2018年08月 - 「高天原の縁側日記」
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2018/08/26

「のご愛顧に感謝」歴史ブログ『高天原の縁側日記』をWordPress に移行、リブログ予定!

歴史ブログ『高天原の縁側日記』を始めて2年10ヶ月が経過しました。この度『高天原の縁側日記』をWordPress に移行してリブログするとともに、新たな形でブログを継続することにしました。

三週間にもわたりブログを更新しなかったのも、悩みながら色々と研究を重ね考えた結果です。三週間にわたりブログを更新しなかったにも関わらず、ブログランキングの順位がそれほど変化することはありませんでした。

コアなファンの皆さんが『高天原の縁側日記』を支えててくださったことに、驚くとともに本当に感謝しています。

詳細は改めてお話ししますが、変更する事実を先ずはお知らせしたいと思います。『本当にありがとうございました。』




それでは、『市郎右衛門』のブログをお楽しみください。

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|o´艸)。oO(Thank you)。

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『2年10ヶ月のご愛顧に感謝』



2年10ヶ月のご愛顧に感謝するとともに、
私が「自分の考えを皆さんに伝えたい」と考え始めた理由について、
少し書いておこうとおもいます。


歴史は、『今も執筆され続ける壮大な時の流れの物語』です。

その大河を遡り、禁断のIFを推察する、スリルに満ちたエンターテイメント、
急な流れのむこうや落差ある滝の裏、深い河淵の底や切り立った岩肌の上は、



未だ解明されない多くの謎に満ちています。
この、「大長編スペクタクルストーリー」に魅了されない人はいないですよね?(そこまで~大げさなものか~?笑)。


P7140230.jpg(本物に会いたい方々も楽しめるブログを目指します。「浜松城の歴史家 磯田道史さん監修の徳川家康(リアルすぎて怖い!)」)


歴史好きの皆さま方、知識の点であった遠い記憶が、
ある時“ふっと”つながって一本の線に変化して、
改めて、歴史物語の本質に気が付く楽しみを体験された事は有りませんか?



私には、そんな経験が何度かありました。
その時の素晴しい感動を皆さんに伝えたくて、
書き伝えるという方法を選びました。


CIMG0784.jpg(世界遺産の城も~!「白鷺城」)
CIMG7411.jpg(京都の大名所も~!「東福寺の紅葉」)
CIMG8118.jpg(国宝も~!「俵屋宗達の風神雷神図」)
CIMG7524.jpg(竹下夢二が通った祇園のグルメも~!「八坂神社隣の有名甘味店」)


【生きているぞ~!】


9年程前(2010年)仕事でストレスを抱え込み過ぎた身体が、ついに悲鳴を上げました。

一生涯付き合わなければならない「心と体の病気」にかかり、
「このままでは、命の保証は出来ない」と宣告されました。


三ヶ月の入院を余儀なくされた私は、
入院生活の間、自分の残りの人生や将来(老後)について、
深く考えるようになりました。



退院の後、リハビリや家族の支えもあって少しずつ体力回復した歴史好きの私は、
寺社仏閣巡りを始めることにしました。


神仏に頼ろうとしたわけでは無いのですが、これまで歩んできた人生をもう一度見つめ直して、
棚卸してみようと思い立ったのです。


さらに、子どもの頃からの夢だった歴史を本格的に勉強したいとも思ったのです。

出会った自然に魅了されて、登山やトレッキングも始めました。


CIMG8628_2018071222464198f.jpg(子どもたちと登山した、大山山頂)
大山の高山植物4(大山の美しい高山植物)



寺社仏閣巡りや史跡・城巡りの途中で、新たに知った神話や歴史・文化・風俗、
そして地方地方の美味しく珍しい食べ物、素晴しい陶器や民芸品にも心を奪われました。

さらに、旅先で出会った人々や祭などなど、それらすべてが私には新鮮で、
“日本という国に生まれて本当に良かった”と思うことができました。



「私は生きている!いいや生かさせて頂いている。」と思え、
日本の自然に対する感謝と祈りが、
かけがえのないものだと考えるようになりました。



是非、素晴しい日本の文化や歴史を皆さんにご紹介したい、
“その様な方法は無いのだろうか?”と、
考えるように成っていきました。

【今井雅之君の死】


_29MD005_[1]
(こちらで十分頑張ったのに、天国での舞台でも頑張ってるのかい!)


そんな時、中学・高校と同級生だった俳優 今井雅之君が、
2015年5月28日に突然病気で亡くなりました。

皆さんもご存知だと思います。

彼の死は、勿論同級生の一人またファンの一人としても、非常に残念んでなりませんでしたし、
彼自身にはもっとやりたい仕事が数多く有ったに違いありません。



IFがあったならもっと偉大な俳優や作家となって、
多くの作品を世に生み出していた事でしょう。

しかし私は、「彼自身は自分の生きてきた人生にけっして後悔はしていないのではないか」と考えたのです。

彼は一度たりとも振り返らず、自身が選んだ道を駆け抜けたのですから。



そして、彼の様な素晴らしい人生はとても送られないかもしれないが、
私も「今日一日」を精一杯かんばって生き、

「今日はBETTERで、明日はよりBESTな一日」を目指す、
そんな人生を送りたいたいと考えるようになりました。



人間は、一呼吸する間にも新たな自分に生まれ変わります。
ひと呼吸前の自分にはもう戻ることは出来ないのです。

だからこそ、その一瞬一瞬を大切に生きていきたいと、考えるようになったのです。

そして何かの方法で、私の考えや自然への感謝や祈りを、
共感出来る方々へ“発信出来ないかと?”考えて、「ブログを始めてみよう」と決心しました。



当初は「何を書いたら良いのか?」「本当にこれが自分の伝えたいことなのか?」悩み、考えて苦労しました。

もちろん、私の稚拙な文章のブログなど見向きもされませんでしたし、
最初の三ヶ月はコメントも全く有りませんでした。
ユーザー数が一桁の日がずっと続きました。


ジャンルを自分の好きな「歴史」にしたことで、
歴史に興味の無い皆さんには敬遠されたのかもしれませんし、
SEO対策など知る由もありませんでした。

ランキング登録した当時は、自分のブログ名を探すのに四苦八苦しました。(笑)


【友達ができた~!】


DSC_0226.jpg(神様にも会いに出かけます!「出雲大社の大国主」)
P5190133.jpg(偉大な古墳も!「箸墓古墳」卑弥呼にも会えるブログを目指します。)
P5210798.jpg(大偉人も!「法隆寺」)



ある日、「同じ但馬の出身なのですが…」と始めてコメントが来ました。

うれしかったですね~。
“こんなブログでも見てくれている人が居たんだな”と感動すら覚えました。



今では親友と言ってよいと感じるほどになった彼は、
皆さんご存知のスーパーブロガー、

本日の一杯-Cupmen review blog-の、
◝( ꒪౪꒪)◜ケケケ…のtaka:aさんです。


taka:aさんは私に、多くのブログ友達を紹介してくれました。
そのブロガー皆さんの熱意と、真摯なブログへの思いにKOされた私は、
もっともっと頑張らなければと心に誓ったのです。


