2018年05月 - 「高天原の縁側日記」
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2018/05/31

コウノトリ舞う豊岡市日高町で『楯縫古墳と故郷の地区』の歴史を考える。

『出雲大社・荒垣外摂社』シリーズは前回で終了しました。取材の後ゴールデンウィークで実家に帰省しましたので、少し故郷の話題もご紹介したいと思います。



【プロローグ】レッドリストAランクの魚「ニホンイトヨ」が5年ぶりに発見!


先日うれしいニュースに接しました。私の実家近くの、但馬豊岡市の市立ハチゴロウの戸島湿地(大陸から渡ってきたコウノトリ「ハチゴロウ」が住み付いた場所です。)で、兵庫県版レッドリストAランクの魚「ニホンイトヨ」が5年ぶりに発見されたのです(円山川城崎町楽々浦の辺りです。円山川は県北部を流れる一級河川です。)。コウノトリも帰省の度に見られる様に成りましたし、生まれ育った故郷に自然が回復していると考えると嬉しいですね。「ニホンイトヨ」長くなりそうなので、後でもう一度説明します。

CIMG98241.jpg
(毎回帰省の度に見られるようになりました。)

さて本題はこちらです。私の実家の地区に有る『楯縫古墳』と故郷の歴史を考えて見ようと思います。私の実家がある兵庫県豊岡市日高町の地区(集落)は、日高町(市町村合併によって豊岡市日高町・旧城崎郡日高町)の中でも歴史上一番といっても過言では無い大きな地区です。勿論但馬地方の過疎化によって人口は減ってきてはいますが、平安期に国府が存在した場所(二度の移動があり二期国府の位置は確定出来ていません。)と、明治以降日高町久斗地区にグンゼ工場の社員寮(女工さんがかなりの人数労働に従事していました。)が有った時期意外は、日高町最大の人口を誇っていたと思います。

地区の円山川対岸に古墳群が有り、私も子ども頃は良く行って里山遊びに興じていました。その中で一番大きな石室を有している『楯縫古墳』を40年以上ぶりに訪れて来ました。

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『ニホンイトヨ』ってどんなお魚?


「ニホンイトヨ」ご存知でしたか?北半球の亜寒帯に広く分布し、日本でも山口県と利根川以北に分布する。トゲウオ科の仲間です。全長は10cmほどで、体は木の葉のように左右に平たく。背中には背びれの棘条が3本離れて発達し、さらに腹に2本、尻びれ付近にも1本とげがある。うろこはありませんが、トゲウオ科特有の鱗板が体の側面に並ぶび、体色は褐色ですが、成熟したオスは体が青っぽくなり、のどから腹部にかけて赤色の婚姻色を発現させます。

イトヨはサクラマス・回遊型(ヤマメ・陸封型)と同じで、川で生まれた稚魚は海へ下って成長し、産卵前に川をさかのぼる回遊(遡河回遊)を行いますが、海まで降りずに淡水域に留まって成長する陸封型の個体群があります。岩手県大槌町では東日本大震災による津波の引き波で陸封型イトヨが川の下流に運ばれ、春に海から遡上してきたニホンイトヨと自然交雑した例が報告されています。

繁殖(求愛行動)に面白い特徴があるのでご紹介します。若い個体は群れで生活し、小型の甲殻類などを捕食して成長しますが、婚姻色を発現させたオスは縄張りを作り、同種のオスを激しく追い払うようになります。同時にオスは縄張り内の川底に穴を掘って水草の根などを集め、トンネル状の巣を作り、メスを誘って産卵をおこないます。オスは産卵後も巣に残って卵を保護します。寿命は1年で、オスメスとも産卵が終わると死んでしまうのですが、まれに生き残って2年目の繁殖に参加する個体もいる様です。なお、繁殖期のオスに様々な模型を近づける実験では、たとえ形が似ていなくても体の下面が赤ければ攻撃行動を起こします。この習性は本能行動の例として知られ、生物(理科)の教科書などにも登場しています。


37933[1]
(こちらが見つかたニホンイトヨです。但馬情報特急便も参考にしてください。)

私、トゲウオは以前、青森県に在住していた時に奥入瀬渓流側の蔦温泉の蔦沼で発見しました。日本のイトヨには日本海系、太平洋系降海型および太平洋系陸封型の3系群があります。豊岡市で発見されたものは日本海系に成りますね。私が青森で観察したものはもちろん太平洋系陸封型の個体群でしょう。

トゲウオ類はすべての種が、雄による巣作りと卵塊の保護を行います。海産種は海藻を、淡水産種は水草または水底を利用した巣を形成します。トゲウオ科魚類は進化学・遺伝学・動物行動学・生理学の研究対象として古くから利用され、多くの業績が導かれています。オランダの動物行動学者であるニコ・ティンバーゲンは、イトヨの本能行動を詳細に解析した研究により、1973年のノーベル生理学・医学賞を受賞しています。

但馬最大級の石室を持つ『楯縫古墳』ってどれくらいの規模なの?


P5052024.jpg(子どもの頃は橋の欄干を歩いて度胸だめしもした旧鶴岡橋、懐かし!)
P5052029.jpg(新鶴岡橋、我が家の畑の上も通過しています。)
P5052023.jpg(円山川沿いの井田神社参道ですが、通交止めに成っています。)

『楯縫古墳』は、兵庫県豊岡市日高町日高区・鶴岡区の円山川対岸、右岸の山裾にあります。上記名称のほかに、森坂古墳とも呼ばれることがあります。現在は鶴岡橋の付け替えと井田神社参道の道路封鎖により、新鶴岡橋経由上之郷区から井田神社へ向かう山道か、もしくは日置区日置橋から鶴岡区の多田谷(たたのや・元々はひとつの集落だったと思われます)経由の迂回路を使わないと楯縫古墳には行けなくなっています。鶴岡区・多田谷集落の谷間農道を南へ進むと、楯縫古墳群の石柱が建っています。そこから林の中へ100m程入っていくと谷間の奥に但馬最大級の巨大な石室が露出しています。

P50520361.jpg(楯縫古墳群の石柱)
P5052044.jpg(熊?イノシシの罠がありました。もう怖い!)
P5052049.jpg(100mほど山に入ると見えて来ました。)

墳丘は単純な円形をしており、円墳と呼ばれる全国の古墳形態でもっとも多数を占める古墳の形状を持っています(私のblog読んでる皆さんに要るのかこの説明?笑)。墳丘の規模については資料が不足しているため、古墳側の説明板を参考にさせて頂きます。墳丘の直径が29mと測量されています。測量調査が1974年に行われました(当時小学6年生だった私は、カブトムシやクワガタ虫の採取に夢中で野山を駆け巡ってました。)。

P5052055.jpg(説明版が設置されています。)

埋葬施設は両袖型横穴式石室で、全長13m、玄室長5.1m、幅2.6m、高さ3.4m、羨道長8m、幅1.5m、たかさ1.7mの両袖式の単室構造です。しかし左袖部はほとんど削られてしまっています。床面には川原石が敷かれ、閉塞石が一部残っています。今回は確認出来ませんでしたが、周りににも古墳が有り楯縫古墳群を構成しています。私の記憶ではもう少し農道沿いに山道を行くと幾つかの石室が有ったと記憶しています。

P5052056.jpg(ど~~~ん、結構な大きさです。)
P5052060.jpg(石室内に進入禁止!こっそり入ってみましょう。良い子の皆は真似しちゃダメだよ~!)
P5052066.jpg
(天井にも、かなり大きな石が使われています。)
P5052072.jpg(石室から外を眺める!うっとりします。)
P5052069.jpg(石室の中から木漏れ日を眺めるの図)

この古墳の築造は古墳時代の後期にあたる6世紀末ごろと推定されています。 「楯縫古墳」は兵庫県の史跡に指定されています。
 

『楯縫古墳』の埋葬者の謎を推理してみましょう。


P5052073.jpg(周りを一周してみます。)P5052076.jpg
(石室むき出しです。)
P5052077.jpg(木々も伸び放題、45年も経過していますからね(;^_^A)
P5052080.jpg(こんなだったっけ?整備してほしいですね。)

盾縫(たてぬい)とは、古代日本(古墳時代から律令時代)において、盾を作ること、または作る人を指した語です。表記では、楯縫・作盾者とも記されています。盾を作る部民は楯部(たてぬいべ)と称され、神代紀には、「彦狭知神(ひこさしりのかみ)を盾縫とす」とあるように、日本神話においても、盾を製作する神々が登場しています(この他にも、大国主が白盾を作る記述が見られるようです)。

伝説上においても、盾縫は登場しており、垂仁紀39年条(10年)「一云」文註に、五十瓊敷入彦命が、「河上と称する鍛(かぬち)に命じて大刀一千口を作らしめたので、この時、楯部以下の十の品部を賜った」と記述されています(この一千口の大刀は石上神宮に奉納されたと記載されます)。職人をたたえるのは日本独特の文化だと考えます。

現在から1400年以上前に、但馬の山奥に武器を作る集団が定住していたのです(そんなに言い切っていいのか~f(^_^;)。証として私が考えているのは、場所です。後ろに須留岐山を配して、燃料の調達が簡単な事。最初にご紹介した多田谷地区に多くの田を耕作するだけの土地が無い(にもかかわらず田の多い谷は考えられない。)!楯縫古墳と鶴岡村社「井田神社」の間に「楯縫神社」が有ったとされる伝承(楯縫神社は円山川を挟んで反対側に移築されました。)。鶴岡区は江戸期以前は伊福村の名前だった(だからどうした?後で説明します。)!

そうです。もう皆さん私が言わんとしていることは、お分かりですね。結論『武具製造集落の首長の墓』です。

「実は証拠も持ってます。」


P5052100.jpg(多田谷集落、同級生も住んでいますが、10軒もありません。)

楯部の谷(たてぬいべのたに)=多田谷(たたのや)、若しくは多田谷(たたのや)=多々良の谷(たたらの谷)、更に伊福(いふく)=火吹(ひぶく)に通じるとおもいませんか?音が似ているというだけで、全て私の考え通りとは思いませんが、1400年前に造られた古墳がこんな山奥に存在する事がその事実を証明していると思いませんか?食料が多く取れる場所でもないですし、古くからの名前が残っているわけですから、山の中には当時”武器製造集団村”があり、多くの職人が武器を製造する仕事に従事していたと考えると辻褄が合うと思いませんか?

村があった痕跡も探してみました。実は子供の頃遊びに行った山の中はかなり姿を変えていましたが、当時私が夢中になったのは土器拾いだったんです。「楯縫古墳」は古墳時代としては後期に成りますが、実際に煮炊きに使用されたと考えられる土師器(はじき)がゴロゴロ拾えたと記憶していました。当時ぶどう園(デラウエア畑)だったと思われるその場所に行っていみることにしました。少し農道を奥に歩いて小川の橋を渡りますと、当寺の果樹園は牧草地になっていました。あたりを少し歩いて探してみるとありましたよほら~!あった又、45年前にタイムスリップしたように感じです。いかがですか?この山間の谷に集落が存在したことは間違いありません(笑)。

P5052090.jpg(アッ!見つけましたね~。土師器です。)
P5052095.jpg(ほんの15分ほどでこんなに見つけました。童心に帰りました。)

【最後に一言】「実は我が家、古墳の上に建ってます。」


今回の記事に地図は載せないことにします。私の同級生や同郷に住んでおられる方は場所が特定できると思いますが、あえてこの山あいの谷を皆さんに地図でご紹介するのは、土地の持ち主にもご迷惑がかかる可能性がありますので控えさせていただきます。けしてブログをご覧になる皆さんを信頼しないわけではありませんが、田舎のことですから熊が出たりイノシシが出たりと、危険もあると思われますのでお許しください。

その代わりと言ってはなんですが、もう一つ珍しいものをご覧に入れましょう。これは「楯縫古墳」と同じ時代に作られた古墳から発掘された遺物ですが、決して私が盗んだものではありません。出土したものとして鉄刀、金鍔、金環、鉄鏃と多くの須恵器・馬の下顎骨等です。この遺物実は我が家の庭から出土しました。わが家実は古墳の上に建っています(笑)。驚くべきことですが1400年間我が家の土地は堆積物に覆われませんでした。つまりつまり洪水や川の氾濫とは無縁だったと考えられます。但馬国府は第2期がどこに存在したのか、まだはっきりと証明されていません。私の実家のある地区が1400年にわたって堆積物がないことから考えても候補地の一つとなっても良いのではないかと考えています。いや~あまりに凄い事言ってしまった自分にビックリさせられました。

CIMG2800.jpg(価値は不明ですが、我が家のお宝?拾得物として届けなければ犯罪ですが、さすがに時効は成立してますね。)

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2018/05/27

神々を訪ねて『出雲大社・荒垣外摂社』を歩く!「スクープ&祓社」vol⑧

『出雲大社・荒垣外摂社』シリーズは最期の祓社となりましたが、その前にスクープをご紹介いたします。
【速報!特配員報告】
松江市大草町に所在する西百塚山古墳群は、東百塚山古墳群とともに昭和45年に県指定史跡となった県内最大級の古墳群です。島根県教育委員会では、古墳群の実態解明と活用を図るため、平成27年度より調査を実施していました。このたび、古墳群最大の50mクラスの19号墳の発掘調査を実施し、築造時期や墳丘構造などについて、新たな知見を得られたことから、その調査成果を公開するために現地説明会が本日実施されました。 お友達が今日説明会に参加されましたので、ご紹介したいと思います。私のポリシーのフィールドワークに反しますが、埋め戻されると纒向遺跡の様に、ただの原っぱ(たぶん野山)?となるので今回は、お許しください。秋に必ず自分で取材して、再度詳細をご報告いたします。


(トレンチ)

そして長々とご紹介してきました、出雲大社・荒垣外摂社シリーズも最後の一社「祓社」です。大社にお詣り前には御手水前にさらに、こちらで身体のお祓いです。

「祓社」をご紹介したその後は、少し休憩も入れながら(他の話題のブログもUPしながら)出雲大社・荒垣内摂社もご紹介します。

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【西百塚山古墳群の概要】



(古墳だらけですね)

