2018年02月 - 「高天原の縁側日記」
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2018/02/28

市郎右衛門、またまた年を重ねる?つまり今日は『誕生日』

実は、昨日は私の5?回目の誕生日でしたのですが、記事をUPしませんでした。いえ出来ませんでした!家族が勿論お誕生日は祝ってくれましたので、そちらは此れからご紹介致しますが、記事をUPしなかった理由ですが、お恥ずかしいのですが、スマホゲームやってました。といいましてもけしてゲームに夢中でブログが書けなかった訳ではありません。

実は、このスマホゲームを五年間に渡りやり続けていたのです。俗にゆうカードゲームで、騎士団に入団して他の団と対戦したりして遊ぶゲームです。そのゲームが今日13:00で配信停止を迎える事に成ったのです。長い間苦楽を供にした団のみんなとの別れが寂しくて、同じ騎士団の皆さんや、関わりの有った方々にお礼云々、夜中迄かかってしまいました

P2270134.jpg(まだ中は見せられませんよ~笑)

ということで、一日遅れのこのテーマです。市郎右衛門5?歳を迎える!皆さん、年を取れば取るほど1年が早くなると思われていませんか?「年を取ると本当に一年があっという間だよね」誰もが一度は口にしたことのあるセリフではないでしょうか。実はその法則を証明した人が居るんですよ~(*^^*)知っておられましたか?『ジャネーの法則』といいます。今日はそこら辺から始めましようか。

それでは、『市郎右衛門』の自分史ブログ(笑)をお楽しみ?くださいね(人´ω`*).☆.。
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【ジャネーの法則ってなに】

「年を重ねると、1年の経つのが本当に早い」というセリフを耳にすることが多いのですが、事実、歳を重ねるにつれ、時が経つのが早く感じられるようになります。何故だろうと思っておおられる方多いのではありませんか?じっつは、『ジャネーの法則』によって解明されているようです。

ジャネーの法則(ジャネーのほうそく)は、19世紀のフランスの哲学者・ポール・ジャネが発案し、甥の心理学者・ピエール・ジャネが著作で紹介した法則だそうです。年齢を重ると1年が短く感じられることを心理学的に解明しました。主観的に記憶される年月の長さは年少者にはより長く、年長者にはより短く評価されるという現象を心理学的に説明したもので。ジャネの法則とも表記されます。

簡単に説明すると、生涯のある時期における時間の心理的長さは年齢の逆数に比例する(年齢に反比例する!簡単じゃないですか?)。それでは例えば、50歳の人間にとって1年の長さは人生の50分の1ほどになりますが、5歳の人間にとっては5分の1に相当します。よって、50歳の人間にとっての10年間は5歳の人間にとっての1年間に当たり、5歳の人間の1日が50歳の人間の10日に当たることになります。

子供にとっての1年と大人にとっての1年は違うということですね、そりゃあ、5年しか生きていない人間にとっては、1年は長い長い時間と感じるでしょう。「今現在進行している時間の体感速度」ではなく、「過去を振り返った時に感じる時間の長さの印象」なんです。時間の感じ方の差は、脳が整理した過去の情報を、後で振り返った時にどれぐらいの長さに感じるか、という側面からの感覚の違いとして表れます。「60秒」を大人が数えても子供が数えても同じですよね?でも、時間が経って振り返ってみると長さが違ったように感じている事に成ります。

新鮮な体験が時間の長さを決定づけることも関係するようです、新しいことをたくさん覚える若いうちは時間が長く感じ、経験を積んできて記憶することが少なくなると時間が短く感じるという説もあるそうですよ。もっともっと勉強して新鮮な体験をすると、何時までも若く居られるってことかな?

【いつもの馬肉会と誕生日プレゼント】

月曜日(26日)に毎月恒例の馬肉会が有りました。今回は、ゲストも居らず野郎三人、本日の一杯 -Cupmen Blog of taka- カップ麺と激辛のブログのtaka:aさん、続、ものグラムな生活。(インスタントラーメン編)のものグラムさん、そして私の三人で、普段出来ない?恥ずかしいお話もして楽しみました。taka:aさんは私より二時間も前から飲んでいたらしく、途中ですやすやお眠り!ものグラムさんは段々酔いが回って、熱く語っておられました。(笑)私のお誕生日の前日ということで、嬉しい事に、二人供にプレゼントを用意して下さいました。ご紹介致しましょう。

まずはtaka:aさんですが、ピンク好きの私の為に、ピンクのショルダー(女子力一杯)をプレゼントして頂きました。

P2270123.jpg
(モデルは長女がやってくれましたが顔はNGです。)

ものグラムさんは、私がいつも「写真の師匠」といっているのですが、1脚というカメラ専用上下動防止ポール?をプレゼントしてくださました。二人ともチョイスが満点です。本当にありがとうございました(^o^)

P2270128.jpg
(ちょっと登山用のポールのようです。)

【我が家のバースデー】

そして、昨夜の夜はケーキでお祝いでした。いつも申し上げていますように、ケーキは誕生日の家族がチョイス出来るのですが、今回は何もいっていなかったので、「eskoyama」のチョコレートケーキでした!初めは小さな工房と販売スペースだけだったパティシエエスコヤマ。そこがどんな進化を遂げてスイーツの街へと変化していったのか、パティシエ小山進氏の思いと共に大解剖してみましょう!そこには未来のパティスリーの姿が見えているようです。

ケーキや焼き菓子を扱うエスコヤマのほかに、co.&m.(コンフィチュールアンドマカロン)、パンのes Boulangerie (エスブーランジェリー)、ショコラトリ―のRozilla(ロジラ)、カフェのhanare(ハナレ)など、魅力的なお店が敷地内にたくさん!そのお店ごとにコンセプトも違うので、色々な楽しみ方だ出来ます。今回はデコレーション専門のFANTASY DIRECTORでお願いしましたようです。それではお見せしましょう。

P2270147.jpg(素敵ですね~うれしいです。)
P2270162.jpg
(皆が歌を歌ってくれるのもうれしいんですよね~笑)

(こちらはeskoyamaの中にあるインスタ映え用の撮影スペースだそうです)


【最後の一言】

今回は、妻が私に言ってくれた一言が、本当に嬉しかったです。申し訳ないのですが皆さんには内緒です。しかしながらこの先どれくらい頑張って生きていけるかは神のみぞ知るですが、今後の人生の目標をを大きく変化させる有難い一言でした。ママ~本当に私なんかと結婚してくれてありがとうございます。(;^_^A

歴史って本当に面白いですよね~!
今後もランキングにはこだわって良い記事をUPしたいと思います。はげみになりますので宜しくお願い致します(^人^)
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リュミエールブラン ネージュ

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2018/02/24

没ネタ復活祭?竹中半兵衛の策略、『三木の干殺し』ご近所の城(砦)を探索してみよう!

三木合戦の支城三つの城(砦ですかね)を取材していたのですが、これはちょっと、記事に成らないかもと考えて、ご紹介していなかったのですが、やはり「小さな事からコツコツと砦?をフィールドワーク(笑)」と言うことで、勿体無いの精神でご紹介致します(何ゆうてるのか?)。

CIMG6481.jpg(神戸市北区淡河町「道の駅淡河」の南側の小高い山の上「淡河城跡」の石碑)

三木合戦(みきかっせん)は、天正6年3月29日(1578年5月5日)から天正8年1月17日(1580年2月2日)にかけて行われた織田氏と別所氏の合戦の事です。織田家の武将羽柴秀吉が行った播州征伐のうちの1つで、別所氏は播磨三木城(兵庫県三木市)に篭城しています。この合戦で秀吉が行った兵糧攻めは、三木の干殺し(みきのひごろし、ほしごろし)と呼ばれるほど苛烈な物でした。考案したのは羽柴軍の天才軍師「竹中半兵衛」ですが、自分の作戦の苛烈さが心労に成ったのか?三木合戦の途中、天正7年6月13日(1579年7月6日)に亡くなっています。

そのなかで、神戸市北区道場町『松原城跡』、我が家からも近く「仙石権兵衛(但馬出石藩の元と成った武将です、)」が落城させて、兵糧を止めた『茶臼山城跡』と戦国時代には別所氏に属した『淡河城跡』が没ネタに成っていたので、ご紹介したいと思います。羽柴軍は徹底的な囲みこみを行うために、別所氏の支城を攻略するとともに、羽柴軍が築いた砦は数多いようですが、今回はまず我が家のご近所三か所です。

【室町から戦国への播磨と周辺の情勢】

三木城址1(三木城址別所長治像)

室町時代の播磨は守護赤松氏の領国でした、嘉吉の乱(室町時代の嘉吉元年(1441年)に播磨・備前・美作の守護赤松満祐が、室町幕府6代将軍足利義教を暗殺し、領国の播磨で幕府方討伐軍に敗れて討たれるまでの一連の騒乱の事です。)で没落、後に再興されるものの一族や家臣の台頭を許す事に成りました。室町後期の戦国時代になると、これらの勢力は半独立状態となって数郡ごとを領し割拠します。別所氏もその1つで、赤松氏の一族であり、東播磨一帯に影響力を持っていました。

周辺国では西の大国毛利氏とその幕下の宇喜多直家、畿内を制しつつある織田信長が勢力を広げており、播磨国内の諸勢力は毛利氏と織田氏の両方と友好関係を結んでいました。この二大勢力も播磨を緩衝地帯として友好関係を保っていましたが、信長に京都から追放された足利義昭や石山本願寺の顕如の要請により、毛利氏は反織田に踏み切ります。

播磨国内では、天正5年(1577年)5月に中播磨の御着城主小寺政職が毛利氏と争って旗幟を鮮明にするなど、多くの勢力が織田氏寄りとなりました。同年10月、羽柴秀吉が織田氏の指揮官として播磨入りし、宇喜多直家の支配下となっていた西播磨の上月城や福原城などを攻略、上月城の守備に尼子勝久・山中幸盛を入れ、一旦は播磨のほぼ全域が織田氏の勢力下に入ります。

しかし、織田と別所間の関係は織田勢による上月城の虐殺、同月に加古川城で行われた秀吉と別所吉親の会談(加古川評定)で生じた不和などをきっかけに悪化していきました。翌天正6年(1578年)に秀吉は中国地方攻略のため再び播磨入りしますが、同年2月、吉親の甥で別所氏当主別所長治が離反し毛利氏側に着きます。別所氏の影響下にあった東播磨の諸勢力がこれに同調、浄土真宗の門徒を多く抱える中播磨の三木氏や西播磨の宇野氏がこれを支援し、情勢が一変してしまいます。長治は三木城に篭城して毛利氏の援軍を待つ方針を決定、三木合戦が開始される事に成ります。

【三木合戦】

当時の時代背景ですが、織田軍中国攻め司令官、羽柴秀吉が小寺勘兵衛(黒田勘兵衛)の活躍も有り、播磨を平定した矢先の1778年(天正6年)三木城主、別所長治が毛利に通じて突如反旗を翻します。

備前、宇喜多直家の動向も未だに不明な時、秀吉軍は播州(姫路)で前後ろを挟み撃ちされる形に成り、中国攻めを一時的に中断し別所氏攻略に取りかかります。これにより上月城の尼子氏を見捨てざるをえなくなり、毛利軍吉川元春らに攻められて上月城は開城、尼子勝久は切腹し尼子氏は断絶、私の大好きな、猛将「山中鹿之助」も謀殺されています。

別所家は播磨の名門(名門が故に新参の秀吉配下に反攻した説も有ります)、三木城は周りの一族、国人衆の支城も含めての籠城戦に入ります。羽柴秀吉は周りの支城を落とした後、あの有名な兵糧攻め(戦わずして勝つ!秀吉としては始めてで、その後の城攻めの転換点となります)、三木日干し戦術を取ります。この籠城は、荒木重村や小寺政職の離反応援も加わって、2年にも及びました。

【離反の理由】

秀吉と別所吉親の会談(加古川評定)でもお話しましたが、別所氏が離反した理由としてよく言われるのが、赤松氏の一族という別所氏の名門意識が評定での秀吉との対立を招いたというものです。これ以外にも数多くの要因があり、織田軍による上月城の虐殺への義憤、かつては毛利氏とも友好関係であったこと、播磨国内に浄土真宗の門徒が多かったこと、信長による所領安堵の約束への不信感、別所吉親と別所重棟(重宗)兄弟の対立、姻戚関係にあった丹波の波多野氏の織田氏からの離反、上月城での処置への不信感など数々挙げられますが、はっきりとはせずむしろすべてがまとまったと言えるのではないでしょうか?

