祝国宝認定!『松江城』 - 「高天原の縁側日記」
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2016/05/18

祝国宝認定!『松江城』

2015年(平成27年)5月15日、文化審議会が松江城天守の国宝指定について文部科学大臣に答申。

同年7月8日の官報告示をもって松江城が国宝に認定されました~!



「おめでとうございます」

松江城はとてもきれいな城なので私も大好きで、何度も行っています。

松江城1
(明治時代の洋館 、 松江郷土館「興雲閣」)


松江城5
(松平家初代藩主松平直政を祀る松江神社)


松江城2
(あいにくの雨)


松江城3
(祝国宝認定)


米子市に単身赴任していた時に、松江出身の友達が「松江城は江戸初期の現存天守を持つ素晴らしいお城なのになぜ国宝に指定されないのだろう?」(当時まだ国宝指定されていませんでした。)という話になりました。

「そうだね、でも姫路城に行ってみたらわかると思うよ!」と兵庫県出身の私は言ったのです。

当人が実際に姫路城に行って「わかったわ!確かに違う、しょうがないな~」と行ったときには笑ってしまいました.

今回国宝に指定されて本当に良かったですね。


これで国宝のお城が5つになり、そのうち『松本城』以外の『姫路城』『犬山城』『彦根城』『松江城』に行ったことになりました。

松本城は今年の諏訪御柱祭りに一緒に行こうと計画していましたが、残念ながら果たせず7年後(数え年)に持ち越しかもしれません。

ついでというわけではありませんが、訪れたその他の国宝もどうぞ!

姫路城(姫路城「白鷺城」白過ぎ城と子供達が、汗)


彦根城
(彦根城は桜が綺麗だったけど、天守まわりはまだ咲いていませんでした)


犬山城
(小さいけど風格が素晴らしい犬山城)


さて松江城ですが、堀尾吉晴が、慶長5年(1600)の関ケ原の合戦の功績により、遠州浜松から出雲・隠岐24万石の大名として島根県広瀬の月山富田城に入城しました。

しかし、月山富田城は周囲を山々に囲まれた中世以来の山城で、大砲などを使う近代戦に不利であったこと、また家臣を住まわせる広大な城下町を形成するには土地も狭く、交通も不便でした。

そのため宍道湖のほとりの標高28mの亀田山に築城を計画します。

慶長12年(1607)に着工。5年間にわたる難工事の末、慶長16年(1611)に完成しました。

城郭の広さは東西360m、南北560mもあり、周囲に幅20~30mの内堀をめぐらしました。

松江城4
(内堀から天守を望む)


その堀尾氏に替わって寛永11年(1634)若狭小浜から京極忠高が松江城主となり、斐伊川などの治水に努めましたが、寛永15年(1638)病死したため松江京極氏は1代で終わりました。


同年、徳川家康の孫にあたる松平直政(結城秀康の三男)が信濃松本より18万6千石で入城。

以後、松江城は松平氏10代の居城として明治維新を迎えます。

松平氏の中でも七代藩主治郷(はるさと)は政治手腕だけでなく、茶の道にも通じ、不昧(ふまい)と号して茶道石州流不昧派の元祖となり、現在でもなお松江の人々に不昧公の名で親しまれています。

不昧公の影響か、城には椿の花が多いです。

茶花としては最適ですからね~(⌒‐⌒)


城は、松江市街の北部に位置し、南に流れる京橋川を外堀とする輪郭連郭複合式平山城です。

宍道湖北側湖畔の亀田山に築かれ、日本三大湖城の一つでもあります。

なお、城の周りを囲む堀川は宍道湖とつながっており汽水域になっています(城の周りをこたつ船で廻るツアーもあります)。

松江城6(二の丸ではおみこしの練習!夏祭りの前でした)


構造は、本丸を中心に据え、東に中郭、北に北出丸、西に後郭、東から南にかけ外郭、西から南にかけ二の丸が囲みます。

二の丸の南には一段低く三の丸が配されています(三の丸は現在県庁として使用されています)。

天守は外観4重内部5階地下の穴倉1階、天守の南に地下1階を持つ平屋の付櫓を付けています。


外観は重箱造の二重櫓の上に3階建ての櫓を載せたようなもので3重目の南北面に入母屋屋根の出窓がついています。

意匠は下見板張りで桃山文化様式、1・2階平面は東西12間に南北10間あり、高さは、本丸地上より約30m(天守台上よりは22.4m)あります。


窓は突上窓と火灯窓あり、2階に1階屋根を貫くかたちで開口した石落しが8箇所あることを特徴としています。

地下の井戸は城郭建築では唯一の現存例です(井戸の写真を撮ってなかったですが、大きいです。)。

最上階は内部に取り込まれた廻縁高欄があり、雨戸を取り付けて有ります。

鯱は、木製の銅板張で現存天守の中では最大の高さ約2mにもなります。

また、石垣は「牛蒡積み」といわれる崩壊しない城石垣特有の技術が使われている事も特徴的です。

【人柱伝説】

夏には少し早いけど、ちょっと恐ろしいお話があります。

天守台の石垣を築くことができず、何度も崩れ落ちるほどの難工事、人柱がなければ工事は完成しないと、工夫らの間から愚痴が出てしまいます。

そこで、盆踊りを開催し、その中で最も美しく、もっとも踊りの上手な少女が生け贄にされたそうです。

娘は踊りの最中にさらわれ、事情もわからず埋め殺されたといいます。

石垣は見事にでき上がり城も無事落成したが、城主の父子(京極氏の事かな?)が急死し改易となってしまいます。

人々は娘の無念のたたりであると恐れたため、天守は荒れて放置されたそうです。


その後、松平氏の入城まで天守からはすすり泣きが聞こえたという城の伝説が残っています。

また、城が揺れるとの言い伝えで城下では盆踊りをしなかったとも言われているそうです。(「小泉八雲/人柱にされた娘」など)。


もう一つ、天守台下の北東部石垣が何度も崩落するため困っていたところ、堀尾吉晴の旧友という虚無僧が現れて、崩落部分を掘らせたところ槍の刺さった髑髏が出てきたので虚無僧が祈祷したが、まだ危ういところがあるというと虚無僧は「祈祷では無理だ。」といいます。

どうすればいいのかたずねると、「私の息子を仕官させてくるのであれば、私が人柱になろう。」というので、虚無僧に人柱になってもらい工事を再開させることができました。

堀尾家は普請の途中に2代忠晴で絶え改易となった、というお話も、更に、これには別に、虚無僧の尺八が聞こえてきたので捕まえて人柱にしたところ、尺八の音が聞こえるようになった、というものもあります。

姫路城のお菊井戸も時代が全然違っていますけど、古い建物には有りがちなお話ですね~、汗。

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