2018年04月 - 「高天原の縁側日記」
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2018/04/25

『出雲大社創建』「古事記神話」の記載は侵略か?恫喝か?それとも交渉?②

プロローグ、2020年放送の大河ドラマは明智光秀!「麒麟がくる」


全く関係ないお話なのですが、2020年1月から放送予定のNHK大河ドラマ第59作目が「麒麟がくる」の名前で明智光秀を取り上げる事が決まりました。主役は「新ゴジラ」を日本アカデミー賞作品賞に導いた長谷川博己さんです。

私は常々、「歴史は勝者がつくる」と考えて、悪役に追いやられている人物に光を当てたいと考えておりますので、正に明智光秀主役の大河ドラマは大歓迎です。因みに私、ブログラムの明智光秀ランキングは断トツの一位をキープしているので(ちょっと自慢です。)、こちらも嬉しいですね。


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(インドの神様と交じって大黒様とも呼ばれています。)

さて、本題の出雲大社ですが、今日は国譲りクライマックスのお話です。天照の使い建御雷と大国主の息子達、事代主・建御名方の二人が登場します。

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明智光秀程に悪役に仕立てられてはいないところが、大国主が天皇系統にとっても重要で怖れられるべき人物(神様)だった事がわかりますね。さてお話は前回の続き、第三の使い「天若日子」の葬儀から始まります。

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(神社では神様が、お通りになる真ん中は歩きませんが、出雲大社では松の根保護の為、中心は通れない事に成っています。やさしいですね。)
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(大黒様の歌)

【下照比賣と阿遅志貴高日子根】


DSC_0130.jpg(本当にここ数年の間に兎がいっぱいに成りました。)

天若日子の死を嘆く妻下照比賣の泣き声を、天にいる天若日子の父天津國玉神や母が聞き、悲しんで下界に降りて喪屋をつくって弔いを行いました。阿遅志貴高日子根神(あじしきたかひこね・下照比賣の同腹兄で、天若日子の義兄に成ります。)が弔いに訪れた時、その姿が天若日子にとても良く似ていたため、天若日子の父と母が「我が子は死なないで、生きていてくれた」と勘違いして阿遅志貴高日子根神に抱きついてしまいます。すると阿遅志貴高日子根神は「穢らわしい!死人と見間違えるな~」と激怒して、大剣で喪屋を切り倒し、蹴り飛ばして壊してしまいました。

仲が良かった義弟に、間違えられた位でこんなにも怒らなくて良さそうなものですが、当時死は穢れたものと思われていたのかも知れませんね。この喪屋が美濃国(岐阜県)の喪山であるといわれています。岐阜県美濃市にある「古事伝承地」、「大矢田の喪山」のほか、「市内豊神雉射田碑」などが候補地とされていますが、出雲と美濃はちょっと距離が遠すぎる様な気がしますね。

さて阿遅志貴高日子根神の妹の高比賣命は、兄の為に歌を詠んで、その名前を皆に知らせたと古事記に書かれています。

【最後の使者・建御雷登場】


天照大御神が八百万の神々に今度はどの神を派遣すべきかと問うと、思金神と八百万の神々は、「稜威雄走神(いつのおはばり)か、その子の建御雷神(たけみかづち)を遣わすべき」と答えます。天之尾羽張(あめのおはばり)は「建御雷神を遣わすべき」と答えたので、建御雷神に天鳥船神(あめのとりふね)を副えて葦原中国に派遣しました。

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(稲佐の浜の屏風岩は弁天島だと思っていましたが、ここが屛風岩です。)

建御雷神と天鳥船神は、出雲国伊那佐の小濱に降り至って、十掬剣(とつかのつるぎ・諏佐乃男が八又の大蛇を退職したのも十掬剣でしたが同じ物ではないと思います。手の握りが、十握りの長さの剣の意味です。)を抜いて逆さまに立て、その切先にあぐらをかいて座り(さすがに神様です。)、大国主に「この国は我が御子が治めるべきだと天照大御神は仰せである。そなたの意向はどうか」と訊ねます。大国主神は、私一人では決めかねるので、自分の前に息子の事代主神(ことしろぬし)に訊ねるように答えます。

そのとき、事代主神は美保ヶ崎(島根半島の東端)で漁をしていました。建御雷神が尋ねて問うと「承知した」と答え、船を踏み傾け、逆手を打って青柴垣に化え、その中に隠れてしまいます。この逆手を打つ行為は承知したの意味では無いかも知れません。むしろ呪の様なものだったかも知れません。「天の逆手」といわれ、呪術の一とされます。普通とは違う方法で打つ柏手(かしわで)。実際にどのような打ち方をしたのか不明です。納得出来なかった事代主神の悔しさを表しているような気がしますね。

IMG_5765.jpg(事代主神が祀られる美保神社)
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(青柴垣神事の一場面ですが、うなだれる事代主に見えませんか?)


【弟建御名方の服従】


建御雷神が「事代主神は承知したが、他に意見を言う者はいるか」と大国主に訊ねると、大国主はもう一人の息子の建御名方神(たけみなかた)にも訊くよう答えます。その時、建御名方神がやって来て、「ここでひそひそ話すのは誰だ。それならば力競べで決めようではないか」と建御雷神の手を掴みます。すると、建御雷神は手をつららに変化させ、さらに剣に変化させます。逆に建御雷神が建御名方神の手を掴むと、葦の若葉を摘むように握りつぶして投げつけたので、建御名方神は逃げ出しました。

建御雷神は建御名方神を追いかけ、科野国の州羽の海(諏訪湖)まで追いつめます(建御名方神は越の沼河比売のこどもとされるので、諏訪湖は納得できますね)。建御名方神は逃げきれないと思い、「この地から出ないし、大国主神や事代主神が言った通りだ。葦原の国は神子に奉るから殺さないでくれ」と哀願します。因みに諏訪湖の周りに有る諏訪神社はことしの7月に取材予定です(早く目を治さねば!)。