【三木城・別所氏の籠城】

別所長治が籠城した三木城には、東播磨一帯から約7500人が集まりました。この中には、別所氏に同調した国人衆の他に、その家族や浄土真宗の門徒なども含まれており、いわゆる諸篭り(もろごもり・一族妻子、時には領民丸ごと城に篭る事))でした。このため多くの兵糧(食料)を必要とし、別所氏にとってはこれが重要な課題となりました。合戦中、瀬戸内海の制海権を持つ毛利氏や英賀城の三木通秋などによって兵糧の海上輸送が行われます。別所氏側では、海沿いにある高砂城や魚住城などで兵糧を陸揚げ、主な支城と連携して加古川や山間の道を通って三木城に兵糧を運び込んでいます。

これに対し、秀吉は支城攻略の方針を採用します。天正6年3月29日に秀吉は三木城包囲を開始、4月1日に別所軍が近辺の細川庄(現在の三木市細川町)領主の下冷泉家当主冷泉為純・為勝父子と別府城の別所重棟(別所長治の叔父ですが織田軍に従いました)を攻撃しました(為純父子は討死、重棟は撃退に成功します)。4月3日から6日にかけて秀吉軍は支城の1つである南西の野口城を落城させますが、同じ頃に毛利氏の3万の大軍が尼子勝久の上月城を包囲します。秀吉は東播磨での展開を一次中断して4月下旬に上月城東側の高倉山に布陣しましたが、兵力が少なく毛利軍に手出し出来ず膠着状態になりました。

高倉山の織田軍は三木城攻略を優先して書写山まで撤退、7月には毛利氏が上月城を攻略します。毛利氏の目的が上月城の奪還のみであったためか、補給路が伸びきってしまうのを避けるためか、毛利氏はそれ以上東進しませんでした。これを受けて織田軍は東播磨での活動を再開、上月城救援のために派遣した軍勢と信忠の軍勢で6月から10月にかけて神吉城・志方城・魚住城・高砂城を攻略、三木城に対峙する平井山(三木城の北東約2km)本陣と包囲のための付城を築きます。翌天正7年5月、秀吉は摂津からの兵糧輸送の中継地点、丹生山明要寺と淡河城を攻略、これによって再び補給が困難となりました。

さらに、この間に共同戦線の一角姻で戚関係にあった波多野氏が明智光秀に敗れ、毛利氏側であった宇喜多直家が離反、同じく共同戦線を張った荒木村重の有岡城が織田軍に攻略されます。

天正8年(1580年)1月、三木城内の食料は既に底をつき「三木の干殺し」状態が続いてました。一方の織田軍は三木城内の支城を攻撃、6日に長治の弟友之が守る宮ノ上砦落城、11日に吉親が守る鷹尾山城が落城、残るは本城のみとなりました。14日、重棟の城中への勧告により城主一族の切腹で城兵の命を助けるという条件が示されます。17日に長治一族が切腹(吉親は抗戦しようとして城兵に殺害)、1年10ヶ月に及ぶ篭城戦が終了したものの、このとき、羽柴軍によって大量殺りくが行なわれた可能性が高いそうです。有岡城に荒木村重を説得に行って、幽閉されていた黒田孝高は家臣に救出され、この後孝高は居城姫路城を秀吉に提供、姫路城は秀吉の居城となりました。

【松原城跡】



P2240058.jpg
(悲しいお話じゃないですか~~涙。)
P2240067.jpg(神戸電鉄「道場駅」の上から見ると良く見えますが、城とはわからないですよね。)
P2240062.jpg(石垣?らしき物が少しだけ見えます。)
P2240072.jpg(南から見るとこんな感じ、砦の大きさです。)

まずご紹介するのは、現・神戸市北区道場町日下部に在った「松原城跡」です。別名・道場城、蒲公英(タンポポ・本真かいなの名前です、笑)城と呼ばれていました。南北朝時代に赤松円心則村の四男、弾正少弼氏範の子氏春が居城として築きましたが、永徳3年に赤松氏範と氏春は播磨の清水寺に敗死()したので、しばらくは廃城となりました。

室町幕府に仕えた三田の住人松原兵衛尉貞朝の子貞直が、その後、松原城に入り天正年間頃まで居城したようです。松原氏は早くから三木城の別所氏の麾下でした。 この為、天正7年の三木城攻めの時、秀吉方に包囲され落城し、城主の貞利以下が討死、または自刃して果てたといわれます。その後、廃城となって遺構の井戸・土塁・空堀等が残っています(ほぼ確認できなかったのが没ネタの原因です)。

CIMG9161.jpg
(播州清水寺にある氏範切腹石・氏範らの墓も有るようです。一族郎党142名自刃!)

【茶臼山城跡】



P2240001.jpg(神戸三田アウトレットのすぐ傍です。左下側青い部分が茶臼山城跡です。周りは今も開発中です。)
P2240053.jpg(南丸と散歩道)
P2240051.jpg(南丸に堀切らしき構造がなんとなく分かります?)
P2240028.jpg
(本丸登り口良い散歩コースに成っています。)
P2240038.jpg(本丸平面、50メートル四方くらいですかね。)
P2240035.jpg(「一蓮坊(いちれんぼう)祐之」顕彰碑!)


次にご紹介するのは、現・神戸市北区上津台に在った「茶臼山城跡」、別名・上津城とも呼ばれていました。この茶臼山城は、一般的に全国に200以上あるといわれている戦跡の茶臼山のひとつです。茶臼山(ちゃうすやま)は、形状が茶の湯のてん茶を抹茶に挽く茶臼に似ているとされる富士山のような末広がりの形の山のことを言います。茶磨山(ちゃすりやま)とも呼ばれる。かつて戦で縁起を担ぐ武将に好まれ陣が張られた場所が多い。天然の山ではなく古墳であることもしばしばある様です。前方後円墳の形が茶臼に見えるからのようです。

「茶臼山城」は「一蓮坊(いちれんぼう)祐之」という土豪が指揮を執っていましたが、羽柴秀吉の三木城攻めの際に、秀吉の家臣による攻撃を受け、降参することを余儀なくされました。一蓮坊祐之は、自分の自害を条件に家臣の命を救ったといわれています。茶臼山城は秀吉の家臣(当時仙石秀久が家臣だったのかは疑問です。信長の命による与力だったかもしれません。)「仙石権兵衛秀久」に与えられています。現在の長尾町上津の茶臼山城は、地元住民の要望によって、安全な公園化を行い、展望台や顕彰碑などの整備もされています。名の「茶臼山城跡(ちゃうすやましろあと)」を改め、「茶臼山城緑地」と呼ばれています(もう全く城跡と言えない?公園だったのが没ネタの原因(;^_^A)。

【淡河城跡】



CIMG6481-2.jpg(模擬楼閣、確か私が訪れた時にはありませんでした。ウキペディアよりお借りしました。)
CIMG6482.jpg(下に記載したことが書かれているはずです。)

最後にご紹介する「淡河城跡(おうごじょう)」別名・上山城 は、現・神戸市北区淡河町淡河「道の駅淡河」の南側の小高い山に城跡があります。城跡としては前の二つより城らしいいです。現在は丘の上に田畑となっている本丸址と模擬櫓(私が取材した当時は無かったと思います)があり公園になっています。

播磨一帯の豪族であった北条時房(執権北条氏の一族)の孫にあたる淡河時治の城とされます。淡河成正(淡河時治との関係は不明でした。)が1222年に築城したと言われます。淡河氏は南北朝時代の暦応2年(1339年)に石峯寺・三津田とで赤松則村(円心)率いる南朝方と戦い敗れてしまいます。明徳3年(1392年)には淡河範清が養子として赤松氏より季範を養子として迎え、その後は赤松氏に属しました。

戦国時代には別所氏に属しましたが、淡河定範が城主であった天正7年(1579年)に羽柴秀長の攻撃で落城、有馬則頼が城主となっています。慶長6年(1601年)に則頼は三田城に移り、元和元年(1615年)に廃城となりました(遺構、模擬城壁・曲輪・天守台・土塁・空堀・切岸等の撮影ができていないので没ネタです。と言いますか取材?時まだブログ書くと思っていなかったのです。笑)。

CIMG6483.jpg
(淡河氏のお墓ですがお参りする人も無くの状態です。)
CIMG6484.jpg(五輪塔も草に埋もれていました。)

【最後に一言】

今回の没ネタ復活ですが、けして取材ソースが無くなったわけではありませんが、せっかく取材したにも関わらず、ご紹介しないのはもったいないと考えて、三つひとまとめでご紹介することにしました。この場所は我が家から車で30分かからない場所ばかりです。こんな身近な場所にも歴史に関連した遺構が在る事を皆さんに知って頂ければと思います。つまり皆さんの住んでいらっしゃるご近所にも必ず面白い歴史が埋まっているのです。是非探してみると面白いですよ。

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2018/02/22

西国三十三観音霊場七番札所 日本最大の塑像「如意輪観音像」『岡寺』

今日はこそっと、オリンピックの影に隠れて、バスツアーでしっかりフィールドワーク出来なかった?明日香の『岡寺』をご紹介します(こそっとね!)。

CIMG9267.jpg(重要文化財の仁王門)

その前に、オリンピックネタなのですが、女子スピードスケート500mで、銀メダルを獲得された、韓国の李相花(イ・サンファ)選手に拍手を送りたいので少しお話させて頂きます。金メダル小平奈緒選手の表彰式。銀メダルの韓国の李相花(イ・サンファ)選手は、日の丸が一番高い所に上がり、君が代が流れる中、胸に手を当てて敬意を表してくださっていました。気がつかれた方居られましたか?

私はどちらかというと、寺社仏閣巡りをしているからというわけでは無いですが、日本という国が大好きですし、誇りに思っています。右寄りって事に成るのかな?但し、出来る限り中立の立場を保ちたいので、近代史(特に先の大戦)についてはお話を避けています。いつかは書かなければならないテーマだと思いますが、まだ力不足だと考えているからです。

私の両親は教師でしたが、別段左寄りの育て方(教育)はされませんでした。祝日は必ず日の丸を飾っていました(田舎の事ですから)。実家の新聞は昨年の秋まで朝日新聞でしたけどね(笑)、私の妻も教師なので、若い頃は何度か「日の丸・君が代」について、話した事も有りますが、妻も今では私の考え方を理解してくれています。妻には、考え方を押し付ける事なく、教え子が大人に成って自分で判断できる教育をして欲しいと思っています。勿論、妻はそんな事当たり前だと笑われるかもしれません。わざわざここで書く必要もないです。(笑)


少し話がそれてしまいましたが、小平奈緒選手のメダル授与式に戻ります。国旗(あれは違うという方も居られるかもしれませんがm(__)m)が掲揚され、国歌(君が代の君は天皇で宗教的だと思われる方m(__)m)が流れる中、金メダルを獲得した、小平奈緒選手の国、日本の国旗と国歌に敬意を表された、韓国の李相花(イ・サンファ)選手が素晴らしく素敵で感動しました。二人の友情が国家の壁を越えたのでは無いでしょうか?李相花さんに日本人の一人として、感謝申し上げますm(__)m。

サッカー日本代表も肩組むの止めて、胸に手を当てた方が良いような気がするのは、私だけかな?キングカズは胸に手を当てていたと思いますが?

