投馬国の都か?ズバリ邪馬台国なのか~!凄いぞ『妻木晩田遺跡』 - 「高天原の縁側日記」
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2016/11/14

投馬国の都か?ズバリ邪馬台国なのか~!凄いぞ『妻木晩田遺跡』

さて、戦国時代(山崎の戦いだけですが)も一休みして古代史に戻りたいと思います。

本日ご紹介するのは鳥取県西伯郡大山町富岡・妻木・長田から米子市淀江町福岡に所在する国内最大級の弥生集落妻木晩田遺跡(むきばんだいせき)です。

それでは、『市郎右衛門』の歴史ブログをお楽しみ?くださいね(人´ω`*).☆.。
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妻木晩田遺跡(むきばんだいせき)、またはは妻木晩田遺跡群は、鳥取県西伯郡大山町富岡・妻木・長田~米子市淀江町福岡に所在する国内最大級の弥生集落遺跡です。
遺跡の面積は170ヘクタールにもなり、これは発掘当時国内最大級と喧伝された吉野ヶ里遺跡(発掘当時32ヘクタール、現在は調査が進み、約2倍の面積になっています)の5倍にもおよぶ大規模なものです。

大山山系・孝霊山から続く丘陵(通称「晩田山」)上に位置し、美保湾を一望できます(一度行ってみてください、天気が良ければ美保関迄一望出来る絶景です。)。
CIMG2611.jpg
(美保湾を一望、絶景です。)


中国地方の最高峰・大山の麓に甦った弥生時代の国邑、それが妻木晩田遺跡です。
遺跡のひろがりは鳥取県米子市・西伯郡大山町にまたがる晩田山丘陵全域におよび、弥生時代に大山山麓に存在したであろう古代出雲の中心的な大集落であったと考えられます。



1995年から1998年にかけて、京阪グループによるゴルフ場建設を初めとする大規模リゾート「大山スイス村」開発計画に伴い、大山町と淀江町の教育委員会により発掘調査が行われた際に発見されました。
これにより、鳥取県は遺跡と開発の併存案を打ち出していたが、京阪側は初めから「(遺跡とリゾートの)併存はありえない」と断言し、世間の批評も受け止め「開発できないならば、中止もやむを得ない」と当初から柔軟な姿勢を執っていました(京阪グループさんやるじゃないですか!ひらパー兄さんに岡田準一さんを起用するだけの事はありますね~なんじゃそれは、笑)。

そして全国的な保存運動も展開された結果、京阪側が開発を断念(開発中止を決定)、1999年12月22日に国の史跡に指定され、後に鳥取県によって保存・整備されています。
なお、発見から全面保存に至るまで時間がかかっているのは、京阪が買い取った土地の買い戻しが懸案事項であり、土地の買い取りに税金を投入する必要があったからだそうです。

また、この一連の騒動?の中で、文化庁の対応も非常に迅速でした。
これは妻木晩田がそれほどまでに歴史的重要かつ貴重な大発見であったことのいったんを物語るものです。
また、遺跡の保存には埋め直しを行わないといけないが、発見後数年が過ぎた段階で、膠着している間に遺構の風化、荒廃が始まっており、一刻の猶予も許さない状況だったことにも起因しています。

現在、全体のおよそ1/10が発掘調査されています。
遺跡は、弥生時代中期末(西暦1世紀前半)~古墳時代前期(3世紀前半)にかけて営まれています。
いわゆる倭国大乱の影響とされる高地性集落ですが、比較的大規模で長期にわたる例は少なく、注目されています。

標高90-120メートル前後(平野部との比高差100メートル前後)の尾根上を中心に立地し、面積約170ヘクタールにおよびます。
現在までに17.2ヘクタールが調査され、集落関係では420棟以上掘建柱建物跡502棟以上墳丘墓(四隅突出型墳丘墓含む)34基環壕等が検出され、山陰地方の弥生時代像に見直しをせまる貴重な資料がたくさん発見されました(まだまだ出そうです)。

CIMG2599.jpg
(結構じゃなく半端なく広いです。これで発掘調査一割?)

妻木晩田遺跡に人々が住みはじめるのは、弥生時代中期末頃(西暦1世紀前半)です。
弥生時代後期初頭(1世紀中頃)になると、洞ノ原西側丘陵に環壕が掘られ、洞ノ原東側丘陵に四隅突出型墳丘墓(よすみとっしゅつがたふんきゅうぼ)がつくられます。
このとき、妻木晩田遺跡に住んだ人々は、ここから東に700mほど離れた妻木新山地区、妻木山地区、松尾頭地区に住まいを構えました。

CIMG2607.jpg
(四隅突出型墳丘墓は朝鮮半島の一部と、はぼ出雲圏だけです。)
CIMG2614.jpg(子供の墓でしょうか?前方後円墳だけ覚えていたのではだめですよ~笑)
CIMG2608.jpg(柴でおおわれてわかりにくいですが、四隅突出型墳丘墓洞ノ原一号墳です。)
CIMG2609.jpg(説明版)
CIMG2610.jpg(環濠集落、夏で暑くて~望遠で申し訳ないです。(;^_^A)

その後、ムラの人口が増えるにつれて住まいの範囲は広がっていき、妻木晩田遺跡が最盛期を迎える弥生時代後期後葉(2世紀後半)には、住まいの範囲が遺跡全体に広がります。
この時期をさかいに、妻木晩田のムラは少しずつ衰えていき、古墳時代の初め頃には住まいがほとんど見られなくなるのです。

CIMG2604.jpg
(小型竪穴住居骨組み!)
CIMG2605.jpg
(小型竪穴住居?)
CIMG2606.jpg
(掘っ建て柱建物)
CIMG2615.jpg
(小型竪穴住居の中はこんな感じ鍛冶風景ですね。)

妻木晩田の集落は、東側が居住地区西側の丘陵先端が首長の墓域といった構成で、後期中頃以前には洞ノ原(どうのはら)地区の最西端に環壕が機能していたものと考えられています。
居住地区は竪穴住居と掘建柱建物各3-4棟の単位を基本として構成されており、弥生時代後期終わり頃以降では鍛冶、玉造り、土器焼成などの活動が認められます。
更に最高所に位置する松尾頭地区では、祭殿や首長の住居と推定される建物跡も確認されています。

現在確認された、竪穴住居は、全部で約700です。
小型竪穴住居は、直径3-6メートル、深さ1メートル程度、外からは屋根しか見えません。
大型竪穴住居は、直径6-8メートル、深さ0.5-0.7メートルぐらいで、外から見ても壁が見えます。
小型竪穴住居は、土屋根で、大型竪穴住居大は草葺き屋根だったと推測出来ます。

大型建物のそばには大型竪穴住居が必ずあるようで、これこそ有力者の住宅であろうと考えられている。
弥生の終わりの3世紀中頃から4世紀ぐらいまでは、有力者も竪穴住居に居住していたと思われます。

遺物は、土器、石器(調理具・農工具・狩猟具・武器)、鉄器(農工具・武器)、破鏡等が出土しています。
鉄器は鉇・斧・鑿・穿孔具・鍬鍬先・鎌・鉄鏃等、弥生時代のもののみで197点が出土しており、大陸性のものも確認されているのも見過ごせませんね。

基本的なデータはむきばんだ史跡公園の資料とWikipedia~お借りしました。

さあ~ミステリーの時間です。
この巨大ともいえる遺跡がほんの一世紀の間に消えて無くなってしまうのです。
何故でしょうね~そう!あれしかありませんよね。
皆さんもうお分かりですね!(笑笑笑)


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