この神話は諏訪にも伝わっていますが、逃走中に現在の生島足島神社(長野県上田市下之郷、諏訪神社より古い土着の神様の様です。)に立ち寄ったり、諏訪に入ろうとして土着の洩矢神(もりやのかみ、もりやしん、もれやしんは、長野県諏訪地方を中心に信仰を集めた土着神)と戦いこれを従えています。建御雷神に破れて逃げる途中にも関わらず、土着の神を従える力の有る力強い建御名方神を、軽く一捻りする建御雷神の凄さは恐ろしいばかりですね、このお話は古事記には見られない話で、諏訪地方に残るものです。

因みに、建御雷神は茨城県鹿嶋市に有る、鹿島神宮に祀られています。古事記にでは、天鳥船神は同行しますが、基本一人です。日本書紀では、千葉県香取市の香取神宮に祀られる、経津主神(フツヌシ)と二人で国譲りの交渉に当たった事になっています。

【諦めの大国主・国譲りそして大社建築!】


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(出雲には出雲型と呼ばれる素敵な狛犬が有るのですが、出雲大社に狛犬はいません。何故でしょうね?こちらは私が一番素敵と太鼓判の真名井神社の狛犬です。)

建御雷神は出雲に戻り、大国主神に再度訊ねます。大国主神は「二人の息子が天津神に従うのなら、私もこの国を天津神に差し上げましょう。その代わり、私の住む所として、天の御子が住むのと同じくらい大きな宮殿を建ててほしい。私の百八十柱(多いの意味です。)の子神たちは、事代主神に従って天津神に背かないだろう(事代主神に従ってとの言葉が気に成りますね、何故自負では無いのでしょう。死を覚悟したか、捕虜として連れて行かれたのかもしれません。)」と話しました。大国主神は出雲国の多藝志(たぎし)の小濱に宮殿を建てて、たくさんの料理を奉ったとされます。建御雷神は葦原中国平定をなし終え、高天原に復命しました。

DSC_0248.jpg(出雲大社の建設が始まります。)


【最後に一言】


さて皆さんどのように感じられましたか?大国主はそれなりに、外交を駆使して引き延ばし作戦を使い、頑張ったとおもいませんか?時間稼ぎの間に同盟国にも使いを送りどうにか出雲を守ろうとしたのではないでしょうか?当時としては、日本史上最大の建造物を造らせ、天皇の歴史の神話部分に多くの出雲のページを割かせる事にも成功しています。死して尚天皇家に恐怖心を植え付ける程に、素晴らしい王様だったと考えるのは私だけではないはずです。
DSC_0040.jpg(これですよね~笑、神楽殿の大しめ縄)

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2018/04/22

『出雲大社創建』「古事記神話」の記載は侵略か?恫喝か?それとも交渉?①

今回は、出雲大社神代創建のお話をしたいと思います。コメントでも頂いたのですが、一番数多くお詣りしている神社なのに、よく知らなかったとの意見も頂きました。(笑)

私はたぶん、実家の村社「井田神社」(こどもの頃からカブトムシを採取するために夏休み毎日通っていました。)、初詣は大体ここに訪れる但馬一宮の「出石神社」(新羅渡来の天日鉾をお祀りする。)に次いでお詣りの数が多いのが『出雲大社』だと思います。

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(兎たちは何をお祈りしてるのかな?)

鳥取県の最西部、米子市に単身赴任していて、すぐ近くの島根県に神跡が多い事を知り、一つ一つ訪ねるようになったのが要因です。出雲国風土記や古事記(日本書紀)の神話等も、どんどんご紹介したいと思います。

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(出雲大社裏側からお祈りする二兎)

【出雲大社は何故造られたの?「国譲りか葦原の中国平定か?」】

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(出雲の名前の始まり、巌藻掛け)
P8111101.jpg(チラッと見覚えのある?大しめ縄)

天照大御神ら高天原にいた神々(天津神)は、「葦原中国を統治すべきは、天津神、とりわけ天照大御神の子孫であるべきだ」と考え、神の遣いを出雲に送りました。大国主神の子である事代主神(ことしろぬし)・建御名方神(たけみなかた)が天津神に降ると、大国主神も自身の宮殿建設と引き換えに国を譲る事になります。その過程を順番にお話していきましょう。

『第一の使者・天忍穂耳(誓約で生まれた天照の長男)』

天照大御神は、「葦原中国は私の子の正勝吾勝勝速日天忍穂耳命(あめのおしほみみ)が治めるべき国だ」と命に天降りを命じたが、命は天の浮橋から下界を覗き、「葦原中国は大変騒がしく手に負えない」と高天原の天照大御神に報告しました。この「大変騒がしく」が意味するものは?面白いですね~。魏史倭人伝の倭騒乱かもなんて考えちゃいますし、神話なら越の八又大蛇退治だったりして。

『第二の使者・天穂日命(誓約で生まれた天照の次男)』

高木神(高御産巣日神・たかみむすび)と天照大御神は天の安の河の河原に八百万の神々を集め、どの神を葦原中国に派遣すべきか尋ねます。思金神(おもいかね)と八百万の神が相談して「天菩比命(天穂日命・あめのほひ)を大国主神の元に派遣するのが良い」という結論になりました。高木神と天照大御神は天菩比命に大国主の元へ行くよう命じました。しかし、天菩比命は大国主の家来となり、三年たっても高天原に戻りませんでした。天穂日命は、出雲国造(いずものくにのみやつこ・千家家や北島家)らの祖神。天菩比神とも呼ばれます。

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(こちらはもう一つの国造、北島家です。)

『第三の使者・天若日子』

高木神と天照大御神が八百万の神々に今度はどの神を派遣すべきかと問うと、八百万の神々と思金神が相談して「天若日子(あめのわかひこ)を遣わすべきです」と答えます。そこで、天若日子に天之麻古弓(あめのまかこゆみ)と天之波波矢(あめのははや)と与えて葦原中国に遣わしました。しかし、天若日子は大国主の娘の下照比賣(したてるひめ・宗像三姉妹の市杵島姫命の娘)と結婚し、自分が葦原中国の王になろうとして八年たっても高天原に戻りませんでした。