さて本題に戻って、西国三十三観音霊場七番札所『岡寺』のご紹介です(長いプロローグに成りました(;^_^A)。

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【岡寺ってどんなお寺なの?】

CIMG9265.jpg
(お寺への道が結構急なので滑ると危ないです。)
CIMG9268.jpg(御手水から上に寺務所きれいなお寺です。)

岡寺(おかでら)は、奈良県高市郡明日香村にある真言宗豊山派のお寺です。山号は東光山、寺号は龍蓋寺(りゅうがいじ)とも称されます(寺号については後述)。正式名称は、東光山真珠院龍蓋寺と呼ばれます。本尊は如意輪観音で、西国三十三所第七番札所と成っています。

伽藍所在地:奈良県高市郡明日香村岡806
山号:東光山
宗派:真言宗豊山派
本尊:如意輪観音
創建年:7世紀末頃
開基:伝・義淵別称龍蓋寺
札所等:西国三十三所7番

文化財:義淵僧正坐像(国宝/奈良国立博物館寄託)、仁王門・書院・如意輪観音像ほか(国の重要文化財)、本堂・楼門(奈良県指定有形文化財)

【ちょぴりバスツアー話】

阪神間(神戸~西宮~大阪)からの出発の場合、何処の会社のバスツアーでも大体(その日のツアーの混み具合で、後先が変わる事もあります。)一日巡りの第三回目は、下に示したような感じて巡ります。一回目は、青岸渡寺(那智の滝)で、全十二回(全て日帰り)で満願と成ります。

5番札所・葛井寺(ふじいでら)
8番札所・長谷寺(はせでら)
番外番札所・法起院(ほっきいん)
7番札所・岡寺(おかでら)
6番札所・壷阪寺(つぼさかでら) 

番号が順番通りでは無いのは、交通網の問題です。先日法起院をご紹介したので、すく近くの長谷寺が流れ的には良いのですが、長谷寺のある初瀬山は牡丹の名所であり、4月下旬~5月上旬は150種類以上、7,000株と言われる牡丹が満開になります。
私が訪れたのは、たしか夏だったと思うので、美しい牡丹を皆さんにご紹介出来ないのもどんなもんだろうと思い、もう一度行って美しい牡丹をご紹介しようと思った次第です。実は飛鳥の石舞台のすぐ傍なんです。しかしながら西国三十三観音霊場札所巡りのツアーなのでこの時は涙をのみました。(笑)

【さて歴史です】

寺伝によると創建は1350年前。飛鳥時代の頃、日本の政治と宗教の中心地だった飛鳥地方を見渡せる岡山の中腹に、当寺日本仏教界の最高位に居た義淵僧正が建てたということは、信仰のあつさも察するべくです。

『東大寺要録』「義淵伝」、『扶桑略記』等によれば、天武天皇(壬申の乱の大海人皇子です。)の皇子で27歳で早世した草壁皇子(天武天皇と皇后「鸕野讃良皇女・後の持統天皇」の皇子)の住んだ岡宮の跡に義淵僧正が創建したとされます。この時、同時に龍門寺なども建立されました。歴史史料上の初見は、天平12年(740年)7月の写経所啓(『正倉院文書』)です。

現在の寺域は明日香村の東にある岡山の中腹に位置しますが、寺の西に隣接する治田神社(はるたじんじゃ)境内からは奈良時代前期にさかのぼる古瓦が発掘されており、創建当時の岡寺は現在の治田神社の位置にあったものと推定されています。寺跡は平成17年(2005年)に「岡寺跡」として国の史跡に指定されました。

現在では真言宗豊山派の寺院ですが、義淵僧正は日本の法相宗の祖であり、その門下には東大寺創建に関わった良弁や行基などがいます。義淵僧正が法相宗の祖とされていたため、江戸時代までは興福寺の末寺でした。江戸時代以降は長谷寺の末寺と成っています。

【寺号について】

CIMG9276.jpg(手前が開山堂、奥が本堂です。)
CIMG9275.jpg
(昭和61年に実に514年ぶりに再建された三重宝塔)

上記のように、当寺院には「岡寺」「龍蓋寺」の2つの寺号があります。「岡寺」は地名に由来する寺号、「龍蓋寺」は法号に成ります。仁王門前の石柱には「西国七番霊場 岡寺」とあり、通常はもっぱら「岡寺」の呼称が用いられています。宗教法人としての登録名も「岡寺」です。そのため、重要文化財建造物の指定名称は「岡寺仁王門」「岡寺書院」となっています。「龍蓋寺」の法号は龍蓋池に封じた竜の説話に由来しています。

CIMG9279.jpg
(池の向こうに十三重石塔)
CIMG9278.jpg(「龍蓋寺」の法号は龍蓋池に封じた竜の説話にちなんでいます。)

【文化財がいっぱいなのですが~!】

『国宝』 

木心乾漆義淵僧正坐像(奈良時代)。目尻が垂れ下がり、皺の多い独特の容貌、あばらの浮き出た胸板などを写実的に表現しています。奈良国立博物館に寄託されています(つまり見られません)。

『重要文化財』

仁王門 慶長17年(1612年)再建されました。

書院 寛永21年(1644年)建立です。

CIMG9280.jpg
(本堂内は撮影禁止でしたので、外から撮影させていただきました。)
CIMG9277.jpg(本堂)

「ご本尊の塑造如意輪観音坐像( 奈良時代)」、現存する日本最大の塑像(土で出来た仏像)とされ、約1200年前に弘法大師が、インド・中国・日本という仏教伝来のルートでもある三ヵ国の土を用いて造ったといわれています。そんな逸話を持つ仏像が、シルクロードの東の終着点とされる飛鳥の地に安置されているなんて、不思議な縁を感じます。その大陸風の雰囲気のお顔立ちは、像高4.85mというサイズ以上に壮大な物語を感じさせてくれます。

胎内にはかつてのご本尊金銅の「如意輪観音菩薩像」が納められていたと伝わります。如意輪観音像は6臂の坐像に表すものが多いが、本像は石山寺本尊などと同様の2臂像です。頭部は造像当初のものを残しますが、体部は補修が多く、脚部は本来、石山寺本尊像と同様の半跏像(台座に腰をおろし、右足を曲げて左足の膝頭に載せ、右手を曲げて指先を頬に当てて思索にふける姿の像)であったものを現状のような坐像に改めたものです。

【最後に一言】

仏教の伝来はインド~中国~朝鮮~日本と伝来したわけですが、インドの宗教はヒンドゥー教徒が圧倒的多数を占めていて、 次にイスラム教、キリスト教です。中国は国を統一する有力な宗教というものはなく、国教というものが曖昧な国です。第2次世界大戦が終結してから共産党が政権を握り、このような無宗教の空気は更に色濃くなっています。朝鮮(北の宗教って?ある意味怖い)、ここでは韓国を代表とさせていただきます。韓国で多数を占めるのは仏教とキリスト教です。現在、この二つで韓国全国民の50%だといわれています。しかし儒教の倫理思想と巫俗(ふぞく)と呼ばれるシャーマニズムの影響が大きいのです。

つまり本来の仏教を受け継いでる国は日本なのです。仏教は本来人間の生き方を問う宗教です。どのように生きて仏に近づくにか?その答えの一つを今回、韓国の『李相花(イ・サンファ)選手』に教えられた気がしますね~!

今女子パシュート決勝!私の予言通り気メダル取りました~~~~~~~~!やった~~~~~!

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2018/02/17

今日だからこそ行っとこ!羽生結弦選手ファンの聖地 『弓弦羽神社』

皆さ~ん平昌オリンピック見てますか~?人気日本選手が中々金メダル取れないので、イライラしてないですか?やっぱりフィギュアスケートの羽生結弦選手に最初の金メダル期待しましょう。昨日ショートプログラム完璧でしたね~ということで今日は朝からこちらの神社にお詣りしてきました。『弓弦羽神社』 です。名前が似ているということで羽生結弦選手の活躍を期待するファンで人気急上昇だそうです。問題は今日のライブ放送、フリーの演技が13:30頃ということで、御朱印をもらうまで待ってられませんでした。お詣りと写真だけ撮って帰宅!我が家から往復一時間程なので助かりました。つまり時間が無いのです。

P2170005.jpg(朝7時ですが参拝に訪れる方もおられました。結構待ちました。笑)

羽生結弦選手ファンの聖地との題名は、御祭神の伊弉册尊と事解之男命・速玉之男命に失礼かもしれませんが、羽生結弦選手なので許してもらえると信じています。 平昌冬季五輪のフィギュアスケート男子で、66年ぶりの連覇の期待がかかる羽生結弦選手と名前が似ていることからファンの間で「聖地」となっている、『弓弦羽(ゆづるは)神社』(神戸市東灘区)には多くのファンが訪れ、「けがを乗り越え金メダルを」などの応援メッセージを記した絵馬を奉納し、その数は1000枚を超えているそうです。本日のフリーの演技を目前に控え、けがからの復活を成し遂げて金メダルを~のファン「神頼み」の思いは、叶うのでしょうか?

それでは、『市郎右衛門』のオリンピック金メダル祈願ブログをお楽しみ?くださいね(人´ω`*).☆.。
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【弓弦羽神社】

P2170080.jpg(拝殿です。失礼ですがイメージしていた物と違って立派な神社です。)
P2170017.jpg(御水舎、水の出口は八咫烏です。)
P2170021.jpg(さすが神戸の高級住宅地、神社に犬の御手水が、笑神社で初めて見た!)
P2170032.jpg(狛ちゃんカッコイイですね~申し訳ないですが阿像だけです。)
P2170047.jpg(矢を持つ八咫烏!いいですね~。)
P2170059.jpg(朝早かったので朝日に照らされて綺麗です。)

弓弦羽神社(ゆづるはじんじゃ)は、兵庫県神戸市東灘区御影郡家にある神社です。旧社格は村社となります。

所在地:兵庫県神戸市東灘区御影郡家2丁目9番27号
主祭神:伊弉册尊・事解之男命・速玉之男命
社格等:村社
創建:嘉祥2年(849年)
本殿の様式:流造
例祭:10月15日

【御祭神】

P2170040.jpg(ご由緒です。)
P2170049.jpg(ちょっとゆず丸君欲しくなりました。)

熊野三山に祀られる神である伊弉冉尊(那智大社)・事解之男命(本宮大社)・速玉之男命(速玉大社)を祀り、「根本熊野三所大神」と総称されています。天照皇大御神・素佐男尊を配祀すると記載されていました。八咫烏をシンボルとしています(ゆるキャラ?ゆず丸君可愛いです)。

IMG_6107.jpg
(これは出雲の黄泉平坂、黄泉の国との境です。)
IMG_6110.jpg
(神跡!ここで伊邪那岐と伊邪那美、別れの場所です。ハデスがペルセポネーを連れ去る場所が世界にありますか~?)

