伝えられています。
しかし出雲市観光協会のHPでは、「鰐淵寺を開かれた智春上人(ちしゅんしょうにん)が信濃の国から来られたとき、三人の老翁が船で出迎え、鰐淵寺へと案内されました。
その後、老翁は別所・唐川・旅伏の三所に飛び去り、唐川の智那尾権現(韓竈神社の別称です)は岩船となり、別所の白瀧権現は帆柱石となり、旅伏山の旅伏権現は帆形の石となったと伝えられています。
現在も唐川と旅伏山には大岩が現存していますが、別所の帆柱岩だけは、昭和時代に地滑りのため無くなってしまいました。」
このように記載されています。
この出雲市観光協会の説明には疑問が残ります。韓竈神社鳥居前の駐車場?何と岩船でした。松江松平家の資料地方紙「雲陽詩」(1717年)には、 「スサノヲノミコトが乗り給いし船なりとて、二間四方ほどの平石あり、これを「岩船」という。この岩は本社の上へ西方より屋根の如くさしかざしたる故に、雨露も当たらず世俗に「屋方石」という。又、岩船のつづきに周二丈余り、高さ六間ほどの丸木立岩あり、これを「帆柱石」という。」と社上と横にに「岩船」「帆立岩」と記載されているでそうですが?
さあ!登ってご案内しましょう。
勿論新羅行が事実なら、岩船はありませんから、後に都合よく創作されたものかもしれませんが、神様方のなされること、なんでもOKですよね~(笑)
馬鹿にしているわけではありません、伝承を語り継ぐためにはシンボルも必要だと思うのです。
今回の私にとってのシンボルはこの須佐之男命の化身です。
いつも応援いただき、本当にありがとうございます。
ランキングを競わせていただいています。お立ちより記念に「ぽちっと」バナークリックをお願いいたします。
👇👇👇👇👇👇👇 👇👇👇👇👇




コメント
No title
しかし20cm超えのガマガエルは
さすがに迫力がありますね…!
田舎でも最近は見なくなったので、
急に鉢合わせたらビックリしてしまうかもw
今日もランキング応援完了ですよっ…と_φ(. .*)
2016-07-31 15:02 taka :a URL 編集
taka:aさんコメントを頂きありがとうございます。
> しかし20cm超えのガマガエルは
> さすがに迫力がありますね…!
> 田舎でも最近は見なくなったので、
> 急に鉢合わせたらビックリしてしまうかもw
本当!強敵?(笑)なブロガーさんが現れて順位下げ気味、これ以上はUPもできないし、対策考えないといけませんね~!
まだまだ自分のランキングだけではなくて、腕(文章力その他)を上げないといけませんね。
2016-08-02 20:39 市良右衛門 URL 編集