墨俣一夜城再現か?「備中高松城」の水攻め堰堤の真実!
備中高松城水攻めの真実~!
高松城跡の歴史ボランティアの方から興味深いお話を聞いたので、ご紹介しましょう。
【羽柴秀吉の出陣と高松城の包囲 】
天正10年(1582年)3月15日、織田信長の命を受けた秀吉は、ついに姫路城から備中へ向け2万の軍勢をひきつれて出陣します。
途中、宇喜多氏のかつての居城であった亀山城(別名:沼城)(現:岡山市東区)で宇喜多氏の動向を探り、宇喜多氏が織田軍に味方することを確認した後、宇喜多勢1万を加えて総勢3万の軍勢で備中へ進軍します。
備中高松城は当時数少なかった低湿地を利用した平城(沼城)であり、鉄砲・騎馬戦法にも強い防御力を持っていました。
城を守るのは猛将、清水長左衛門尉宗治、3,000~5,000余りの兵が立てこもり、容易には攻め落とせる状況では有りません、そのため、秀吉は周囲の小城を次々と攻め落とし、4月15日、秀吉方は宇喜多勢を先鋒に3万近い大軍で城を包囲し、2回にわたって攻撃を加えますが、城兵の逆襲を受けて敗退してしまいます。
【水攻めの開始】
毛利輝元率いる4万の援軍が接近しつつあり、秀吉は主君・信長に対して援軍を送るよう使者を向かわせます。
信長からは丹波を平定させた明智光秀の軍を送るとの返事がきたものの、1日も早く備中高松城を落城させよという厳しい叱咤激励が届きます。
秀吉は黒田官兵衛の策を取り入れ、水攻めを行うことを決定します。
低湿地にある沼城という本来なら城攻めを困難にさせるはずの利点を逆手に取った奇策であったといえます。
秀吉は即座に堤防工事に着手します。この堤防は門前村(現:JR吉備線足守駅付近)から蛙ヶ鼻(石井山南麓)までの東南約2.7キロメートル、高さ7メートル、底部24メートル、上幅10メートルにわたる堅固な長堤を造り、足守川の水をせきとめようとするものでした。
工事には士卒や農民らを動員し、1俵(土俵)に付き銭100文、米1升という当時としては非常に高額な報酬を与えています。
堤防は5月8日の工事着手からわずか12日で完成し、折しも梅雨の時期にあたって降り続いた雨によって足守川が増水して200haもの湖が出現します。
高松城は孤島と成り、堤防を完成させた秀吉は堤防の上に見張り場を設けて城内の様子を監視させます。
ここで疑問点が出てきます。たとえ3万の軍勢とはいえ、全てが土木工事に携われるとは思えません。
毛利の援軍が近くまで来ているわけですから、毛利軍の急進も考えて、全ての兵を動員するわけには行きませんし、城からの決死の反撃にも備えなければなりません。
半数が2交代制で作業に従事したと考えても7500人(私の勝手な推測ですが)!東南約2.7キロメートル、高さ7メートル、底部24メートル、上幅10メートルにわたる堅固な長堤を12日で造ることが可能でしょうか?
現在の重機を使っても無理だと思いませんか?
現在の大型重機が1000馬力としましょう(スポーツカーの2~3倍程度)。
1馬力 = 1秒間に75kg重の力で物体を垂直方向に1m持ち上げた時の仕事率で、人間は約0.25馬力、つまり四人で1馬力ですから、重機は4000人分の仕事をこなすことに成りますが(数値はおおよそです。業界の方が居られましたら御意見下さいね。)、数値的には大型のブルトーザーとシャベルカーを二台を昼夜を問わずフル活用して可能な数値になりますか?
