炎との戦いは開けて見ないと分からない!『歴史とへたっぴ陶芸』
昨年から始めた陶芸教室も早いもので一年と3ヶ月が経ちました。
皆さんには、教室の吉村先生や仲良くさせていただいている陶芸作家さん、旅行先で出会った素敵な陶器に混じって、私の稚拙(センスは有ると思うのですが、笑!いかんせん技術が(T^T))な作品もどきどき見ていただいていたのですが、今回もそんなへたっぴな作品を観ていただきたいと思います。
一応、歴史Bloggerを偉そうに名乗って?いるので、私が最終的には目指したい古伊賀陶器の歴史も少しだけ紐解こうと思います!
伊賀焼は鎌倉時代初期に伊賀地方で生まれます。
当初は主に無釉焼締めの日用雑器を作る窯にすぎませんでしたが、室町時代後期に千利休の侘び茶が大成されると伊賀焼の作為のない風情に注目が集まり、盛んに茶会で用いられるようになります。
秀吉の朝鮮出兵に伴って、登り窯の技術や陶工が数多く来日することにより飛躍的に生産性が高まります。
しかし、古伊賀は穴窯の極限状態でなければ、あの色は出ないかもしれません。
天正13年(1586)筒井定次(筒井順慶の跡継ぎ!筒井家は大和郡山に領地を所有していましたが、秀吉は畿内については一門近臣で固める政策を実施し、この国替えで大和には秀吉の弟大納言秀長が大和郡山に入国し、代わって定次は領国を大和から伊賀上野に移封されました。畿内と近畿は違います。)が領主になると伊賀焼は隆盛を迎えます。
定次は千利休の高弟古田織部に茶の湯を学んだ数寄者として知られ、織部指導の下素朴で豪快な茶器を数多く焼かせます(筒井伊賀)。
この作風はその後藤堂高虎・高次親子を経て高虎の娘婿小堀遠州に引き継がれました(藤堂伊賀)。
これらを古伊賀と呼びます。
伊賀焼は別名七度焼といわれますが、これは土を高温(1400度とも)で何度も焼成するからです。
その際わずかに鉄分を含んだ土が燃えるような赤褐色に変化します。
また窯の中で降りかかった灰は萌葱色や青緑のビードロ釉となって流れだし煌くような美しい景色を作り出します。
形は歪みや膨らみが強調されており、ありきたりな調和は求めない。
へら目は奔放でどれ一つとして同じものは有りません。
水指や花生けは耳を持つものが多く、俗に「伊賀に耳あり信楽に耳なし」といわれています。
またひび割れや欠けは本来なら欠点ですが、造形性の強い伊賀焼では再現性のない「破格の美」として高く評価されています。
これらの古伊賀は、その後この地で起きた大飢饉の影響を受けわずか20年あまりで姿を消してしまいました。
幻の焼物といわれる所以です。
基本的には、古代の琵琶湖の粘土を用いることでは、信楽焼と変わらないのですが、信楽焼は「緋色とビロードの調和」と言われ、古伊賀焼は「ビロードごげの調和」と言われています。
物によっては城ひとつに匹敵すると言われる古伊賀は究極の陶器だと思います。
そのなかでも有名な「重要文化財」の水差し「破れ袋」はあの「何でも鑑定団」の中島清之助さんが世界一の陶器と言うほどで私も凄く好きなのですが、同じ水差しの「欲袋」が名の付け方といい、笑ってしまうほど好きで(笑)
破れ袋を真似して造ってみたが欲が出て本当に破れてしまったというのですから、正に欲が割れ目からこぼれているようです。
うちの吉村先生が古伊賀の名作「寿老人(古伊賀の名作)」にチャレンジした!と見せて下さった花器が素晴らしかっったです(お値段は秘密、仲介させて頂きます😉)。
古伊賀は何度も焼かなければ成らないこともあり、燃料代がかさむことから、陶芸家の間では、手を出すと破滅に繋がるとも言われるそうです。
陶器は火の作品です。有名な作家さんが、窯だしの時に自分の作品を思った通りの作品に成らずに、割り捨てておられるシーンをテレビなどで見られ間たことは有りませんか?