伊弉册尊(イザナミノミコト・那智大社)ちょと珍しい記載方法ですね。

事解之男命(コトサカノヲノミコト・本宮大社)黄泉の国から逃げ帰る「伊邪那岐神」が吐いた唾を掃きはらって生まれたとされる神です(縁切りのシーンですね)。 掃きはらったことで、事物を明らかにし事態を収拾させる神とも、魔を祓う神とも言われています。『伊邪那岐神』、『須佐之男命』と共に全国の熊野神社に祀られている事が多い様です。

速玉之男命(ハヤタマノオノカミ)、速玉男命を紹介するときに決して無視することのできない神様がおられます。それが熊野古道や熊野詣で有名な熊野三山の一つ「熊野速玉(新宮)大社」の主祭神である「熊野速玉大神」です。同一視されてしまうことが多いのですが、熊野速玉大神は伊弉諾尊の別の名前であり、速玉男命とは違う神様であるとされています。ちなみに、速玉男命は日本書紀にしか出て来ません。

しかしながら「熊野本宮大社」で伊弉諾尊とともに祀られている「速玉之男命」は「事解之男命」と同一人物だと思われます。黄泉比良坂で離縁することになった二神、その約束をかためるためにはいた唾(つば)から生れたのが、「速玉之男命」同じですね。『弓弦羽神社』のご由緒には速玉之男命(速玉大社)を祀りとあるので、伊弉諾尊の事かもしれませんね。羽生結弦選手が金メダル取られましたら、お礼参りと共に御朱印も頂き、御祭神「事解之男命」「速玉之男命」「伊弉諾尊」の関係についても聞き取り調査してきます。

【勿論歴史の勉強もちゃんとね】

P2170089.jpg(流造の神殿)

神功皇后の三韓征伐中に筑紫で誉田別尊(ほむたわけのみこと・応神天皇)を出産され、その帰途出産を聞いた麛坂皇子と忍熊皇子が挙兵したことを知り、この地で弓矢・甲冑を納めて熊野大神に戦勝を祈願しました。弓矢・甲冑を納めたということから、当社背後の山を「弓弦羽岳」「武庫山」(後に「六甲山」の字が宛てられた)と呼ぶようになりました。つまり「六甲山」の名前が神功皇后や「弓弦羽神社」の由来に関係するということですね、これは知りませんでした。(驚)

延暦年間(782年 - 805年)に弓弦羽の森が神領地と定められ、嘉祥2年(849年)、社殿を造営し遷座しています。平安中期以降は熊野信仰の隆盛に伴い崇敬を集めました。17世紀に入ると、灘地方で酒造家の創業が相次ぎ、造酒・回船業の氏子を集め繁栄しています。

日本酒の名産地である灘五郷にあり、氏子には造酒メーカーも多いようです。新年に菊正宗、白鶴、剣菱の奉納した樽酒がふるまわれるほか、メーカーの醸造祈願祭も行われています。

【弓弦羽神社とスポーツ】

前述しましたように、弓弦羽神社は八咫烏をシンボルとしている御縁から、日本サッカー協会も同じ八咫烏をシンボルとしていること、また日本初のサッカーチームが近隣の御影師範学校(新制神戸大学教育学部「現・発達科学部」の前身の一つとなった)で編成されたという地縁もあり、境内に御影石製のサッカーボールが設置されていました(寄進はINAC神戸レオネッサとビッセル神戸のようです。)。神戸を本拠地とする女子サッカークラブのINAC神戸レオネッサがシーズンイン前に必勝祈願を行うことでも知られます。

P2170061.jpg(INAC神戸レオネッサとビッセル神戸奉納の八咫烏付きサッカーボール。)
P2170054.jpg(絵馬掛けですが、羽生結弦選手人気凄いですね~。修正してないので拡大禁止です。見えないかな?)

さあここです。フィギュアスケート選手の羽生結弦が、ファンからのお守りで、名前の似た当社の存在を知って2011年7月に参拝したこともあり、とりわけソチオリンピックでの羽生結弦選手の活躍を祈願しての絵馬が多数かけられ、金メダルを獲得した直後には参拝者が20倍になったといわれます(羽生結弦選手さまさま、明日のお礼参りはやめた方が良いかも、笑)。そのこともあり、年々羽生結弦選手を応援する参拝者が増加し、羽生ファンの聖地と呼ばれるようになっており、神社に奉納される絵馬の7割近くが羽生を応援し、必勝祈願をするものだそうです。

【最後に一言】

結果がどうであっても、国民に夢を与えてくれる選手の皆さんには本当に敬意を表したいです。前回のソチオリンピックの羽生結弦選手の演技は正に陰陽師そのもので、鳥肌が立ちましたね(京都の晴明神社も行っといたほうが良かったんじゃないかな)。私的には羽生結弦選手は勿論ですが、パシュートの金メダル期待してます。チームプレイが日本の和の精神を本当に良く表しています。日の丸が真ん中に上がり、君が代が流れると必ず涙が出てしまいます。君が代や日の丸を認めない方もおられるでしょうが、日本国に対する愛と誇りは持っていただきたいと思う市郎右衛門でした。

P2170074.jpg(白梅が綺麗に咲いてました。この梅の花のように、満開に花開け日本選手~~~~!)


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2018/02/14

今年もこの日がやって来た~!『es koyama』の人を選ぶショコラで小山進パティシエと勝負する!

そうです。今日は2月14日バレンタインデーです。私の年(半世紀越え!)にも成って、バレンタインデーも無いものだと思いますが、毎年妻がショコラを買ってプレゼントしてくれます。感謝の気持ちで一杯です(ママありがとうねぇ~(*^^*))。

「三年のご愛顧感謝します」新規ブログが始まりました。

バレンタインの記事はしブログに移動して新年度版でご覧いただけます。

癒しとストレス解消の遺跡・史跡・城跡・寺社仏閣巡り、きっとあなたは日本が好きになる

     99%歴史が好きになるブログ「高天原の縁側日記」

~縄文・弥生時代から近現代まで、日本の歴史と文化の旅に神様目線で旅立とう~

よろしくお願いいたします。
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2018/02/13

織田家の血脈は残った?「柏原藩陣屋跡」

ほぼ天下を実質手中にしたといっても良い織田信長でしたが、明智光秀の謀叛によってその人生をの幕を閉じることに成ります。信長の死と共に、信長に連なる織田家は次の天下人となった豊臣秀吉や、徳川家康によって没落の一途を辿ります。そんな、織田家においても、したたかに戦国時代や江戸時代を生き抜いた末裔も居るのでご紹介したいと思います。

P2120083.jpg(柏原藩陣屋跡)

今日ご紹介するのは、兵庫県丹波市柏原町を支配した柏原藩の織田家です。城下町のゆるやかな坂を上ると、人の背丈ほどの白壁に囲まれた陣屋跡に行きつきます。かつて織田信長の子孫が治めた柏原藩の政庁です。内部に長屋のような空間を備えた国指定文化財「長屋門」をくぐると、檜皮葺きの玄関を持つ「表御殿」が威厳を放ちます。

柏原藩は信長の兄弟信包と、後に信長の次男信雄の子孫が柏原藩主として、転封されています。城は有りませんが柏原藩陣屋が有り、一部が保存されたり再建されたりしています。



【織田家(信秀・信長系列)って?】

「信長公記」によると、織田信長の家系は、尾張守護でもある管領の斯波武衛家の家臣で、応仁の乱における斯波氏の内紛に派生する混乱のため分裂し、それぞれが主家の斯波氏を凌ぎ戦国大名化した家系です。戦国時代において、清洲三奉行(織田信長の家系はこの三奉行の一家に過ぎません。)が仕える清洲織田氏(大和守家)は清洲城を本拠に守護斯波氏を奉じ尾張下4郡を支配下に治めており、もう一つの岩倉織田氏(伊勢守家)は岩倉城を本拠とし尾張上4郡を治めていました。つまり、織田家(信長)は尾張の守護代でもなく、尾張半分の守護代家老三奉行の一つに過ぎない訳です。

天下統一を目前に本能寺の変で信長および嫡子の織田信忠が討たれると、織田家有力家臣の勢力争いとなります。最終的に羽柴秀吉が織田家中をまとめますが、織田家当主とされた織田秀信(織田三法師、織田信忠の嫡男、信長の孫)成長後も政権は織田家に返されることはありませんでした。しかし織田家の本国である岐阜城は返却され美濃の領主とされました。

関ヶ原の戦いで西軍についたことで徳川家康により織田秀信は改易され、5年後の彼の死を以って織田家嫡流は断絶したと言われています。しかし、織田信長の次男である織田信雄を筆頭に弾正忠家の庶流は存続し続け、江戸時代には外様の小大名や高家、旗本、尾張藩や明石藩家老などとして存続しました。なかには藤掛氏、津田氏のように織田を称しない一族もいます。現在でも直系子孫は続いているんです。明治維新後、大名の織田家四家が子爵に列しました。

フィギュアスケートで有名な織田信成さんも、信長の子孫を自称されていま。。織田信長から数えて17代目の末裔(旗本高家の織田信高の系統)にあたると自称しされています。

【丹波柏原藩史信包流】

P2120013.jpg
(丹波柏原藩初代、織田信長の弟・信包)


織田信長の弟・信包は慶長3年(1598年)6月、伊勢国安濃津から柏原3万6000石に移封されます。これが柏原藩の立藩でした。信包は慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは西軍に属しましたが、戦後は改易されずに済み(名門の血脈を惜しまれたのか?)、大坂城で豊臣秀頼に仕えました。慶長19年(1614年)、信包は大坂冬の陣直前に死去しています。

その後、信包の孫で第3代藩主・織田信勝の時代に治水工事や新田開発などが行なわれて藩政の基礎が固められましたが、信勝は慶安3年(1650年)5月17日に嗣子が無いまま死去してしまい、ここに柏原藩は廃藩となり、その所領は幕府領(天領)となります。

P2120147.jpg(三代藩主・織田信勝を祀る織田神社、ちなみに全国で三社の建勲神社もすぐ側にあります。)
P2120150.jpg(織田権現とも呼ばれているそうです。)

【丹波柏原藩史信雄流】

元禄8年(1695年)4月14日、信長の次男(三男ともいわれます)、織田信雄の五男・織田高長から始まる大和宇陀藩の織田信休が、2万石で柏原に入部したことにより、柏原藩が再度?立藩されました。

これは大和宇陀藩2万9000石の藩主であった信休の父・織田信武が元禄7年(1694年)に発狂して家臣の田中五郎兵衛らを殺して自らも自害するという「宇陀崩れ」を起こしたため、処罰としてその子である信休が減移封されることとなったためです。ちなみに宇陀崩れ(うだくずれ)とは、江戸時代に大和国の宇陀松山藩で起こったお家騒動の事です。

宇陀松山藩三代織田長頼の時、弟の長政に福知村ほか8か村3000石を分与した。4代織田信武の代に至り藩の財政は窮乏し、打開策をめぐって重臣が対立します。1694年(元禄7年)、信武は、創業功臣の裔である重臣生駒三左衛門、田中五郎兵衛を討ち果たして自らも自害を遂げました。このため翌年、後継の織田信休は丹波国氷上郡柏原藩2万石に減封のうえ国替となり、宇陀松山藩は廃藩となり終焉しました。

信休は藩財政窮乏の中で藩政の基盤固めに努めましたが、大洪水や旱魃などが相次ぎ、元禄9年(1696年)には年貢軽減を求める愁訴が起こります。その後も柏原藩では藩財政の窮乏化が進み、藩内では要人をはじめとする61人の解雇(リストラ)、藩士の俸禄削減、藩札の発行などの諸改革を断行しましたが効果はなく、文政7年(1824年)には物価高騰に反対する百姓一揆が起こりました。

第五代藩主・織田信守はこのような中で奢侈(身分不相応に金を費やす事)に走って藩政に関心を示さなかった上、その快楽のために百姓に重税を強いたため、領民は信守を恨みました。しかも信守が愛妾の保野を寵愛して政務にまで関与させた結果、藩主の地位をめぐっての争い(秘命騒動や保野騒動)が起こり、藩政は大いに乱れることとなりました。

第六代藩主・織田信古の代には先代の信守のツケに加えて藩札の発行により藩経済が大混乱し、天保4年(1833年)には遂に百姓の怒りが爆発して、打ち壊し騒動が発生しています。このような中で第八代藩主となった織田信敬は、小島省斎と協力して倹約を主とする藩政改革を断行します。そして藩内で文武を奨励し、藩校として又新館を設立しました。

第九代藩主・織田信民は信敬の遺志を受け継いで新たに藩校・崇広館を設立し、小島省斎と共に藩政改革に臨んでいます。現在「柏原藩陣屋跡」は表御殿が残り、お台所等は地表面に表示されています。奥部分は小学校の敷地に組み込まれました。

P2120117.jpg(信雄流のお墓!柏原高校の右山側にありました。)
P2120142.jpg(真ん中が信雄流初代・織田信休、奥が二代・織田信朝、手前が三代・織田信舊)