場所は六所神社の前方の山の中に成ります。六所神社は出雲国府跡遺構が境内に残る出雲国総社で、式内論社で意宇六社の一つです(今回の情報を頂いたのも六所神社の宮司さんです。)。”西百塚山古墳群”は、総数250基以上の古墳で構成された島根県最大級の「大草丘陵古墳群」の一角を構成する古墳群です。これまで測量調査や分布調査が行われ、60基以上が確認されています。西百塚山古墳群では、1960年に七曲(ななまがり)古墳に発掘調査が行われて以来、58年ぶりの調査となりました。 19号墳は、平成27~28年にかけて、松江北高校歴史愛好会の測量調査により、径約49mの二段築成の円墳であることがわかりました。 そこで今回は、測量成果をもとに、19号墳の築造時期や墳丘構造、規模などを明らかにするため、発掘調査を実施しました。

Screenshot_20180527-181902 (002)(凄い数です。ここの場所が古代出雲の中心、意宇郡 「おうぐん」なんです。)
Screenshot_20180527-181822 (004)
(49mの円墳とトレンチ「考古学で遺構の所在を確認するために行う試掘調査用の溝」)

19号墳の築造時期は、出土した埴輪から古墳時代中期前葉~中葉(5世紀前葉~中葉)頃であると考えられます。埴輪は、円筒埴輪や朝顔(あさがお)形埴輪の他、蓋(きぬがさ)形埴輪と呼ばれる形象埴輪が出土しました。いずれの埴輪も破片で墳頂部から流れてきたものであると考えられます。 古墳の築造方法として、地山を削り出し、墳丘を成形していることが分かりました。土層堆積状況から削られた地山の土は、墳頂部分に盛土として、利用されていることが分かりました。また、当初想定されていた古墳の外表を飾る葺石は確認されず、葺石を持たない可能性が高くなるなど、墳丘構造の一部を明らかにすることができました。

(埴輪の破片です。)

今回の発掘調査意義 は、西百塚山19号墳は、葺石を持たず埴輪を墳頂部に配置していた可能性が高まりました。西百塚山古墳群の中でも最も高所に位置し、古墳群の始祖的な古墳の様相が判明した意義は大変大きいものです。また、当該期における島根県内の大型円墳の出現と展開について、新たな比較・検討資料が示され、西百塚山古墳群の形成過程や古墳時代の出雲の様相を考える上で重要な資料になりました。 -島根県埋蔵文化センター資料-より抜粋させて頂きました。

(凸凹が全て古墳なんです。)

【今回ご紹介するのは、最後の一社、祓戸四柱神を祀る⑫祓社(はらいのやしろ)です。★がマークされているのは紹介済(全て紹介済です。)】


①★神魂伊能知奴志神社(命主社、いのちぬしのやしろ)・式内社。神産巣日神を祀る。(出雲市大社町杵築東182)

②★阿須伎神社(阿式社、あじきのやしろ)・式内社。大国主の神子の阿遅鉏高日子根神を祀る。(出雲市大社町遥堪1473)

③★大穴持御子神社(三歳社、みとせのやしろ)・式内社。子の事代主神・高比賣命(古事記では下照比賣命)と素戔嗚尊の孫の御年神を祀る。(出雲市大社町杵築東)

④★大穴持御子玉江神社(乙見社、おとみのやしろ)・式内社。子の下照比賣命を祀る。(出雲市大社町修理免字向地920)

⑤★大穴持伊那西波岐神社(いなせはぎのかみのやしろ)・式内社。天穂日命の子で、国譲りの際に事代主のもとに使者として向かった稻背脛命(いなせはぎのみこと)を主祭神とし、白兔神を配祀する。(出雲市大社町鷺浦102)

⑥★上宮(かみのみや)・素戔嗚尊・八百萬神を祀る。神在祭の際、神々の会議所となる。(出雲市大社町杵築北)

⑦★下宮(しものみや)・天照大御神を祀る。(出雲市大社町杵築北)

⑧★出雲井社(いずもいのやしろ)・岐神(ふなどのかみ)を祀る。(出雲市大社町修理免)

⑨★因佐神社(いなさのかみのやしろ)・建御雷神を祀る。(出雲市大社町杵築3008)

⑩★湊社(みなとのやしろ)・櫛八玉神を祀る。(出雲市大社町中荒木)

⑪★大歳社(おおとしのやしろ)・素戔嗚尊の子の大歳神を祀る。(出雲市大社町杵築北)

⑫★祓社(はらいのやしろ)・祓戸四柱神を祀る。参道大鳥居の東側にあり参拝者が前もって身心を祓い清める社。(出雲市大社町杵築東195)

⑬★野見宿禰神社(のみのすくねじんじゃ)・参道大鳥居の西側、神苑相撲場の北西にあり相撲の始祖野見宿禰命(第13代出雲國造 襲髄命(かねすねのみこと)を祀る。

【最後にご紹介するのは、祓戸四柱神を祀る。⑫祓社(はらいのやしろ)です。】




P5041558.jpg(祓社はこの地図中鳥居から入って直ぐ右です。)
P5041589.jpg(勢溜の大鳥居)
P5041599.jpg(右の列が祓社の行列です。)
P5041578.jpg(祓戸の神?知りませんでした~!)

祓社は祓戸四柱の神(はらえどよはしらのかみ)をお祀りし、出雲大社に参拝する人々は、まずここで身心を祓い清めます。 祓戸四柱の神とは、瀬織津比咩神(せおりつひめのかみ)、速開都比咩神(はやあきつひめのかみ)、気吹戸主神(いぶきどぬしのかみ)、速佐須良比咩神(はやさすらひめのかみ)です。 こちらは正面下り参道右側ですが、駐車場側から直接お詣りされる方のために、神楽殿前にもお祀りされています。

祓戸大神(はらえどのおおかみ)とは、神道において祓を司どる神です。祓戸(祓所、祓殿)とは祓を行う場所のことで、そこに祀られる神という意味です。神職が祭祀に先立って唱える祝詞である「祓詞」では「伊邪那岐大神 筑紫の日向の橘の小戸の阿波岐原に 禊祓給ひし時に生り坐せる 祓戸大神等」と言っており、祓戸大神とは、日本神話の神産みの段で黄泉から帰還した伊邪那岐が禊をしたときに化成した神々の総称ということになります。

同時に禍津日神、直毘神、少童三神、住吉三神、三貴子(天照大神・月夜見尊・素戔嗚尊)も誕生していますが、これらは祓戸大神にはふくれません。ここに祀られたいる四神はそれぞれに役目があります

●瀬織津比咩神(瀬織津比売・せおりつひめのかみ)は、もろもろの禍事・罪・穢れを川から海へ流す。
●速開都比咩神(速開都比売・はやあきつひめのかみ)は、海の底で待ち構えていてもろもろの禍事・罪・穢れを飲み込む。
●気吹戸主神(気吹戸主・いぶきどぬしのかみ)は、速開津媛命がもろもろの禍事・罪・穢れを飲み込んだのを確認して根の国・底の国に息吹を放つ。
●速佐須良比咩神(速佐須良比売・はやさすらひめのかみ)は、根の国・底の国に持ち込まれたもろもろの禍事・罪・穢れをさすらって失う。

P5041569.jpg
(やはり女性がお詣りしている姿が良いですよね~良き!)

【最後に一言「それでは、出雲大社へ大国主と兎に会いに行きましょうか?」】

P5041610.jpg(神様がお通りになられる中央は歩くのを避けるのですが、この立て札の作戦は良く考えられています。ズームできます?)


改めて出雲王国の凄さを実感していただけましたでしょうか?全体図に方墳が多いと思いませんか、出雲の特徴的な四隅突出墓も方墳です。さらには須佐之男を祀る須賀神社と曽我氏の関係に遠く思いをはせて、石舞台古墳も方墳だななんて考えるわけです?何かしら関係が有ったら面白いとおもうのは私だけでしょうか????ばかり書いてるな~笑。

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2018/05/26

神々を訪ねて『出雲大社・荒垣外摂社』を歩く!最後の三社の予定、「まずは二社・スクープ&祓社へ変更」vol⑦

『出雲大社・荒垣外摂社のご紹介が残り三社に成りましたが、一度にご紹介予定の変更です。 今日は二社』

前回ご紹介したFacebook友人に成って頂いている方からお知らせが届きまた。”【速報】出雲で総数250基以上の古墳群県内最大級「大草丘陵古墳群」本日現地説明会”です。とても行けないけれど、色々あがいてみたところ、快く?「いいよ~」のご返事がありました。友達様々!明日ご報告します。ポリシーのフィールドワークに反するけど、埋め戻されるとこの前の纒向遺跡みたいにただの原っぱ?となるのでお許しください。秋に必ず自分の目で確かめて再度詳細をご報告いたします。

さて次のプロローグです(プロローグに次ぎとかあるのか?笑)。PCもしくはPC版でご覧んの方はアバターが可愛く変化したことに気が付かれましたでしょうか?五十半ばのオジサンにしては可愛すぎる?私を図案化してくださったのは、ブログサークルでお友達に成って頂いている「ウル」さんです。「ウル」さんのブログは子育て情報や工作そして私に書いてくださったような素敵なイラスト満載のブログ「もちもちもっちー(*´ω`*)」です。子育ての悩みも共有できて、面白い工作やイラストで癒される、素敵なブログなので是非訪れてみてくださいね。

ウルさんにキラーパスで以来してくれたのは、もちろん親友のtaka:aさんです。こちらにもありがとう!さらに白内障の手術で皆さんのブログを一週間におよび拝見出来なかった私、こちらももう親友?皆さんもご存知のビー玉さんのブログ名が「おっちょこブログ @ ビー玉の雑記ノート」 に変わっていたのに気づきませんでした。ごめんね~!パワーUPしたビー玉さんのブログも是非ご覧ください。

CIMG2530.jpg(幸の神と記載されています。安来平濱八幡宮・武内神社の塞の神です。)

さて今回、ご紹介させて頂きます二社は、出雲大社の東すぐですが弥山の山裾⑧出雲井社(いずもいのやしろ)・岐神(ふなどのかみ)を祀る。(出雲市大社町修理免)と、国道431と高浜川を挟んだ、④大穴持御子玉江神社(乙見社、おとみのやしろ)・式内社。子の下照比賣命を祀る。(出雲市大社町修理免字向地920)です。 さあ、出雲大社に戻って荒垣外摂社をご紹介しましょう。

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【今回ご紹介するのは、④大穴持御子玉江神社(乙見社、おとみのやしろ)と⑧出雲井社(いずもいのやしろ)・★がマークされているのは紹介済】

①★神魂伊能知奴志神社(命主社、いのちぬしのやしろ)・式内社。神産巣日神を祀る。(出雲市大社町杵築東182)

②★阿須伎神社(阿式社、あじきのやしろ)・式内社。大国主の神子の阿遅鉏高日子根神を祀る。(出雲市大社町遥堪1473)

③★大穴持御子神社(三歳社、みとせのやしろ)・式内社。子の事代主神・高比賣命(古事記では下照比賣命)と素戔嗚尊の孫の御年神を祀る。(出雲市大社町杵築東)

④★大穴持御子玉江神社(乙見社、おとみのやしろ)・式内社。子の下照比賣命を祀る。(出雲市大社町修理免字向地920)

⑤★大穴持伊那西波岐神社(いなせはぎのかみのやしろ)・式内社。天穂日命の子で、国譲りの際に事代主のもとに使者として向かった稻背脛命(いなせはぎのみこと)を主祭神とし、白兔神を配祀する。(出雲市大社町鷺浦102)

⑥★上宮(かみのみや)・素戔嗚尊・八百萬神を祀る。神在祭の際、神々の会議所となる。(出雲市大社町杵築北)

⑦★下宮(しものみや)・天照大御神を祀る。(出雲市大社町杵築北)

⑧★出雲井社(いずもいのやしろ)・岐神(ふなどのかみ)を祀る。(出雲市大社町修理免)

⑨★因佐神社(いなさのかみのやしろ)・建御雷神を祀る。(出雲市大社町杵築3008)

⑩★湊社(みなとのやしろ)・櫛八玉神を祀る。(出雲市大社町中荒木)

⑪★大歳社(おおとしのやしろ)・素戔嗚尊の子の大歳神を祀る。(出雲市大社町杵築北)

⑫祓社(はらいのやしろ)・祓戸四柱神を祀る。参道大鳥居の東側にあり参拝者が前もって身心を祓い清める社。(出雲市大社町杵築東195)

⑬★野見宿禰神社(のみのすくねじんじゃ)・参道大鳥居の西側、神苑相撲場の北西にあり相撲の始祖野見宿禰命(第13代出雲國造 襲髄命(かねすねのみこと)を祀る。

【最初にご紹介するのは、④大穴持御子玉江神社(乙見社、おとみのやしろ)・式内社です。】



P5041532.jpg(東から向かうと国道431を左、高浜川を渡ってすぐです。)
P5041549.jpg
(正面から、小さいながらも綺麗な社です。)
P5041541.jpg(説明版もぴかぴかです。)
P5041552.jpg(ン?屋根が変!枕木が縦削りで鰹木が三本、男神様仕様ですね?)