天照大御神と高木神がまた八百万の神々に、天若日子が戻らないので、いずれの神を使わして理由を訊ねるべきかと問うと、八百万の神々と思金神は「雉(きぎし)の鳴女(なきめ)を遣わすべき」と答えたので、天つ神は、鳴女に、葦原中国の荒ぶる神どもを平定せよと言ったのに、何故八年間も帰らないのかを、天若日子に聞くように命令します。鳴女が天より下って、天若日子の家の木にとまり理由を問うと、天佐具賣(あまのさぐめ「あまのじゃくの原型だともいわれています。」)が「この鳥は鳴き声が不吉だから射殺してしまえ(因みに、雉はケーンって鳴きますけど、音に不吉な感じ無いですよね、まさか〈いけーん〉じゃないよね、笑)」と天若日子をそそのかします。そこで彼は高木神から与えられた天之麻古弓と天之波波矢で鳴女の胸を射抜き、その矢は高天原の高木神の所まで飛んでゆきました。

高木神は血が付いていたその矢を、天若日子に与えた天之波波矢であると諸神に示して、「天若日子の勅(みことのり)に別状無くて、悪い神を射た矢が飛んで来たのなら、この矢は天若日子に当たるな。もし天若日子に邪心あれば、この矢に当たれ」と祈り、天之波波矢を下界に投げ返しました。矢は天若日子の胸を射抜き、天若日子は死んでしまいました。更に鳴女も高天原へ帰る事は有りませんでした。

この後、天若日子の葬儀や真打ちの建御雷が登場しますが長くなりますので、次回のお楽しみにしてください。

IMG_6115.jpg(真打ちの建御雷登場の舞台、稲佐の浜・弁天島)

【出雲大社は現実には何時造られたのか?】

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(出雲大社の中はこんな配置です。)
IMG_6117.jpg(勢溜の鳥居・平成の大遷宮時、次は60年後!)
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(新ためて、きれいな神社です。)

出雲大社の創建については、記紀の日本神話などにその伝承が語られています。以下その主なものをご紹介しましょう。

先ずは神話のお話、大国主神は国譲りに応じる条件として「我が住処を、皇孫の住処の様に太く深い柱で、千木が空高くまで届く立派な宮を造っていただければ、そこに隠れておりましょう」と述べ、これに従って出雲の「多芸志(たぎし)の浜」に「天之御舎(あめのみあらか)」を造くらせました。『古事記』より。「多芸志の浜」は現在の出雲大社に近い、稲佐の浜では無いようです。縄文海進の影響も有って現在の宍道湖と外海は繋がっていました。そこに斐伊川が流れ込む形です。「多芸志の浜」に「天之御舎」が出雲大社の原型か天津神の饗応用に造られた建物なのか、原文からは分かりにくいです(私の理解力ではですよf(^_^;)。

DSC_0052.jpg(強烈なパワースポット・裏山、八雲山)

高皇産霊尊は国譲りに応じた大己貴命に、「汝の住処となる「天日隅宮(あめのひすみのみや)」を、千尋もある縄を使い、柱を高く太く、板を厚く広くして造り、天穂日命に祀らせよう」と述べた。(『日本書紀』)

所造天下大神(大国主神)の宮を奉る為、皇神らが集って宮を築いた。(『出雲国風土記』出雲郡杵築郷)

神魂命が「天日栖宮(あめのひすみのみや)」を高天原の宮の尺度をもって、所造天下大神の宮として造れ」と述べた。(『出雲国風土記』楯縫郡)

崇神天皇60年7月、天皇が「武日照命『日本書紀』・建比良鳥命『古事記』、(天穂日命の子)が天から持って来た神宝が出雲大社に納められているから、それを見たい」と言って献上を命じ、武諸隅(タケモロスミ)を遣わしたところ、飯入根(いいいりね)が、当時の当主で兄の出雲振根に無断で出雲の神宝を献上。出雲振根は飯入根を謀殺しますが、本人は朝廷に誅殺されています。(『日本書紀』)崇神天皇時代にすでに出雲大社が存在していた事が書かれています。

垂仁天皇の皇子本牟智和気(ほむちわけ)は生まれながらに唖(おし、おうし・言語障害の一種。発話に障害があり、しゃべることができないこと。この語は現代では発話障害者に配慮して余り用いられません。)であったが、占いによってそれは出雲の大神の祟りであることが分かり、曙立王と菟上王を連れて出雲に遣わして大神を拝ませると、本牟智和気はしゃべられるようになった。奏上をうけた天皇は大変喜び、菟上王を再び出雲に遣わして、「神宮」を造らせました(『古事記』)。垂仁天皇の父親、崇神天皇は欠史八代を除き倭に最初に政権を作った天皇ともいわれ、神武天皇と同一視される天皇でも有ることから。垂仁天皇が造らせた「神宮」が最初(もしくは崇神天皇時代の物を更に改築し神社機能を持ち得た?)の出雲大社かも知れませんね。

659年(斉明天皇5年)、出雲国造に命じて「神之宮」を修造させたとあります。(『日本書紀』)修造つまり改築ですからこちらが二度目に成りますね。出雲大社の社伝においては、垂仁天皇の時が第1回、斉明天皇の時が第2回の造営とされています。

古事記では「天之御舎(あめのみあらか)」、日本書紀では「天日隅宮(あめのひすみのみや)」、出雲風土記には「天日栖宮(あめのひすのみや)」とそれぞれ表記されています。伝承の内容や大社の呼び名は様々ですが、共通して言えることは、天津神(または天皇)の命令によって、国津神である大国主神の宮が建てられたということであり、その創建が単なる在地の信仰によるものではなく、古代における国家的な事業として行われたものであることがうかがえます。

【最後の一言】

国譲りはただ出雲の国を天津神に譲り渡したという側面だけなのか?私は、大王(天皇)の地位も渡したのではないかと考えています。天皇の作らせた大和の歴史中に日本神話の半分以上といっても良い程に出雲が記載されている理由を推測すると、ほかにどんな答えが見つかるでしょうか?大国主、正に「大きな国の主」の地位です。大国主に多くの別名が有る事も、多くの妻が出てくるのも、大国主が一人の名前ではなく、地位だと考えれば納得がゆくのではないでしょうか?