【織田家の血脈】

織田氏の諸藩では、信雄の系統は柏原藩の他に天童藩が、織田長益(有楽斎)の系統は柳本藩、芝村藩(戒重藩)が、明治維新まで存続しています。有楽斎の系統は他に味舌藩、野村藩が存在しましたが、これらは江戸時代初期に除封、無嗣断絶しています。

【柏原藩歴代藩主】

代・氏名・官位・在職期間・享年・備考の順に記載。

『織田信包流・外様 3万6000石』

①織田信包(おだ のぶかね)
従三位左近衛中将
慶長3年~慶長19年(1598年~1614年)72?
父は織田信秀。織田信長の実弟。

②織田信則(おだ のぶのり)
従四位下刑部大輔
慶長19年~寛永7年(1614年~1630年)31

③織田信勝(おだ のぶかつ)
従五位下上総介
寛永7年~慶安3年(1630年~1650年)28
無継嗣のため改易。

『幕府領(天領)』

慶安3年(1650年)~元禄8年(1695年)

『織田信雄流・外様 2万石』

①織田信休(おだ のぶやす)
従五位下近江守
元禄8年~享保7年(1695年~1722年)45
父は大和宇陀松山藩4代藩主の織田信武。
大和宇陀松山藩から転封。

②織田信朝(おだ のぶとも)
従五位下出雲守
享保7年~元文2年(1722年~1737年)29

③織田信舊(おだ のぶひさ)
従五位下山城守
元文2年~天明3年(1737年~1783年)74
前藩主信朝の実弟。

④織田信憑(おだ のぶより)
従四位下出雲守
天明3年~文政10年(1783年~1827年)91
実父は高家旗本・織田信栄。
宝暦8年(1758年)に前藩主信旧の養子となる。

⑤織田信守(おだ のぶもり)
従五位下山城守
文政10年~文政12年(1827年~1829年)69

⑥織田信古(おだ のぶもと)
従五位下近江守
文政12年~天保13年(1829年~1842年)54
祖父は3代藩主の信旧。実父は織田信應。

⑦織田信貞(おだ のぶさだ)
従五位下出雲守
天保13年~弘化3年(1842年~1846年)44
実父は5代藩主の信守。

⑧織田信敬(おだ のぶのり)
従五位下出雲守
弘化3年~嘉永7年(1846年~1854年)18
実父は肥後宇土藩9代藩主の細川行芬。

⑨織田信民(おだ のぶたみ)
従五位下山城守
嘉永7年~慶応元年(1854年~1865年)26
実父は筑前秋月藩10代藩主の黒田長元。

⑩織田信親(おだ のぶちか)
従五位下出雲守
慶応元年~明治4年(1865年~1871年)77
実父は交代寄合の山崎治正。

【秘命騒動と保野騒動】

織田 信守丹波柏原藩第五代藩主は、第四代藩主織田信憑の長男でした。享和元年(1801年)6月14日、父信憑の嫡子となる。当初、信憑は信應(養父信旧の三男)を養嗣子としていたものの、この年に死去したため長男信守を嫡子としました。同年10月1日、将軍徳川家斉に御目見し、文化12年(1815)12月28日、従五位下山城守に叙任されます。父信憑の官位昇進にともない、世子の地位にありながら叙任しており、特別な待遇であったといえます。

その後、信守は信應の遺児信古の廃嫡を狙い「秘命騒動」を起こします。先々代藩主・信舊は後継者に恵まれず、分家から信憑を養子に迎えたものの、その後に実子信應を授かいます。成長した信應は先代信憑の養嗣子になったものの、藩主に就任する前に病没しました。つまり、信應の遺児・信古は柏原藩織田家の正統な後継者といえました。

しかし、信守は信古を養嗣子に迎えず、実子信貞を後継者にしようと企んだのでした。信古は病気のため嫡子にはできないとして、退隠をさせようとしたようです。文政4年(1821年)3月以降、たびたび信古の出府を延期させており、この頃の出来事と考えられます。結果的には、文政6年(1823年)、家臣九里政敬らの強い反発を受け、信古を婿養子に迎えました。

信守は、文政10年(1827年)10月10日、家督を相続、同12年(1829年)11月18日に隠居し、養子信古に家督を譲りました。信守の暴政に耐えられなくなった家臣団が幕府に藩主の交代を訴え、隠居させられたとも言われています。さらに隠居後、その側室保野による「保野騒動」が起こります。天保10年8月16日、信守は家臣に側室保野を柏原に連れてくるように厳命し、一方で側室保野に柏原に来ないように連絡をするなどして、家中を混乱させる原因を作ったことから、遠慮(「えんりょ」とは、江戸時代の刑罰の一つで、武士・僧侶などに科せられました。基本的に、自宅での籠居「ろうきょ」を命じたものです。)を命じられています。天保11年(1840年)5月10日江戸において死去、享年69。広徳寺に葬られています。

【柏原藩陣屋跡】

P2120043.jpg
(柏原藩陣屋跡)
P2120044.jpg(長屋門入り口)
P2120062.jpg(表御殿正面、200円で中も拝見出来ます。)
P2120055.jpg
(残っているのは、赤で囲まれた部分です。)
P2120060.jpg
(こちらは建物地図が表示されていました。)
P2120091.jpg(台所辺りと後方は近代的な小学校です。)

柏原陣屋(かいばらじんや)は現在の兵庫県丹波市柏原町(丹波国氷上郡)にあった柏原藩の藩庁の陣屋です。国指定の史跡と成っています。元禄8年(1695年)信長の次男信雄の孫、宇陀松山藩主信休がお家騒動の咎により領地を半減され2万石で移封します。移封より19年経た正徳3年(1713年)幕府より陣屋を築く事が許されました。以後十代にわたり織田氏が治め、明治にいたっています。

長屋門は正徳4年(1714年)に造られた表門で内部は左側が番所、右側が馬見所と砲庫に成っています。文政元年(1818年)御殿が焼失した時も延焼を免れています。創建時から残る唯一のものです。御殿は正徳4年、初代信休により築かれたものでした。文政元年の火災で焼失し、文政3年(1820年)に再建されました。しかし明治維新後に解体され、現在では再建時のおよそ5分の1が現存しているにすぎません。なお、正確な建築年代は判明していませんが、太鼓櫓は大手門にあり、番所や物見櫓の役割も果たしました。明治になってから石田大蔵神社境内に移築されています。

【最後の一言】

八代藩主、織田信敬の実父は肥後宇土藩九代藩主の細川行芬です。九代藩主織田信民の実父は筑前秋月藩十代藩主の黒田長元です。血脈を繋ぐ今の養子とは少し違いが在ると感じます。血より名をとる、江戸時代全国の大名が名前を護るための養子をとっています。我が家の近くでは、三田の九鬼家も血脈は途絶えていたはずですし。謙信公の上杉家も吉良上野介の息子が養子に成っていましたし、私の尊敬する上杉鷹山公も養子でした。大名家は企業と同じです。そこは出来の悪い創業者の息子よりも、能力のある、新社長ですかね~笑。

陣屋敷地は小学校の敷地の一画となっています。第九代藩主・織田信民が作った藩校の名前にちなんで、崇広小学校!「卒業の日に長屋門をくぐる」のが伝統のようです。柏原藩主のように強く大きく伸びろの願いは不変ですね。今年ももうすぐ織田家ゆかりの門から児童が巣立ちます。

P2120037.jpg(あとひと月ほどで児童が巣立つ「長屋門」が最後に成りました。)


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2018/02/11

吉備に突然巨大古墳が造られた謎!全国10位『作山古墳』

前回楯築墳丘墓をご紹介しました。私的には楯築墳丘墓は古墳と呼んでも差し支え無いと考えますが、教科書通り(本当に教科書の区分分けははっきりしています、笑)墳丘墓を使用させて頂きました。吉備は古代の国の中でも、後に中央と呼ばれることに成る大和(奈良)、出雲と共に中央集権国家の成立に、欠かせない存在だったと考えます。

勿論!「いやいや、九州を忘れるな!四国はどうした?近江や丹波・丹後も」と仰られる方々の意見を否定などするつもりは有りませんが、私がフィールドワークで現地に立った印象では、今のところ大和・出雲・吉備は飛び抜けていると思います。特に九州の皆さまには、私が神戸在住と言うことで、苦々しい思いをされていることも先にお詫びさせて頂きます。

P7290430.jpg(後円部左寄りの作山古墳の姿です。)

さて今日は、5世紀に大和以外でこれ程の巨大な古墳を造る勢力が、吉備に存在したという証明も込めて、作山古墳をご紹介致します。

その前に、本当に長くお待たせしてしまったのですが、皆さまが何時も興味を持って頂いている「馬肉会」にわざわざ愛知県から御参加くださいました、「アラフォー・シングルのカラーセラピストBlogger」「仁依菜」さん(私より有名なので皆んご存知ですよね)のブログをリンクさせて頂く事に成りました。

仁依菜さんは、日々実践しているダイエットのお話や健康のこと、日々感じたことなどをブログ『色とりどりな生活』でUPされています。私のブログ共々素敵なブログに訪れて頂けましたら幸いです。

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【全国10位は伊達じゃない「作山古墳」概要】



P7290435.jpg(それでは前方部左側の尾根を登ります。駐車場もありますよ。)
P7290432.jpg
(駐車場に在ったハイキングコースかな?)

作山古墳(つくりやまこふん、三須作山古墳)は、岡山県総社市三須(みす)にある古墳です。形状は勿論、前方後円墳ですね、その規模や時代その他要因により、当然国の史跡に指定されています。

別名:三須作山古墳
所在地:岡山県総社市三須
形状:前方後円墳
規模墳丘長:282m(全国10位)
高さ:24m(後円部)
築造年代:5世紀中頃(古墳時代中期)
埋葬施設:不明
出土品:円筒埴輪・朝顔形埴輪
指定文化財:国の史跡「作山古墳 第一古墳」特記事項全国第10位・岡山県第2位(まだ一位が在るってのが凄いねぇ)の規模

岡山県南部の独立低丘陵を加工して築造された巨大前方後円墳です。東方の造山古墳(岡山市北区新庄下)も「つくりやまこふん」であるため、作山は「さくざん」、造山は「ぞうざん」と呼び分けられています(当初取材時は造山古墳のWki航空写真が作山古墳だったと思います)。これまでに本格的な発掘調査は実施されていません。

岡山一位の造山古墳も未盗掘で調査されていません。歴史(考古学)ファンとしては当然調査してほしい訳ですが、高松塚古墳やキトラ古墳が石室内の調査後にどうなったかを考えると、開けてしまえば良いとは行かないのですよね。より良い保存方法が見つかる迄、待つしか無さそうです。因みに岡山の古墳は宮内庁の管理では無いので、期待しても良いかも知れませんが、私が生きている間には無理かも知れませんね~f(^_^;

さて作山古墳の墳形は前方後円形で、前方部を南西方に向けています。墳丘は3段築成です。墳丘長は282メートルを測りますが、これは岡山県では造山古墳(350メートル、全国第4位/岡山県第1位)に次ぐ第2位になります。墳丘表面では角礫の葺石、埴輪列が認められます。また墳丘北側には造出を有するほか、前方部前面には未削平の残丘があります(途中で中断されたのでしょうかね?)。墳丘周囲に周濠は認められていません。主体部の埋葬施設は明らかでは有りませんが、盗掘坑が認められないことから、墳丘内部での現存が推測されています。

【古墳の見どころの基本】

P7290439.jpg(周濠に見えますがテラスが在るということで、テラス部分の耕作地かもしれません。)
P7290441.jpg(前方部縦側一段目段築)
P7290443.jpg(前方部正面側一段目段築)
P7290446.jpg(前方部縦側二段目段築)
P7290448.jpg(前方部正面側二段目段築)

