歴史の悪戯を垣間見る事に成った「大山寺」参拝!①
今回は「大山寺」をご紹介するのですが、その前に、皆様におことわりをしなければならなく成りましたm(__)m
暫く間が開いてしまったのも、熟慮していたからです(本当か~?)f(^_^;
歴史を勉強された、若しくはお好きな皆さまはご存知だと思いますが、現在の文章表現と実際の時代の表現ではかなりの差があります。
実は私、無茶を承知で(出来る限り、過去の事実通りにしようと思い)?、「藩」という言葉を使わずにブログを書いてまいりました。
さて皆様へのおことわりとは、「私の横着を御許し下さい(^人^)」のお願いです。
前回、「討ち入り蕎麦」のお話を書きましたが、凄く苦労したので、『○○藩の記載を解禁致しますm(__)m(説明は下に、笑)』。
「市郎右衛門」の日本歴史ブログをお楽しみください。



👆 絶賛ランキング参加中!四つのバナータグを「 ポチッ」と応援お願いします(^人^)。
言い訳を、少しさせて頂きますが、江戸時代には○○藩と言う呼び方をしておりませんでした。
江戸時代を通じて「○○藩」というのは現代の通称に過ぎません。
それどころか、江戸時代初めにはこのような呼称などなかったのです。
江戸幕府の力が強く、大名の改易処分(とりつぶし)やお国替えが多かった時代には○○藩と言っても通じなかったと思われます。
例えば姫路城で有名な播州姫路藩?の大名家を例に出しましょう。
池田恒興の代に織田家重臣となり清洲会議に出席し、その子池田輝政は徳川家康の愛娘督姫を後妻にし松平姓を許された池田家からです。
池田家「外様 」52万石
輝政・利隆・光政
本多家「譜代 」15万石
忠政・政朝・政勝
松平(奥平)家「親藩」18万石
忠明・忠弘
松平(越前)家「親藩 」15万石
直基・直矩
榊原(松平)家「譜代 」15万石
忠次・政房・政倫
松平(越前)家「親藩 」15万石
直矩
本多家「譜代 」15万石
忠国・忠孝
榊原家「譜代 」15万石
政邦・政祐・政岑・政純
松平(越前)家「親藩」 15万石
明矩・朝矩
酒井家「譜代 」15万石
忠恭・忠以・忠道・忠実・忠学・忠宝・忠顕・忠績・忠惇・忠邦
これでは、姫路藩といっても、何処の家か?藩主は誰か全く解らずの状態に成ってしまうのです。
藩と言う呼び方は、江戸時代半ば以降に現れ、幕末(幕府の権力が弱まって国替え等も亡くなった?)になって広まったと考えられています。
そして「藩」が公式の行政区分の1つになるのは明治維新後、明治2(1869)年の版籍奉還後にそれぞれの諸侯(旧大名)たちが「知藩事」(「○○藩知事」と称する)に任命されてからです。
このときには藩庁所在地によって「○○藩」と呼ぶことになりました。
ですから「長州藩」でも「防州藩」でもなく「山口藩」。
同じく「薩摩藩」ではなく「鹿児島藩」、「土佐藩」ではなく「高知藩」となりました。
ですから、こんな言葉、藩主・藩士・脱藩も無いですよねf(^_^;
例えば私がこんな内容のブログを書きたいとしましょう。
「元赤穂藩士が藩主の仇討ちを成し遂げました。」
の場合?『元播州赤穂浅野家御家中の武士が主家浅野内匠頭の仇討ちを成し遂げました(かな?)。』。
「土佐藩を脱藩した坂本龍馬は薩摩藩に匿われました。」
の場合なら、『土佐山内家中の下士、坂本龍馬は逐電して、薩摩島津家下屋敷に匿われた。』とでも成りますかね、一寸キツいな~というわけです。
ちなみに1867年のパリ万国博覧会に参加した薩摩藩は「日本薩摩琉球国太守政府」という名称を名乗っています。
つまり、此れまでは出来うる限り事実に基づいて藩を使っていなかったのですが、流石に無理が有るし、私の知識では其を補う事が出来ません。
というわけで今後、○○藩と書きますけど御許し下さいm(__)m
まあ長々と弁解を読んで頂いてありがとうございました。
さて今日御紹介するのは、『大山寺』です。
大山寺(だいせんじ)は鳥取県西伯郡大山町(大山隠岐国立公園内)伯耆大山中腹にある天台宗別格本山の寺です。
出雲神仏霊場第十番。
中国三十三観音第二十九番。
山号は角磐山。
本尊は地蔵菩薩。
弁解が、長すぎた~!
一つ雑学覚えたと思っていただいて、今日は此処までにします。
次回は必ず大山寺をご紹介いたします。
いつも応援、ありがとうございますm(__)m。
歴史って本当に面白いですよね~!
今後もランキングにはこだわって良い記事をUPしたいと思いますので宜しくお願い致します(^人^)
日本人気ブログランキングバナー・ブログ村の日本史バナー・Blogramバナー・FC2ブログランキングバナーを「ポチッと」クリックして頂きましたら嬉しいです。
👇👇👇 👇👇👇 👇👇👇 👇👇👇