私のポリシーは『フィールドワーク』です!
体験した場所・物以外は書かないことを信条にしているのです。



当然「歴史」が基本テーマですから、実際の時代を体験することはできません。
ですからデータは、どうしてもWikipediaやパンフレット・ご由緒書きなどに頼らざるをえません、
その代わりに、私が現地で実際に感じた事や写真を皆さんにご紹介したいのです。

写真一枚撮り忘れたために、現地に二度三度と通ったこともありました。


彼らブログ友達の皆さんが居なければ、
2年10ヶ月にわたってブログを書き続けることは出来なかったと思います。
taka:aさんには感謝してもしきれないほどです。

近頃は、馬肉会も二人でまったりと開催することが多く成っていますが、
いつもアドバイスを頂いてブログ制作に役立てています。



そんな出会いも有って、私のブログも「部門ランキング」上位に名を連ねるようになりました。
多くはありませんが、訪れてくださる皆さんも徐々に増えていきました。

稚拙なブログを訪れてくださるコアなファンの皆さんが、
『高天原の縁側日記』を支えててくださったことに、
本当に感謝しています。

「ありがとうございました。」

『高天原の縁側日記』をWordPress に移行は何故?



改めて、私自身のことと共に「WordPress 」に移行する理由を、お話させて頂きます。

兵庫県北部、山陰但馬国生まれの私「市郎右衛門」が、
大好きな日本の歴史とこだわりのブログ『高天原の縁側日記』を始めたのは、
2年10ヶ月程前です。


「市郎右衛門」のハンドルネームを使っていますが、
市郎右衛門は室町時代から続く我が家の世襲の名前です。


当然、明治以降は普通に名字と名前があるのですが、
曽祖父は順三郎、祖父は洋一、父は重通、私は●●、おっと…笑、
江戸時代以前我が家の当主は、市郎右衛門を代々名乗っていたようです。

ですから、もし江戸時代が続いていたならば、
現当主の父が18代、私が19代、私の長男が20代市郎右衛門になります。

そこでハンドルネームに「市郎右衛門」を使うことにしました。



「古い家です」などと書きますと、やんごとなき家柄?と思われたり、
有名武将の末裔?などと思われるかもしれませんが、
そんなことでも無いのです。

ただ古いだけです。
ご先祖さまかが、長く同じ場所に住み続けてくださっただけです。


ルーツについて、幾らかの推測もできるのですが、
江戸時代は小さな?庄屋を営んでいました。


CIMG7483.jpg(WordPress に移行は清水の舞台から飛び降りたつもりで~!「清水寺」)


このブログ『高天原の縁側日記』を書くという決心の中には、
私の古い実家(19代を名乗る我が家の家名は、室町時代以前に遡る)を守りたいとの考えも同居しています。

そのための政策として、過疎の田舎でも発信可能なインターネットを通じて、
何か出来ないか(起業したい!)と考えたのです。



最初の試みは、自分の発信力がどの程度なのか、
まず試してみようと思い立ったて始めたのがブログ製作です。

2年と10ケ月を経過しまして、それなりの成果は出ていますが、
けして満足出来るところには行きついていません。


稚拙な文章で、皆んを退屈させいるのかも知れませんし、
そもそもテーマが万人受けしないですよね(笑)。

そこで私が選択したのが、本格的にブログ運営を学んでみる事でした。



先生に選んだのは、後でご紹介する「次世代起業セミナー」で、
断トツ トップの実績をお持ちの100%本気の起業相談室の、
ずーみーさんです。


ずーみーさんにコンサルして頂いたことで、
前回のブログがかなり改善されたことが、お解り頂けましたでしょうか?

【比べてみてください】

①神々をね訪ねて「出雲大社」を歩く!スピンオフ『天照大御神は卑弥呼なのか?』
②源氏と平氏はどう違う?征夷大将軍は源氏しか成れない?清和源氏発祥の地「多田神社」を訪ねて。


明らかに、シンプルで読みやすくなったと思いませんか?(笑)



そして私の弱点でもある、SEO対策を完璧なものにする為に、
『高天原の縁側日記』をWordPress に移行、りブログすることにGOサインを出していただきました。

AMP対応や集客・SSL対応にも有利ですね。


今後の予定




今後の予定についてですが、
今日このブログをアップして、エックスサーバーを契約しアカウントを決めた後、
ご報告を兼ねてこちらのブログで、詳細をご報告させていただきます。

次に、新しいブログのプロフィールを書き込むために少し時間をいただきます。
さらにライバル研究の観点から自分の上位のランキングのブロガーさん方を、
研究したいと考えています。



新しいブログに移行しましてもしばらくは、新しい記事を書かずにりブログに専念したいと思っていますが、
皆様の反応が気になりますのでコメントをいただけましたら幸いです。

それではもう少しお時間を頂きますが、
ブログ移行に向けて頑張りたいと思いますので、よろしくお願いいたします。



どれくらい頑張れるかわかりませんが、「情報発信で起業する」という考えは変わっておりませんので、
出来る限り頑張りたいと思います。


CIMG7742.jpg
(季節を問わず!「雪の銀閣」)
P7171141.jpg(地の果てまでも行きます。「富士山山頂」)


次のブログのサーバー契約は今月中に終わるとおもますので、
次ブログのご紹介も、今月中にさせて頂けると思います。


新アカウントとブログ名は?



エックスサーバーを使用予定です。
新アカウントは未決定ですが、
現在の「高天原の縁側日記」は、

もともと“神様目線で歴史を紐解く”という意図で名づけたのですが、
高天原と縁側がSEO対策では結びつかないですし、
URLの「ichirouemon19th.jp」って何?って感じですよね(-"-;A ...アセアセ


癒しとストレス解消の遺跡・史跡・寺社仏閣巡り
       「高天原日記」
~縄文・弥生時代から現代まで、日本の歴史と文化の旅に神様目線で旅立とう~


こんな感じになると思います。
べたですが、単純で分かりやすと思います。


IMG_6110_20180826133502cd0.jpg
(神跡「黄泉平坂」、黄泉の国の入り口までもまいります)



『高天原の縁側日記』今後の展開



PA140624_20180712224644978.jpg(戦場だとて参ります、関ケ原・石田三成の陣地)



①当然、歴史を中心に日本の文化や自然を紹介します。
②フィールドワークの柱は堅持します。
③プロの情報発信者を目指す。



ここで、私の尊敬する人物を一人ご紹介させていただきます。

上杉鷹山[1]
(尊敬する日本人の一人上杉鷹山公)



私が最も尊敬する歴史上の人物『上杉鷹山』をご紹介します。
もちろんお会いしたことは無いので、藤沢修平の歴史小説「漆の実のみのる国」からお話をさせていただきます。


まずその前に、“うんちく自慢?”から失礼します(笑)。
J・F・ケネディご存知ですよね、「アメリカ35代大統領」です。

JFKと短縮記憶していませんか?
「ジョン・フィッツジェラルド・ケネディ」が本名なんですよ、知ってましたか?