以前古墳の見どころについてお話しました。勿論時代によっても違うのですが、『段築』 『周濠』 『葺石』 『埴輪』の四点に注目してください。作山古墳に無いのは『周濠』ですが、これは独立低丘陵を加工して築造された事によるものかもしれません。『周濠』は平坦地域で古墳を作るのに土を運ぶ必要があるときに掘られたものです。造山古墳も山の先端を利用したために、『周濠』は見られません。

P2220001.jpg(神戸五色塚古墳、復元すると全て明らか『段築』 『周濠(水は無いですが)』 『葺石』 『埴輪』)
P7290478.jpg(どう見ても周濠に見えるのですがね~笑)

古墳時代の日本の大型墳墓は、墳丘の斜面などにびっしりと『葺石』が施され、遠目には石塚のように見えました。平坦なテラス部分『段築』には『円筒埴輪』をならべ、さらに墳丘周囲には『周濠』をめぐらせて、その外側には数基より成る陪塚をともなうなど、色彩豊かで華麗な装いをみせています。規模や形状のみならず、当時は側面からしか古墳を見られない人びとに対して、葺石によって白く輝く構築物としての陵墓の色彩的イメージは、他の構築物とのあいだに大きな格差を感じさせるに充分であったと考えられます。このような意味からも、古墳は単なる墓ではなくて政治の柱として機能したのでした。

P7290454.jpg(前方部最高地点から後円部を望み下っていきます。)
P7290458.jpg(後円部に向かって進んでいきます。畿内の物は前方部が平坦の物が多いです。)

【作山古墳の立ち位置】

P7290460.jpg(美しい物に出会うとつい撮影してしまいます。見事な松茸(-"-;A ...アセアセ)
P7290462.jpg
(後円部の頂きです。)
 
つまり、この作山古墳は、古墳時代中期の5世紀中頃の築造と推定されます。作山古墳の南側には近世の旧山陽道が通りますが、作山古墳・造山古墳や両宮山古墳(赤磐市穂崎「備前国分寺側」)がいずれも旧山陽道沿いに位置することから、5世紀にはすでに旧山陽道に先行する道があり、その道を通る人々に対して権力を誇示する意図があったと推測されます。

一帯の首長墓系譜としては、推定首長墓系譜(古墳名・墳丘長・時期)造山古墳・350m・5c前半、作山古墳・282m・5c中頃、小造山古墳・142m・5c後半(岡山市北区新庄上・総社市下林)、の順に作られたと考えられます。順に墳丘規模が縮小する様相を示し、作山古墳自体も未削平の残丘などの点で端正さを欠いています。なお、吉備地方では前期古墳の営造地に中期古墳はほぼ築造されず、前期古墳の存在しない地にこれら中期古墳が突如営造される点が注目されます。

古墳域は、1921年(大正10年)に残丘部分を「第一古墳」とする「作山古墳 第一古墳」の名称で国の史跡に指定されています。現在では毎年12月に下草刈りが行われるそうです。かなりの木々が大きく成長しているため、巨木?を残して下草刈りを行っています。

【作山古墳あれこれ】

P7290463.jpg
(航空写真、後円部のテラスと左上に独立丘陵の一部が未削残存が分かります。)
P7290472.jpg(中央下の造山古墳と比べると後円部がいびつです。)
P7290470.jpg(さらにナガレ山古墳と比べると歴然、これが勢力の違いですかね~?)

墳丘長に関して、かつては航空測量図を基に約286メートルという値が知られたが、1997-2014年度(平成9-26年度)の測量結果では282メートルの値に修正されました。墳丘は北側で良好に遺存するが、南側では民家・道路の建設により裾部で大きく改変を受けています。また作山古墳の墳丘には、独特な築造企画として次の幾つかの点が挙げられます。まず、前方部前面などに、元の独立丘陵の一部が未削平のまま残存しています。前方部前端に台形突出部の存在があります(あまり聞いたことが無いです)。前方部前面の堀切(空堀の一種)が水平でなく高低差(約2メートル)が存在します。後円部が正円形でなく楕円形(墳丘を大きく見せるため?)。後円部周囲に「作山段」と呼ばれる段の存在(段築では無いようです)。

造出については、墳丘北側で認められるほか、南側にも存在可能性が指摘されます。造山古墳の造出がくびれ部付近にあるのに対し、作山古墳の造出はくびれ部から前方部寄りに位置し、後出的な様相になります。また、この北造出のさらに前方部寄りには、規模の小さい造出状の張出し部も認められています(色々と試してみた感じがありますね~プロトタイプ?)。

周濠の有無は明らかでない。周堤状の地形が見られることから周濠が存在したとする説もありますが、これについても墳丘テラス内側部分の耕作での削平によるもの(残存テラス部)という見解が示されています。なお吉備地方では、造山古墳も非常に浅い周濠(または周濠なし)と見られ、畿内地方のような深い周濠を有する大型古墳は『両宮山古墳』のみになります。

【出土品】

作山古墳からの出土品のほとんどは、円筒埴輪・朝顔形埴輪です。これらの埴輪列が墳丘各段の平坦面に巡らされたと見られています。総数は5,000本にも及ぶと推計されています。円筒埴輪・朝顔形埴輪のほとんどは窖窯焼成(登り窯は古墳時代中期より朝鮮半島より須恵器が伝来したことに伴って伝来しています。)と見られ、形状は多様です。製作時期にも時間幅があると見られますが、概ね5世紀第2四半世紀に始まり中頃に完成したと推定されています。そのほかには形象埴輪として、わずかに武人埴輪の肩鐙片1点、蓋形埴輪片数点、器種不明埴輪片のみが検出されています(未削平の残丘と共に形象埴輪の破片だけというのも何かありそうです)。

【陪塚】

陪塚(ばいちょう)とは日本の古墳時代に築造された古墳の様式です。 大型の古墳とともに古墳群をなす小型の古墳であり、なおかつ大型の古墳と同一の時代に、その周囲に計画的に築造されたとみなされるものを指します。中心となる大型の古墳に埋葬された首長の親族、臣下を埋葬するもののほか、大型の古墳の埋葬者のための副葬品を埋納するために築造されたものもあると考えられています。

作山古墳の陪塚(陪冢)の存在は明らかに成っていません。かつては、くびれ部南側にある小丘陵が陪塚と見られ「作山第1古墳」と称されていましたが、実際には前方部前面のものと同様に、未削平の残丘の1つと見られます。なお、作山古墳北側の丘陵尾根上には前方後円墳の野宮古墳の存在が知られるが、作山古墳との関係は明らかではありません。

【最後に一言】

吉備に大きな勢力を有した、首長の存在が有った事は事実なようです。しかしながらその勢力が急な拡大と衰退を経験したことは間違いないと思います。その原因が何だったのかは今後の研究の課題かもしれませんね。ここら辺にも吉備津彦命や倭迹迹日百襲姫命辺り絡んでいるかもしれませんね~?(時代は無視ですが、笑)

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リュミエールブラン ネージュ

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2018/02/07

謎が謎を呼ぶ?『楯築遺跡(楯築墳丘墓 )』に眠るのは「吉備津彦」それとも「温羅」?

少し前に古墳と墳丘墓の違いについて、書きました。そのなかで、楯築遺跡が出て来ましたね、私見では「時代は弥生時代に入り、主墳に2基の埋葬施設が確認されましたが、墳頂中央部地下1.5メートルに埋葬されていた大きな木棺がこの墓の主人のものと思われる事。首長の墓として、周囲の物との規模にかなりの違いが有ること、同時代の他墳丘墓と比べても大きさが桁違いな事などから、古墳と呼んで良いのではないかと」提唱させて頂きました。

P7290034.jpg(備後一ノ宮「吉備津神社」の桃太郎です)

今回はその楯築遺跡をご紹介させて頂きます。楯築墳丘墓(古墳)には桃太郎の原型ともいわれる「吉備津彦と温羅」伝説もあり!今回も皆さんの想像力を刺激します。

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【楯築遺跡】



P7290315.jpg(王墓の丘史跡公園・楯築地区)

楯築遺跡(たてつきいせき、楯築墳丘墓)は、岡山県倉敷市矢部にある墳丘墓です。形状は「双方中円形墳丘墓(珍しいですし、前方後円墳の原型ともされます)」です。国の史跡に指定されています。古くは「片岡山古墳」と呼ばれていました。

墳頂所在地 岡山県倉敷市矢部
形状双方中円形墳
丘墓規模両端72m
墳丘直径50m
築造年代2世紀後半~3世紀前半
出土品鉄剣・首飾・ガラス玉・小管玉
指定文化財国の史跡に指定「楯築遺跡」昭和56年(1981年)12月9日
特記事項全国最大規模の弥生墳丘墓

【楯築墳丘墓概要】

P7290344.jpg(周りに小さい石室古墳が結構あります。)
P7290385.jpg(墳丘墓の中心に神社の代わりか?祠がありました。)
P7290356.jpg(祠の周りに正に楯のような板石が5個立っています。)
P7290393.jpg(神社跡と板石、何故このように立てたのでしょう。)


王墓山丘陵の北側に弥生時代後期(2世紀後半~3世紀前半)に造営された首長の墳丘墓です。墳丘の各所から出土した土器片の多くが壺形土器、特殊器台(これ覚えてくださいね)・特殊壺の破片です。

直径約43メートル、高さ4、5メートルの不整円形の主丘に北東・南西側にそれぞれ方形の突出部を持ち、現在確認されている突出部両端の全長は72メートルで同時期の弥生墳丘墓としては日本最大級です。主墳の頂上には木棺を取り囲むように5個の巨石が立てられ、また、斜面にも2列に地表の露出分に高さ・幅とも1メートルあまりの20個ほどの列石がめぐらされ、北東側の突出部は団地造営工事のため、残念ながら破壊されています。

今ではその名残を一部にとどめているだけですが、前方部状の突出で、およそ十数メートルほど伸びています。その上面は幅約3、4メートルで、わずかに前面に向かって下降気味ですが、ほぼ平坦に造られています。突出部の前面はかなり急な傾斜で2~3メートルほど下がり、東西に走る小道に達しており、小道をわたると突出部の続きと思われる高まりがつづき、盛り土しているのが分かります。また円礫が二重三重に置かれていて、円丘につけられた遺構であることが分かります。

南西側の突出部は約20数メートルにわたって細長い幅数メートル高さ2メートルほどの尾根状のものが伸びている。先端部の両側が丸く整形されていてその先端には大きな列石が貼られている。西部分には現在、給水塔が建っていて、今は見ることができません(残念ですね~~!)。

香川県高松市の猫塚古墳や奈良県天理市の櫛山古墳などと同じ双方中円墳ですが、先行的な形態をしています。 2世紀末に起こった倭国大乱が終わった後、瀬戸内海沿岸地方では、古墳造営の新しい兆しが見られ、吉備でも墳丘の造営の動きが見られるようになっています。

このような大きな墳丘墓が、古墳時代より先に築造されていたのは、この地に葬送儀礼に特殊器台・特殊壺を用いる大きな政治勢力があったことを窺わせます。その勢力の代表的な首長の墓ではないかと推測されています。吉備地方では、後の古墳時代中期には造山(全国4位・350メートル)、作山古墳(全国9位・270メートル)の大前方後円墳が造られました。吉備の勢力がいかに大きかったか、を物語る墳丘墓(古墳)です。

【楯築墳丘墓発掘調査】

P7290326.jpg(双方中円形墳丘墓です。分かりますか?)
p159654753.jpg
(良く覚えてくださいね~!南西側には給水塔が、北東側は住宅地に成っています。)
P7290369.jpg(北側は宅地化されて削られています。)
P7290337.jpg(発掘調査説明版)
P7290371.jpg(北東方向は少し残っていますが、その先は削られていました。)
P7290401.jpg(西側の盛り土、南西側の方部の上に立っています。)
p1435789564.jpg
(特殊器台にも弧帯文がデザイン?朝顔型埴輪とどう違うのか?)