通称は”乙見社”と呼ばれています。祭神は「下照比賣命」ですね、前回”三歳社”でも「高比賣命」として祀られていました。いつもながら神様の名前は難しくて覚えきれません。『古事記』では、高比売命(たかひめのみこと)の亦の名が、下光比売命・下照比売命(したてるひめのみこと)。『日本書紀』では、下照姫。亦の名は高姫、稚国玉。『先代旧事本紀』地神本紀では、下照姫命と成っています。

前出の高比賣命(古事記では下照比賣命)は出雲大社ホームページからの情報で、直上出はWikipediaです(;^_^A。まあしょうがないですね。ひらがなで覚えておいてください。前回もご紹介しましたお話、『古事記』では、大国主神と多紀理毘売命の娘で、阿遅鉏高日子根神(アヂスキタカヒコネ)の妹と紹介されています。『日本書紀』では、顕国玉(大国主)の娘とだけ。『先代旧事本紀』地神本紀では、大巳貴神(大国主)と田心姫命(多紀理毘売命)の娘で、味金且高彦根神の同母妹と紹介されています。

母のタキリビメ(タギリヒメとも)は、日本神話に登場する宗像三女神の一柱ですね。宗像大社では「田心姫神」として、沖ノ島にある沖津宮に祀られています(2017年世界遺産登録)。天照大神と素戔嗚尊の誓約により誕生した「宗像三女神」の一柱で『古事記』では多紀理毘売命、『日本書紀』では田心姫(たごりひめ)・田霧姫と表記されます。別名奥津島比売命(おきつしまひめ)とも呼ばれますが、『日本書紀』第三の一書では市杵嶋姫(市寸島比売・いちきしまひめ)の別名とされています。

神名の「タキリ」は海上の霧(きり)のこととも、「滾(たぎ)り」(水が激しく流れる)の意で天の安河の早瀬のこととも解釈されます。日本書紀の「タゴリ」は「タギリ」が転じたものと考えらています。大国主と多紀理毘売命の結婚は出雲王国が日本海上交通を手中にした証と考えています。神話では海を任された須佐之男の娘が海の神として祀られています。その須佐之男から大国主の名前を名乗る許可をもらった葦原醜男(大国主・出雲国王)が日本海上交通権利も譲り受けたと考えてはどうでしょう。

【次にご紹介するのは⑧出雲井社(いずもいのやしろ)・岐神(ふなどのかみ)を祀る。(出雲市大社町修理免)です。】



P5041511.jpg(弥山の山裾に鎮座!)
P5041525.jpg(出雲は立て札も丁寧でうれしい、けど見つけにくい場所、普通乗用車は無理かもしれません。)
P5041521.jpg(出雲大社を結界で守っているのかもしれませんね。)

出雲井社(いずもいのやしろ)は出雲市大社町修理免にあります。岐神(ふなどのかみ)が祀られています。岐神?あまり聞いたことないですよね~?岐の神(クナド、くなど又はくなとのかみ)、と読みます。古来より牛馬守護の神、豊穣の神としてはもとより、禊、魔除け、厄除け、道中安全の神として信仰されています。 日本の民間信仰において、疫病・災害などをもたらす悪神・悪霊が聚落(集落)に入るのを防ぐとされています(結界神ですね)。また、久那土はくなぐ、即ち交合・婚姻を意味するものという説もあるようです。

「くなど」は「来な処」すなわち「きてはならない所」の意味です。もとは、道の分岐点、峠、あるいは村境などで、外からの外敵や悪霊の侵入をふせぐ神の様です。東北に滞在していました30年ほど前には集落の教会に人型を形どった藁人形がありましたが、あれ岐神を祀っていたのかもしれません。

道祖神の原型の一つとされ。読みをふなと又はふなどのかみともされるのは、「フ」の音が「ク」の音と互いに転じやすいためとする説がある様です。以下のように、意味から転じた読みが多い。岐(ちまた、巷、衢とも書きます)または辻(つじ)におわすとの意味で、巷の神(ちまたのかみ)または辻の神(つじのかみ)、峠の神、みちのかみとも言われるようです。また、障害や災難から村人を防ぐとの意味で、さえ又はさいのかみ(障の神、塞の神)、さらに「塞ぐ」の意味から転じて幸の神、生殖の神、縁結びの神、手向けの神の意味を併せるところもあります。以前単身赴任していた米子市は塞の神が多く祀られている場所で、米子市と合併した淀江町内だけで60体以上の塞の神がありました。これらの塞の神は自然石に男女の像が彫刻されていることから、特に縁結びの神として信仰されています。

神話では、『古事記』の神産みの段において、黄泉から帰還した伊邪那岐が禊をする際、脱ぎ捨てた褌から道俣神(ちまたのかみ)が化生しています。この神は、『日本書紀』や『古語拾遺』では猿田彦と同神と考えられています。また、『古事記伝』では『延喜式』「道饗祭祝詞(みちあえのまつりのりと)」の八衢比古(やちまたひこ)、八衢比売(やちまたひめ)と同神であるとされています。

道饗祭(みちあえのまつり、ちあえのまつり)とは、神道祭祀の一つです。上代(おおむかし・上古)から毎年6月と12月の2回、都の四隅道上で、八衢比古神(やちまたひこのかみ)、八衢比売神(やちまたひめのかみ)、久那斗神(くなどのかみ)の3柱を祀り、都や宮城の中に災いをもたらす鬼魅や妖怪が入らぬよう防ぎ、守護を祈願する神事、および神社の祭を行います。四隅を三人で?と思われるかもしれませんが、この四隅は四辻の意味で道路交差点(道がつながる場所、1つの通りまたは路が別のものと交差する合流点。)を意味しています。

「日本書紀」では、黄泉津平坂(よもつひらさか)で、伊弉諾が黄泉国より逃げ帰るとき、「くな=来るなかれ」と、投げた杖が「岐神」となったとされています。「古事記」では、最初に投げた杖から化生した神を衝立船戸神(つきたつふなどのかみ)としているようです。

治安が安定してくる平安後期以降は、往来に置かれた道祖神は道標(みちしるべ)としての役割を持つようになります。仏教の説く六道輪廻の概念から生じた末法思想を背景に、六道に迷った衆生を救う地蔵菩薩信仰が民間で盛んとなり六地蔵が置かれるようになって行きます。六道(ろくどう、りくどう)とは、仏教において、衆生がその業の結果として輪廻転生する六種の世界(あるいは境涯)のことです。 六趣、六界ともいわれ。 六道には次の分類があります。 天道、人間道、修羅道を三善趣(三善道)といい、畜生道、餓鬼道、地獄道を三悪趣(三悪道)と呼びます。

CIMG2630.jpg(米子市淀江、天神垣神社の塞ノ神、素朴です。こちら本州で唯一の石馬があります。九州北半に集中し福岡の岩戸山古墳等が有名なのですが?)

【最後に一言】


さて今日の一言はどうにもまとまりそうにありません。私は神官でもなければ、僧侶でもないからです(;^_^A。信仰というのは本当に奥が深いものですね~。まだまだ勉強が足りないようです。我が家の仏教宗派は「日蓮宗」です。仏教には勿論神様はいません。仏教は、キリストがキリスト教を始めたのでは無いのと同じように、シャカが仏教を創ったわけではありません。キリストはちょっと変わったユダヤ教徒だったでしょうし、シャカもちょっと変わったバラモン教徒だったに過ぎません。ン?またやらかしましたか?私は仏教はある意味、宗教では無いかもしれないと考えています。他の宗教は神の元へ行くために善行を行う事が義務付けられています。しかし仏教は自分自身が仏陀(悟りの最高の位「仏の悟り」を開いた人を指す)に成るためにどう生きるかが問われます。つまり自分自身と人生論を戦わせる学問だと、私は勝手に考えています。)。

一日、今日の自分はベストに生きられたか?今日がベターなら明日はベストな一日を目指す。それが仏教思想だと考えています(神教のブログ書いてたはずなのに?笑)。今ブログを書いている間も、一呼吸の間ももう二度と訪れない一生涯の瞬間なのです。今を懸命に生きなければ明日も無い!そんな目標を持って一日・一時間・一分・一秒を充実させて人生を送りたいと考えています。『仏陀として覚醒するために!』今日はちょっとおかしいな(爆)

P5041558.jpg(次回はこの地図の中に入って行きます?)

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2018/05/22

神々を訪ねて『出雲大社・荒垣外摂社』を歩く!更にに二社「国譲り神話の神々」vol⑥

『出雲大社・荒垣外摂社のご紹介が残り五社に成りましたので、二社・三社とUPしてご紹介します。 』


今日のプロローグは、ブログ仲間で年は違えど、私は大親友と思っている。皆さんもご存知「カップ麺皇子(あえてね!)」こと、taka:a◝( ꒪౪꒪)◜ケケケ…さんがブログを新設された事に触れたいと思います。

皆さんは、もうご承知かも知れませんが、WordPress(ワードプレス)にブログ「本館」を移動されて、新作カップ麺をレビューするブログ、「本日の一杯-cupmen review blog-」を立ち上げられました(ワーワー)。

更に、これまでのブログは「本日の一杯 -別館- taka :aの雑記帳」としてリニューアルオープンです。こちらは不定期では有りますが、taka:aさんの心のうちを垣間見るような素敵なブログと成っております。皆さん私の稚拙なブログ共々、taka:aさんのブログを宜しくお願い致します(逆だな…taka:aさんのブログ共々私のブログもよろしくお願いいたします。)。

P5041485.jpg(出雲風土記”国引き”のシーン!大迫力です。)

さて今回、ご紹介させて頂きますのは出雲大社からそれほどは遠くないのですが、ちょぴり分かりにくい場所に有る二社、②阿須伎神社(阿式社、あじきのやしろ)・式内社。大国主の神子の阿遅鉏高日子根神を祀る。(出雲市大社町遥堪)と③大穴持御子神社(三歳社、みとせのやしろ)・式内社。子の事代主神・高比賣命(古事記では下照比賣命)と素戔嗚尊の孫の御年神を祀る。(出雲市大社町杵築東)をご紹介します。

さて、出雲大社に戻って荒垣外摂社をご紹介しましょう。

それでは、『市郎右衛門』の歴史ブログをお楽しみ?くださいね(人´ω`*).☆.。
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【今回ご紹介するのは、荒垣外摂社の三社 の三社です。★を付けた社はご紹介済】


①★神魂伊能知奴志神社(命主社、いのちぬしのやしろ)・式内社。神産巣日神を祀る。(出雲市大社町杵築東182)

②★阿須伎神社(阿式社、あじきのやしろ)・式内社。大国主の神子の阿遅鉏高日子根神を祀る。(出雲市大社町遥堪1473)

③★大穴持御子神社(三歳社、みとせのやしろ)・式内社。子の事代主神・高比賣命(古事記では下照比賣命)と素戔嗚尊の孫の御年神を祀る。(出雲市大社町杵築東)

④大穴持御子玉江神社(乙見社、おとみのやしろ)・式内社。子の下照比賣命を祀る。(出雲市大社町修理免字向地920)

⑤★大穴持伊那西波岐神社(いなせはぎのかみのやしろ)・式内社。天穂日命の子で、国譲りの際に事代主のもとに使者として向かった稻背脛命(いなせはぎのみこと)を主祭神とし、白兔神を配祀する。(出雲市大社町鷺浦102)

⑥★上宮(かみのみや)・素戔嗚尊・八百萬神を祀る。神在祭の際、神々の会議所となる。(出雲市大社町杵築北)

⑦★下宮(しものみや)・天照大御神を祀る。(出雲市大社町杵築北)

⑧出雲井社(いずもいのやしろ)・岐神(ふなどのかみ)を祀る。(出雲市大社町修理免)

⑨★因佐神社(いなさのかみのやしろ)・建御雷神を祀る。(出雲市大社町杵築3008)

⑩★湊社(みなとのやしろ)・櫛八玉神を祀る。(出雲市大社町中荒木)

⑪★大歳社(おおとしのやしろ)・素戔嗚尊の子の大歳神を祀る。(出雲市大社町杵築北)

⑫祓社(はらいのやしろ)・祓戸四柱神を祀る。参道大鳥居の東側にあり参拝者が前もって身心を祓い清める社。(出雲市大社町杵築東195)

⑬★野見宿禰神社(のみのすくねじんじゃ)・参道大鳥居の西側、神苑相撲場の北西にあり相撲の始祖野見宿禰命(第13代出雲國造 襲髄命(かねすねのみこと)を祀る。

【最初にご紹介するのは、②★阿須伎神社(阿式社、あじきのやしろ)・式内社です。大国主の神子の阿遅鉏高日子根神を祀ります。(出雲市大社町遥堪1473)】




PB020149.jpg(まずは鳥居から、普通の神社の装いです。)
PB020153.jpg(写真ではご紹介できませんが多くの神様が祀られています。)
PB020164.jpg(拝殿です。)
阿遅鉏高日子根神(あじすきたかひこね・味耜高彦根命)って誰?と思われる方多いと思います。「古事記」「出雲風土記」のご出演で「日本書紀」には出演されていません。阿遅鉏高日子根命は、国譲り神話に天稚彦(あめのわかひこ)の友人として登場する美青年の神さまです(隠れた?人気がある神様です。)。葦原中国を平定するに当たって、遣わされた天穂日命(あめのほひ)が3年たっても戻って来ないので、次に天稚彦が遣わされます。

しかし、天稚彦は大国主の娘下照姫命(大国主神と多紀理毘売命の娘で、阿遅鉏高日子根神は兄に成ります。)と結婚し、葦原中国を得ようと企んで8年たっても高天原に戻って来ませんでした。そこで天照大御神と高御産巣日神は雉の鳴女を遣して戻ってこない理由を尋ねさせるお話、以前にしましたよね~。

すると、その声を聴いた天探女(天邪鬼のモデルとも言われます。)が、不吉な鳥だから射殺すように勧め、彼は遣わされた時に高御産巣日神から与えられた弓矢(天羽々矢と天之麻迦古弓)で雉を射抜いてしまいます。その矢は高天原まで飛んで行き、矢を手にした高御産巣日神、「天稚彦に邪心があるならばこの矢に当たるように」と誓約をして下界に落とすと、その矢は寝所で寝ていた天稚彦の胸に刺さり、彼は死んでしまいます。このお話は「天に唾する」に変化しているように思えます。天に唾すると、自分にかかる事から、悪事は自分に帰って来るのだという教えですね(うんうん)。

天稚彦の死を嘆く下照姫命の泣き声が天まで届くと、天稚彦の父の天津国玉神は下界に降りて葬儀のため喪屋を建て八日八夜の殯を行います。下照姫命の兄の阿遅鉏高日子根も弔いに訪れますが、彼が天稚彦に大変よく似ていたため、天稚彦の父と妻が「天稚彦は生きていた」と言って抱きついてしまいます。すると阿遅鉏高日子根神は「穢らわしい死人と見間違えるな」と怒り、神度剣を抜いて喪屋を切り倒し、蹴り飛ばして天地に飛び去ったといいます。喪屋が飛ばされた先は美濃・藍見の喪山だといわれています。阿遅鉏高日子根の名前”スキ”は、農具の「鋤すき」から連想されたもので、もともとは鋤を御神体とする農業神だったようですが、このときの激怒ぶりや天地を行き来する姿は、雷神をイメージさせるものです。