1961年、アメリカ35代大統領に就任したJ・F・ケネデ ィは、
日本人記者団からこんな質問を受けました。



「あなたが、日本で最も尊敬する政治家はだれですか?」ケネディはこう答えました。
「上杉鷹山(ようざん)です。」

記者の誰もが「上杉鷹山」を知らなかったといわれています。
“そんなわけ無いだろう”と思うのは私だけかもしれません。


この話は大統領が本当に「上杉鷹山の名前を明言した!」の言った?言わない?で、
都市伝説の様になっていましたが、
2013年11月に娘のキャロライン・ケネディ元駐日大使が、


「父が、米沢藩の名君上杉鷹山を尊敬していて、あの有名な就任演説、
『国が人民になにができるかではなく、貴方が国家に対してなにができるか考えてほしい!』の
スピーチ作成に影響を与えました。」

と発言して、都市伝説に終止符が打たれました。



『上杉鷹山』と言えば、
「為せば成る為さねば成らぬ何事も成らぬは人の為さぬなりけり」
(やればできる。やらなければできない。何事も、できないのは人がやらないからだ)の名言で有名ですよね。

上杉治憲(鷹山)と重臣たちの苦闘を描いた藤沢修平絶筆の歴史小説
「漆の実のみのる国」を是非読んでください。



財政に窮乏し、風紀は乱れ、亡国の危機にある名門上杉家(上杉謙信以来の名門)
米沢藩を再興するべく並々ならぬ努力を重ねる治憲。

長い辛苦の中に見える未来への光が感じられたにもかかわらず、
彼らの苦闘が報われ、藩の窮乏から脱する様子が描かれていないことは残念でした。


作者、藤沢修平の病魔が直ぐそこまで来ていたのでしょう。
藩の困窮を救うはずだった漆の実とは、優秀な人材だったのではないでしょうか?



藩政改革から殖産振興に至るまでを示した、
十六ヶ年組立と呼ばれる改革案(寛三の改革)を治憲に提出するまでを描き、
鷹山と改名した治憲が、漆の実が藩の窮乏を救うという心躍った過去を思い返すところで幕が閉じられています。

解説によると、この三十七章が原稿用紙六枚分で終わっているのは、
これが著者藤沢周平最後の原稿だからだそうです。



本来なら、あと四十から六十枚の予定だったといいますから、
著者は光を浴びた米沢藩を描きたかったに違いない、と考えられています。




さて、新しく?より分かりやすいブログの作成に取り掛かります。

もちろん今後はこれまで恐れ多くて避けていた歴史や史跡にも挑戦します。
ブログ仲間に負けないように、

今井君にも上杉鷹山にも負けないように頑張りますので、
もうしばらくお待ち願います。


「為せば成る為さねば成らぬ何事も成らぬは人の為さぬなりけり」

P1080087.jpg(妖怪のように歴史・文化・風土を食べつくす所存!笑、よろしくお願い仕りまする。)


いつも応援ありがとうございます。歴史って本当に面白いですよね~!
今後もランキングにはこだわって良い記事をUPしたいと思います。はげみになりますので宜しくお願い致します(^人^)
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2018/08/08

源氏と平氏はどう違う?征夷大将軍は源氏しか成れない?清和源氏発祥の地「多田神社」を訪ねて。

「源氏と平氏はどう違うの?」「なぜ、征夷大将軍は源氏しか成れないの?」「源朝臣徳川次郎三郎家康ってどいうこと?」の謎を求めて、清和源氏発祥の地「多田神社」にお詣りしてきました。

子ども・孫代で臣籍降下すると源氏を名乗り、の曾孫の代で臣籍降下すると平氏に成ります。

「征夷大将軍は源氏しか成れない」は嘘だった、鎌倉幕府の4代・6代将軍は藤原氏でしたし、平氏である織田信長も、望めば征夷大将軍に成れたはずなので、源氏以外でも将軍になれるのは間違いありません。                             

徳川家康は先祖を清和源氏の新田氏だと称していました。 朝臣はもともとは「八色の姓(カバネ)」のひとつでしたが、やがて「五位以上の貴族が名乗れる尊称」というべきものになっていきました。
答えが出ちゃいましたが(笑)丁寧に「多田神社」 をご紹介しましょう。




【プロローグ】源氏と平氏はどう違う?



先ず、姓(かばね)について少し説明しましょう。
姓は現在現在私たちが名乗ってる姓(氏・名字)とは違うものです。

姓(かばね)は天皇が臣下に与える姓の事で、代表的なものの一つとして源平藤橘を「四姓」と呼びますが、そのほかにも姓は沢山あります。清原、菅原、高階、大江、大伴(伴)、紀、安倍、などです。
豊臣秀吉の豊臣もそうでしたね。

姓について簡単に説明すると、姓「天皇からもらったもの、朝廷での役職や地位をあらわすもの」、氏「古代日本で親族ごとに集団を作っていた残りの呼名や氏族」、名字「自由に付けていいもので、氏が分家したときに区別に使ったり、武士が増えてきて自分の支配する地名を名字にして所有権を表したものです。
一般的には、明治になって法令によって定められました。

平民苗字必称義務令(へいみんみょうじひっしょうぎむれい、平民苗字必唱義務令・太政官布告第22号)は、1875年(明治8年)2月13日公布で、すべての国民に苗字(名字・姓)を名乗ることを義務付けました。

江戸時代まで、日本において公的に苗字を使用したのは、原則として、公家及び武士などの支配階層に限られ、一種の特権とされていました。
明治維新により、従来の身分制度の再編が図られ、明治3年9月19日(1870年10月13日)に「平民苗字許可令」(明治3年太政官布告第608号)が発布されました。
この布告では初めて「平民」の語を用いて、華族及び士族(この両者は公家・武士の家柄がほとんどですが)に属さない平民に「苗字」の使用が許可されました。

しかし、当時の国民(平民)の中には、「課税されることを恐れて届け出が少なかったり」「めんどくさい・・・おらは団子屋の市さんでいいや」と、あえて苗字を使用しない人も多かったので、1875年(明治8年)に改めて名字の使用を義務づける「苗字必称義務令」が発令され、すべての人々が名字を名乗ることに成りました。

P7150627.jpg
(JR川西池田駅にある。清和源氏の祖、「源義仲」の像。)

かなりややこしくなってきましたので、具体例を出してみたいと思います。
「織田信長」さんと「徳川家康」さんにお願いしましょう。
正式名は「平朝臣織田三郎信長」と「源朝臣徳川次郎三郎家康」です。
この場合、「織田信長」さんは氏姓・平朝臣、名字・織田、通称・三郎、 実名・信長、「徳川家康」さんは氏姓・源朝臣、名字・徳川、通称・次郎三郎、 実名・家康に成ります。