暫く間が開いてしまったのも、熟慮していたからです(本当か~?)f(^_^;
歴史を勉強された、若しくはお好きな皆さまはご存知だと思いますが、現在の文章表現と実際の時代の表現ではかなりの差があります。
実は私、無茶を承知で(出来る限り、過去の事実通りにしようと思い)?、「藩」という言葉を使わずにブログを書いてまいりました。
さて皆様へのおことわりとは、「私の横着を御許し下さい(^人^)」のお願いです。
前回、「討ち入り蕎麦」のお話を書きましたが、凄く苦労したので、『○○藩の記載を解禁致しますm(__)m(説明は下に、笑)』。
「市郎右衛門」の日本歴史ブログをお楽しみください。




言い訳を、少しさせて頂きますが、江戸時代には○○藩と言う呼び方をしておりませんでした。
江戸時代を通じて「○○藩」というのは現代の通称に過ぎません。
それどころか、江戸時代初めにはこのような呼称などなかったのです。
江戸幕府の力が強く、大名の改易処分(とりつぶし)やお国替えが多かった時代には○○藩と言っても通じなかったと思われます。
例えば姫路城で有名な播州姫路藩?の大名家を例に出しましょう。
池田恒興の代に織田家重臣となり清洲会議に出席し、その子池田輝政は徳川家康の愛娘督姫を後妻にし松平姓を許された池田家からです。
池田家「外様 」52万石
輝政・利隆・光政
本多家「譜代 」15万石
忠政・政朝・政勝
松平(奥平)家「親藩」18万石
忠明・忠弘
松平(越前)家「親藩 」15万石
直基・直矩
榊原(松平)家「譜代 」15万石
忠次・政房・政倫
松平(越前)家「親藩 」15万石
直矩
本多家「譜代 」15万石
忠国・忠孝
榊原家「譜代 」15万石
政邦・政祐・政岑・政純
松平(越前)家「親藩」 15万石
明矩・朝矩
酒井家「譜代 」15万石
忠恭・忠以・忠道・忠実・忠学・忠宝・忠顕・忠績・忠惇・忠邦
これでは、姫路藩といっても、何処の家か?藩主は誰か全く解らずの状態に成ってしまうのです。
藩と言う呼び方は、江戸時代半ば以降に現れ、幕末(幕府の権力が弱まって国替え等も亡くなった?)になって広まったと考えられています。
そして「藩」が公式の行政区分の1つになるのは明治維新後、明治2(1869)年の版籍奉還後にそれぞれの諸侯(旧大名)たちが「知藩事」(「○○藩知事」と称する)に任命されてからです。
このときには藩庁所在地によって「○○藩」と呼ぶことになりました。
ですから「長州藩」でも「防州藩」でもなく「山口藩」。
同じく「薩摩藩」ではなく「鹿児島藩」、「土佐藩」ではなく「高知藩」となりました。
ですから、こんな言葉、藩主・藩士・脱藩も無いですよねf(^_^;
例えば私がこんな内容のブログを書きたいとしましょう。
「元赤穂藩士が藩主の仇討ちを成し遂げました。」
の場合?『元播州赤穂浅野家御家中の武士が主家浅野内匠頭の仇討ちを成し遂げました(かな?)。』。
「土佐藩を脱藩した坂本龍馬は薩摩藩に匿われました。」
の場合なら、『土佐山内家中の下士、坂本龍馬は逐電して、薩摩島津家下屋敷に匿われた。』とでも成りますかね、一寸キツいな~というわけです。
ちなみに1867年のパリ万国博覧会に参加した薩摩藩は「日本薩摩琉球国太守政府」という名称を名乗っています。
つまり、此れまでは出来うる限り事実に基づいて藩を使っていなかったのですが、流石に無理が有るし、私の知識では其を補う事が出来ません。
というわけで今後、○○藩と書きますけど御許し下さいm(__)m
まあ長々と弁解を読んで頂いてありがとうございました。
さて今日御紹介するのは、『大山寺』です。
大山寺(だいせんじ)は鳥取県西伯郡大山町(大山隠岐国立公園内)伯耆大山中腹にある天台宗別格本山の寺です。
出雲神仏霊場第十番。
中国三十三観音第二十九番。
山号は角磐山。
本尊は地蔵菩薩。
弁解が、長すぎた~!
一つ雑学覚えたと思っていただいて、今日は此処までにします。
次回は必ず大山寺をご紹介いたします。
いつも応援、ありがとうございますm(__)m。
歴史って本当に面白いですよね~!
今後もランキングにはこだわって良い記事をUPしたいと思いますので宜しくお願い致します(^人^)
日本人気ブログランキングバナー・ブログ村の日本史バナー・Blogramバナー・FC2ブログランキングバナーを「ポチッと」クリックして頂きましたら嬉しいです。
👇👇👇 👇👇👇 👇👇👇 👇👇👇




コメント