昭和51年(1976年)より昭和61年(1986年)の間に、岡山大学文学部考古学研究室を中心とした調査団により6度にわたる調査が行われました。

主墳には2基の埋葬施設が確認され、墳頂中央部地下1.5メートルに埋葬されていた木棺がこの墓の主人のものと思われます。出土した木棺は全長約2メートル・全幅約0.7メートルで棺の底には30キログラムもの朱が厚く敷かれていました(古代の朱)。

「うんちく『古代朱』」について、硫黄と水銀を混ぜ、加熱し硫化水銀を作り、さらに加熱し硫黄分を飛ばして作ります。混合比・加熱温度によって黄~赤~黒まで色が作られます。辰砂(私も陶芸の釉薬に使います)と朱は両方とも硫化水銀が原料で、天然の硫化水銀(辰砂鉱・辰砂石)から作られたものが辰砂と呼ばれます。成分は同じで、天然物か人工物かの違いみたいです。硫化水銀を作る技術はかなり古くからあったようです。古代朱は、朱に特別な加工を施して作られた色だそうです。つまりとても貴重な物でした。

本題に戻りまして、遺骨は検出されず歯の欠片が僅かに2個出土したのみでした(遺骨は何処へ行ったのか?)。木棺は全長3.5メートル、全幅1.5メートルの木製外箱(木槨・朝鮮楽浪古墳に多い埋葬方法です。更には楽浪郡は鉄とも関係が深いのです。)に納められていました(かなり大きいですね)。副葬品が外箱の中に置かれており鉄剣1本、首飾り2個、多数のガラス玉と小管玉が一括り出土しました。これらは岡山大学考古学資料館に収蔵されています。

また、もう1基の埋葬施設は中心埋葬の南東9メートルの位置に発見されたが僅かに朱が認められるのみで出土品は有りませんでした。副葬品の貧弱さは、権威や富に関係するのではなく、その時代の埋葬の習俗の影響と考えられます。意味がよく分からないのですが、夫婦?とか、墳丘墓の設計者とかですかね?(ん~~謎です。)。

団地造成時に破壊された突出部分にはかつて石列があり朱塗りの壺型土器が配列されていそうです(墳丘墓から見ると一目瞭然ですが、今は住宅地なんですよね~f(^_^;)。

P7290390.jpg(給水塔側から見た墳丘墓東側高4~5mくらいですね。)
P7290398.jpg(墳丘墓斜面にも2列に地表の露出分に高さ・幅とも1メートルあまりの20個ほどの列石があります。)

【弧帯文石(弧帯石)】

p7536512546.jpg(複製品、弧帯文石・東京国立博物館展示。)

墳丘上には大正時代の初め頃まであった楯築神社に、代々伝世し、ご神体として神石(亀石)と呼ばれる全表面に毛糸の束をねじったような弧帯文様が刻まれた石が安置されていましたが、現在はこの遺跡のそばの収蔵庫に祀られてます。こちらは「伝世弧帯文石」と呼ばれています。 この弧帯文は、纏向遺跡の弧文円板と葬送儀礼で共通するといわれているのです。纏向遺跡(箸墓古墳に眠るといわれる、倭迹迹日百襲姫命は、吉備津彦の姉妹に成ります。)との繋がりが出て来ました~f(^_^;

ここ楯築遺跡にも吉備津神社や鬼ノ城などのように温羅伝説が残っており、吉備津彦が温羅との戦いに備えて石楯を築き、防戦準備をしたと伝わっています(私には墓を壊して石室を曝した跡にしか見えなかったけどね!)。

鬼ノ城については、以前天智天皇が天智2年(663年)白村江の戦いで、倭(日本)百済復興軍は、朝鮮半島で唐・新羅連合軍に大敗した事をきっかけに、瀬戸内の守りを固めるために作らせたとの考えを以前ご紹介しました。

P7290236.jpg(温羅の本拠地?鬼ノ城!)

【吉備津彦は桃太郎か?温羅って誰だ?】

P369875461.jpg
(岡山駅の温羅の銅像、男前です。)


温羅(うら・おんら)は、岡山県南部の吉備地方に伝わる古代の鬼です(岡山駅の銅像が有名です。中央にまつろわない「服従しない」、国・地域・人物等を鬼と呼んだ様です。)。温羅とは伝承上の鬼・人物で、古代吉備地方の統治者であったとされます。「鬼神」「吉備冠者(きびのかじゃ)」という異称があり、中央の伝承によると吉備には吉備津彦命(きびつひこのみこと)が派遣されたとされ、吉備に残る伝承では温羅は吉備津彦命に退治されたといわれます。

伝承は遅くとも室町時代末期には現在の形で成立したもので、文書には数種類の縁起が伝えられています。また、この伝承は桃太郎のモチーフになったともいわれているので、岡山は『桃太郎』で有名なんですよね。

伝承によると、温羅は吉備の外から飛来(渡来)して吉備に至り、製鉄技術を吉備地域へもたらして鬼ノ城を拠点として一帯を支配したといわれます。吉備の人々は都へ出向いて窮状を訴えたため(支配した?製鉄技術を教えたりして、名首長じゃないですか!)、これを救うべく崇神天皇(第10代)は孝霊天皇(第7代)の子で四道将軍の1人の吉備津彦命を派遣しました。

討伐に際し、吉備津彦命は現在の吉備津神社の地に本陣を構えまさた。そして温羅に対して矢を1本ずつ射ましたが矢は岩に呑み込まれて外れます。そこで命は2本同時に射て温羅の左眼を射抜きます。すると温羅は雉に化けて逃げたので、命は鷹に化けて追いかけます。さらに温羅は鯉に身を変えて逃げたので、吉備津彦は鵜に変化してついに温羅を捕らえました。そうして温羅を討ったといわれています。

討たれた温羅の首はさらされることになりましたが、討たれてなお首には生気があり、時折目を見開いてはうなり声を上げたそうです。気味悪く思った人々は吉備津彦命に相談し、吉備津彦命は犬飼武命に命じて犬に首を食わせて骨としましたが、静まることは有りませんでした。次に吉備津彦命は吉備津宮の釜殿の竈の地中深くに骨を埋めましたが、13年間うなり声は止まず、周辺に鳴り響きました。

ある日、吉備津彦命の夢の中に温羅が現れ、温羅の妻の阿曽媛に釜殿の神饌を炊かせるよう告げます。このことを人々に伝えて神事を執り行うと、うなり声は鎮まったといいます。その後、温羅は吉凶を占う存在となりました(吉備津神社の鳴釜神事がそれですね)。私は占いをお願いしたことは無いのですが、現地には訪れています。

【伝説登場人物の紹介】

『温羅』

温羅(うら)「吉備冠者」「鬼神」とも呼ばれます。鬼ノ城を拠点とした鬼です(鬼ノ城については前出!)。渡来人で空が飛べた、大男で怪力無双だった、大酒飲みだった、等の逸話が伝わります。出自についても出雲渡来説・九州渡来説・百済渡来説・加耶渡来説・新羅渡来説など複数の伝承があります。

『阿曽媛』

阿曽媛(あそひめ)温羅の妻。阿曽郷(現・総社市奥坂)の祝(神に祈る人)の娘。

『王丹』

王丹(おに)温羅の弟(そのままやん)。

『吉備津彦』

吉備津彦命(きびつひこのみこと)記紀に記載が有ります。「大吉備津日子命」ともいわれます。いずれも吉備平定後の名で、本当の名は「彦五十狭芹彦命(ひこいさせりびこのみこと、比古伊佐勢理毘古命)」。第7代孝霊天皇皇子。『日本書紀』では四道将軍に数えられます。『古事記』『日本書紀』とも、吉備へ征伐に派遣されたとされます。地元では、妃として百田弓矢比売命や高田姫命(たかだひめのみこと)の名が伝わっています。

四道将軍とは、『日本書紀』に登場する皇族(王族)の将軍で、大彦命(おおびこのみこと・北陸道方面司令官)、武渟川別命(たけぬなかわわけのみこと・東海道方面軍司令官)、吉備津彦命(きびつひこのみこと・山陽道方面軍司令官)、丹波道主命(たんばみちぬしのみこと・丹波丹後方面司令官)の4人を指します。

吉備津彦命(弟)は、稚武彦命(わかたけひこのみこと)とも記紀に記載があります。「若日子建吉備津日子命」ともいわれます。兄を「大吉備津彦命」、稚武彦命を「吉備津彦命」と記す場合もある様です。第7代孝霊天皇皇子で、吉備津彦命の弟です。『古事記』では、兄とともに吉備へ派遣されたとされます。(倭迹迹日百襲姫命の兄と弟か?)

『犬飼武命』

犬飼武命(いぬかいたけるのみこと)忠実な家臣といい、桃太郎における犬のモデルとされます。後世、犬養毅はその後裔を称しています(出来すぎです(;^_^A)。

『楽々森彦命』

楽々森彦命(ささもりひこのみこと)当地出身の家臣で智将といい、桃太郎における猿のモデルとされます。その出自は県主(律令制以前の地位、国造や伴造より古い呼び名です。)であったともいい、娘の高田姫命が吉備津彦命に嫁いだともいわれます。

『留玉臣命』

留玉臣命(とめたまのみこと)「遣霊彦命」とも言われます。鳥飼に優れた家臣といい、桃太郎における雉のモデルとされます。

【うらじゃ祭】

うらじゃ祭とは、岡山県岡山市にて行われている夏祭りです、新しい祭りで、YOSAKOIと同じようなお祭りです。岡山県に古くから伝わる鬼神「温羅(うら)」の伝説を元にしたものであり、名称もそれに由来します。「うらじゃ、うらじゃ」の掛け声で練り歩くお祭りのようです。つまり「鬼だぞ~鬼が来たぞ~」のイメージですかね(笑)?現在では、「おかやま桃太郎まつり」のメインイベントとして、8月の第1日曜日とその前日の土曜日に岡山市中心市街地で開催されています。踊りに参加する人が全員、顔に化粧を施すのが特徴だそうです。

【最後に一言】

いつもの事ですが、勝った者が歴史を書き換えていきます。渡来人「温羅」は人々から慕われ、首長として大きな力を持つようになったのかもしれません。その最新の技術や情報は、中央政権として台頭してきた倭の王からは邪魔な存在だったと考えられます。「出雲王国」と「吉備王国」の連携は中央集権国家を目指す倭にとって一番の脅威だったでしょう。

「楯築墳丘墓」は吉備津彦が温羅との戦いに備えて石楯を築き、防戦準備をしたとの伝承がありますが、私の現地での感覚は中央にたてついた温羅の墓を暴き死体を晒ものにした後のようにも見えました。防戦基地としてはお粗末すぎます。

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リュミエールブラン ネージュ

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2018/02/04

今年(2018年)は「南南東」『恵方巻』はコンビニの策略だ!