信長が平氏だったので、部下の秀吉は同じく平氏姓を名乗ったために征夷大将軍に成れなかったといわれていますがそんなことはなかったはずです。
戦国時代には、清和源氏の末裔を称して家格を誇張する者も出てきました。
清和源氏を称している近世大名の多くは、その事実が歴史学的に証明されたわけではありません。

さらに、藤原頼経(第4代征夷大将軍)といった先例が存在し、織田信長も征夷大将軍に就任する可能性がありました。
武家伝奏の勧修寺晴豊が京都所司代・村井貞勝と懇談し、信長が征夷大将軍・太政大臣・関白のうちどれかに任官することが、朝廷側もしくは信長側から提案されています(三職推任問題)。

さてお題に戻って、平安時代以降臣籍降下が頻発して源・平の二姓ばかりになって来ます。
最近の研究で「一世王(子ども)、二世王(孫)が源、三世(曾孫)以降が平」だった事が判明しています。
源姓(本姓が源氏)の家系はそれぞれ別の苗字を号しているため、現在「源」を今日的な意味の姓(名字)として名乗る例は少なく(それでもいるんですね)、推定人口は4000人程だそうです。

平安時代以降は、皇族の分家はおおむね「源」か「平」になり、その家の開祖となる天皇の名前をつけて呼ばれます。
例として、平将門・清盛らの「桓武平氏」、源頼朝・義経らが「清和源氏」などになります。

一世(天皇の子)のうち、母親の身分が低くて皇族扱いされない「庶子」は、源氏を名乗ることになります。
嵯峨源氏の源融(みなもとのとおる)、醍醐源氏の源高明(みなもとのたかあきら)などがその例となります。

二世(天皇の孫)でも、天皇にならない親王から生まれた子は源氏です。
清和天皇の孫は源経基(みなもとのつねもと、源満仲の父ですね)と呼ばれ、この人が源頼朝らのご祖先に成ります。

平氏は三世(天皇の曾孫)以降が名乗ります。桓武天皇の曾孫は高望王(たかもちおう)と呼ばれますが、この人が最初に平氏を名乗り、桓武平氏となりました。
高望王は平清盛の祖先に成ります(ちょっと難しくなりましたね…今回は少し難しいです。)。

清和源氏って何?



源氏には祖とする天皇別に21の流派(源氏二十一流)があり、清和源氏(せいわげんじ)はそのうちの一つで清和天皇から分かれた氏族です。

清和源氏は、第56代清和天皇の皇子・諸王を祖とする源氏氏族で、賜姓皇族の一つで姓(カバネ)は源朝臣です。

清和天皇の皇子のうち4人、孫の王のうち12人が臣籍降下して源氏を称しています。
一般に武家として知られる清和源氏の起源は、清和天皇の第六皇子貞純親王の子である経基王(六孫王)が臣籍降下により源姓を賜り源経基と名乗ったことに遡り、子孫が著しく繁栄しました。

中級貴族であった経基の子・源満仲(多田満仲)は、藤原北家の摂関政治の確立に協力して中央における武門としての地位を築き、摂津国川辺郡多田の地に武士団を形成しました(分家に摂津源氏・大和源氏・河内源氏などが有ります。)。

そして彼の子である頼光、頼親、頼信らも父と同様に藤原摂関家に仕えて勢力を拡大していきます。
のちに主流となる頼信流の河内源氏が東国の武士団を支配下に置いて台頭し、源頼朝の代に武門の棟梁として鎌倉幕府を開き、武家政権を確立しました。

その後の子孫は、嫡流が源氏将軍や足利将軍家として武家政権を主宰したほか、一門からも守護大名や国人が多く出ます。

経基王については、貞純親王の子ではなく貞純親王の兄陽成天皇の子・元平親王の子であるとする陽成源氏説がありますが、
この出自論争は実証ができずに決着はついていません。

P7150742.jpg(橋を渡るとすぐに多田神社、神社側から撮影しています。)
P7150748.jpg(静かな構えです。)

武士団の形成と武力による時代形成・平安時代



経基の名跡を継いだ源満仲は藤原摂関家に仕えて各地の受領を歴任、摂津国川辺郡多田(現 兵庫県川西市多田)を本拠地として源氏武士団を形成しました。

酒呑童子退治などで有名な満仲の長男・源頼光も摂津国に拠点を置いたことから、摂津源氏と呼ばれる武士団を形成しています。
摂津源氏の中でも本拠である多田を継承した嫡流源頼綱(頼光の孫)の系統を多田源氏といいます。

満仲の次男・源頼親の系統は大和国宇野(現奈良県)を本拠地としたことから大和源氏と呼ばれる武士団を、三男・源頼信の系統は河内国壷井(現大阪府羽曳野市壷井)を本拠としたことから河内源氏と呼ばれる武士団が形成されました。

源満仲の子の中でも特に三男の源頼信(河内源氏)は、長元元年(1028年)房総三カ国(上総国、下総国、安房国)で起きた平忠常の乱(長元の乱)を平定するなどの武功をあげます。

また頼信の子・頼義は康平5年(1062年)から陸奥国奥六郡に蛮拠する俘囚の長・安倍氏を討ち(前九年の役)、頼義の子・八幡太郎義家は、同族の源国房、源重宗と合戦を繰り広げ、寛治元年(1087年)には出羽国の俘囚長・清原氏の内紛を収めて(後三年の役)声望を高め、頼信流の河内源氏は東国に足掛かりを持つようになりました。

河内源氏はこのように武名を上げ、それまでの清和源氏庶流であった地位から嫡流の地位を事実上占めるに至ります。
このような興隆は時の権力者白河法皇の警戒を招き、河内源氏は抑圧されています。

河内源氏が摂津源氏のように京都を活動舞台にせず板東を拠点としたのは、兄の源頼光、源頼親が藤原道長に側近として仕えたのに対し、頼信は上野介や常陸介など遠方で収入の少ない東国受領となっていたからです。

しかし、上記のように武功を重ね、義家、義綱(美濃守)、義光(新羅三郎)兄弟の頃には清和源氏最大の勢力となっていました(しかし、義家と義綱の仲は悪く、義綱は中央で昇進を重ねます。)。
この頃から、源氏庶流は国の下級官人を辞し、地方の荘官などとなることにより勢力を築いていきました。

しかし、義家の晩年に次男の義親が朝廷に反抗したため義家は苦境にたたされ、河内源氏に陰りが見え始めます(義家の長男は早世していた)。
また、弟の新羅三郎義光(常陸源氏、甲斐源氏の祖)と四男の荒加賀入道義国(上野源氏、下野源氏の祖)が嘉承元年(1106年)に常陸合戦を引き起こし、両者が勅勘を受けてしまいます。

さらに天仁2年(1109年)、義家の死後に家督を継承し栄名を誇った、義家の三男源義忠が暗殺され、当初事件の主犯とされた弟の義綱(美濃守)が、白河法皇の命を受けた源義親の子源為義と源光国(美濃源氏)の討伐を受けて壊滅しています。
また事件後真犯人が新羅三郎義光であったことが明らかになるなど、河内源氏内部の分裂は明白になり、権勢はしばらく失墜してしまいます。

この背景には、河内源氏が拠り所にしていた摂関家の摂関政治から、白河法皇の院政への移行があったことが原因として挙げられます。

P7150753.jpg(史跡多田院の文字がありました。神社らしくないかな?)


