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2016/05/12

鎌倉幕府消滅の足音!『後醍醐天皇』VS『鎌倉幕府』

後醍醐天皇
(wkiからお借りしました)

大好きな『後醍醐天皇』なので力が入りますが、まず肖像画をご覧いただきましょう。
手にされているのは、仏法の法具(武器!)、金剛杵の一種で「 三鈷杵 」ですね。
天皇が武器をお持ちの肖像画って後醍醐天皇だけではないでしょうか?並々ならぬ、信念と決意が感じられます。

とりあえず「太平記」を読み直してから書かせて頂きました。

【時代要約】

鎌倉時代後期、鎌倉幕府では北条得宗家が権勢を振るっていました。
北条一門の知行国が著しく増加する一方で、御家人層では、元寇後も続けられた異国警固番役の負担、元寇の恩賞や訴訟の停滞、貨幣経済の普及、所領分割などによって没落する者も増加していきます。

幕府は徳政令を発して対応しますが、社会的混乱から諸国では「悪党(ただの悪者ではありません、鎌倉幕府が指定した荘園領主ではなくて、実質的にに荘園を支配している領主を指すと思います。)」の活動が活発化し、幕府は次第に支持を失っていきます。


朝廷では、13世紀後半以降、後深草天皇の子孫(持明院統「後の北朝」)亀山天皇の子孫(大覚寺統「後の南朝」)の両血統の天皇が交互に即位する両統迭立が行われていました(この時点では南北朝時代とは言いません)。

しかしながら、公家社会の中に支持皇統による派閥が生じるようになるなど混乱を引き起こし、幕府による朝廷の制御を困難にしていました。

【笠置山・赤坂城の戦い】

1331年(元弘元年)8月、後醍醐天皇の側近である吉田定房が六波羅探題に倒幕計画を密告し、またも計画は事前に発覚してしまいます。

六波羅探題は軍勢を御所の中にまで送り、後醍醐天皇は女装して御所を脱出し、比叡山へ向かうと見せかけて山城国笠置山で挙兵します。
後醍醐の皇子、護良親王や、河内国の悪党、楠木正成(もこれに呼応して、それぞれ大和国の吉野および河内国の下赤坂城で挙兵します。

幕府は大仏貞直、金沢貞冬、足利高氏(後の尊氏)、新田義貞らの討伐軍を差し向けます。9月に笠置山は陥落(笠置山の戦い)。

後醍醐天皇は側近の千種忠顕とともに幕府に捕らえられてしまいます。

幕府は持明院統の光厳天皇を即位させ、元号を正慶と改めさせるとともに、1332年(元弘2年/正慶元年)3月、日野俊基や北畠具行、先に流罪となっていた日野資朝らを斬罪とし、後醍醐天皇を隠岐島へ配流します。こうして倒幕運動は鎮圧されたかに見えます。

【千早城の戦い】

護良親王と楠木正成の両者は各々潜伏し、機会を伺っていいました。1332年(元弘2年/正慶元年)11月、楠木正成は河内国金剛山の千早城で挙兵し、同月、護良親王も吉野で挙兵して倒幕の令旨を発します。

正成は12月に赤坂城を奪回し、1333年(元弘3年/正慶2年)1月には六波羅勢を摂津国天王寺などで撃破します。

これに対し幕府は再び大仏家時・大仏高直兄弟、名越宗教らが率いる大軍を差し向けました。金剛山系に籠城する楠木勢に対し、先ず幕府軍は正成の配下の平野将監らが守る上赤坂城へ向かいます。上赤坂城の守りは堅く幕府軍も苦戦しますが、城の水源を絶ち、平野将監らを降伏させます。同じ頃、吉野では護良親王が破れてしまいます。

これにより、楠木正成がわずかな軍勢で篭城する千早城を残すのみとなりましたが、楠木軍は鎧を着せた藁人形を囮として矢を射掛けるなどといった奇策により、再び幕府軍を翻弄します。

幕府軍は水源を絶とうとしたが、千早城では城中に水源を確保していたため効果は有りませんでした。
楠木軍は一部が打って出て包囲方を奇襲し、軍旗を奪って城壁に掲げ嘲笑してみせるなど、90日間にわたって幕府の大軍を相手に戦い抜きます。

幕府軍が千早城に大軍を貼り付けにしながら落とせずにいる、との報は全国に伝わり、各地の倒幕の機運を触発することとなりました。

長くなってしまいました。今回は時代背景の説明だけになってしまいました。後醍醐天皇の墓所と千早城跡は近い内に是非行きたいです。

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