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2018/04/17

『出雲大社』を本当に紹介してしまってよいですか?

30000アクセス突破記念・出雲神仏霊場満願記念(といってもかなり前に満願していたのですが)!体の事も有りまして、これまでの取材では不足な部分も有ると思いますが、取材を埋もられさせない為にもこの辺で冒険してみようと考え、今回出雲神仏霊場第一番『出雲大社』をご紹介することにしました。もちろん、一回で終わるはずもありませんし、摂社等も含めるとかなりの連作に成るかも知れません。

出雲の国は「神々の国・神話の国」として良く知られています。その中心に有りますのが出雲国風土記に「所造天下大神(あめのしたつくらししおおかみ)」と記載され、縁結びの大神、笑顔の大国様と慕われる「大国主大神(おおくにぬしのおおかみ)」をお祭りする『出雲大社』です。

DSC_0132.jpg(兎はシンボルに成っていますね。)

まずは、その概要から説明して行きますが最初に驚くのは、創建が神代(じんだい・かみよ)とされる事ですか?ダーウィンの進化論を全く無視したこの神社は、日本一古い神社の一つといえます。因みに、伊弉諾が座した場所といわれる兵庫県淡路島の「伊弉諾神宮」や国譲り前後という物語の考え方からすると「諏訪神社」の方が古い事に成りますが、何分神代の事ですからね(笑)。

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【説明が本当に要りますか?『出雲大社』ってどんな神社】

PB020006.jpg(最初の大鳥居奥に二番鳥居も見えています。)

出雲大社(いずもおおやしろ、正仮名遣いでは「いづもおほやしろ」・いずもたいしゃ)は、島根県出雲市にある神社です。式内社(名神大)出雲国一宮で、旧社格は官幣大社。現在は神社本庁包括に属する別表神社、宗教法人出雲大社教の宗祠です。

所在地:島根県出雲市大社町杵築東195
主祭神:大国主大神
社格等:式内社(名神大)出雲国一宮(出雲国にはもうひとつの一宮「熊野大社」が松江市に有ります)・旧官幣大社・勅祭社・別表神社

創建は神代とされる本殿の様式は大社造で、別名「杵築大社」と呼ばれています。出雲国神仏霊場一番札所!御本殿は「天下無双の大廈(たいか・りっぱな構えの建物)」と称えられています。平成12年に境内から巨木3本の束ね柱が出土し、古代伝承の地上48mといわれる壮大な空中神殿の様子が明らかに成っています。

DSC_0053.jpg(巨大な空中神殿がここに立っていました。)

古来、一般には「神宮」と言えば伊勢神宮、「大社」と言えば「出雲大社」の意味で、現存最古の全国神社帳所載の「延喜式(えんぎしき)」には唯一「大社」と称号されています。御祭神大国主大神は「国中第一の霊神」と称えられ、素戔烏尊(すさのおのみこと)の神裔(しんえい)として大己貴神(おおなむちのかみ)をはじめ多くの御神名で敬仰されています。

【出雲大社の名称】

古代より杵築大社(きずきたいしゃ、きずきのおおやしろ)と呼ばれていましたが、1871年(明治4年)に出雲大社と改称しています。正式名称は出雲大社サイトには「いづもおおやしろ」、出雲大社東京分祠サイトには「いずもおおやしろ」とあるようです(前者は新旧仮名遣いが混在、後者は新仮名遣い)。一般的には「いづもたいしゃ」と読まれ、複数の辞書・事典でも読みがなは「いずもたいしゃ」となっています(島根県民は「づ」を当たり前に使われているようです)。

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(大祭礼の期間です。まあしょっちゅう出かけていますのでね)

『色々な社名でのご紹介』

出雲石(石同)之曽宮(古事記)
天日隅宮・厳神之宮・出雲大神宮(日本書紀)
杵築宮(釈日本記)
出雲宮(八雲御抄)
杵築大神宮(和漢三才図会)
所造天下大神宮・天日栖宮(出雲国風土記)
大社杵築大神宮(国花万葉記)
杵築大社(延喜式)
出雲国大社(享保集成総論録)
日本大社(真言宗正林寺蔵版木)

【こんなこともあんなことも】

二拝四拍手一拝の作法で拝礼することは良く知られています。明治維新に伴う近代社格制度下において唯一「大社」を名乗る神社でした。創建以来、天照大神の子の天穂日命(誓約で産まれた五兄弟の次男に成ります。神様に次男とか有るのか?)を祖とする出雲国造家が祭祀を担ってきました。現在の宮司は84代国造千家尊祐で、國學院大學を卒業後太宰府天満宮を経て出雲大社禰宜→権宮司と昇格すると、2002年(平成14年)宮司に就任し翌年神社本庁より神職身分特級を拝受されています。

DSC_0010.jpg(国造家の分裂で現在の宮司は84代国造千家家ですが、北島家もあります。)

また、出雲大社宮司の正服の紋様は神社本庁の定める黒綾文輪なし裏同色平絹ではなく黒綾にご神紋である二重亀甲剣花角の文様を練り込んだものであり他には類を見ない物のようです。特級は黒袍(輪無唐草紋)、白奴袴(白八藤紋)、冠(繁紋)と決められているようですが、出雲国造は黒袍(亀甲剱花菱)、小豆色奴袴(剱花菱紋)、冠(繁紋)懸緒、紫打紐と特別扱いに成っています。

DSC_0060.jpg(今上陛下も大国主大神と親戚におなりにならえるはずですね(;^_^A)

現在も、皇室の者といえども本殿内までは入れないしきたりを守り続けています。約60年に一度行われている本殿の建て替えに際して、神体が仮殿に遷御された後に、本殿の内部及び大屋根が公開され一般人も本殿内を見ることが出来ます。前回の一般公開時に本殿の中をご覧になった知人のお話では、「中に入ると空気が変わる」そうです。

【祭神大国主神】

DSC_0229.jpg(大国主大神の名前は多いんですよね~笑)