さらに『出雲国風土記』のこの神さまの養育に関する説話では、阿遅鉏高日子根が幼い頃、昼夜泣きやまなかったので船に乗せて八十島やそじまを巡ったり、高屋を作って梯子を掛けてそれを上り下りさせて育てられたといいます。古代の人々は、雷鳴が天空を駆け巡る様子から雷を天翔ける船(神の乗り物)と考えて、強烈な落雷からは天地を往来する雷神の姿を連想したのかもしれませんね。

PB020172.jpg(阿遅鉏高日子根神で、間違いありませんね。)
PB020214.jpg(神殿正面から。)
PB020189.jpg(少し小ぶりでも大社造りは美しいです。)
PB020175.jpg(出雲大社の東に位置しますので、西に遥拝所神社があります。)

【次にご紹介するのは③大穴持御子神社(三歳社、みとせのやしろ)・式内社です。(出雲市大社町杵築東)】




P5041473.jpg(出雲大社拝殿西側と千家家の荒垣外に位置する神楽殿の間を登ります。車の場合は観光客が多いので注意が必要です。)
P5041479.jpg
(川沿いを下りて登ると分かりやすいですが、橋を通り過ぎるコースをえらんで道に迷いました。笑)

この社は、大国主の子ども達が祀られています、事代主・高比賣命(古事記では下照比賣命、阿遅鉏高日子根の妹)と素戔嗚尊の孫の御年神を祀 ます。事代主はいうまでもなく超有名ですね。国譲りの時には美保に漁に出ていたことから、恵比須神と同一視されています。えびす様は事代主系と蛭子系に分かれるようです。1月10日の開門神事で有名な西宮神社は蛭子系に成るので、天照大御神の兄となります。神様も複雑な人間関係?神様関係をお持ちです。

高比賣命こと下照比賣命は夫・天稚彦の死よりも兄・阿遅鉏高日子根の名を明かす歌を詠んだ事で知られています。この歌は「夷振(ひなぶり)」と呼ばれます。夷振を詠んだという記述は『日本書紀』本文にはありませんが、『日本書紀』第一の一書では、天稚彦の妻の名は記されておらず、夷振を詠んだ者の名としてのみの下照比賣命の名が登場しています。以前ご紹介した伯耆一宮の倭文神社では現在は建葉槌命が主祭神となっていますが、社伝には下照比賣命に関するものが多く、大正時代までは下照比賣命が主祭神であると考えられていました。倭文神社内の塚が下照比賣命の墓であると考えられて発掘されましたが、経塚であると判明しています(出土品は国宝に指定されました)。

御年神ですが日本神話では、須佐之男と神大市比売(かむおおいちひめ・大山津見神の娘)の間に生まれた大年神(おおとしのかみ)とされています。毎年正月に各家にやってくる来方神です。地方によっては、お歳徳(とんど)さん・正月様・恵方神・大年神(大歳神)・年殿・トシドン・年爺さん・若年さんなどとも呼ばれます。

現在でも残る正月の飾り物は、元々年神を迎えるためのものです。門松は年神が来訪するための依代であり、鏡餅は年神への供え物でした。各家で年神棚・恵方棚などと呼ばれる棚を作り、そこに年神への供え物を飾りました。わが家では”どんど焼き”といいますが、民俗学的な見地からは、小正月に門松や注連飾りによって出迎えた歳神を、それらを焼くことによって炎と共に見送る意味があるとされます。

P5041457.jpg(大国主の親族神です。)
P5041467.jpg(新緑も水も綺麗!マイナスイオンで癒されますね~。)

【日本に生まれて幸せだ!】


世界の宗教をみてみると、ユダヤ教・キリスト教・イスラム教は同じ神を拝める宗教で、解釈の違いで何百年も争っているって知ってました?それではなぜ、仲良く出来ないのでしょう。キリスト教とイスラム教はユダヤ教から派生した唯一神を信じるため、これら3つはすべて「一神教」といわれる同類の宗教なのです。西暦0年がキリスト教誕生の年で、西暦610年にイスラム教は誕生しているので、イスラム教がこの中では一番新しい宗教ということになります。

そこでまず、一番古いユダヤ教を考えてみましょう。基本ポイントは3つで、唯一神・預言者・メシア(救世主)です。思想ポイントが解ればあとは簡単です。神は唯一神である「ヤハウェ」という名前(固有名詞)で、「すべてのものをつくった、たった一つの神様」とされます。預言者とは、唯一神からの命令を預かる特別な人のこと。「箱舟を作ったノア」や「海を割ったモーセ」などが有名ですね。メシア(救世主)はヘブライ語で救世主という意味があります。基本的には、いつの日にか「自分達(ユダヤ教徒)を救ってくれる存在を神様が遣わしてくれるはずだ」という思想です。実は、キリスト教もイスラム教も「神様は同じ」なんですよね、これら3つの宗教は「姉妹宗教」ともいわれます。

キリスト教の唯一神も「ヤハウェ」です。ただし、キリスト教の信者は「イエス・キリスト」が預言者であり救世主でもあるという個人崇拝を基本としています。イスラム教の唯一神もやはり「ヤハウェ」ですが、イスラム教の開祖であるムハンマドは「最後にして最大の預言者」という位置づけに成ります。「アッラー」というのは日本語でいうところの「神」で普通名詞、英語だと「God」に成ります。そのため、よく「アッラーの神」といいますが、あれは誤まりということに成りますね。キリスト教徒と同じく、イスラム教徒も人類はアダムとイブから始まったと考えているんですよ(ちょっとびっくりしませんか?)。

ユダヤ教では「アドナイ」、キリスト教では「ゴッド」、イスラム教では「アラー」と呼びますが、これらは全て「ヤハウェ」の事です。ただし、ユダヤ教は戒律に「神の名前をみだりに呼ぶなかれ」というものがあるため信者はこの名前(ヤハウェ)を口にしません。ですから、あまり宗教に感心のない人達には分かりづらいですよね。それでは何処が違うのか?預言者(開祖)がどう位置づけられているかに成ります。キリスト教においてメシア(救世主)として信仰の対象とされるイエスは、イスラム教ではイーサーと呼ばれ、ムハンマド(マホメット)の前駆者であり、ムハンマドの出現を予言した者と認識されています。

そのため、イスラム教のコーランには、イエス・キリストもあくまで「預言者のひとり」として登場します。ユダヤ教徒にすれば、イエスやムハンマドはメシアを騙る偽物であり、本当のメシアはまだ現れていないのだそうです。キリスト教徒にすれば、ユダヤ教徒はイエスを偽物だと決めて迫害した仇、メシアであるイエスの以後に預言者を名乗ったムハンマドは偽預言者に成ります。さらに、イスラム教徒にすれば、ムハンマドという最後の預言者が現れたのだから、ユダヤ教徒もキリスト教徒もイスラム教徒に改宗すればいいと思っています。

信者の数は、キリスト教約21億人、イスラム教約13億人、ユダヤ教約1500万人です。細かく見れば色々と違う考え方をしている宗派もありますが、基本的にはこう考えれば間違いではないと思います。このように、これら3つの宗教は異なる宗教というよりも、異なる宗派(仏教の臨済宗と曹洞宗の違い位です。あ~やちまったかな?失礼が有りましたら無知ゆえとお許しください。)といった感じに思えてきます。神様が同じなのに、あんなに激しく争うのには様々な思惑が、宗教的動機と、政治的動機が複雑に絡まっているからです。

ユダヤ教、キリスト教、イスラム教の三宗教の聖地はエルサレムであり、この聖地奪回を巡って、およそ二百年間に、七回に亘る戦争が繰り広げられました。11世紀末から13世紀末まで、約200年間にわたって展開された、西ヨーロッパのキリスト教勢力による、西アジアのイスラーム教圏などに向けての軍事活動。ローマ教皇の「聖地回復」という宗教的目的での十字軍の派遣です。その続きが現在も行われているんです。

【最後に一言】

P5041669.jpg(だんだん近づいてきましたよ~!)

神様が一人だから問題が起きるのでは?と考えるのは私だけなのでしょうか?日本では八百万の神がおられて、それぞれに専門性があります。大国主神なら”縁結び”ですよね(笑)ここが大事なのです。全ての神様に得意部門のお願いをすることによって、神様同士も喧嘩することはありませんしうまく収まるのです。正に和国ですよね~。一神教:の国々が神様の代理戦争を人間が行っているように見えるのは私だけですか?

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2018/05/20

神々を訪ねて『出雲大社・荒垣外摂社』を歩く!更に二社vol⑤

『出雲大社・荒垣外摂社のご紹介が残り七社に成りましたので、二社・二社・三社とUPしてご紹介します。 』


実は、出雲に関係の有る神社の神官の方々三人とFacebookでお友達に成っていただいておりますので、出雲の神社ブログを書くときは緊張します。その三方は出雲大社と国造北島家、更には意宇六社・日御碕神社兼務のお三方神官の皆さまです。毎回お会いしてお話を聞かせて頂きたいのですが、そこは仕事中でしようから、ご迷惑を掛けないようにしている積もりなのです。特に神事(お祭り)の時期はとてもではないですですよね~f(^_^;

皆さんは、出雲といえば出雲大社が有名ですから、古代出雲国の中心は出雲大社近辺だと思われておられませんか?実は古代の出雲の中心は意宇郡です。国府跡や国分寺、意宇六社が有る辺りです。「出雲風土記」でも『おえ!(終え?)』の掛け声と共に「八束水臣津野命(やつかみずおみつぬのみこと)」が柱を突き刺したといわれるのも「意宇の杜」といわれています。

「建御雷之男神」が稲佐の浜に訪れるのも、古代出雲から考えると不思議な感じがします。国譲りの際も「事代主」は伯耆の倉吉に有る波々岐(はばき)神社に逃亡した伝承が残りますし。出雲大社で仲良く祀られている「須勢理毘売命」も以前、現在の伯耆・大山町に逃亡して隠れ?住んだ伝承の検証を試みました。

更には「建御名方神」は諏訪湖まで逃亡して、諏訪神社の御祭神と成っています。東の大和(倭)から攻め込まれた神々が全て?東に逃亡し、攻め込んだ勢力は西から上陸なんて、いくら私がつじつま合わせの作り話が得意でも疑問が湧かざるをえません。
神話の謎解きはとても魅力的ですが、頭の中だけでは実感出来ない事柄が多いのです。私が出雲に何度も足を運んでいるのも、フィールドワークの重要性を感じるからです。


P5041915.jpg(稲佐の浜の弁天島?とも思わせる柏島です。日本海綺麗です。)

さて今回、ご紹介させて頂きますのは少し出雲大社から距離的にも離れていて、中々分かりにくい場所に有る二社、⑤大穴持伊那西波岐神社(いなせはぎのかみのやしろ)・式内社。天穂日命の子で、国譲りの際に事代主のもとに使者として向かった稻背脛命(いなせはぎのみこと)を主祭神とし、白兔神を配祀する。(出雲市大社町鷺浦102)と、⑩湊社(みなとのやしろ)・櫛八玉神を祀る。(出雲市大社町中荒木)をご紹介します。

さて、出雲大社に戻って荒垣外摂社をご紹介しましょう。

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【今回ご紹介するのは、荒垣外摂社の二社です。★を付けた社はご紹介済】


①★神魂伊能知奴志神社(命主社、いのちぬしのやしろ)・式内社。神産巣日神を祀る。(出雲市大社町杵築東182)

②阿須伎神社(阿式社、あじきのやしろ)・式内社。大国主の神子の阿遅鉏高日子根神を祀る。(出雲市大社町遥堪1473)

③大穴持御子神社(三歳社、みとせのやしろ)・式内社。子の事代主神・高比賣命(古事記では下照比賣命)と素戔嗚尊の孫の御年神を祀る。(出雲市大社町杵築東)

④大穴持御子玉江神社(乙見社、おとみのやしろ)・式内社。子の下照比賣命を祀る。(出雲市大社町修理免字向地920)

⑤★大穴持伊那西波岐神社(いなせはぎのかみのやしろ)・式内社。天穂日命の子で、国譲りの際に事代主のもとに使者として向かった稻背脛命(いなせはぎのみこと)を主祭神とし、白兔神を配祀する。(出雲市大社町鷺浦102)

⑥★上宮(かみのみや)・素戔嗚尊・八百萬神を祀る。神在祭の際、神々の会議所となる。(出雲市大社町杵築北)

⑦★下宮(しものみや)・天照大御神を祀る。(出雲市大社町杵築北)

⑧出雲井社(いずもいのやしろ)・岐神(ふなどのかみ)を祀る。(出雲市大社町修理免)

⑨★因佐神社(いなさのかみのやしろ)・建御雷神を祀る。(出雲市大社町杵築3008)

⑩★湊社(みなとのやしろ)・櫛八玉神を祀る。(出雲市大社町中荒木)

⑪★大歳社(おおとしのやしろ)・素戔嗚尊の子の大歳神を祀る。(出雲市大社町杵築北)

⑫祓社(はらいのやしろ)・祓戸四柱神を祀る。参道大鳥居の東側にあり参拝者が前もって身心を祓い清める社。(出雲市大社町杵築東195)

⑬★野見宿禰神社(のみのすくねじんじゃ)・参道大鳥居の西側、神苑相撲場の北西にあり相撲の始祖野見宿禰命(第13代出雲國造 襲髄命(かねすねのみこと)を祀る。

【最初にご紹介するのは、⑤大穴持伊那西波岐神社(いなせはぎのかみのやしろ)・式内社です】




P5041877.jpg(鳥居に扁額がありませんが伊那西波岐神社です。)
P5041876.jpg(式内社の大穴持伊那西波岐神社に比定されます。)
P5041881.jpg(白兎神とも関連していますし、四十二浦巡りも出来ればと考えています。)
P5041888.jpg(随神門もしっかりあり、摂社の中でも一・二の規模です。)
P5041893.jpg(境内は白砂がひかれ、拝殿もしっかりありました。)
P5041904.jpg(神殿は勿論大社造りです。)