清和源氏発祥の地「多田神社」を訪ねて





P7150760.jpg(多田大権現!神社ですね。)


「多田神社(ただじんじゃ)」は兵庫県川西市に在り、多田院として国の史跡に指定されています。
元々多田院という天台宗の寺院でした。
六孫王神社(京都府京都市南区)、壺井八幡宮(大阪府羽曳野市)とともに「源氏三神社」の1つに数えられます。

「多田神社」は摂津国に位置しており、清和源氏や多田院御家人発祥の地です。
この地に館を構えた清和源氏の祖摂津守源満仲によって天禄元年(970年)に満仲の子源賢を開山とする天台宗寺院・多田院鷹尾山法華三昧堂(通称多田院)が建立されました。
満仲は自らの館と多田院を中心として多田荘の開発に勤しんだといわれています。

本尊の丈六釈迦如来像は満仲、文殊菩薩像は満仲の長男源頼光(但馬国司にもなっているので頼光ファンです。)、普賢菩薩像は次男源頼親、四天王像は三男源頼信がそれぞれ願主となって作られました。

平安時代の長徳3年(997年)8月27日に源満仲が亡くなると多田院に葬られ、新たに廟所と満仲像を祀る御影堂が建立されました。
なお、満仲の廟所はまれに「多田院鳴動」といって大事件の前触れとして廟が震えることがあったとされます。

以後は清和源氏の霊廟とされましたが、戦乱や災害などにより次第に衰微していきました。
しかし、鎌倉時代に幕府からの命令で文永10年(1273年)に西大寺の忍性が造営奉行に任じられ、ようやく再興します。
そしてこれにより宗旨は天台宗から真言律宗に転じ、やがて源頼光も祀るようになっています。

P7150766.jpg(鳥居が見えてやっと神社の趣、武門の社らしい清々しさです。)
P7150819.jpg(狛ちゃんも武骨な感じです。)

室町時代に入ると、清和源氏である将軍足利尊氏の崇敬もあって栄えます。延文3年(1358年)には将軍足利義詮によって尊氏の分骨が多田院に納められます。これ以降歴代足利将軍の遺骨が分骨されています。

戦国時代の天正5年(1577年)には織田信澄の軍勢によって社殿が焼失しましたが、江戸時代にも清和源氏を称した徳川家から崇敬され、寛文7年(1667年)、将軍徳川家綱によって本殿、拝殿、随神門などが再建されました。
さらに将軍徳川綱吉によって満仲に贈正一位多田大権現の神号が送られると、次第に多田院は寺から神社の色合いが強くなっていきました。

P7150815.jpg(拝殿もさっぱりとしています。)
P7150797.jpg(清和源氏の紋といえば、笹竜胆「ささりんどう」。)

【最後に一言】その後の源氏


P7150818.jpg(廟とかは見られませんでした。しっかりお詣りしてきました。)

治承4年(1180年)、平氏政権での皇位継承の不満から反乱を企図した以仁王に源頼政(摂津源氏)が協力する「以仁王の挙兵」が起こります。

この乱は失敗に終わりますが、熊野に潜んでいた義朝の弟の源行家らが以仁王の令旨を全国に伝えると、河内源氏の源頼朝、源希義(土佐冠者)、源範頼、源義円、源義経ら兄弟や、源義朝の弟の源義賢の子であり、頼朝の従兄弟にあたる源義仲(木曾次郎義仲)、源義光の子孫の武田信義・安田義定(甲斐源氏)、山本義経・柏木義兼(近江源氏)、義国の子孫の足利義清(下野源氏)、新田氏庶流の山名義範、里見義成、そして新田義重(上野源氏)、摂津源氏では、源頼綱を祖とする嫡流多田行綱(多田源氏)、源頼綱の弟国房を祖とする源光長(美濃源氏)、大和源氏では、源親治らが各地で挙兵し、俗に源平合戦と呼ばれる治承・寿永の乱が発生します。

当初は平家が源氏を圧倒していましたが、次第に形勢が逆転して平家は源義仲に京都を追われることになります。
その後、源義仲軍と源頼朝軍・平家の三つ巴となりましたが、最終的に頼朝軍が圧倒し、寿永3年(1184年)に粟津の戦いで義仲軍を、元暦2年(1185年)に壇ノ浦の戦いで平家を滅ぼして頼朝軍が勝利しました。

平家の追討に成功した頼朝は、乱の中で他の源氏一門(源義広・佐竹秀義(常陸源氏)、新田義重(上野源氏)、武田信義(甲斐源氏)、多田行綱(多田源氏)、弟の源義経・源範頼)を滅亡や衰退させ、奥州藤原氏を討ち勢力基盤を固めます。

後白河法皇が崩御すると、建久3年(1192年)に征夷大将軍に任ぜられ、鎌倉幕府が成立しました。
これにより、清和源氏が武家の棟梁であると名実共に認められたことに成りました。
しかし、源頼朝の系統は、頼朝の子・源実朝が兄源頼家の子・公暁に殺害されると、その公暁も殺され完全に断絶しました。

また、鎌倉幕府において源氏一門は、血統や功績などにより源姓を称することが許される「御門葉」と、源姓を称することが適わず、名字を称するものに区別されました。

御門葉には信濃平賀氏(信濃源氏)、大内氏(信濃源氏)、安田氏(甲斐源氏)、加賀美氏(甲斐源氏)などの新羅三郎義光の系統、足利氏、山名氏などの源義国の系統が名を連ねましたが、平賀氏、大内氏は、承久3年(1221年)の承久の乱により得宗家(鎌倉幕府の北条氏惣領の家系)に敗れ没落しています。

鎌倉幕府末期の混乱期に頭角を表した、源義国の次男・足利義康を祖とする足利氏の棟梁・足利尊氏は、源義国の長男・新田義重を祖とする新田義貞らの対抗勢力を打ち破り、武家の棟梁として1338年に征夷大将軍に任じられ室町幕府を開きます。

足利義満は清和源氏出身者として初めて源氏長者となり、その後の将軍が源氏長者となる道を開きました。
その後、尊氏の子孫は鎌倉公方、古河公方、小弓公方、堀越公方、堺公方、阿波公方などに別れて勢力を伸ばします。