祭神は大国主大神(おおくにぬしのおおかみ)です。1142年(康治元年)在庁官人解状に「天下無双之大廈、国中第一之霊神」と記されています。神在月(神無月)には全国から八百万の神々が集まり神議が行われます(神在祭 旧暦10月11日~17日までです)。出雲へ行かず村や家に留まる田の神・家の神的な性格を持つ留守神(荒神等)も存在しているので、すべての神が出雲に出向くわけではないようですね(神様が全部いなくなるのかと思っていました。)。そのような神集への信仰から、江戸時代以降は文学にも出雲の縁結びの神様としてあらわれるほどに、全国的な信仰をあつめるようになりました。

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(稲佐の浜で行われる神迎え神事、日本は神々の国です。)

『祭神大国主神の別称』

大穴道神(「おおなむちのかみ)・三諸神(みもろのかみ)古事記での表記
大国玉神(おおくにたまのかみ)日本書紀での表記
杵築神(きずきのかみ)文徳実録での表記
国造神(くにつくらししかみ)大隅国風土記での表記
大穴六道尊(おおなむちのみこと)土佐国風土記での表記
大国魂命(おおくにたまのかみ)日本国風土記での表記
所造天下大神(あめのしたつくらししおおかみ)
大地主神(おおとこぬしのかみ)
大国魂神 古語拾遺での表記
大穴持命(おおなもちのみこと)出雲国造神賀詞と出雲国風土記と伊予国風土記での表記
宇都志国玉神(うつしくにたまのかみ)
廣矛魂神(ひろほこみたまのかみ)
倭大物主櫛甕玉神(やまとおおものぬしくしかみたまのかみ)
国作之大神(くにつくらしのおおかみ)
国作坐志大穴持命(くにつくりまししおおむなちのみこと)出雲国造神賀詞での名。
出雲御蔭大神(いずもみかげのおおかみ)
国堅大神(くにかためまししおおかみ)
国占神(くにしめたまいしかみ)
出雲大神(いずものおおかみ)
芦原志拳呼命 播磨国風土記での表記
兵主神(ひょうずのかみ)
農耕祖神(たづくりのおやのかみ)
幽冥事知食大神(かくりごとしろしめすおおかみ)
縁結神(えんむすびのかみ) ・福神(ふくのかみ)・天下地主神(あめのしたとこぬしのかみ)・大国作神(おおくにつくらししかみ) 出雲や出雲大社での神名。

【祭神が大国主命じゃなかった?】

出雲国造新任時に朝廷で奏上する出雲国造神賀詞では「大穴持命(大国主大神)」「杵築宮(出雲大社)に静まり坐しき」と記載があるので、この儀式を行っていた平安時代前期までの祭神は大国主神だったのですがやがて、神仏習合の影響下で鎌倉時代から天台宗の鰐淵寺と関係が深まりました。

鰐淵寺は杵築大社(出雲大社)の神宮寺も兼ねています。鰐淵寺を中心とした縁起(中世出雲神話)では、出雲の国引き・国作りの神を素戔嗚尊としていた(出雲風土記の国引き神は八束水臣津野命)ことから、中世のある時期から17世紀まで祭神は素戔嗚尊だったようです。14世紀「当社大明神は天照大御神之弟、素戔嗚尊也。八又の大蛇を割き、凶徒を射ち国域の太平を築く。」と杵築大社(出雲大社)の由来が記され、1666年(寛文6年)毛利綱広(元就の嫡孫・毛利輝元の嫡孫・長州藩の第2代藩主)が寄進した銅鳥居に刻まれた銘文には「素戔嗚尊者雲陽大社神也」と記されていました。

さらには、鰐淵寺の僧侶が経所で大般若経転読を行い、社殿では読経もしています。また、江戸時代初期には社僧が寺社奉行と杵築大社(出雲大社)の運営管理に関する交渉を実施していたようです。

杵築大社(出雲大社)内は仏堂や仏塔が立ち並んで神事が衰微したため、寛文7年(1667年)の遷宮に伴う大造営の時、出雲国造家が神仏分離・廃仏毀釈を主張して寺社奉行に認められ、仏堂や仏塔は移築・撤去され、経蔵は破却されました。これに併せて祭神は須佐之男命から、古事記や日本書紀などの記述に沿って大国主大神が復活しています。

【神仏分離・廃仏毀釈の証人】

「住みたい田舎ランキング2018」の近畿部門でお隣の朝来市と毎年トップを分け合う養父市(実家、但馬は豊岡市の隣ですが)には出雲大社の神仏分離・廃仏毀釈の対象と成り、出雲大社の建て直しの為の木材を得るために、但馬に移築された名草神社三重塔(国の重要文化財)が有ります。

この三重塔は島根県出雲大社の境内に、出雲の戦国大名として有名な尼子経久が願主となって大永5年(1525)に起工し、同7年6月15日に竣工したものです(資料によって異説があります)。今回はあえて本物の写真は控えさせて頂きまして、国道9号線から豊岡市の城崎温泉や神鍋高原、出石等へ向かう国道312号線沿いの、八鹿町上小田の右岸道路との合流地点に、作られたレプリカで我慢して頂きます。本物は名草神社を取り上げる時にお見せしまします。

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(名草神社三重塔レプリカ)

【最後に一言】

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(さざれ石は小石が固まるほどの長い時間の経過を物語ります。)

今回出雲大社を取り上げた事で、改めて日本歴史の重みや深さを感じさせられました。皆さんの身近にも多くの歴史が埋もれて居ます。稚拙な文章ですが、私のブログでその楽しさに気づいて頂けたら嬉しいのですが。

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2018/04/09

西国三十三観音霊場を巡る!「第六番札所」『壺阪山 南法華寺(壺阪寺) 』

私事で恐縮ですが、白内障を患いまして、手術することにしました~f(^_^;。老化だと思っていましたが、どうやら突発的な症状で老化では無いことが判明しました。通勤で3時間程車の運転をするので見えにくいと非常に目が疲れます。ブログUPのペースが落ちている事もPC画面に向かうのが辛いせいも有ります。勿論病院での検査等に時間を割かれていることも有りますし、その他の病気でも通院したりと中々厳しい状態が続いています。