御祭神の稻背脛命(いなせはぎのみこと)は天穂日命(誓約時の天照大神の第二子、出雲国造の祖)の子で、国譲りの際に事代主のもとに使者として向かっています。こちらのお話は「日本書紀」のみで「古事記」では稲背脛命ではなく「アメノトリフネ」が登場しています。出雲大社摂社「伊奈西波岐神社」です。式内社「大穴持伊那西波伎神社」に比定されている神社で、鷺社とも呼ばれています。出雲大社を北に向かい日本海の小さな漁村に鎮座されます。

熊野の諸手船で事代主への連絡役を担い、国譲りを承諾するかどうかを問う使者という役割を与えられた神には間違いがありません。事代主命が祀られる美保神社では国譲りに因んだ、青柴垣(あおふしがき)神事・諸手船(もろたぶね)神事が行われています。ちなみに私青柴垣神事は取材できたのですが(偶然)、諸手船神事は取材できておりません。

P5041919.jpg
(こちらは摂社の横に在った臨済宗妙心寺派の寺院・一畑薬師の石灯篭、目の仏様ということで手術の成功をこっそり祈願しました。)

【次にご紹介するのは⑩湊社(みなとのやしろ)・櫛八玉神を祀る。】




P5041935.jpg(とにかく敷地が広大です。)
P5041940.jpg(来待石の出雲型狛犬の風化具合が歴史を感じさせてくれます。)
P5041944.jpg(舞の舞台や土俵もあります。)
P5041949.jpg(どんな料理がふるまわれたのでしょう。)
P5041961.jpg(摂社らしい?可愛いいお社です。)

湊社は出雲市大社町中荒木に在り、櫛八玉神を祀ります。敷地は摂社にしては大きいのですがお社はこじんまりとしていました。御祭神の櫛八玉神(くしやたまのかみ)ですが、「古事記」では、大国主命が国を譲って遠くに隠れ控えるかわりに、天神御子の住むような住居を要求し 出雲国多芸志の小浜(杵築の地)に神殿(出雲大社)が造られ、水戸神の孫・櫛八玉神が膳夫(料理人)となります。櫛八玉は鵜に変身して海底の埴(粘土)をとり「天の八十平瓫」(平らな土器)を作り海藻を刈って 燧白・燧杵を作り、火を鑽り出して、大国主命に対して、火を使って調理した魚を献る詞章(火鑽りの詞)を述べます。

水戸神(みなとがみ)とは、港の神のことで伊邪那岐と伊邪那美が国産みを終えて、神を産み始め、九番目と十番目に産んだ「速秋津日子神(はやあきつひこのかみ)と速秋津比売神(はやあきつひめのかみ)」の事だそうです。 水戸神は神の名前ではなく、「分類(種族・系譜かもしれません)」のようですね。

建御雷之男神(たけみかずち)が大国主を気遣ったのか?これとも屠ってしまった大国主(私は大国主は称号と考えていますので国譲りに関わった出雲の王)を祀ろうとしたのかもしれませんね。

【最後に一言】

CIMG23745.jpg(古代出雲の中心「意宇の杜」)

想像を逞しくするのは悪い事では無いと感じますし、漫画本を大学に行くまで読んだことが無かった私は小説に没頭し本が大好きになりました。映画やドラマを見る前に本を読んでしまうと、内容を理解(俗にいうネタバレってやつですか?)していることもありますが、どうしても想像力の方が大きくて映画やドラマが物足りなく?感じてしまうのは私だけでしょうか?先日誰かのSNSで「銀河鉄道999」の実写化の話題があり大丈夫?と思ったばかりですし、現在放映中の「モンテ・クリスト伯-華麗なる復讐-」はディーン・フジオカさんが頑張っておられるにも関わらず、違うんだよね~と感じてしまいます。

「モンテ・クリスト伯」は私の推薦図書ベスト100のトップに入ろうかという名作!大河ドラマ位の尺が無いと描ききれないと思いまし、日本人の設定は無理が有ると思います。

大河ドラマが『古事記-全ての始まり-』なんて出来ないかな?出来ないですよね~~オールスター出演でもめるでしようね、皆さんなら、まず天照大御神誰にします?(((^_^;)


P8111098.jpg
(少しずつではありますが出雲大社の神殿に近づいています。神楽殿横の鏡の池の蛙様です。笑!)

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2018/05/15

神々を訪ねて『出雲大社・荒垣外摂社』を歩く!一気に三社「勿論、天照大御神もお祀り・纏向遺跡も新事実!」vol④

『やはり纏向遺跡が邪馬台国?「桃の種」年代が確定!』


奇しくも、「タイミング良すぎるやろ!」のニュースが飛び込んで来ました。前回卑弥呼=天照大御神のブログを書いて、反響も凄くて、ご意見も一杯頂きました。ありがとうございましたm(__)m。

さて昨日の新聞各社が、「纏向遺跡の「桃の種」年代は卑弥呼の時代と重なる。 」のほぼ同じ見出しでスクープを伝えました。

各社新聞によりますと、邪馬台国の有力な候補地とされる奈良県桜井市の纒向(まきむく)遺跡で見つかった大量の桃の種の年代を測定した結果、女王・卑弥呼の時代と重なることが分析結果からわかりました。邪馬台国の謎に迫る新たな資料として注目されるようです。


P5190134(2).jpg(あえて箸墓古墳にしました。何度見ても美しい。纒向遺跡「箸墓古墳のすぐ傍」は私が取材した時には埋め戻されて更地に成っていました。)

纒向遺跡は、3世紀から4世紀にかけての大規模な集落跡で、邪馬台国があった場所の有力な候補の1つとされています。遺跡では、8年前、卑弥呼の宮殿跡との説もある3世紀前半の大型建物跡のそばで、桃の種が2000個以上見つかりました(現地に行って来ましてフィールドワークしてきました。)。この桃の種を、名古屋大学の中村俊夫名誉教授と元徳島県埋蔵文化財センターの近藤玲さんが、それぞれ放射性炭素を使った年代測定を行ったところ、いずれも西暦135年から230年の間のものの可能性が高いことがわかりました。

卑弥呼は中国の歴史書「魏志倭人伝」で、3世紀前半ごろに邪馬台国を治めていたとされ、今回の結果は卑弥呼の時代と一部、重なっています。また、桃は古くから神聖な果物とされていたことから、卑弥呼が行った祭しで供えたのではないかという指摘もあるということです。

桜井市纒向学研究センターの寺澤薫所長は、「魏志倭人伝の記述にある卑弥呼の時代と重なり、纒向遺跡について考えるうえで重要な資料」としています。

邪馬台国九州説の研究者の皆さんは卑弥呼 と明確には結びつかないとの見解です。邪馬台国が九州にあったとする説を唱える、佐賀女子短期大学の高島忠平名誉教授は、「参考になる研究成果だが、邪馬台国の所在地や卑弥呼と結びつく明確な材料はなく、今回の成果で論ずるのは無理があるのではないか」しています。

確かに、この桃の年代が分かったからといって、卑弥呼が纒向遺跡に居たことの根拠では無いですし、ましてや箸墓古墳が卑弥呼の墓と証明された訳でも有りません。

しかしながら、纒向遺跡の場所に当時日本最高の都市国家が有ったであろうことは証明されました(これから最も凄いものが他所から出てくれば別ですが!)。

更に注目したいのは、桃が神聖な物だということです。伊邪那岐が黄泉国の鬼女「黄泉醜女(よもつしこめ。醜女は怪力のある女の意)」から追われた時に投げつけたのも桃でしたね。纒向遺跡周辺の前方後円墳は日本最古の物です。この地が邪馬台国では無いにしても、倭→大和と続く日本国家の中心に成っていった事の証明に大きく近付いたのではないでしょうか?今後の展開が楽しみですね~(*^^*)


さて、出雲大社に戻って荒垣外摂社をご紹介しましょう。

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【今回ご紹介するのは、荒垣外摂社の三社⑥上宮(かみのみや)・⑦下宮(しものみや)・⑪大歳社(おおとしのやしろ)の三社です。★を付けた社はご紹介済】


①★神魂伊能知奴志神社(命主社、いのちぬしのやしろ)・式内社。神産巣日神を祀る。(出雲市大社町杵築東182)

②阿須伎神社(阿式社、あじきのやしろ)・式内社。大国主の神子の阿遅鉏高日子根神を祀る。(出雲市大社町遥堪1473)

③大穴持御子神社(三歳社、みとせのやしろ)・式内社。子の事代主神・高比賣命(古事記では下照比賣命)と素戔嗚尊の孫の御年神を祀る。(出雲市大社町杵築東)

④大穴持御子玉江神社(乙見社、おとみのやしろ)・式内社。子の下照比賣命を祀る。(出雲市大社町修理免字向地920)

⑤大穴持伊那西波岐神社(いなせはぎのかみのやしろ)・式内社。天穂日命の子で、国譲りの際に事代主のもとに使者として向かった稻背脛命(いなせはぎのみこと)を主祭神とし、白兔神を配祀する。(出雲市大社町鷺浦102)

⑥★上宮(かみのみや)・素戔嗚尊・八百萬神を祀る。神在祭の際、神々の会議所となる。(出雲市大社町杵築北)

⑦★下宮(しものみや)・天照大御神を祀る。(出雲市大社町杵築北)

⑧出雲井社(いずもいのやしろ)・岐神(ふなどのかみ)を祀る。(出雲市大社町修理免)

⑨★因佐神社(いなさのかみのやしろ)・建御雷神を祀る。(出雲市大社町杵築3008)

⑩湊社(みなとのやしろ)・櫛八玉神を祀る。(出雲市大社町中荒木)

⑪★大歳社(おおとしのやしろ)・素戔嗚尊の子の大歳神を祀る。(出雲市大社町杵築北)

⑫祓社(はらいのやしろ)・祓戸四柱神を祀る。参道大鳥居の東側にあり参拝者が前もって身心を祓い清める社。(出雲市大社町杵築東195)

⑬★野見宿禰神社(のみのすくねじんじゃ)・参道大鳥居の西側、神苑相撲場の北西にあり相撲の始祖野見宿禰命(第13代出雲國造 襲髄命(かねすねのみこと)を祀る。

【最初にご紹介するのは、天照大御神を祀る⑦下宮(しものみや)・天照大御神を祀る。(出雲市大社町杵築北)】

P5041395.jpg(下宮・しものみや)
P5041399.jpg
(出雲では天照大御神も遠慮がち?です。)

番号順に行こうかとも思いましたが、ブログの流れから天照大御神を祀る摂社、下宮からご紹介です。天照大御神って誰?なんて愚問は必要無いですよね。

【次にご紹介するのは⑥上宮(かみのみや・仮の宮)・素戔嗚尊・八百萬神を祀る。神在祭の際、神々の会議所となる。(出雲市大社町杵築北)】

P5041405.jpg
(上宮かみのみや、出雲大社は素戔嗚が御祭神だった時期もありますから、上宮?)
P5041410.jpg(拝殿と神殿・会議されるだけあって大きめ?です。)
P5041416.jpg(隋神門もしっかりあります。)
P5041423.jpg(一年の万物を決める会議、のども乾きますよね~(;^_^A)

旧暦の十月、他地域では神様が留守になるので神無月といいますが、ここ出雲では神在月と呼びます。そして全国の八百万の神々が出雲大社に集まられ、諸々の事、特に人々の縁に関することを会議「神議り(かむはかり)」されると言い伝えられています。実際に、この「上宮」の扉を開けられるのは、年に一度、この神在月の7日間だけだそうです。その間、出雲大社の神職さんもここに詰めておられます。

出雲の各神社では「神迎祭(かみむかえさい)」に始まり、「神在祭(かみありさい)」そして、全国に神々をお見送りする「神等去出祭(からさでさい)」が行われます。

稲佐の浜での神迎神事、旧暦の十月十日の夜(2018年は11月17日です。)、出雲大社の西の稲佐の浜において神迎神事が行われ、龍蛇神の先導の元、八百万の神々は出雲にお着きになります。それより1週間大国主大神の元で会議をされ、旧暦十月十七日に出雲大社をお発ちになります。そしてその神々の会議所となるのが、この上宮です。素戔嗚尊に関しては天照大御神同様に説明は不要ですね(笑)。

一昨年、私も神在祭の神迎え神事に参加することが出来ました。稲佐の浜に人人人、一種のトランス状態になるような感じがしました。とても言葉では言い表せない神秘の体験です。皆さんも一度参加されてはいかがでしょうか?