また、足利氏庶流で「御一家」とされた吉良氏・渋川氏・石橋氏や、「三管領」の斯波氏・細川氏、「四職」の一色氏の他、山名氏(新田氏庶流)、土岐氏(美濃源氏)が中央で台頭し、地方では九州探題や駿河・遠江守護を歴任した今川氏(吉良氏庶流)、奥州探題の大崎氏(斯波氏庶流)、羽州探題の最上氏(斯波氏庶流)が勢力を伸ばしました。

このように軍事力を背景にする清和源氏は、鎌倉時代・室町時代・江戸時代と長きにわたって時代の主流を進むことに成りました。

さてそれでは、現代の源氏長者は誰でしょう?愛子内親王が誕生された数日後の儀式に、武家代表として徳川宗家当主の徳川恒孝氏と加賀前田家当主の前田利祐氏がよばれて、武家末裔代表として儀式に参加しています。

この事から朝廷はいまも武家筆頭は徳川宗家と認識しているという事になり、武家筆頭は徳川恒孝氏と考えられます。

ちなみに、徳川恒孝さんですが、2代将軍徳川秀忠の四男保科正之を家祖とする会津松平家の家系で、徳川宗家に養子に入られています(驚)。

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2018/08/05

取材8日目(最終日)は、伊勢神宮「外宮」・「内宮」と二見興玉神社に参拝!

伊勢神宮の参拝順序の通り「外宮」から「内宮」へ参拝し、夫婦岩としめ縄、夏至の前後には遠く富士山の背後から昇る日の出を眺められる事で超有名な、「二見興玉神社」へ参拝しました。 

ひつこいように言っておりますが、今回は取材旅行記です。「外宮」「内宮」「伊勢うどん」「赤副もち」「二見興玉神社」「伊勢神宮の歴史」「遷宮」等の話題で1度ずつブログがご紹介できる量です。それを1回で終わらせてしまう旅行記に成っています。ですから改めて詳細な記事を書かせていただくつもりです。   

8日に渡って続いた修行も終わり、疲れた体とお土産を持って家路に着きました。今思えば走行距離なども記録しておけばよかったと後悔しています。旅行中に一滴の雨も降らず、晴れ男の面目躍如となりましたが、摂取した水分は車が消費したガソリンの量より多かったかも知れません(笑)。




【プロローグ】伊勢神宮の参拝順序は「外宮」から「内宮」へ



伊勢神宮は「内宮(ないくう)」と「外宮(げくう)」を中心とした、125の宮社の総称です。参拝は一般的に、「外宮」の豊受大神(トヨウケノオオカミ)にご挨拶してから「内宮」の天照大御神(アマテラスオオミカミ) に参拝します。

P7213746.jpg(空が綺麗ですよね~嬉)

参拝時間は「内宮」正宮だけなら1時間、「外宮」正宮だけならは30分位でしょうか?、実際は別宮が数多く有るので全て(摂社125すべてでは無いです。(;^_^A))をお詣りし、御朱印も頂いた私は倍くらいの時間が掛かっています。

「外宮」から「内宮」までの距離は(県道32号線経由)4.7Kmで、車では15分くらいで到着します。駐車場は充実しているので困ることはないと思います。

前回家族で訪れた時(平成25年「式年遷宮」時)には、「日別朝夕大御饌祭」(朝夕の二度、外宮の御饌殿みけでんで御飯、御水、御塩などを天照大御神に奉り、「国安かれ、民安かれ」との祈りと感謝を捧げるお祭りで、外宮の御鎮座以来、約1500年間つづけられています。)を見られましたし、「内宮」では祭主「池田厚子さん(天皇陛下の姉)」のお詣りに遭遇しました。祭主は昨年から「黒田清子さん(天皇陛下長女)」が就任さえています(祭主は古代の斎王とは違います。)。

伊勢神宮には昔から「おみくじ」はありません。おみくじは日ごろからお参りできる身近な神社で引くもので、古来から「一生に一度」と庶民があこがれたお伊勢参りは、大吉でないわけが無いとの理由から、おみくじも引く必要がなかったと考えられます。

さらに、拝礼の際に八拍手(出雲大社は四拍手)と記載した記憶が有りますが、実際は神官が行う祭祀の場合で私たちは、二例二拍手一礼で良いようです。

P7213776.jpg(甘いお醤油がからんでこれもまた格別!)

「内宮」にお参りした後、「おかげ横丁」で伊勢うどんを頂き、赤福本店で赤副もちを頂きました。

この後、せっかく伊勢まで来たのだからと二見興玉神社にも参拝、長女に頼まれた土産を購入して家路に着きました。

「外宮」で豊受大神(トヨウケノオオカミ)にご挨拶。神馬の正宮参拝も見られた。



「外宮」正宮には豊受大神(とようけのおおかみ)が祀られています。内宮に坐す天照大神(あまてらすのおおみかみ)の食事を用意する女の神様です。

豊受大神は『古事記』では豊宇気毘売神と表記されています。『日本書紀』には登場していません。『古事記』では伊弉冉尊(いざなみ)の尿から生まれた稚産霊(わくむすび)の子とし、天孫降臨の後、外宮の度相(わたらい)に鎮座したと記されています。神名の「ウケ」は食物のことで、豊な食物・穀物を司る女神です。

私の記憶では、食物神と言えば大気都比売(おほげつひめ)を連想します。体中から穀物などの食べ物を生み出した神様ですが、高天原を追放された須佐之男のお話に登場しています。

須佐之男が空腹を覚えて大気都比売に食物を求め、大気都比売はおもむろに様々な食物を須佐之男に与えます。それを不審に思った須佐之男が食事の用意をする大気都比売の様子を覗いてみると、大気都比売は鼻や口、尻から食材を取り出し、それを調理していました(驚)。

須佐之男は、そんな汚い物を食べさせていたのかと怒り、大気都比売を斬り殺してしまいます。すると、大気都比売の頭から蚕が生まれ、目から稲が生まれ、耳から粟が生まれ、鼻から小豆が生まれ、陰部から麦が生まれ、尻から大豆が生まれました。

豊宇気毘売神が大気都比売と同一視さているのも同じ食物神だからでしょう。

P7213172.jpg(事前に調べていたわけではありません偶然が重なりました。笑)

今回は7月21日(土曜日)で神馬が正宮を参拝する日に都合良く当たりました。本当にいつも運に恵まれます。伊勢神宮の神馬は毎月1日、11日、21日のみ朝8:15頃に菊の紋章のついた馬着をまとい神職に手綱を引かれて神前に見参します。

「内宮」で天照大御神(アマテラスオオミカミ) にご挨拶。



今から2000年前、垂仁天皇の御代から五十鈴川のほとりに鎮まる「天照大御神(アマテラスオオミカミ)」 は、奈良の都、皇居内でお祀りされていましたが、倭姫命(ヤマトヒメノミコト)を御杖代(みつえしろ)としてよりふさわしい場所を求め諸国を巡ります。伊勢の国に至った時に「伊勢がすばらしいので、この国にいようと思う」とお告げがあり、伊勢に鎮座しました。