手術は5月です~(*^^*)。日帰りなので心配はしていないのですが、富山市の学会に行く予定がキャンセルに成ったのが残念です(ToT)。そこで今回は目にとてもご利益の有るお寺をご紹介して、私も厄祓いしたいと思います。

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(そびえたつ観音像)

西国三十三観音霊場の第六番札所『南法華寺(壺阪寺)』です。こちらはバスツアーで訪れました。南法華寺(みなみほっけじ)は、奈良県高市郡高取町にある真言宗系の単立寺院です。山号は壺阪山、一般出的には壺阪寺(つぼさかでら)の通称で知られています。703年(大宝3年)創建と伝えられ、私も現在患っている、目にとてもご利益があるお寺です。

本尊十一面千手観世音菩薩は眼病に霊験があるといわれ、お里・沢市の夫婦愛をうたった人形浄瑠璃『壺坂霊験記』の舞台としても有名です。園内には養護盲老人ホーム「慈母園」があり、他にも国の内外で福祉事業を展開しています。

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【南法華寺(壺阪寺) ってどんなお寺?】

CIMG9286.jpg(仁王門、建暦2年「1212年」建立、入母屋造、本瓦葺。)

草創については不明な点が多いようですが、伝承によれば大宝3年(703年)に元興寺の弁基上人により開かれたとされます。京都の清水寺の北法華寺に対し南法華寺の名前を持ち、長谷寺とともに古くから観音霊場として栄えています。

所在地:奈良県高市郡高取町壺阪
山号:壺阪山
宗派:真言宗系単立
本尊:十一面千手観世音菩薩
創建年:大宝3年
開基:弁基上人
正式名:南法華寺
別称:壺阪寺
札所等:西国三十三所第6番・神仏霊場巡拝の道第38番

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(多宝塔、大日如来坐像安置・平安時代作)

【人形浄瑠璃・文楽や歌舞伎で演じられる『壺坂霊験記』ってどんなお話?】

CIMG9290.jpg(慈眼堂です。しっかりお詣りしたはずですがね~?)

今より三百年以上昔(江戸時代・元禄頃)、座頭(検校、別当、勾当、座頭の四つの盲人階級・位階の一つ)の沢市は三つ違いの女房お里と貧しいながらも仲睦まじく暮らしていました。沢市は盲目ゆえ琴三味線を教え、お里は内職をしてつつましく暮らしていました。そんな沢市の胸中に一つ不安が生まれます。というのも午前四時(明けの七つ)になると、お里が毎晩床を抜け出していなくなっていたのでした。

「もしや好きな男が出来たのではないのか?」と問いただすと、お里は沢市の目の病が治るよう、この三年もの間欠かさず壷阪寺の観音様に朝詣でをしていると話します。愛しい女房を疑った自分を恥じる沢市はともに観音様にお参りすることにしましたが、心の中は盲目がゆえに不遇な暮らしをしているのだと自分を責め続けます。そして、一度お里を家に帰して、お里を自由な身にしてやろうと考え、自分の身を谷へ投げてしまうのでした。不吉な予感であわてて戻るお里は、非常な現実に遭遇し、自らも身を投げてしまいます。

しかし、二人のせつない夫婦愛が、観音様の奇跡を呼び起こします。霊験により沢市・お里は助かったばかりか、沢市の目が開眼し完治します。本堂横手には、そのお里・沢市が身を投げた、投身の谷と言い伝えられている谷がありました。

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(大釈迦如来石像)

【もうひとつの伝説「さよ姫伝説」】

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(重要文化財、三重塔・室町時代の明応6年「1497年」の建立)

壷坂の村に住む姫君「さよ」が、尊い聖の説法にでかけ、親孝行する者には仏神が感応すると聞きます。 貧しくて父親の十三回忌に何もできないのを悲しんでいると、たまたま陸奥国の商人が15~16歳の女性を買いに来ます。さよは進んで我が身を売り、そのお金で父親の菩提をとむらいます。母を残して遠い陸奥国まで来たさよは、15~16歳の女性が必要とされた理由を知ることになります。

ここでは毎年、大蛇に人のを供えなければならず、ある親が娘の身代わりを求めていたのでした。 定められた池の中嶋で待つと、やがて長さ10丈(30メートル)もある大蛇が現れます。 しかしさよが御経を読むと、経典読誦と親孝行の功徳により、大蛇は成仏を確信して歓喜し、さよを乗せて天に昇って行きました。

さて、この「さよ姫伝説」実はさよは弁財天、大蛇は実は壷坂の観音菩薩であり、末世においても信心があれば二世安楽うたがいなしと結んでいます。

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(八角円堂・本堂の御本尊、十一面千手観世音菩薩座像・撮影可)

【最後に一言】

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(天竺渡来 大観音石像)

人形浄瑠璃・文楽の歴史は意外と新しく1600年代の後半、だそうです。もっと古いかと思いましたが、盲目の夫とその開眼を祈る妻の夫婦愛物語『壺坂霊験記』も、明治時代に作られた話です(モデルはあったかも?)。しかしながら当時の人気は相当に大きかったようで、壺阪寺に多くのファンが訪れたようです。

壺阪寺はインドとのつながりが深く、本尊の十一面千手観世音菩薩像もなんとなくインドの感じがありますよね。インドでの救ライ事業への尽力に対する返礼として1983年3月に贈られた「天竺渡来大観音像」は、大理石造り、高さ約20m、総重量1200トンの壮大な仏像です。

CIMG9299.jpg(天竺渡来 大涅槃石像、寝ている観音様は珍しいです。)


私的には、日本らしくない感じのお寺でした(信心は形ではないといつも言っているのにね~)。こんな事を書くから私には観音菩薩の霊験(神仏の不思議で測り知れない力のあらわれ、祈りに対して現れる利益)が無いのかもしれませんね~~(;^_^A。
御朱印集めに参加した当時の私は、まだブログを書いておりませんでした。写真が偏っていることお許し願います。

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2018/04/05

古式『四條流姫井会包丁式』って何だ?