【最後にご紹介するのは、⑪大歳社(おおとしのやしろ)・素戔嗚尊の子の大歳神を祀る。(出雲市大社町杵築北)】

P5041444.jpg(一番先に見つけました。三宮はほんの近くです。)
P5041431.jpg(分かりやすい場所です。出雲大社から稲佐の浜へ向かう途中です。)
P5041439.jpg(前の石台には何が立つのかな?)
P5041440.jpg(可愛らしいお社です。)

大歳神って誰?という方も居られるのではないでしょうか、簡単にご紹介させていただきます。日本神話では、建速須佐之男命(スサノオ・素戔嗚尊)と神大市比売(かむおおいちひめ・大山津見神の娘)の間に生まれた大年神(おおとしのかみ・大歳神)とされてています。基本は農耕の神様です。柳田國男は、一年を守護する神、農作を守護する田の神、家を守護する祖霊の3つを一つの神として信仰した素朴な民間神が年神であるとしています。

【最後に一言】


前回、卑弥呼=天照大御神のブログに対して多くのコメントを頂きました。感謝しますと共にもっともっとご意見を伺いたいと感じました。その中で私の説明が至らない事で自身の意見が否定されたと思われた方もおられるかもしれませんが、そんなことはありません。卑弥呼=天照大御神自体が私の意見とは違うからです。さらには私が素人であるがゆえの、説明不足もあります。又改めて市郎右衛門に教えてやろうと思われましたら。どしどしコメントを頂けましたらうれしいです。少しでも日本の歴史に興味を抱いて頂ける方々が増えますように願っております。

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2018/05/13

神々を訪ねて「出雲大社」を歩く!スピンオフ『天照大御神は卑弥呼なのか?』

『天照大御神は卑弥呼なのか?』


前々回、謎多き邪馬台国と女王卑弥呼。その正体が天照大御神では無いかとの説をブログに乗せたところ、大きな反響がありました。この謎に迫るために、スピンオフ企画として、卑弥呼=天照大神について私なりに考えてみました。

以前、邪馬台国サミット伯耆に参加した時に、基調講演で安本美典さん(元産能大学教授・季刊「邪馬台国」編集責任者・「邪馬台国の会主催」)が「私の邪馬台国(九州説)」の中で、「卑弥呼は、日本神話の天照大神(あまてらすおおみかみ)と同一人物ではないかと考えている。中国の史書「魏志倭人伝」は、卑弥呼が239年に魏へ使者を送ったと記す。神話を集めた「古事記」が完成したのは712年。400年以上後の奈良時代だが、古事記の天照大神に関する記述は、倭人伝中の卑弥呼と類似する箇所がある。」と述べられました。

amaterasu.jpg
(KOEI三国志卑弥呼より)

安本さんの考え方はこんなん感じです。「私は日本、中国、西洋の天皇や王の在位年数を平均し、1~4世紀の天皇の平均在位年数を?年と割り出した。古事記に記された天皇が全て実在すると仮定し、それぞれ約10年在位したとすると、九州から東へ攻め上り、大和政権をつくったとされる神武天皇が活躍したのは280~290年ごろと計算できる。つまり、近畿地方における大和政権の成立は、邪馬台国の時代より後になる。天照大神は神武天皇の5代前なので、50年さかのぼると活躍した年代は230~240年。卑弥呼が魏へ使者を送った時期と重なり合う。」でした。それでは反対意見も踏まえて私も、少し考えてみましょう。

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【天照大御神は卑弥呼とそっくりだ!】

CIMG1613.jpg(伊勢神宮と一緒に昼と夜を護る!あれ?夜は月読様じゃなかったっけ!)
CIMG2758.jpg(伊勢神宮に祀られる天照大御神)
CIMG1614.jpg(出雲「日御碕神社・日沈宮」に祀られる天照大御神)


まず最初に、皇紀2600年について私市郎右衛門の見解ですが、はっきり言って無理が有るかも知れません。ただし全くの否定というわけでもありません。「日本書紀」の日本建国は2678年前であり、考古学では2000年かそれ以前と考えられています。皆さんは縄文時代がどれくらい続いたかご存知でしょうか?約1万5,000年前(紀元前131世紀頃)から約2,300年前(紀元前4世紀頃)なんです。その間14700年間に素晴しい国造りをしていたことは、青森の三内丸山遺跡で見て来ました。その様な国の一つとして生まれた倭国が、最後に日本を統一したとすれば、あながち皇紀2600年もありえなくはないと考えます。古代天皇が100歳生きたというのは、さすがに無理が有ると考えているわけです。さて、前出の「安本美典さん」の考えを箇条書きにするとこんな感じです。

卑弥呼は三世紀あたりに実在した日本の女王です。日本の歴史書である古事記・日本書紀にはもちろん中国名である卑弥呼は出てきません。しかし、記紀にも卑弥呼は別名つまり、日本の呼び名で登場するのではないかと考えるのは妥当です。記紀の記述から、女性で最高の地位にある古代の人物を探すと、天照大神と神功皇后くらいしかいません。しかし、神功皇后は時代が異なるというのが通説です。日本書紀の神功皇后の三韓征伐には新羅や百済が出てきますが、新羅の建国は356年。百済は346年なので卑弥呼時代よりも100年以上は後になるのです。

それでは、天照大神はどうでしょう。記紀では天照大神の時代はありえないほど太古となっています。日本書紀によると日向時代だけで179万2470年余りとなっています。しかし、天皇の在位期間を考えてみると、意外に新しいのではないかと考えることも可能です。

31代・用明天皇は585年に即位しています。40代・天武天皇は686年崩御です。つまり、31代から40代までの10代の平均在位期間は10年ほどとなります。これを適用すると神武天皇の即位は285年あたりとなり、その五代前の天照大神の時代は240年あたりになります。このような考え方をすれば、天照大神と卑弥呼の年代は重なる可能性があるわけです。また、文献的に見た記紀の天照大神と魏志倭人伝の卑弥呼には共通点が多くあります。

1、共に女性で最高の地位にあること。共に独身であること。共に巫女的な存在であること。
2、卑弥呼は日御子(ヒノミコ)の中国読みと考えられますが、天照大神の名前も太陽に関係あること。
3、天照大神は岩戸から出てくるとき鏡が重要な役割を果たしますが、卑弥呼も魏から百枚の鏡をもらっていること。
4、卑弥呼には狗奴国、天照大神には須佐之男命という宿敵がいること。
5、卑弥呼は狗奴国との争いの最中に亡くなり、天照大神は須佐之男命の乱暴に怒って天岩戸に隠れること。
6、卑弥呼が亡くなると、跡継ぎをめぐる争いが起こり千人あまりが殺され、天照大神が岩戸に隠れると、高天原や葦原中国はみんな真っ暗闇になり、悪い神が騒ぎ出すこと。
7、卑弥呼の後を継いだ台与が女王になると国中が定まり、天照大神が天岩戸から出てくるともとのように明るくなること。
8、台与が女王になると、さらに男王が立ち、共に中国の爵命を受け、また天照大神が岩戸から出てくると高皇産霊尊が登場し、共同で高天原を治めること。つまり、共に男女の王の並存が語られていること。

このように、卑弥呼とそのあとを継いだ台与という二人の女王が、ひとりの天照大神の伝説として残っていたと考えられるわけです。天岩戸の隠れる前が卑弥呼で、天岩戸から出てきたあとが台与ということになります。

天照大神の子孫である神武天皇は、その後日向を発ち東征の旅に出ます。大和の橿原で即位し、初代天皇として即位するわけです。というわけで、天照大神=卑弥呼+台与は邪馬台国九州説(東遷説)ということになります。

【反論】


1)天皇在位年数の計算が都合よすぎる。
2)卑弥呼 は本来在位していた男王の後に共立されて歴史に登場しているが、天照大神 は血統に基もとづいて、始めから女神として神話に登場している。
3)天照大神 には婿が いた筈で あるが、卑弥呼 に夫や婿は いない。
4)天照大神 には五男三女が いたと記録されているが、卑弥呼 に子息,息女が いた形跡は無い。
5)卑弥呼 の男弟は 卑弥呼 を補佐しているが、素戔男尊 は とても 天照大神 を補佐しているとは言い難い。
6)卑弥呼 の後には男王が立った後に廃立されて女王 壱与 が再度共立されているが、天照大神 の後には血統による継嗣が続いて おり、女王が共立された形跡は見当たらない。
7)卑弥呼 の後を継いだ 壱与 に当たる人物が、天照大神 の近辺では見出し にくい。

等々、確かに納得できる疑問ですね~(;^_^A、私はこの反論を跳ね返すことが出来るのか~~?

【市郎右衛門夢物語】


まず、最初に反論に対する代替え案を出す前に、私がけして「安本美典さん」のご意見に感化されて味方(賛同)しているわけでは無い事を表明させていただきます。安本さんは邪馬台国九州説を採用されていますが、私は邪馬台国移動説を提唱したいと思います。王都は移動するんです。纒向にも行きましたが、王(女王)に死が訪れると神殿(政殿)は廃棄されて移動しているようです。つまり卑弥呼ないし壱与がいる場所が邪馬台国であるという意見です。

次に、卑弥呼の呼び名は地位であり日御子(ヒノミコ)ではなく「姫巫女」の当て字ではないかと考えます。さらに卑弥呼と天照大神が同一人物である「安本説(邪馬台国は九州)」なら「古事記」の神話部分に九州が出てこないわけがありません。

26代継体天皇・継体元年(507年?)即位、50代桓武天皇・延暦25年(806年)崩御の299年間に26人の天皇が変わり、平均在位期間は約12年、継体天皇以前の25代にその三代前の邇邇芸命と二代前の天照大神を足すと30代、30×12=360ですから、継体天皇即位の507年から360を引くと147年となってしまい卑弥呼の年代と100年の誤差が出て重なるとはいえません。確かに31代・用明天皇は585年に即位と40代・天武天皇は686年崩御を採用するのは都合がよすぎる気がします。しかし欠史八代を信じて、神武天皇と崇神天皇を同一人物と考ええば、武烈天皇から天照大神まで21代、21×12=252、507-252=255となり時代が合ってきますね。

卑弥呼→男王→ 壱与の王位継承についてですが、伊邪那美→伊邪那岐→天照大神はどうでしょう。古事記における伊邪那美の足跡は出雲にたくさん有るのですが、天照大神についてはあまり無いのです。天照大神は伊邪那美が死んだ後に伊邪那岐一人(別の女性との間)が生んだことになります。さらに伊邪那美と伊邪那岐は兄妹神(姉弟でも問題ないのでは?)です。天の岩戸にお隠れになったは、死を意味すると考えます。伊邪那美の死を多いわで、ふさいだのは伊邪那岐です。新たな太陽神が天照大神(壱与)ではないでしょうか。

天の岩戸=皆既日蝕説について、近年の研究では247年248年に皆既日蝕が発生していますが、邪馬台国は3世紀ごろのお話、国の始まりは1世紀ごろという説が有力です。手掛かりとして、国立天文台の谷川清隆特別客員研究員と相場充助教が2年かけて調べたのは、その間の1~3世紀に日本付近であった皆既日食の通り道です。

「皆既日食が見られる皆既帯の場所は限られる。邪馬台国で皆既日食が見えた事はないか」という推論をもとに研究されています。推論の根拠は日本書紀です。天照大神が天の岩屋戸に隠れ、辺りが闇に包まれたという神話が描かれています。記述が具体的であることから、この描写は皆既日食を指しているという解釈があります。天照大神=卑弥呼の説を成り立つためには、岩屋戸神話は邪馬台国など文明地で見られた皆既日食に基づいているのではないか、と推論されています。

1~3世紀には58年、158年、247年、248年の4回の皆既日食があったことが計算上わかっています。問題となったのは、地球の自転でした。月の引力などの影響を受け、地球が1回転する時間は少しずつ長くなっている。このため、約2千年前に起きた日食の場所をシュミレーションするには、時刻の補正が必要でした。2人は朝鮮の歴史書「三国遺事」に出てくる「新羅地方で太陽の光が消えた」との記事に着目します。これが新羅で見えた158年の日食と特定した。そこから導いた補正の幅から、248年皆既帯は東北地方、247年の日食は日本では日没後で、畿内、九州のいずれも皆既日食が見られなかったことがわかりました。

158年の日食は、朝鮮半島から山口、愛媛で日没直前の午後7時過ぎに20秒ほど皆既になったが、これも畿内、九州は外れています。つまりつまり天照大神の天岩戸に隠れるは日蝕とは関係なく、天照大神の死亡を意味しているのではないでしょうか?

私の勝手な(素人だから言いたい放題!)考えを採用すれば、安本さんに対する反論はほぼ解決できるのではないでしょうか?

【最後に一言】


今回、2011年に米子で行われた、古代史(邪馬台国)サミットIN伯耆から題材を頂き、言いたい放題書かせていただきました。この中には邪馬台国山陰説も勿論有りました。私のような素人がプロの考えに真っ向から反対意見を述べられるのも、まだ事実が解明されていないからですし、それがまた楽しみでもあります。

米子に単身赴任したことで、とても面白い生涯学習のテーマをもらうことが出来たことに感謝するとともに、私の産まれた山陰にスポットが当たる事は素晴らしく嬉しい事ですね。

まだ取材はしてはいないのですが、島根県松江市の田和山遺跡を松江市教育委員会のページから簡単にご紹介させていただきます。風土記の丘資料館から、西へ車で10分進むと、山陰自動車道沿いに田和山遺跡が現れます。今から約2,000年前に、その威容を誇った田和山遺跡は、三重の環壕(全国に類を見ない)がぐるりと山頂を囲み、その外側に住居跡が広がるという、他に例のない構造を持つ、謎めいた弥生の環壕遺跡です。山頂に上がると、遠くは大山など『出雲国風土記』にも登場する山々を見晴らすことができ、眼下には宍道湖が広がります。まさに心洗われる風景だそうです。現在は松江市立病院が隣に立っていますが、是非出かけてみたいですね~ここが卑弥呼の神殿跡かもしれません。


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2018/05/07

神々を訪ねて『出雲大社・荒垣外摂社』を歩く!遂に最強武神『建御雷神』vol③

プロローグ『弾丸取材第一弾、最強武神・建御雷神』


勉強不足が発覚!?GWの5月3日、夜通し走り、4日に全ての出雲大社摂社をコンプリートしてきました~~(((^_^;)、このバイタリティーを何かしら他で活かせないものかとも思うのですが、そこは「好きこそものの上手なれ」なんですかね?やっぱり(笑)。

P5041634.jpg(神楽やっってました。)

しかしやっぱりGW、父の元気な顔も見なくてはと、出雲から伯耆・因幡を抜けまして、但馬にも3時間程滞在しましたので、この企画の途中の箸休めとして、実家の集落についても特集として、少し書くことが出来ればと考えています。

今日ご紹介するのは、天照最後の切り札ともいえる、最強武神「建御雷神(たけみかずち)」を祀る、「出雲大社・荒垣外摂社」『因佐神社』です。

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【今回ご紹介するのは、荒垣外摂社の一社・⑨因佐神社(いなさのかみのやしろ)です。★を付けた社はご紹介済】

P5041384.jpg(弁天島のすぐ傍、普通の神社でした。)

①★神魂伊能知奴志神社(命主社、いのちぬしのやしろ)・式内社。神産巣日神を祀る。(出雲市大社町杵築東182)

②阿須伎神社(阿式社、あじきのやしろ)・式内社。大国主の神子の阿遅鉏高日子根神を祀る。(出雲市大社町遥堪1473)

