建武新政の立役者 『楠木正成』 神戸湊川に散る!
皆さんのお陰で3000アクセスを達成出来ましたm(__)m。
まだまだ数字は少ないですが、何万何百万、何千万アクセスの上位のBloggerと競いあって行けるのもひとえに、皆様のお陰と感謝しております❗
今後も直往邁進を心掛け、慢心せずに頑張りたいと思いますので、応援宜しくお願い致します~(^-^)/
鎌倉時代の終焉と室町時代の始まりのお話の続編です。
建武の新政の立役者『楠木正成』の最後についてお話致します。
その前に南北朝時代の説明を少しいたします。
鎌倉時代の両統迭立は、後嵯峨天皇の第3皇子後深草天皇の子孫である持明院統と、第4皇子亀山天皇の子孫である大覚寺統とのあいだで行われていました。
花園天皇(持明院統)の後に即位した後醍醐天皇(大覚寺統)は、鎌倉幕府打倒を計画した正中の変・元弘の変によって隠岐に流されましたが、天皇新政を目指す後醍醐天皇は隠岐を脱出し、足利尊氏・新田義貞らの協力で鎌倉幕府打倒に成功し、天皇中心の政治「建武の新政」(1333)を実施しました。
しかし、武士層の不満をかい、後醍醐天皇は尊氏と対立して政敵となり、建武の新政は2年あまりで瓦解してしまいます。足利軍に追われた後醍醐天皇は、比叡山から吉野に逃れて、1336年「南朝初代天皇」を宣下しました。
対する尊氏は光厳天皇(北朝初代)を擁立して「北朝」を宣言。ここから南北朝時代が始まり、60年あまりの変則的な「南朝(公家)」「北朝(武家)」という2つの皇統が出現することになりました.。
名より実を取るといわれますが、結局皇統として認められているのは南朝側の後醍醐天皇の後を継いだ3人の天皇(97~99代まで後村上天皇、長慶天皇、後亀山天皇)で北朝側の天皇(光厳天皇以下五代)は皇統としては認められていません、しかしながら北朝六代目の後小松天皇(第100代)に皇統は統一され現代にいたっています。
今上天皇も北朝の系統ということになりますね。
【楠木正成湊川に散る!】
建武2年(1335年)、中先代の乱を討伐に向かった足利尊氏が、鎌倉で新政に離反、追討の命を受けた新田義貞を破って京へ迫ります。
楠木正成は北畠顕家らと連携し、足利軍を京より駆逐しました(尊氏はほうほうの程で九州に逃れます)。
九州に逃亡した尊氏ですが、1336年4月末、九州で多くの武士、民衆の支持を得て大軍を率いて北上を開始します。
後醍醐天皇は「湊川(神戸)で新田軍と合流し尊氏を討伐せよ」と正成に命じます。
しかしながら、大軍の尊氏軍に勝つには策略が必要と、正成は策を帝に奏上します。
作戦は、正成が淀川の河口を塞ぎ敵の水軍を足留めし、帝に比叡山に移って頂き、京の都に尊氏軍を誘い込んだ後に、北から新田軍、南から正成軍で敵を挟撃する作戦でした。
しかしこの案は、帝が都から離れるのを良しとしない公家たちの意見で却下されてしまいます。
正成が得意とした山中での奇策も同じく採用されませんでした。
失意の中、正成は湊川に向かって出陣します。
すでに後醍醐天皇の求心力は無きに等しく足利尊氏軍3万5千に対し、楠木正成軍は700だと伝わります。
大きな戦力の差を前に、正成は遺書とも思える手紙を後醍醐天皇に書きます。
「この戦いで我が軍は間違いなく敗れるでしょう。かつて幕府軍と戦った時は多くの地侍が集まりました。民の心は天皇と通じていたのです。しかしこの度は、一族、地侍、誰もこの正成に従いません。正成、存命無益なり」。
彼はこの書状を受け取った天皇が、目を開いて現実を直視するように心から祈ったと思われます。
5月25日、湊川で両軍は激突、海岸に陣をひいた新田軍は海と陸から挟まれ総崩れになり、正成に合流できなかったばかりか、足利軍に加わる兵までいたとされます。
戦力の差は歴然でしたが、尊氏は戦力を小出しにするだけで、なかなか総攻撃に移りません。
3年前は北条氏打倒を誓って奮戦した同志、尊氏は何とかして正成の命を助けたいと思い、彼が降伏するのを待っていたと思われます。
しかしながら、正成軍は鬼気迫る突撃を繰り返し、自軍の損失を考慮した尊氏は、一斉攻撃を命じます。
6時間後、正成は生き残った72名(神社の札だと76名になります)の部下と民家へ入ると、死出の念仏を唱えて家屋に火を放ち全員が自刃しました。
正成は弟の正季と短刀を持って向かい合い、互いに相手の腹を刺して自害したといわれます。享年42歳。