先日、平清盛由来の神戸市平野の祇園神社をご紹介しました。実はその時に、4月1日に行われる摂社「白玉稲荷明神社」で行われる『四條流姫井会包丁式』の紹介ポスターがあり、これは珍しいと早速出掛けて取材してきました。

P4011185.jpg(包丁とは思えません!まるで日本刀の様です)

四条流庖丁道は東京「神田明神」でも行われる包丁儀式で、平安時代から始まると伝えられる日本料理の流派で、「庖丁式」ともいわれます。庖丁道(庖丁式)とは料理に関する作法・故実や調理法などを最も頻用する調理器具の包丁で象徴した呼び名の事です。

私もテレビ等では、数度見たことが有ったのですが、実際に現場!それも目の前で見るのは初めてで、貴重な1日に成りました。それでは、作法に則り古来の包丁式を写真多めでご紹介致します。

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(包丁式が行われる舞舞台)
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(桜満開です。奥のテントの下が白玉稲荷です。)
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(祇園神社からは神戸の街並みが綺麗に見渡せます。)

【四條流起源】

P4011096.jpg(神官による神事が執り行われています。)


四條流の起源は、藤原山蔭(四条中納言、824年~888年)が、光孝天皇の勅命により庖丁式(料理作法)の新式を定めたことに由来すると伝えられています。朝廷の料理は宮内省に属す内膳司が司っていましたが、山蔭は宮内省内膳職とは関係ない人物なので、単に料理法や作法に通じた識者として指名されたと考えられます。9世紀には、唐から伝えられた食習慣や調理法が日本風に改善されて定着しつつあったと考えられ、それらをまとめて故実という形で山蔭が結実させたものだと思われます。これにより、山蔭は「日本料理中興の祖」とされています。四條流には様々な分流が有りますが、今回は神戸四條姫井会の四條流を取材してきました。

【四条流庖丁書】

P4011129.jpg(まな板を清めた後花を添えます。)
P4011134.jpg(三宝に飾る紙飾りも手は使いません。)
P4011167.jpg(紙を切って飾りを折っていきます。気迫が入ります。)
P4011150.jpg(三宝からまな板に鯛を移します。)


室町時代後期、すでに四条流の大意をまとめた料理書として『四条流庖丁書』が書かれています。奥書に「長享三年(1489年)二月下旬多治見備後守貞賢在判」とあり、この時期に成立したと思われます。四条流庖丁式の次第が記述され、俎(まないた)の名所・寸法などから記載が始まり、続いて具体的な料理法や、箸・膳の飾り方なども記載されており、当時の日本料理の素材や調理法を知る上で貴重な史料となっています。

驚いた事に、雁の皮煎・潮煎、カマボコ、鳥(雉)の焼き物・刺身、エビの舟盛り、このわた、鯛の潮煮、クラゲの和え物など、多彩な料理が紹介されています。また、四条流では刺身に添えるわさびと塩は接して並べる、酢も添えるべき云々など興味深い記述も有るようです(刺身に酢?面白いですね。)。花鰹の使用も記されており、当時から利用されていることが分かります。日本人の味覚、恐るべしですね。

もちもち、四条中納言藤原朝臣山蔭卿が、鯉の庖丁式を始めたことから、庖丁の儀式の切形が始ったと記載されています。

【庖丁儀式】

今回取材したように、四条流の庖丁儀式とされる、巧みな庖丁さばきによる荘厳な技術披露が現在でも継承され、行われています。藤原山蔭が鯉をさばいて以来の伝統と言われる技法を烏帽子・直垂をまとった姿で再現し、庖丁と真魚箸(まなばし)のみを用いて、鯉・鯛・鰹(今回は鯛でした!)などの素材に一切手を触れることなくさばいていくもので、各地の神事などで奉納されているようです。webで検索すると、伊勢神宮等でも行われたようです。今回庖丁式を執り行うのは、神戸四條流姫井会の方々です(家元、
三重道場・神戸道場が有るようです。)。

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「題 兜鯛」
庖丁人 神戸道場会頭 姫井隆之氏
持ち出し・納め 錬氏 山口るみ子氏

持ち出し・納め 錬氏の女性山口るみ子さんは、まだ慣れておられない様子で姫井隆之さんから、直前迄色々な所作を教わっておられました(笑)。先にどんな物か知りたくて、web検索したのですが、詳細はわかりませんでした。儀式の内容は、流派内の一部の人間で受け継がれる秘伝・秘事として取り扱われているとの事です。

元々年頭や慶事の際に庖丁の型を披露する儀式で、その初めは殿上人や大名が 賓客を歓待する意味で、主人みずから庖丁をとって、その庖丁ぶりを見せ、その切ったものを お抱えの料理人に調理させて賓客に供したといわれています。

P4011218.jpg(見事に下ろされた鯛です。)
P4011238.jpg(鯛の料理が終わりました。)
P4011240.jpg(決めのポーズではありません。円を描く流れの型です。)
P4011273.jpg(三宝に飾り付けた鯛の前で古式四條流の扇子で終了です。)

【最後に一言】

P4011287.jpg(三宝に綺麗に飾られた兜鯛です。見事!)