③大穴持御子神社(三歳社、みとせのやしろ)・式内社。子の事代主神・高比賣命(古事記では下照比賣命)と素戔嗚尊の孫の御年神を祀る。(出雲市大社町杵築東)

④大穴持御子玉江神社(乙見社、おとみのやしろ)・式内社。子の下照比賣命を祀る。(出雲市大社町修理免字向地920)

⑤大穴持伊那西波岐神社(いなせはぎのかみのやしろ)・式内社。天穂日命の子で、国譲りの際に事代主のもとに使者として向かった稻背脛命(いなせはぎのみこと)を主祭神とし、白兔神を配祀する。(出雲市大社町鷺浦102)

⑥上宮(かみのみや)・素戔嗚尊・八百萬神を祀る。神在祭の際、神々の会議所となる。(出雲市大社町杵築北)

⑦下宮(しものみや)・天照大御神を祀る。(出雲市大社町杵築北)

⑧出雲井社(いずもいのやしろ)・岐神(ふなどのかみ)を祀る。(出雲市大社町修理免)

⑨★因佐神社(いなさのかみのやしろ)・建御雷神を祀る。(出雲市大社町杵築3008)

⑩湊社(みなとのやしろ)・櫛八玉神を祀る。(出雲市大社町中荒木)

⑪大歳社(おおとしのやしろ)・素戔嗚尊の子の大歳神を祀る。(出雲市大社町杵築北)

⑫祓社(はらいのやしろ)・祓戸四柱神を祀る。参道大鳥居の東側にあり参拝者が前もって身心を祓い清める社。(出雲市大社町杵築東195)

⑬★野見宿禰神社(のみのすくねじんじゃ)・参道大鳥居の西側、神苑相撲場の北西にあり相撲の始祖野見宿禰命(第13代出雲國造 襲髄命(かねすねのみこと)を祀る。

【最強武神・建御雷神てどんな神様?】

CIMG2314.jpg
(いつもながらこの看板に助けられます。)

稲佐の浜のすぐ近くで建御雷神を祀る『因佐神社』をご紹介しますが、こちらは、以前もご紹介していたのですが、当時「出雲大社・荒垣外摂社」の自覚がなく一社としてのご紹介でした。出雲大社から少し離れて、稲佐の浜近くに鎮座されるのは、大国主命神を恫喝?した、遠慮からかも知れませんね。

国生みの際、火の神を生んだ伊邪那美命は、下腹部に火傷を負って命を落としてしまいます。 嘆き悲しんだ伊邪那岐命は火の神「火神軻遇突智(かぐつち)」の首を切り落とします。このとき剣から滴り落ちた血から誕生したたうちの一柱(神様は一人では無く一柱と数えます。)が建御雷神(たけみかずち)です。

建御雷神は、出雲国伊那佐の小濱に降り至って、十掬剣を抜いて逆さまに立て、その切先にあぐらをかいて座り、大国主に「この国は我が御子が治めるべきだと天照大御神は仰せである。そなたの意向はどうか」と訊ねます。大国主神は、私一人では決めかねるので、自分の前に息子の事代主神に訊ねるように答えます。

そのとき、事代主神は美保ヶ崎で漁をしていました。建御雷神が尋ねて問うと「承知した」と答え、船を踏み傾け、逆手を打って青柴垣に化え、その中に隠れてしまいます。

建御雷神が「事代主神は承知したが、他に意見を言う者はいるか」と大国主に訊ねると、大国主はもう一人の息子の建御名方神にも訊くよう答えます。その時、建御名方神がやって来て、「ここでひそひそ話すのは誰だ。それならば力競べで決めようではないか」と建御雷神の手を掴みます。すると、建御雷神はまず手をつららに変化させ、さらに剣に変化させます。逆に建御雷神が建御名方神の手を掴むと、葦の若葉を摘むように握りつぶして投げつけたので、建御名方神は逃げ出しました。

建御雷神は建御名方神を追いかけ、科野国の州羽の海(諏訪湖)まで追いつめます。建御名方神は逃げきれないと思い、「この地から出ないし、大国主神や事代主神が言った通りだ。葦原の国は神子に奉るから殺さないでくれ」と哀願します。因みに諏訪湖の周りに有る諏訪神社はことしの7月に取材予定です(期待してください)。

天照大神より天孫降臨に先駆けて、天神の御使いとして、「国譲り」の大事業を任され、使者として地上(稲佐の浜)に降り立った建御雷神は、二柱の神に実力を見せつけて、見事にこの大事業を成し遂げたのでした。

戦前は武運長久、現在は受験、進学、勝負の神様として知られています。昔から地元では親しみを込め「速玉さん」と呼ばれているそうです。祠がポツンとある他の摂社より境内は広く神社と言って過言ではありません。式内社で因佐神社と考えられている神社です。

ただし、『日本「神社」総覧』では「速玉社」となっていますが、記されている住所はこの場所です。

P5041931.jpg(海も荒れていました。建御名方が投げつけた弁天島!)

稲佐の浜には、建御雷神と争った建御名方命の投げた石といわれる弁天島があり、弁天神が祀られています。今回は風がとても強くて撮影も苦労しました。茨城県「鹿島神宮」鎮座の御祭神 でもあります。

-境内案内板より一部引用させて頂きました-

P5041387.jpg(小さいけど気持ちの良い神社でした。)
P5041389.jpg(近づいてみましょう。)

【今なを受け継がれる風習「潮(汐)汲み」】


稲佐の浜で、現代も受け継がれる儀式「潮(汐)汲み」を紹介しましょう。

大社町の住民は毎月1日の早朝に稲佐の浜で海水を汲み、出雲大社や 荒神社に参拝し、この海水を笹の葉で撒き清めます。
その後、自宅に持ち帰り、玄関・神棚・仏壇・各部屋そして家族に 撒いて 清めます。昔から代々続けられる、出雲市大社町の民間風習です(この習俗は島根半島の海岸部でもみられます)。素晴らしい風習ですね~。

【最後に一言「天照大御神」=「卑弥呼」の仮説!】

CIMG2319.jpg(交渉はいつも大変ですよね~。)
P5041390.jpg(日本書紀だと香取神社の経津主神とお二人なんですけどね。)

逆さの剣の上にあぐらをかいて座ったといわれる建御雷神ですが、これ~雷様そのものだとは思いませんか?いかずちかみ!まさに雷神様ですね。雷が落ちる条件は高さと形(尖ったもの)だそうです。

海岸という何もない所に、高さ20メートル(落雷の条件だそうです。)の木の上に剣を逆さに立てて雷を待ちます。国譲りでこんなマジックを天津神の「建御雷神によって使われたなら、国津神の「大国主」はびっくりして従うしかなかったかも知れませんね、蒲の花粉の鎮痛効果を知っていた大国主ですが、自然現象に対する知識はどうだったのでしょうか?天の岩戸が日食で、国譲りが落雷演出なら、天津神「天照大御神」は自然科学に精通していたのかも知れません。
IMG_0001 (3)
(「天照大御神」=「卑弥呼」)

卑弥呼と天照大御神が同一人物説があります。卑弥呼が活躍した時代(2世紀中ごろ)中国では「三国志」時代、諸葛孔明や劉備玄徳が活躍していた時代と同じ頃になります。奇門遁甲を駆使した孔明!「死せる孔明、生ける仲達を走らす」と「名を卑彌呼といい、鬼道に仕え、よく衆を惑わす」が同じ事象から来ているのでは?と考える私!皆さんどう思われますか?

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2018/05/02

神々を訪ねて『出雲大社・荒垣外摂社』を歩く!vol②

プロローグ『まだまだ勉強不足!ひとっ走りするぜ~弾丸取材決行』


『出雲大社本殿』のご紹介をお待ちかねのブログサークル仲間もおられるようですが、もうしばらく、お待ち下さいね!そして素晴らしい出雲大社の隅々を御堪能ください。さらにお仲間に勘違いもご指摘頂きました~ありがとうございました。こっそり訂正しておきました(笑)

23社もの摂社を持っている「出雲大社」、結構巡っていたと思っていたのですが、まだまだでした。写真撮影したはず?なのに、幾つかの社が全く影も形も見当たら無いのです。これは皆さんの期待を裏切らないように、取材に行くしかないぞ~~と考えた、私「市郎右衛門」はゴールデンウィークの4日に出雲大社へ、弾丸取材を結構することに致しました。出来る限り全ての摂社を写真に納めて帰って来るつもりです。ご期待くださいね!


(光る究極ドン・ペリニョン白(2009年)ルミナス)

さてお話は全く変わるのですが、日曜日に長女が面白い物を持って帰って来たので皆さんにご紹介します。お酒が好きな方は興味深いかもしれません。超入手困難!あの高級シャンパーニュ ドン・ペリの特別限定品、あの光るドンペリの新ヴィンテージ、まさに究極ドン・ペリニョン白(2009年)ルミナス・正規限定品の空ビンです(笑)。味は、私お酒が飲めないので、皆さんご自分で購入して味わって下さいませ(^人^)。

さて本題の『出雲大社巡り』荒垣外摂社を一社、ご紹介したいと思います。

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PB020017.jpg(神魂伊能知奴志神社・命主社)


【次にご紹介するのは、荒垣外摂一社・神魂伊能知奴志神社です。★を付けた社はご紹介済】


①★神魂伊能知奴志神社(命主社、いのちぬしのやしろ)・式内社。神産巣日神を祀る。(出雲市大社町杵築東182)

②阿須伎神社(阿式社、あじきのやしろ)・式内社。子の阿遅鉏高日子根神を祀る。(出雲市大社町遥堪1473)

③大穴持御子神社(三歳社、みとせのやしろ)・式内社。子の事代主神・高比賣命(古事記では下照比賣命)と素戔嗚尊の孫の御年神を祀る。(出雲市大社町杵築東)

④大穴持御子玉江神社(乙見社、おとみのやしろ)・式内社。子の下照比賣命を祀る。(出雲市大社町修理免字向地920)

⑤大穴持伊那西波岐神社(いなせはぎのかみのやしろ)・式内社。天穂日命の子で、国譲りの際に事代主のもとに使者として向かった稻背脛命(いなせはぎのみこと)を主祭神とし、白兔神を配祀する。(出雲市大社町鷺浦102)

⑥上宮(かみのみや)・素戔嗚尊・八百萬神を祀る。神在祭の際、神々の会議所となる。(出雲市大社町杵築北)

⑦下宮(しものみや)・天照大御神を祀る。(出雲市大社町杵築北)

⑧出雲井社(いずもいのやしろ)・岐神(ふなどのかみ)を祀る。(出雲市大社町修理免)

⑨因佐神社(いなさのかみのやしろ)・建御雷神を祀る。(出雲市大社町杵築3008)

⑩湊社(みなとのやしろ)・櫛八玉神を祀る。(出雲市大社町中荒木)

⑪大歳社(おおとしのやしろ)・素戔嗚尊の子の大歳神を祀る。(出雲市大社町杵築北)

⑫祓社(はらいのやしろ)・祓戸四柱神を祀る。参道大鳥居の東側にあり参拝者が前もって身心を祓い清める社。(出雲市大社町杵築東195)

⑬★野見宿禰神社(のみのすくねじんじゃ)・参道大鳥居の西側、神苑相撲場の北西にあり相撲の始祖野見宿禰命(第13代出雲國造 襲髄命(かねすねのみこと)を祀る。

【①神魂伊能知奴志神社(命主社、いのちぬしのやしろ)・式内社。神産巣日神を祀る。】

PB020125.jpg(国造家「北島館」)
PB020100.jpg(四脚門は重要文化財に指定されています。)
PB020056.jpg(四脚門)
PB020015.jpg
(樹齢1000年とも言われるムクの巨木)

出雲大社摂社・神魂伊能知奴志神社は出雲大社からもう一つの国造家「北島館」の前の細い参道を進んでいくと左側に有ります。樹齢1000年とも言われるムクの巨木が目印。高さ約17m、根元周り約12mもあるそうです。ところどころに木医の治療痕があり、沢山のこぶがムク木の生命力を物語り、元気な枝葉を茂らせています。お社は、小さく控えめで清楚な美しさが有ります。出雲大社前の喧騒からは少ししか離れていないのに心が洗われる様です(大社内はもちろん素晴らしいですよ。)。

御祭神は、「神皇産霊神」神皇産霊神は天地万物の根本となられ、大國主大神が危難に遭われた際には常にお護りされ国造りの大業を助成せられた神です。元旦の朝には出雲大社の大御祭に引続き國造以下 神職参向の許、厳かに祭典が斉行されます。-境内由緒書きより-

PB020022.jpg
(本殿)
PB020033.jpg(後ろからの本殿なかなかの風格!)
PB020029.jpg(真名井遺跡より銅戈と硬玉の勾玉出土。)

本殿の裏手に『真名井遺跡』。銅戈と硬玉の勾玉が発見された場所だそうです。

PB020134.jpg
(「山王社」出雲はどこにでも神様がおられます。)

直ぐ側の国造家「北島館」駐車場の奥を行くと、階段が続いているのがみえます。階段の上に小さなお社が有りました。名前は「山王社」です。こちらは出雲大社の摂社ではありませんが、この「山王社」は、昔から北島国造館の鬼門を護るため、大地の神様をお祀りしているのだそうです。ちょっと気に成ったので写真に収めていました。

さらに少し東へ向かうと「真名井の清水(まないのしみず)」があります。真名井とは、「清らかで清浄な清水が湧き出る場所(井戸)」と言う意味です。天照大御神と須佐之男命との間で交わされた「誓約(うけい)」の際に、互いの持ち寄った所持品から神が生まれたと伝えられています。この神産みの際、なんと!高天原にある井戸水「天の真名井の水」を、まず先に互いの所持品に吹きかけ、その後に神々を誕生させたと伝えられています。