足利尊氏側の記録『梅松論』は、正成の死をこう記している「誠に賢才武略の勇士とはこの様な者を申すべきと、敵も味方も惜しまぬ人ぞなかりける」。
延元元年(1336)5月25日、正成公が御弟正季公以下一族と「七生滅賊(七度同じ人間に生まれて朝敵を滅ぼそうぞ)」を誓われつつ殉節された場所と伝えられる場所が、神社境内西北隅に位置します(国指定文化財史蹟、神社に申し出ると神社神官と一緒にお詣りできます)。
神職の方の説明によると、前回UPした水戸光圀が建立した楠木正成の墓(神社東南方向)と殉節の地を起点に明治五年(1872年)、東西南北の縄張りを行い7232坪の湊川神社が建立されました。
先の大戦ですべての社殿や境内の楠が焼失、正面の大鳥居も倒壊しました。この神社の性質上GHQは神社再建を認めようとしなかったそうです。
いつも応援いただき、本当にありがとうございます。
ランキングを競わせていただいています。
これは納得!もしくは面白い!と思われましたら「ぽちっと」日本人気ブログランキングバナーとブログ村の日本史バナー二か所クリックをお願いいたします。
👇👇👇👇👇👇👇 👇👇👇👇👇




まだまだ数字は少ないですが、何万何百万、何千万アクセスの上位のBloggerと競いあって行けるのもひとえに、皆様のお陰と感謝しております❗
今後も直往邁進を心掛け、慢心せずに頑張りたいと思いますので、応援宜しくお願い致します~(^-^)/
鎌倉時代の終焉と室町時代の始まりのお話の続編です。
建武の新政の立役者『楠木正成』の最後についてお話致します。
その前に南北朝時代の説明を少しいたします。
鎌倉時代の両統迭立は、後嵯峨天皇の第3皇子後深草天皇の子孫である持明院統と、第4皇子亀山天皇の子孫である大覚寺統とのあいだで行われていました。
花園天皇(持明院統)の後に即位した後醍醐天皇(大覚寺統)は、鎌倉幕府打倒を計画した正中の変・元弘の変によって隠岐に流されましたが、天皇新政を目指す後醍醐天皇は隠岐を脱出し、足利尊氏・新田義貞らの協力で鎌倉幕府打倒に成功し、天皇中心の政治「建武の新政」(1333)を実施しました。
しかし、武士層の不満をかい、後醍醐天皇は尊氏と対立して政敵となり、建武の新政は2年あまりで瓦解してしまいます。足利軍に追われた後醍醐天皇は、比叡山から吉野に逃れて、1336年「南朝初代天皇」を宣下しました。
対する尊氏は光厳天皇(北朝初代)を擁立して「北朝」を宣言。ここから南北朝時代が始まり、60年あまりの変則的な「南朝(公家)」「北朝(武家)」という2つの皇統が出現することになりました.。
名より実を取るといわれますが、結局皇統として認められているのは南朝側の後醍醐天皇の後を継いだ3人の天皇(97~99代まで後村上天皇、長慶天皇、後亀山天皇)で北朝側の天皇(光厳天皇以下五代)は皇統としては認められていません、しかしながら北朝六代目の後小松天皇(第100代)に皇統は統一され現代にいたっています。
今上天皇も北朝の系統ということになりますね。
【楠木正成湊川に散る!】
建武2年(1335年)、中先代の乱を討伐に向かった足利尊氏が、鎌倉で新政に離反、追討の命を受けた新田義貞を破って京へ迫ります。
楠木正成は北畠顕家らと連携し、足利軍を京より駆逐しました(尊氏はほうほうの程で九州に逃れます)。
九州に逃亡した尊氏ですが、1336年4月末、九州で多くの武士、民衆の支持を得て大軍を率いて北上を開始します。
後醍醐天皇は「湊川(神戸)で新田軍と合流し尊氏を討伐せよ」と正成に命じます。
しかしながら、大軍の尊氏軍に勝つには策略が必要と、正成は策を帝に奏上します。
作戦は、正成が淀川の河口を塞ぎ敵の水軍を足留めし、帝に比叡山に移って頂き、京の都に尊氏軍を誘い込んだ後に、北から新田軍、南から正成軍で敵を挟撃する作戦でした。
しかしこの案は、帝が都から離れるのを良しとしない公家たちの意見で却下されてしまいます。
正成が得意とした山中での奇策も同じく採用されませんでした。
失意の中、正成は湊川に向かって出陣します。
すでに後醍醐天皇の求心力は無きに等しく足利尊氏軍3万5千に対し、楠木正成軍は700だと伝わります。
大きな戦力の差を前に、正成は遺書とも思える手紙を後醍醐天皇に書きます。
「この戦いで我が軍は間違いなく敗れるでしょう。かつて幕府軍と戦った時は多くの地侍が集まりました。民の心は天皇と通じていたのです。しかしこの度は、一族、地侍、誰もこの正成に従いません。正成、存命無益なり」。