『日本書紀』や『古事記』に詳しい理由は書かれていませんが、気候が穏やかで海の幸、山の幸に恵まれた場所であることが理由と考えられます。

内宮の入口である宇治橋をわたり、玉砂利を敷き詰めた長い参道を進むとそこは神域。「心のふるさと」と称される日本の原風景が広がります。

P7213642.jpg(やはり神の使いは八咫烏?足が1本少ないな~。)

皇位のしるしとして受け継がれる三種の神器の一つである「八咫鏡(やたのかがみ)」をご神体として伊勢の地にお祀りし、国家の守護神として崇める伊勢信仰は平安末期より全国に広がりがみられました。現在でも全国の神社の本宗として特別に崇敬を集めます。

二見興玉神社で日の出は見られ無かったが、チョー有名なしめ縄に出会う。



二見興玉神社(ふたみおきたまじんじゃ)は、伊勢市二見町江に有ります。旧社格は村社で、現在は神社本庁の別表神社と成っています。伊勢神宮「内宮」からも近く10Km20分ほどです。

猿田彦大神と宇迦御魂大神(ここでは神宮外宮の豊受大神の別名とされる)を祭神として祀り、 夫婦岩の沖合約700メートルの海中に沈む、祭神・猿田彦大神縁の興玉神石を拝し、夫婦岩としめ縄、夏至の前後には遠く富士山の背後から昇る日の出を眺められる事でチョー有名な神社です。

P7213887.jpg(チョー有名~~~!もっとあるだろ~~~!)

不思議なことに、神宮社の125社中に二見興玉神社も、猿田彦神社も入っていません。つまり、伊勢神宮と二見興玉神社は伊勢神宮としては、なんにも関係がないのです。これについては元々の太陽神が天照大御神ではなく猿田彦大神であった説や、猿田彦命先
住説など調べると面白のです(もちろん今回はお預けです・笑)。

猿田彦大神は天孫降臨の際に高天原と豊葦原中津国の間の道案内を務めたことから、「道開き(導き)の神」といわれています。

この神の神使は私の大好きな蛙で、神社参拝の後に神徳を受けた人々が神社の境内に蛙の塑像を献納するため、境内には無数の蛙像が並んでいます。これは「蛙」の「カエル」に「無事に帰る」「貸した物が還る」「お金が返る」の「カエル」を掛けた 験担ぎとなています。

三重県では2番目に参拝者の多い神社であり、2013年には265万7590人が参拝しています。

【最後に一言】長い旅行記にお付き合いありがとうございました。



最後まで読んでくださった皆様、長い旅行記を読んでいただき大変ありがとうございました。

出発前に、「脱サラして起業する」などと大きなことを申しました。ストレスが溜まり仕事に行くのが苦痛になっており、精神科の先生と相談した結果「少し休暇を取ったらどうですか」と言われたことも、今回の取材旅行を決意した理由の一つに挙げられます。

ですから、今回の私の取材旅行は仕事で休暇を取る前のリフレッシュ旅行という側面もあり、これまで念願であった、「富士山」登頂、「諏訪神社」参拝、国宝最後の城「松本城」前回家族旅行では、果たせなかった伊勢の「二見興玉神社」などなど、多くの寺社仏閣・史跡・城跡を巡ることができました。

日本の歴史や文化を伝えていくことは、私のライフワークでもあり趣味でもあります。本当に楽しい取材旅行になりました。天候にも恵まれ(ちょっと暑すぎて大変苦しいましたが)良い取材ができたと思います。

冒頭でも申し上げておりますように、今回は取材旅行記ということで一日一ブログの原則で、書かせていただきました。実際に取材したボリュームは10倍以上にも及ぶかもしれません。今後一つ一つ丁寧に取材の情報を、ブログでアップしていけたらと考えています。
写真がもう一つなのも作戦です(なんの作戦だって、意味有るん?笑)。

コアなブログを長く書いてまいりましたが、なかなかアクセスアップが出来ず悩んだ時期もありました。今後このブログをどのように運営していくのかに関しても、この旅行中に色々と考えたことがあります。

いつも言っておりますように歴史ブログをやめることはありませんが、少し形を変えさせていただくかも分かりません。

いつもコメントをいただく皆様には、心よりの御礼を申し上げます。
今後とも、下手でコアな私のブログを楽しみにして頂けたら嬉しいと心より思っております。

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2018/08/03

取材7日目は、中山道を伊勢へ「奈良井宿」「妻籠宿」「馬籠宿」で食べ歩き、三十五年ぶり「寝覚ノ床」に感激。

取材7日目(7月20日)は、当初から予備日にしていました。中山道を伊勢へ向かい、「奈良井宿」で妻へのお土産のアクセサリーを購入「妻籠宿・馬籠宿」で食べ歩きを満喫することになりました。

元々予備日は、富士登山のダメージがかなりあるだろうと、想定して空けていたのです。諏訪湖から松本市・上田市・長野市、でもう一日は必要と考えていたのです(実際に長野市は行けませんでした)。予備日を使って長野市の「善光寺」に行くことも考えましたが、大学時代にクラブの合宿で訪れたことのあった、浦島太郎伝説地「寝覚ノ床」に思い入れが有ったのでそちらを選択しました。

三十五年ぶりの「寝覚ノ床」の思い入れというのが、若気のいたりといますかもう少しで「竜宮城」ならぬ「天国(地獄?)」へ行くことに成りそうになったのです。




【プロローグ】最初は「奈良井宿」素敵な小物を妻へのお土産に買う



江戸時代、江戸と京の都を結ぶ重要な街道であった中山道。その中山道六九次のうち、木曽路には11の宿駅が存在しました。

奈良井宿(ならいじゅく)は木曽路11宿の中で北から2番目にあたり、上町・中町・下町の3つの街区から構成されています。今なお古き良き日本の情緒を色濃く残す素敵な観光スポットです。

Kisokaido34_Narai[1](奈良井宿浮世絵ウキペディアよりお借りしました。)

杉玉を掲げた酒屋、軒灯りの旅籠、千本格子の家々が軒を連ね、そのにぎわいは「奈良井千軒」といわれたほどでした。その当時の面影が存分に保存されている「奈良井宿」は日本の庶民の歴史を現在によみがえらせ、日本人の郷愁と旅の心をくすぐります。

どうしてもよりたかった、お店が有ります。店主のお母さんが認めたこだわりの職人さんから自ら買い付ける、漆器と漆アクセサリーの店「花筏」です。

P7202767.jpg(和紙を貼って再生する方法が看板代わり。)
P7202780.jpg(店構えも素敵ですよね。)
P7202773.jpg(玄関先には本物の花筏、この植物も今は亡き母に教わりました。)

木曽漆器の本場となっている旧楢川村(塩尻市)は木曽谷を貫く中山道(現・国道19号線)の北の入口に位置し、海抜およそ900メートルの高地にあります。

このため夏は涼しく冬は厳しく寒いという独特な気候は漆を塗る作業環境に良く、自然豊かな大森林は良材を育み、交通の面でも主要道路が通っているという風土と要路の二つの好環境に恵まれて400有余年という時間を費やして、先人が試行錯誤を経て輝かしい成果を残しそれを継承する漆製品の数々です。

いつか私も、木曽漆製品販売したいと画策計画しているのです。そんな「花筏」さんで自分用と妻にペンダント買いました~(喜喜)
P8030007.jpg(さあ?どちらが妻用でどちらが私用?)