四條流姫井会包丁式は庖丁と真魚箸(まなばし)のみを使用しますが、手が鯛に触れることは全くありません。さらには、俎にも手を触れず調理された鯛を三宝に盛り付けます。最後にまな板を清め儀式はすべて終わります。古式ゆかしい包丁さばきはまるで能の舞を見ているようでした。庖丁を突き出す所作が裂帛の気合と共に太刀を差し出すような気迫を感じました。ちなみに戦国大名の伊達氏が藤原山蔭の子孫だそうです。神戸道場会頭の姫井隆之さんは料理人というより写真の通り武士の様ですよね。

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2018/04/02

我が家のスイーツシーズン終了!3月30日『結婚記念日』

少しUPが遅れてしまいましたが、3月30日は『結婚記念日』でした。つまり市郎右衛門家が産声を上げた日です。我が家の家族は次女を除いて、皆の誕生日が冬のシーズンに集中しているので、正にスイーツシーズンと成っています。

P3301078.jpg(妻は職場の旅行?我が家から10分の有馬温泉ですが、笑)

12月25日のクリスマスに始まり!1月1日は長女の誕生日(因みに平成11年産まれのフィーバーなんです。)次が妻の1月21日、2月に入ると、3月14日にバレンタインデー、3月27日に私の誕生日、3月14日にホワイトデー、3月17日が長男の誕生日、最後に3月30日の「結婚記念日」とほぼ3ヶ月の間に8回もケーキでお祝いする日が有るんです。余りに有るので、長女・長男の誕生日はブログにUPしませんでした?因みに次女は6月27日の誕生日で一息つけるんです(笑)

ということで、今回スイーツシーズン終了の21回目の結婚記念日のお祝いと共に、UP出来なかった、長女・長男のケーキをご紹介してスイーツシーズン終了ブログを書かせて頂きます。

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P3301065.jpg(職場からすぐ近くのマダムシンコさんのケーキをチョイスしてみました。)
(マダムシンコ彩都店)
(どうですか?この派手さ!)
(一応まだ3月ですからね。)
(笑うしか無い。)

【ケーキの日?】

1月6日ケーキの日は明治12年(1879年)のこの日、上野の「風月堂」で初めてケーキを宣伝したことにちなむそうですがこれが今のケーキと同じものだったとは思えません。

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(1月1日は長女の誕生日はフルーツタルトです。)

苺ショートケーキを始めて販売したのは「不二家」のようです。キャラクターのペコちゃんでおなじみの洋菓子店「不二家」。しかし、じつは日本の喫茶店、レストランの先駆けでも有るんです。1910年(明治43)、藤井林右衛門が横浜・元町に小さな洋菓子店「FUJIYA」をオープンさせました。まだなじみの少なかった西洋のお菓子を一人でも多くの日本人に味わってほしいという思いからでした。

さらに、第一次世界大戦による好景気の中で喫茶室を新設しています。インテリアはアメリカから直輸入したモダンなもので、さらに持ち手を下に押さえるとソーダ水が出てくるくる「ソーダ・ファウンテン」を導入し、話題を呼びました。そして、1923年(大正12)には念願の銀座進出を果たしています。「不二家」といえば銀座のイメージがありますが、実は横浜だったんですね~!

「不二家」という屋号はもちろん富士山を意識していて、「不二(富士山)」には2つとない存在という意味も込められています。屋号の頭文字であるFを意匠化したハイカラな現在のロゴは、20世紀を代表する産業デザイナー、レイモンド・ローウィによるもので1961年(昭和36)に完成、「ファミリーマーク」と呼ばれ、「不二家」のシンボルとなっています。 「不二家」は1910年(明治43)にクリスマスケーキも販売開始しています。

P12100909.jpg(妻の誕生日はこちらのケーキです。)

【藤井林右衛門という人物は何者】

P22701479.jpg(私の誕生日は小山シェフのチョコレートケーキ。)

藤井林右衛門は愛知県出身、16歳で横浜に出てきて古物商の奉公人として働き始めます。商売的には外国人が引っ越した後に残った家具を中古品として売ったり、鉄くずなどを取り扱ったり、今でいうリサイクルショップのようなものを始めます。1年後に大旦那が亡くなったのを機に、店を任されるようになります。さらに、日本人の洋菓子職人と知り合い、25歳時に独立開業して日本ではまだ珍しかった洋菓子店をオープンさせました。

お金持ちの外国人は家に料理人がいるので、その頃洋菓子を扱っている店は少なかったようです。一方でハイカラな食文化に憧れる日本人には人気が出る!「先見の明」があったのですね~(笑)、ちなみに先見の目は誤用ですので注意してくださいね。

メニューも林右衛門自身でも考えたようです。外国人シェフに知恵を借り、さらには単身アメリカに飛んで働きながら現地の菓子や喫茶事情を視察しました。なお、オープンした年にクリスマスケーキを販売しています。 もちろん、生クリームではなく、プラムケーキ(フルーツケーキ)に砂糖の衣をかけたものでした。なお、店内には小さなイートインスペースを作りました。喫茶店の先駆けといえます。

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(長男はマカロン付きのチョコレートケーキ。)

【ショートケーキは日本独自のケーキ?】

さらに同じ横浜の伊勢佐木町に2号店を出した1922年(大正11)にショートケーキを販売しています。これも日本初だと言われま。。クリスマスケーキが先だったんですね。皆さんショートケーキは外国発祥だと思っていませんか?私たちになじみのあるあのスポンジケーキ、ホイップクリーム、いちごという取り合わせのケーキは「不二家」が開発した日本独自の洋菓子だそうです。大正時代の原型となるショートケーキにはバタークリームのような濃厚なクリームが使われていました。当時、いちごを使っていたかどうかは記録に残っていません。

ショートケーキという名前の由来については、イギリスのショートブレッドというクッキーのようなお菓子から、「ショートニング」に由来するから、短時間(ショートタイム)で作れるからなど諸説あるようです。ちなみに、ショートケーキが今のように不二家のナンバーワン商品になったのは昭和40年代後半の事です。バタークリームから今のような生クリームやイチゴを使うようになったのは、景気の上昇や冷蔵庫の普及など、様々な要因があるようです。

【最後に一言】

P62700027.jpg(卵アレルギーの次女は卵抜きで昨年の分です。)

わが家の、スイーツシーズンは3月30日で一応終わりです。次は6月27日の次女の誕生日です。7月に一大イベントを企画しています。それまでにダイエットしなければいけませんね~(笑)。さて私のブログは基本歴史ブログですが、ここのところは雑記ブログ・スイーツブログに成っていました。取材も多く行っておりますので、主題の歴史を頑張りたいと思いますのでよろしくお願いいたします。最後に一番大事なことを忘れてましたね『ママ!21年間も私の様な、駄目夫に付き合ってくれて本当にありがとう、感謝の気持ちは心では表せません。』

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リュミエールブラン ネージュ

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