こんなくだらない計算して何になるのかわかりませんし、数値もおおよそですが(笑)、それでも、12日で完成するとは到底思えません。
【それでは、秀吉(黒田官兵衛かも知れません?)はどんな奇策を使ったのでしょうか?】
ここで、ボランティアガイドの方から説明を受けたお話で説明をしますが、資料が在りましたのでそちらから、引用させて頂きます。(ボランティアガイドさん方は凄い知識量です、造山古墳ではボランティアの難波さんと炎天下一時間近く話し込んでしまいましたし、高松城跡資料館では山根さんだったかな?から説明をお聞きしました)。
備中高松城の水攻め堤防の長さを記した最初の史料は、『中国兵乱記』です。
これは、実際にこの城に籠って戦った人物が、後年に著した貴重な史料だそうです。
著者の中島元行は、清水宗治の副将として毛利家から派遣され、備中高松城の二の丸を守りました。
晩年に至り、毛利家の求めに応じて、天正5年(1577)から同10年までの間、中国地方で繰り広げられた毛利一族と織田信長・羽柴秀吉との戦闘の経過を軍記として記録しました。
それが『中国兵乱記』です。
元行の没年が慶長19年(1614)ですから、「水攻め」から30年ほど経って書かれたことになります。
『中国兵乱記』には、堤防の長さを26町(約2.8キロメートル)、幅は基部で9間(16.2メートル)で、高さ4間(7.2メートル)と記されています。
現在、堤防の一部が残る蛙ヶ鼻から、足守川の水を引き入れた水門前までの距離を測ると、およそ3キロメートルあります。
つまり、『中国兵乱記』は、この区間の全てに堤防が築かれたと述べています。
『中国兵乱記』の記述をもとに、この区間に長大な堤防が築かれていたとするのが定説となりました。
江戸時代中期の寛政3年(1791)、地理学者の古川古松軒は、備中高松城跡と周辺地域を踏査しました。
その結果、古松軒は水攻め堤防について、従来の説とは異なる新たな見解を示し、「備中国加夜郡高松城水攻地理之図」に記しました。
その新たな見解とは、秀吉が水攻め堤防を築いた区間を、蛙ヶ鼻から松山街道(現在の国道180号線)までの間、およそ300メートルに限定したことです。
その図中では、堤防を描いた横に「此所二新堤築ク」と注記し、堤防が限定的に築かれたことを強調しています。
一番の難所、蛙ケ鼻を味方に付いたばかりの但馬国衆(但馬征伐「但馬人から見れば但馬侵略ですが」、で敗北した但馬国衆残党は秀吉軍に組み入れられています)に担当させているところが、真実味が有りますね!
しかし、この説は関心を集めることも無く、やがて埋もれてゆきました。
昭和60年(1985)6月、大雨による洪水で、備中高松城跡の一帯がまるで水攻めの光景を再現したかのように水没したことがありました。
これにより、「ここは、元々水没し易い地形なのでは? 」との見解が、地元研究者を中心に持たれるようになりました。
平成9年(1997)、地元の県立高松農業高等学校土木課が、精密に土地の高低を測定した結果、旧松山街道(国道180号線)に沿った一帯が、備中高松城の周辺より1メートルほど土地が高くなっていることが分かりました。
これは、太古の昔より氾濫を繰り返し、度々流路を変えていた足守川によって運ばれた土砂が堆積したもので、「自然堤防」と呼ばれるものです。
つまり、蛙ヶ鼻と自然堤防の間、およそ300メートルの区間を塞き止めれば、古川古松軒が考えたように水攻めが可能だったということが証明されたのでした。
300メートルと取水口の工事だけなら12日で完成させることは難しくないように感じますよね~。
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【羽柴秀吉の出陣と高松城の包囲 】
天正10年(1582年)3月15日、織田信長の命を受けた秀吉は、ついに姫路城から備中へ向け2万の軍勢をひきつれて出陣します。
途中、宇喜多氏のかつての居城であった亀山城(別名:沼城)(現:岡山市東区)で宇喜多氏の動向を探り、宇喜多氏が織田軍に味方することを確認した後、宇喜多勢1万を加えて総勢3万の軍勢で備中へ進軍します。
備中高松城は当時数少なかった低湿地を利用した平城(沼城)であり、鉄砲・騎馬戦法にも強い防御力を持っていました。
城を守るのは猛将、清水長左衛門尉宗治、3,000~5,000余りの兵が立てこもり、容易には攻め落とせる状況では有りません、そのため、秀吉は周囲の小城を次々と攻め落とし、4月15日、秀吉方は宇喜多勢を先鋒に3万近い大軍で城を包囲し、2回にわたって攻撃を加えますが、城兵の逆襲を受けて敗退してしまいます。
【水攻めの開始】
毛利輝元率いる4万の援軍が接近しつつあり、秀吉は主君・信長に対して援軍を送るよう使者を向かわせます。
信長からは丹波を平定させた明智光秀の軍を送るとの返事がきたものの、1日も早く備中高松城を落城させよという厳しい叱咤激励が届きます。
秀吉は黒田官兵衛の策を取り入れ、水攻めを行うことを決定します。
低湿地にある沼城という本来なら城攻めを困難にさせるはずの利点を逆手に取った奇策であったといえます。
秀吉は即座に堤防工事に着手します。この堤防は門前村(現:JR吉備線足守駅付近)から蛙ヶ鼻(石井山南麓)までの東南約2.7キロメートル、高さ7メートル、底部24メートル、上幅10メートルにわたる堅固な長堤を造り、足守川の水をせきとめようとするものでした。
工事には士卒や農民らを動員し、1俵(土俵)に付き銭100文、米1升という当時としては非常に高額な報酬を与えています。
堤防は5月8日の工事着手からわずか12日で完成し、折しも梅雨の時期にあたって降り続いた雨によって足守川が増水して200haもの湖が出現します。
高松城は孤島と成り、堤防を完成させた秀吉は堤防の上に見張り場を設けて城内の様子を監視させます。
ここで疑問点が出てきます。たとえ3万の軍勢とはいえ、全てが土木工事に携われるとは思えません。
毛利の援軍が近くまで来ているわけですから、毛利軍の急進も考えて、全ての兵を動員するわけには行きませんし、城からの決死の反撃にも備えなければなりません。
半数が2交代制で作業に従事したと考えても7500人(私の勝手な推測ですが)!東南約2.7キロメートル、高さ7メートル、底部24メートル、上幅10メートルにわたる堅固な長堤を12日で造ることが可能でしょうか?