どんなに一生懸命陶器を造っても最後の窯焼きでは、計算通りに行かない事も多々有るのです。
ごくごくまれな偶然を覗いて、自分の力を120%注がなければ、炎の神様も此方を向いて下さらない訳です。
というわけで、近々に焼き上がった私の作品を観ていただきましょう。
(白化粧各皿と刷毛目茶碗白白はおとなしすぎたので鉄彩でライン入れたのですが、ろくろの上達がみられますね。)
刷毛筆もわらを買ってきて自作しました。生徒のやる気に合わせてなんでも教えていただけるのが、うちの教室の良い所です。
いつも応援いただき、本当にありがとうございます。
ランキングを競わせていただいています。
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皆さんには、教室の吉村先生や仲良くさせていただいている陶芸作家さん、旅行先で出会った素敵な陶器に混じって、私の稚拙(センスは有ると思うのですが、笑!いかんせん技術が(T^T))な作品もどきどき見ていただいていたのですが、今回もそんなへたっぴな作品を観ていただきたいと思います。
一応、歴史Bloggerを偉そうに名乗って?いるので、私が最終的には目指したい古伊賀陶器の歴史も少しだけ紐解こうと思います!
伊賀焼は鎌倉時代初期に伊賀地方で生まれます。
当初は主に無釉焼締めの日用雑器を作る窯にすぎませんでしたが、室町時代後期に千利休の侘び茶が大成されると伊賀焼の作為のない風情に注目が集まり、盛んに茶会で用いられるようになります。
秀吉の朝鮮出兵に伴って、登り窯の技術や陶工が数多く来日することにより飛躍的に生産性が高まります。
しかし、古伊賀は穴窯の極限状態でなければ、あの色は出ないかもしれません。
天正13年(1586)筒井定次(筒井順慶の跡継ぎ!筒井家は大和郡山に領地を所有していましたが、秀吉は畿内については一門近臣で固める政策を実施し、この国替えで大和には秀吉の弟大納言秀長が大和郡山に入国し、代わって定次は領国を大和から伊賀上野に移封されました。畿内と近畿は違います。)が領主になると伊賀焼は隆盛を迎えます。
定次は千利休の高弟古田織部に茶の湯を学んだ数寄者として知られ、織部指導の下素朴で豪快な茶器を数多く焼かせます(筒井伊賀)。
この作風はその後藤堂高虎・高次親子を経て高虎の娘婿小堀遠州に引き継がれました(藤堂伊賀)。
これらを古伊賀と呼びます。
伊賀焼は別名七度焼といわれますが、これは土を高温(1400度とも)で何度も焼成するからです。
その際わずかに鉄分を含んだ土が燃えるような赤褐色に変化します。
また窯の中で降りかかった灰は萌葱色や青緑のビードロ釉となって流れだし煌くような美しい景色を作り出します。
形は歪みや膨らみが強調されており、ありきたりな調和は求めない。
へら目は奔放でどれ一つとして同じものは有りません。
水指や花生けは耳を持つものが多く、俗に「伊賀に耳あり信楽に耳なし」といわれています。
またひび割れや欠けは本来なら欠点ですが、造形性の強い伊賀焼では再現性のない「破格の美」として高く評価されています。
これらの古伊賀は、その後この地で起きた大飢饉の影響を受けわずか20年あまりで姿を消してしまいました。
幻の焼物といわれる所以です。
基本的には、古代の琵琶湖の粘土を用いることでは、信楽焼と変わらないのですが、信楽焼は「緋色とビロードの調和」と言われ、古伊賀焼は「ビロードごげの調和」と言われています。
物によっては城ひとつに匹敵すると言われる古伊賀は究極の陶器だと思います。
そのなかでも有名な「重要文化財」の水差し「破れ袋」はあの「何でも鑑定団」の中島清之助さんが世界一の陶器と言うほどで私も凄く好きなのですが、同じ水差しの「欲袋」が名の付け方といい、笑ってしまうほど好きで(笑)
破れ袋を真似して造ってみたが欲が出て本当に破れてしまったというのですから、正に欲が割れ目からこぼれているようです。
うちの吉村先生が古伊賀の名作「寿老人(古伊賀の名作)」にチャレンジした!と見せて下さった花器が素晴らしかっったです(お値段は秘密、仲介させて頂きます😉)。
古伊賀は何度も焼かなければ成らないこともあり、燃料代がかさむことから、陶芸家の間では、手を出すと破滅に繋がるとも言われるそうです。
陶器は火の作品です。有名な作家さんが、窯だしの時に自分の作品を思った通りの作品に成らずに、割り捨てておられるシーンをテレビなどで見られ間たことは有りませんか?
どんなに一生懸命陶器を造っても最後の窯焼きでは、計算通りに行かない事も多々有るのです。
ごくごくまれな偶然を覗いて、自分の力を120%注がなければ、炎の神様も此方を向いて下さらない訳です。
というわけで、近々に焼き上がった私の作品を観ていただきましょう。

刷毛筆もわらを買ってきて自作しました。生徒のやる気に合わせてなんでも教えていただけるのが、うちの教室の良い所です。
いつも応援いただき、本当にありがとうございます。
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