「妻籠宿」の食べ歩きは、美味しいお焼きを食す


P7203014.jpg(右手が中央の枡形です。直角に曲がらないとこちらにはこられません)

妻籠宿(つまごじゅく)は、中山道42番目の宿場(→中山道六十九次)で、現在は長野県木曽郡南木曽町。蘭川(あららぎがわ)東岸に位置しています。隣接する馬籠宿(岐阜県中津川市)と、馬籠峠を越える旧中山道史蹟と合わせて木曽路を代表する観光名所に成っています。

経済成長に伴い全国の伝統的な町並みが姿を消してゆく中、いち早く地域を挙げて景観保全活動に取り組んだことが評価され、1976年、国の重要伝統的建造物群保存地区の最初の選定地の一つに選ばれました。

天保14年(1843年)の『中山道宿村大概帳』によれば、妻籠宿の宿内家数は31軒、うち本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠31軒で宿内人口は418人とあります。

妻籠宿ではまだ長野県ということで、美味しい「野菜お焼き」を頂きました。私のイメージでは灰の中に埋めてしまう感じだったんですが、綺麗に出て来ました(笑)。

歴史的に面白いのは、1601年に家康が中山道の宿場を整備した際に宿場の中央に枡形を作っています。直進できずに直角に曲がらなけらばいけない仕組みです。関ケ原闘いの翌年ですからねえ。

P7203081.jpg(水車最高!水も綺麗です。)

「馬籠宿」の食べ歩きは、美味しい五平餅を食す



馬籠宿(まごめじゅく)は石畳の敷かれた坂に沿う宿場で、馬籠峠を越えた信州側の妻籠宿(長野県木曽郡)とともに人気があり、多くの観光客が訪れています。石畳の両側にお土産物屋がならび、商いをしていない一般の家でも当時の屋号を表札のほかにかけるなど、史蹟の保全と現在の生活が共存できています。ほぼ中間地点に、旧本陣であった藤村記念館(島崎藤村生家跡)があります。

天保14年(1843年)の『中山道宿村大概帳』によれば、馬籠宿の宿内家数は69軒、うち本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠18軒で宿内人口は717人です。

歴史的には、馬籠は木曽義仲の異母妹菊女が源頼朝から賜ったもので「美濃州遠山庄馬籠村」(1215年)といい、長享元年(1487年)頃になると木曽馬籠や恵那郡馬籠といったりするように成ります。

P7202990.jpg(五平餅屋さんなのですが、妻籠宿です。暑くて馬籠で写真撮ってなかったです。ごめんなさーい!)

妻籠までが信州木曽谷で、馬籠は美濃に属し、石畳の坂道が美しいまちです。美味しいクルミ味噌の五平餅(ちょっとイメージと違い串団子の様でした)を頂きました。

この後伊勢に向かうため高速道路に初めて乗る(取材中まだ高速使ってなかった自分に感動・笑)。途中土岐SAで我慢できずに購入したソフトクリームが半分ラムネ味で青い(感の良い読者の皆さんはお解りですよね~)!そう朝ドラの「半分青い」をもじった限定バージョンでした。ロケ地が土岐市だったのです。
  

山の中に浦島太郎伝説「寝覚ノ床」の若気の至り


P7202795.jpg(入り口はお寺になっています。記憶が~?)

「寝覚ノ床」は、場所的には「奈良井宿」「妻籠宿」の中間あたりに成ります。最後にしたのには理由があります。観光地として素晴らしいのですが、私には「寝覚ノ床」に苦い思い出があるからです。

この地と浦島太郎を結びつけた古い記録としては、沢庵和尚(もちろんたくあん漬を考えたことで有名)が『木曾路紀行』で「浦島がつり石」なる岩に言及しています。

貝原益軒も『木曾路之記』において、貞享2年(1685年)の旅中に「浦島がつりせし寝覚の床」を見聞したと記録していますが、ただし浦島太郎がこの地に来た事実については懐疑的なようです。

現地では、浦島太郎が竜宮城から帰ってきたのち、この寝覚の地で暮らした次第をありありと描いた伝説も作られています。

P7202957.jpg(今回は大学ノスタルジア、本記事はまたの機会です。笑)

大学1年生の夏休みにクラブの合宿で長野県の木曽へ行きました。その時に「寝覚ノ床」や「妻籠宿」にも足を運んだ記憶があります。特に「寝覚ノ床」は、鮮烈な記憶を残しています。

私は美大に入学したいと思う程に絵が好きだったので、美術部に入ったのですが、とても楽しいクラブだったので先輩達ともよく遊びました。大学生最初のクラブ合宿ということもあり少し羽目を外してしまったのです。

今なら「そんなバカなことしない」と考えるかもしれませんが、まあ若気の至りということです。誰が言い出したのか「寝覚の床」の川で対岸まで泳いで帰ってこようということになりになり水に入ったのはいいのですが、服も着ていますし海と違い浮力も少ないので、同級生の一人が途中で溺れ始めたのです。ある程度泳ぎに自信があった私は、それを助けようとしたのですが、今思えばそれはとても危険なことだったと思っています。

「溺れる者は藁をも掴む」と格言にもあるように、溺れている人間はパニックになってどうしようもなくなってしまいます。冷静ではないので、色々な場所を掴んできます。それが泳ぐために必要な腕だったり、服だったりします。さらに体に組み付いてくるのでこちらがお泳げなくなってしまうのです。助けに行った私ともう一人の同級生は溺れている同級生の腰近くまでは沈んでしまいました。

写真で見ても分かるように、取り付く場所もない岩だらけの場所です。そんな場所でよく泳ぐなどなどと考えたものだと、今考えれば思います。幸いに泳ぎが達者な先輩がいて助けられた上に、生物系理系の大学だったので、医師直前の6年生や、看護師直前の4年生もいたので、救助後の処置は的確で助かりました。

本当に生きててよかった。今でもあの時のことを考えると生きた心地がしません。今回、自分が溺れそうになった場所はどこだっただろうと色々と探してみたのですが、結局思い出せませんでした。若気の至りとはいえ本当に馬鹿なことをしたと後悔しています。

あの時以来私は人が溢れていても絶対に泳いで、助けに行く気にはなりません。それほど怖い思いをしたんです。皆さんももし溺れてる人がいても、決して泳いで助けに行くなどと、考えてはいけません。身近にあるもの何でもいいので、とりあえずその人に向かって投げてください、1.5エルのペットボトル一本でも浮力があれば助かると思います。

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