現在の重機を使っても無理だと思いませんか?
現在の大型重機が1000馬力としましょう(スポーツカーの2~3倍程度)。
1馬力 = 1秒間に75kg重の力で物体を垂直方向に1m持ち上げた時の仕事率で、人間は約0.25馬力、つまり四人で1馬力ですから、重機は4000人分の仕事をこなすことに成りますが(数値はおおよそです。業界の方が居られましたら御意見下さいね。)、数値的には大型のブルトーザーとシャベルカーを二台を昼夜を問わずフル活用して可能な数値になりますか?
こんなくだらない計算して何になるのかわかりませんし、数値もおおよそですが(笑)、それでも、12日で完成するとは到底思えません。
【それでは、秀吉(黒田官兵衛かも知れません?)はどんな奇策を使ったのでしょうか?】
ここで、ボランティアガイドの方から説明を受けたお話で説明をしますが、資料が在りましたのでそちらから、引用させて頂きます。(ボランティアガイドさん方は凄い知識量です、造山古墳ではボランティアの難波さんと炎天下一時間近く話し込んでしまいましたし、高松城跡資料館では山根さんだったかな?から説明をお聞きしました)。
備中高松城の水攻め堤防の長さを記した最初の史料は、『中国兵乱記』です。
これは、実際にこの城に籠って戦った人物が、後年に著した貴重な史料だそうです。
著者の中島元行は、清水宗治の副将として毛利家から派遣され、備中高松城の二の丸を守りました。
晩年に至り、毛利家の求めに応じて、天正5年(1577)から同10年までの間、中国地方で繰り広げられた毛利一族と織田信長・羽柴秀吉との戦闘の経過を軍記として記録しました。
それが『中国兵乱記』です。
元行の没年が慶長19年(1614)ですから、「水攻め」から30年ほど経って書かれたことになります。
『中国兵乱記』には、堤防の長さを26町(約2.8キロメートル)、幅は基部で9間(16.2メートル)で、高さ4間(7.2メートル)と記されています。
現在、堤防の一部が残る蛙ヶ鼻から、足守川の水を引き入れた水門前までの距離を測ると、およそ3キロメートルあります。
つまり、『中国兵乱記』は、この区間の全てに堤防が築かれたと述べています。
『中国兵乱記』の記述をもとに、この区間に長大な堤防が築かれていたとするのが定説となりました。
江戸時代中期の寛政3年(1791)、地理学者の古川古松軒は、備中高松城跡と周辺地域を踏査しました。
その結果、古松軒は水攻め堤防について、従来の説とは異なる新たな見解を示し、「備中国加夜郡高松城水攻地理之図」に記しました。
その新たな見解とは、秀吉が水攻め堤防を築いた区間を、蛙ヶ鼻から松山街道(現在の国道180号線)までの間、およそ300メートルに限定したことです。
その図中では、堤防を描いた横に「此所二新堤築ク」と注記し、堤防が限定的に築かれたことを強調しています。
一番の難所、蛙ケ鼻を味方に付いたばかりの但馬国衆(但馬征伐「但馬人から見れば但馬侵略ですが」、で敗北した但馬国衆残党は秀吉軍に組み入れられています)に担当させているところが、真実味が有りますね!
しかし、この説は関心を集めることも無く、やがて埋もれてゆきました。
昭和60年(1985)6月、大雨による洪水で、備中高松城跡の一帯がまるで水攻めの光景を再現したかのように水没したことがありました。
これにより、「ここは、元々水没し易い地形なのでは? 」との見解が、地元研究者を中心に持たれるようになりました。
平成9年(1997)、地元の県立高松農業高等学校土木課が、精密に土地の高低を測定した結果、旧松山街道(国道180号線)に沿った一帯が、備中高松城の周辺より1メートルほど土地が高くなっていることが分かりました。
これは、太古の昔より氾濫を繰り返し、度々流路を変えていた足守川によって運ばれた土砂が堆積したもので、「自然堤防」と呼ばれるものです。
つまり、蛙ヶ鼻と自然堤防の間、およそ300メートルの区間を塞き止めれば、古川古松軒が考えたように水攻めが可能だったということが証明されたのでした。
300メートルと取水口の工事だけなら12日で完成させることは難しくないように感じますよね~。
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