彼はこの書状を受け取った天皇が、目を開いて現実を直視するように心から祈ったと思われます。
5月25日、湊川で両軍は激突、海岸に陣をひいた新田軍は海と陸から挟まれ総崩れになり、正成に合流できなかったばかりか、足利軍に加わる兵までいたとされます。
戦力の差は歴然でしたが、尊氏は戦力を小出しにするだけで、なかなか総攻撃に移りません。
3年前は北条氏打倒を誓って奮戦した同志、尊氏は何とかして正成の命を助けたいと思い、彼が降伏するのを待っていたと思われます。
しかしながら、正成軍は鬼気迫る突撃を繰り返し、自軍の損失を考慮した尊氏は、一斉攻撃を命じます。
6時間後、正成は生き残った72名(神社の札だと76名になります)の部下と民家へ入ると、死出の念仏を唱えて家屋に火を放ち全員が自刃しました。
正成は弟の正季と短刀を持って向かい合い、互いに相手の腹を刺して自害したといわれます。享年42歳。
足利尊氏側の記録『梅松論』は、正成の死をこう記している「誠に賢才武略の勇士とはこの様な者を申すべきと、敵も味方も惜しまぬ人ぞなかりける」。
延元元年(1336)5月25日、正成公が御弟正季公以下一族と「七生滅賊(七度同じ人間に生まれて朝敵を滅ぼそうぞ)」を誓われつつ殉節された場所と伝えられる場所が、神社境内西北隅に位置します(国指定文化財史蹟、神社に申し出ると神社神官と一緒にお詣りできます)。
神職の方の説明によると、前回UPした水戸光圀が建立した楠木正成の墓(神社東南方向)と殉節の地を起点に明治五年(1872年)、東西南北の縄張りを行い7232坪の湊川神社が建立されました。
先の大戦ですべての社殿や境内の楠が焼失、正面の大鳥居も倒壊しました。この神社の性質上GHQは神社再建を認めようとしなかったそうです。
いつも応援いただき、本当にありがとうございます。
ランキングを競わせていただいています。
これは納得!もしくは面白い!と思われましたら「ぽちっと」日本人気ブログランキングバナーとブログ村の日本史バナー二か所クリックをお願いいたします。
👇👇👇👇👇👇👇 👇👇👇👇👇




コメント
No title
なんか自分のことみたいに嬉し〜♪
今日も応援ポチ完了ですぜ旦那ッ!笑
2016-08-18 04:34 taka :a URL 編集
taka:aさんコメントを頂きありがとうございます。
> なんか自分のことみたいに嬉し〜♪
taka:aさんありがとうね~色々教えてくれて感謝です。
もう少し周りを飾りたいと思うので、これからもよろしくお願いします。
2016-08-19 23:27 市良右衛門 URL 編集
湊川神社には
湊川神社には能舞台(神能殿)があるので、学生時代から何度も鑑賞に行ったり舞台に立ったり。いい舞台なんですよ。懐かしいなぁ。
桜井の別れは神社巡りで像が片隅にあったので知ったのですが、昔は教科書にあったと聞きました。
創建の経緯がもにゃもにゃなので、GHQが認めなかったのは仕方ないですね。でも、今も皆に慕われるいいお社だと思います。
これからしばらく高温の日々のようですね。
お互い気をつけて、好きなものへ突進しましょー!
2016-08-20 00:11 つねまる URL 編集
つねまるさんいつもコメントありがとうございます。
> 湊川神社には能舞台(神能殿)があるので、学生時代から何度も鑑賞に行ったり舞台に立ったり。いい舞台なんですよ。懐かしいなぁ。
> 桜井の別れは神社巡りで像が片隅にあったので知ったのですが、昔は教科書にあったと聞きました。
> 創建の経緯がもにゃもにゃなので、GHQが認めなかったのは仕方ないですね。でも、今も皆に慕われるいいお社だと思います。
> これからしばらく高温の日々のようですね。
> お互い気をつけて、好きなものへ突進しましょー!
私も能や狂言は興味が在ってたまに出かけます。薪能なんかが気分も上がり日本人で良かったと思えますね~!
神能殿は今回初めて存在を知りました。今後イベント注意しておきます。
つねまるさんは能楽にも詳しい様子、スキーといい多彩なお姉さんですね(笑)
桜井の別れが教科書に載っていたのは知りませんでした、勉強させていただきました。
まだ残暑厳しいですが、歴史探求頑張りましょう~!
2016-08-21 00:20 市良右衛門 URL 編集