以前米子市の「真名井」をご紹介しましたが、実は「真名井」と名の付く場所や地名は日本国内の至る場所で見かけることができます。一説によると、これらの真名井は高天原の「天の真名井の水」を水種としたのが起源であると伝えられており、すべて高天原の井戸に繋がっているとも云われています。
PB020135.jpg(真名井の清水・まないのしみず)
PB020142.jpg
(こんこんと湧き出る清水)
PB020145.jpg(もちろん飲んでみました~笑)

【神産巣日神ってどんな神様?】


日本神話の神カミムスビ(カミムスヒ、カムムスビ)は、『古事記』では神産巣日神、『日本書紀』では神皇産霊尊、『出雲国風土記』では神魂命と記載されています。「産霊」は生産・生成を意味する言葉で、高皇産霊神とともに「創造」を神格化した神であり、高皇産霊神と対になって男女の「むすび」を象徴する神でもあると考えられています。

『古事記』では、大国主と国造りに励んだ少彦名神(すくなびこな)は神産巣日神の子とされています。 また、先代旧事本紀においては、高皇産霊神の子であるとも言われ、神産巣日神=高皇産霊神のような感じも持ちますが性格が違うようです。神産巣日神は天津神でありながら「大国主」を救う神としての性格が強いようです。一方高皇産霊神はというと国譲りの時には天照の参謀的性格で出雲に圧力をかける神として描かえています。

神産巣日神(かみむすび)は天地開闢の時、天之御中主神(あめのみなかぬし)・高皇産霊神(たかみむすび)の次に高天原に出現し、造化の三神の一とされます。冒頭の記述では性のない独神とされていますが、 大国主が兄神らによって殺されたとき、大国主の母が神産巣日に願い出て、遣わされた蚶貝姫と蛤貝姫が「母の乳汁」を塗って治癒したことから女神であるともされます。

『古事記』で語られる神産巣日は高天原に座して出雲系の神々を援助する祖神的存在であり、他の神々からは「御祖(みおや)」と呼ばれています。須佐之男(すさのお)が大宜都比売(おおげつひめ)を殺したとき、その死体から五穀が生まれたが、神殺しによって生じた種は穢れているためにそのままでは栽培には使えませんでした。神産巣日は須佐之男に穢れた種を持ってこさせて、栽培に適した種に変え地上に下したとされています。

残念なことに『日本書紀』では出雲系の神々が語られないため(ビックリですよね~)、神産巣日神は高皇産霊神の対偶神として存在するのみで特にエピソードはありません。

『出雲国風土記』では島根半島の地名起源譚に登場しています。土地神たちの御祖として「神魂命」の名が現れます。「支(枳)佐加比売命(きさかひめのみこと)」・「宇武賀比売命(うむかひめのみこと)」など土地神たちの多くは女性神であり、母系社会の系譜上の母神として存在したと考えられています。

【最後に一言】


神様の名前が複雑で分かりずらいのをお許しください。更に「記紀神話」でも同じ神様だと思われるのにも関わらず漢字が違いますし、「出雲風土記」もまたしかりです。出来るだけともうのですがなかなかです。私としては出雲神が多く出て来る「古事記」の記述をできるだけ取り入れたいのですが、出雲以外の土地ではほとんどが「日本書紀」の漢字を採用して御由緒書を作成しています。基本的にデータはWikipediaや寺社仏閣の御由緒書を参考にする事が多いので、同じ神様の漢字表記が違うこともあります。

その分、テーマに即した場所(現地)を実際に訪れ、その対象を直接観察し、関係者には聞き取り調査を行い、そして現地での史料・資料を検分を行うなど、客観的な成果を挙げるための調査技法であるフィールドワークを今後も重要視したいと思っておりますのでよろしく願いたします。

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2018/05/01

神々を訪ねて『出雲大社・荒垣外摂社』を歩く!vol①

プロローグ、文化財を守れ!


『出雲大社本殿』のご紹介と行きたいのですが、やはりそこは最後に持って行きたいので、周りから少しずつご紹介しましょう。

DSC_0336.jpg(以前にも登場させました。まわしを締めた兎ちゃん。)


その前に、歴史好きの私には残念なニュースが有りましたので、ご紹介すると共に文化財の保護をもう一度皆さんで考えて頂きたいと思います。

【鎌倉大仏にガム100箇所以上付着】


神奈川県鎌倉市の高徳院にある鎌倉大仏(阿弥陀如来坐像・国宝)の健康診断として2016年1月から3月に実施した大規模調査の結果がこのほど市内でのシンポジウムで発表されました。
専門家らは深刻な劣化はなく状態は良好だったが、体内だけでも100箇所以上のガムがこびりついていた事を明らかにしました。

体内に入って大仏に直接触れられるため一部の拝観者が付着させたとみられます。大仏を調べた国立西洋美術館学芸課の沖直未保存修復室長によると石のように硬くなっていて手術用のメスを使って削り取らなければ成らなかった。更に油性ペンの落書きもあったといいます。大仏は高さ11.3 M の銅製で、鎌倉時代の1252年頃に建築が始まり完成時期は不明、今回は1959年から61年の昭和の大修理依頼半世紀ぶりの大掛かりな調査でした。

高徳院の佐藤孝雄住職は「胎内に触るのを禁止したほうが良いとの意見はあるが、信仰の対象でもあるので過酷な環境に座している、大仏様の温度を手のひらで感じてほしいとも思います」と語っておられます。国宝ですよ!皆さん考えましょうねぇ。因みに奈良の大仏様は大日如来様です。

さて本題の『出雲大社巡り』ですが先ずは荒垣外摂社をご紹介したいと思います。

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DSC_0335.jpg(昭和天皇陛下のお心を歌の中から感じ、御退位まであと一年と迫った、今上陛下の思いも心に刻みたいですね~f(^_^;)
DSC_0344.jpg(この社は荒垣外摂社の一つです。)

【出雲大社の摂社・末社】

CIMG9765.jpg
(大社を西から見ると左側が境内となります。)

出雲大社には、8つの境内摂社、3つの境内末社、9つの境外摂社、3つの境外末社、合わせて23の摂末社があります。

出雲大社では、本殿のまわりを玉垣、廻廊内を瑞垣、境内を荒垣の三重の垣根に厳重に守護されています。

摂末社を荒垣を境として荒垣内摂末社・荒垣外摂末社といいます。因みに「荒垣」とは本殿鎮座地の四囲にめぐらした石垣と塀で、大社ではこの内側をいわゆる「境内」としています。取材ソースの関係で、全てをご紹介は出来ないと思いますが、出来るだけご紹介していきたいと思います。今回ご紹介できなかった、摂社・末社は次回取材した時にご紹介させて頂きます。

【最初にご紹介するのは、荒垣外摂社です。】


荒垣外には、9つの境外摂社、3つの境外末社が有るのですが、今日はの全ての概略と⑬野見宿禰神社をご紹介させて頂きます。

CIMG9773.jpg(素鵞川の左に摂社があります。)
DSC_0328.jpg(素鵞川左の野見宿禰神社辺りには、地位の高い神官の家があったようですね。社家住宅というそうです。)


①神魂伊能知奴志神社(命主社、いのちぬしのやしろ)・式内社。神産巣日神を祀る。(出雲市大社町杵築東182)

②阿須伎神社(阿式社、あじきのやしろ)・式内社。子の阿遅鉏高日子根神を祀る。(出雲市大社町遥堪1473)

③大穴持御子神社(三歳社、みとせのやしろ)・式内社。子の事代主神・高比賣命(古事記では下照比賣命)と素戔嗚尊の孫の御年神を祀る。(出雲市大社町杵築東)

④大穴持御子玉江神社(乙見社、おとみのやしろ)・式内社。子の下照比賣命を祀る。(出雲市大社町修理免字向地920)

⑤大穴持伊那西波岐神社(いなせはぎのかみのやしろ)・式内社。天穂日命の子で、国譲りの際に事代主のもとに使者として向かった稻背脛命(いなせはぎのみこと)を主祭神とし、白兔神を配祀する。(出雲市大社町鷺浦102)

⑥上宮(かみのみや)・素戔嗚尊・八百萬神を祀る。神在祭の際、神々の会議所となる。(出雲市大社町杵築北)

⑦下宮(しものみや)・天照大御神を祀る。(出雲市大社町杵築北)

⑧出雲井社(いずもいのやしろ)・岐神(ふなどのかみ)を祀る。(出雲市大社町修理免)

⑨因佐神社(いなさのかみのやしろ)・建御雷神を祀る。(出雲市大社町杵築3008)

⑩湊社(みなとのやしろ)・櫛八玉神を祀る。(出雲市大社町中荒木)

⑪大歳社(おおとしのやしろ)・素戔嗚尊の子の大歳神を祀る。(出雲市大社町杵築北)

⑫祓社(はらいのやしろ)・祓戸四柱神を祀る。参道大鳥居の東側にあり参拝者が前もって身心を祓い清める社。(出雲市大社町杵築東195)

⑬野見宿禰神社(のみのすくねじんじゃ)・参道大鳥居の西側、神苑相撲場の北西にあり相撲の始祖野見宿禰命(第13代出雲國造 襲髄命(かねすねのみこと)を祀る。


【野見宿禰神社(のみのすくねじんじゃ)・相撲の始祖野見宿禰命を祀る】

DSC_0322.jpg(もちろん土俵がありました。)
DSC_0351.jpg(文武両道の神様ですね。)

野見宿禰のお話は私の住まいする兵庫県にも痕跡を残していますので、兵庫の昔話からお話をしたいと思います。今から2000年近く昔の話です(2000年が正確な年代を表しているわけではありません)。そのころ、出雲国(現在の島根県東部で現在の出雲市とは違います)に、野見宿禰(のみのすくね)という人がいました。野見宿禰は、たいへん力の強い人でしたが、学問にも優れた才能に恵まれた人でもありました。

当時、大和国(現在の奈良県)には、当麻蹴速(たいまのけはや)というこれもたいへん強い人が下りました。相撲(すもう)をとると、蹴速にかなう人はいません。「倭国でおれにかなうやつはいないだろう。だれか蹴速と相撲がとれる者はいないのか。」蹴速はそう言っていつもじまんしていました。そのころ国をおさめていた垂仁天皇(すいにんてんのう)がたずねますと、家来のひとりが 「出雲国に、野見宿禰という強い人がいるそうです。」と答えました。

そこで天皇は、野見宿禰を大和国に招いて、当麻蹴速と相撲をとらせることにしました。二人とも力いっぱい戦い、宿禰は、みごとに蹴速をたおしました。垂仁天皇はたいへん喜び、野見宿禰は領地をもらって、天皇につかえることになりました。

そのころまでは、大王(天皇)のような指導者が亡くなると古墳(大きな墓)を造り、まわりに家来たちを生きたままでうめる風習がありました。宿禰は、「いくらの王墓地鎮のためでも、人を生きうめにして殺すのはよくありません。」と言って、そのかわりに粘土で作った埴輪をおくように、大王に進言しました。大王はその意見を取り入れて、それ以後は古墳を造るときに、人や家や馬の形をした埴輪をならべるようになったといわれています。古墳のまわりが埴輪で飾られているのを、知っている方も多いでしょう。

さて、こうして大王に仕えた宿禰ですが、やがて故郷の出雲へ帰ることになりました。ところがその途中、播磨国(はりまのくに)まで来たところで、重い病気にかかってしまいます。土地の人たちは、手厚く看病しましたがそのかいもなく、宿禰は亡くなってしまいました。

宿禰が立派な人であることをよく知っていた人々は、とても悲しみました。揖保川(いぼがわ)の河原から山の上まで、村人たちが一列にならんで、手から手へ、石をわたして運び、宿禰のために立派な墓を造りました。野原にたくさんの人が立ちならんで働いたので、その場所は「立野(たちの)」と呼ばれ、それが現在の「たつの(龍野・現在は龍野市)」のはじまりだということです。その後野見宿禰の子孫は、はにわや土器をつくる「土師氏(はじし)」としてかつやくしました。

―兵庫歴史ステーション「龍野の始まり」を参考にさせていただきました。―

ちなみに、揖保川(いぼがわ)は、兵庫県の南西部を流れる一級水系の本流です。加古川・市川・ 夢前川・千種川と並び播磨五川と呼ばれている。 兵庫県宍粟市の藤無山(標高1,139m)に源を発し南へ流れ。たつの市を貫流し、姫路市余部区付近で中川を西に分け、三角州を形成し。姫路市網干区で播磨灘に流れ込んでいます。

野見宿禰の墓は兵庫県龍野市北龍野の鶏籠山奥の的場山中腹に、墓とされる野見宿禰神社があります。野見宿禰は出雲国造家(千家氏・北島氏)では、第13世出雲国造(襲髄命)ということになっています。この野見宿禰墓は横穴式石室を持つ径約二十米の円墳で、この付近では規模ももっとも大きくかつ保存状態も良好で、これが野見宿禰の墓に比定されたのは納得できます。明治時代に剣や曲玉などが出土したことも有って、あたら功臣の墳墓が荒廃しているのを嘆いた研究者が、出雲大社の千家尊福男爵に照会し、かつ諸方有志の助成賛同を得て、墳墓を修理し山麓に一祠を建立し、神社を創立することに成ったようです。

DSC_0346.jpg
(野見宿禰神社)

【最後に一言は相撲と神事】


DSC_0341.jpg(相撲興行が行われていましたが、横綱一人いなくなってしまいましたね。涙)

近頃、大相撲協会が揺れています。貴乃花親方のやろうとしていることは、相撲の完全スポーツ化ななのかもしれません。相撲には三つの側面が有ると思います。一つは神事、また一つは武術そしてスポーツの一面もあります。それらを一つのくくりでまとめようとするのには無理が有ると思います。土俵に女性が上がる事も意見が分かれるようです。スポーツなら当然その道は開かれるべきでしょう。武術ならば、階級を分けて男女別の試合が組まれるべきです。最後の神事ですがこれは難しいですね~。ちなみに巫女さんは神官ではないそうです。福岡県宗像市に属する沖ノ島の沖津宮(おきつぐう)に女性を入れるのか?どうですか皆さんはどのようにお考えでしょう。

歴史って本当に素敵ですよね~!
今後もランキングにはこだわって良い記事をUPしたいと思います。はげみになりますので宜しくお願い致します(^人^)
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