今年もやって来ました。今や全国的に広まった節分の恵方巻イベント、元々は、関西の一部(大阪と兵庫県の一部)だけで行われていた行事?でした。兵庫県北部但馬生まれの私は、子供の頃はまったく知りませんでしたし、そんな食べ方していなかったと思います。同級生や同郷の妻も、子供時代は知らなかったとのことでした。

兵庫県尼崎市(阪神間ですね!)の伯母の家では、私が小学生の40年以上前から、丸かぶりしていたのを記憶しています。
この近畿圏の私が知らない、「「恵方巻」成るものの歴史を追いかけて見ました。


P2020100.jpg(セブンイレブンの我がもの顔の垂れ幕です。)

どうやら、コンビニが大きな役割を担っているので、そちらも調べてまいりました。もう少しするとバレンタイン!こちらも同じように業者の策略に乗せられているようなので、少し冷静に考えてみましょうのブログです。

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【恵方巻の名前自体がコンビニの発案?】

P2020095.jpg
(子どもの頃は関西のコンビニはローソンだった。兵庫県の店舗数1位はセブンイレブン、2位はファミリーマート、ローソンは3位に後退しています。)

調べてみると、『恵方巻』の名前自体がセブンイレブン(1990年)の発案でした。元々は、関西圏でも『節分のり巻き』の名前だけだったようです。皆さんはこの、海苔巻きにかぶり付いている姿、何か日本らしからぬお下品さと、感じられた事はありませんか?そうなんです。

発祥に付いては幾つかの説が有る様ですが、江戸時代末期から明治時代初期、大阪の商人(「船場の商人」とする資料も存在します。)による商売繁盛の祈願事として始まったという説や、豊臣秀吉の家臣・堀尾吉晴(初代松江城主)が偶然節分の前日に海苔巻きのような物(様な物って?)を食べて出陣し、戦いに大勝利を収めたという故事を元にしているという説も有ります。ただし、板海苔の誕生は江戸時代であることから、この説の根拠の乏しさが指摘もされています(他にも幾つか説は有るようです)。

起因として「厄落とし・縁起担ぎ」や「船場にある階段の中段で女性が太巻きを丸かじりして願い事をした」更には「船場の旦那衆のあそび」等が挙げられています(その他にもまだ有ります。)。

【遊女と巻寿司】

しかし、私は最後の旦那遊びを推薦します。花街発祥の、「怪しげな風習」ですが、かつては商家の旦那たちが、遊女と巻寿司を使った遊びを楽しんでいたのだそうです。花街の遊女に海苔巻きをかぶり付かせて楽しんでいる旦那周の助平心が、このお下品な風習を広めたと考えると、納得しやすいのです(///∇///)。あっ!貴方、今ソフトクリームを舐める女性を想像しましたね。バナナやウィン…もうやめときましよう。兎に角そういう事だと思います。

なぜ、そんな風習が全国的に広まったのか?節分にその年の恵方を向いて巻き寿司に無言でかぶりつく、そうすれば幸せになる、願い事が叶う?毎年恒例の行事となりつつある「恵方巻」ですが。ただ、この風習の由来は定かではありません。あたかも伝統であるかのように「装われた」ものだと言われています。

いったいどういう経緯で、ここまでの広がりを見せたのか、恵方巻に詳しい民俗学者はこのように分析しています。熊本大准教授の岩崎竹彦さんは「とりあえず大阪の船場が発祥だということは確かでしょう」とBuzzFeed Newsの取材答えられています。節分の巻き寿司(恵方巻)の研究者で、「フォークロリズムからみた節分の巻きずし」などの論文をお出しの方です。

フォークロリズムとは、伝統的な民間伝承が、違う文脈で使われるようになることを指す言葉です。「もともとは船場の旦那衆が、花街でやっていた遊びでしょうね」岩崎さんの調査などによると、やはりかつて商家の旦那たちが、遊女と巻寿司を使った遊びを楽しんでいたのだそうです。

平安時代の絵巻物や映画・ドラマなとでも扇で口を隠す姿を良く見かけます。口を開ける(若しくは、口の中を見られる)事は恥ずかしい事だったようです。現代の様な歯科医院が無かった時代、虫歯等で歯が痛い時には、丸々抜いてしまう方法が取られました。ですから、お口の中はぼろぼろだったのかも知れません(恥ずかしい)。それがいつ頃から少しずつ、人々に浸透していったのでしょうか?明治末期の大阪で生きた人が残している回顧録などには、「家でそういうことをしていた」という記載もあるといいます。

いずれせにせよ、恵方巻きの明確なルーツは不明です。近畿地方の一部に広がっていた風習であり、「伝統行事」と言えるまでではなかったのです。

【大阪鮓商組合が商売に利用】

戦前から始まった「幸運巻寿司」こうした「怪しげな風習」にそれらしさを付与したのが、商業キャンペーンでした。前出の岩崎さんは、巻寿司に関するビラを収集しておられます。発見した一番古いものは、やはり1932(昭和7)年に大阪鮓(すし)商組合後援会が発行したものだそうです。これは、太巻きを自ら広めた大阪鮓商組合後援会事務局長も、認めておられるようなので、信憑性が高いですね!太巻は七福にちなんで、7つの具を入れて巻くのが基本になったようです。

「幸運巻寿司」をPRするためのビラには、こんな内容が書かれています。《この流行は古くから花柳界にもて囃されていました。それが最近一般的に宣伝して年越には必ず豆を年齢の数だけ食べるように巻寿司が食べられています。これは節分の日に限るもので、その年の恵方に向いて無言で一本の巻き寿司を丸かぶりすればその年は幸運に恵まれるということであります。宣伝せずとも誰言うともなしに行ってきたことを考えると、やはり一概に迷信として軽々しく片付けるべきではないかも知れません。いま、私たちが知っている「恵方巻」そのものだ。》ここでも「花柳界」(遊郭など)に原点があるとされています。

次に古いのは、1940年(昭和15)年に同じ組合が発行しているものです。そこに書かれている内容は、《巳の日に巳寿司と言うてお寿司を喰べるように毎年節分の日にその年の恵方に向かって巻寿司の丸かぶりをすると大変幸運に恵まれるという習わしが昔から行事の一つとなって年々盛んになっています。》

「習わし」「昔からの行事」としつつ、その由来には一切触れられていません。花柳という言葉が消えているのは、時勢として良くないとの判断があったのかもしれません。この年は「皇紀2600年」の節目です。戦時であり、国威高揚に熱心だったご時世でした。「大変幸運に恵まれる」ことは、消費者が望んでいたものでもありました。いずれにせよ、恵方巻と同じような風習は、戦前から寿司屋のマーケティングに活用されていたのです。

戦火が激しくなるうちに中断していたこのマーケティングは、終戦から4年後には再開していた様です。その後、高度経済成長期に突き進む日本で、この「風習」を利用したのが、スーパーマーケットとコンビニエンスストアでした。全国展開の基礎をスーパーがつくり、結実させたのはコンビニです。

1970年代後半から、大阪の海苔組合や厚焼組合などがビラを発行し始めます。大手のスーパーマーケットから依頼されたものもあったといわれます。ただ、どれも「昔の言い伝え」などとしている物でした。

一方の鮓組合は、風習の起源を明確に示したビラを発行しています。いつからかは不明だが、1990年のものにはこう記載されています。《江戸時代の末期若しくは明治の始め頃から大阪の中心地、船場が発祥地とされております。商売繁盛、無病息災、家内円満を願ったのが事の始りです。一説には若い女性の願いである好きな人と一緒になりたいという祈りから広く普及したとも伝えられております。》

岩崎さんは前出の論文の中で、こう指摘されています。「鮓組合のコピーによって昔からの言い伝えに根拠が与えられ、いわば怪しげで不可思議な風習が本物となった、あるいは本物であることの装いができあがった、と考えられる。」。こうして作られた「風習」はスーパーマーケットの折り込みチラシやチェーン店の寿司屋(小僧寿し?)、コンビニエンスストアによって広がりを持つようになっていきます。

バブル期には巻き寿司がどんどん豪勢になっていきました。マグロやカニやイクラを入れて、値段が高くなっていきました。一方のバブル崩壊後は、社寺で祈祷を受けたノリを使ってプレミアをつけていたようです。その頃はリストラの嵐でしたから、国民みんな大変な思いをしていると言うことで、祈りをキーワードに巻寿司も販売させようとした、業界の苦労が感じられます。

【全国に展開させたセブンイレブン】

P2020102.jpg(セブンイレブン恵方巻セット?)


それでも、昭和60年代や平成の初め頃ではまだ全国に浸透しているとは言い切れない状況でした。そんな中、チェーン店として初めて「恵方巻」という言葉を用いて全国展開を図ったのが、セブンイレブンです。

セブン&アイの広報担当者は、BuzzFeed Newsの取材にこう語っています。「1989年に広島県の一部店舗で『太巻きを節分にどうぞ』と売り出してみたのが始まりです。2月は催事が節分しかなく、関西出身のオーナーが関西では節分に太巻きを食べるという風習があることに目をつけて、おすすめしてみたそうです」。

オーナーの目論見は見事に功を奏し、そのまま展開が広がります。全国展開が始まったは、1998年のことです。売り上げは年々増加しています。2016年は、664万本が販売されました。(セブン&アイHLDGS)

ここまでくれば、「怪しげな風習」だった恵方巻は、もはや新たな「伝統」と言えるのではないでしょうか?北海道や沖縄には最近になってようやく風習が広がり始めたようです。特に沖縄はもともと節分行事がありませんでしたから、スーパーマーケットがどんどん宣伝をしている段階です。

ほぼ全国制覇は完結しそうです。まだ伝統と言えるかは微妙ですが、間違いなく、将来的には伝統になるでしょう。ちなみに、今年の恵方は「南南東」です。

【我が家の恵方巻!いや此方の方が重要だ。】

P2030149.jpg(鰯と柊、こちら重要です。ちなみに柊は食彩館さんの御好意で頂きました。角皿は下手くそな私の作品です。)
P2020119.jpg(そして豆まきセット、お面も付いてました。)
P2030129.jpg(そして私が食べるのは上の海鮮巻き「須磨寺」の胡麻祈祷・厄災難除のお札付きです。)
P2220222.jpg
(具は七種類、神戸七福神ゆかりのありがたい具材です。)

結婚してから毎年我が家でも、恵方巻(私は当然?海鮮巻ですが、笑)を買って黙って黙々と恵方にむかって食べております。近頃日本古来からの風習である、豆まきやイワシとヒイラギの魔除けの方を大切にしなければ行けないと感じています。反省材料ですね(笑)。

此方伝統の豆まきですが、宇多天皇(在位887~897)の時代に、鞍馬山の鬼(朝廷に、まつろわない民の総称?土蜘蛛等)が出て来て都を荒らしたので、祈祷で鬼の穴?を封さぎ、三石三升の炒り豆(大豆)で鬼の目を打ちふさぎ、災厄を逃れたという故事伝説が始まりといわれています。

豆まきは、「穀物には生命力と魔除けの呪力が備わっている」という信仰、または語呂合わせで「魔目(豆・まめ)」を鬼の目に投げつけて鬼を滅する「魔滅」に通じ、鬼に豆をぶつけることにより、邪気を追い払い、一年の無病息災を願うという意味合いがあります。

柊と鰯は、柊の尖った葉に魔除け意味合いがあるようですし、鰯に付いては鬼は生ぐささが嫌いみたいです(ニンニク嫌いのバンパイアか!(;^_^A)。

【ここで何時ものうんちくを!】

鬼といえば、鬼門を思い出しませんか。鬼門は丑寅の方角(鬼は牛の角が生えていて、虎のパンツルックなのがご理解頂けましたか?)ですね。

京都御所は(鬼門封じとして比叡山延暦寺を作ったにも関わらず)北東が削られて、鬼に角が立たないように造ってあります。知っておられましたでしょうか(一昨年京都御所の鬼門写真が無くて、岩清水八幡宮の写真を使いました。その翌日京都御所の鬼門だけ撮影に行った私は、Bloggerの鏡です。自分言うか~!Σ(×_×;)!)?

DSC_0075.jpg
(京都御所の鬼門、角がへこんでいます。)

豆まきの掛け声にも地域性は有るようで、我が家の近く三田市(みたではなくて「さんだ」です。東京の三田と混同されるので、サンダクロースを掛け声にしています。無理ないかな?)では、戦国武将九鬼氏(九鬼水軍で有名!)の城下町なので、旧市街地では、「福は~内」「鬼も~内」だそうです(成る程ですね!)。

【最後に一言】

昨年比は、子供たちが私の書斎にも豆をまいてくれました。昔は普通に豆をまいていましたが、今は袋入りの豆(圧力で揚焼き?してあるのか、柔らかくて食べやすいです。埃も付くしね!)ですね、風情は無くなったけど、これも時代です。

今年は、私が友人と三ノ宮で遊んでいたので、豆まきは妻が代わりに行ってくれました。もう立春ですか、年を重ねると早いですね~(;つД`)。幼馴染というのは良いものです。気兼ねも無いし、女の子(もう子じゃないな)も皆若々しく、素敵な奥様方です。

伝統文化は当然ですが、少しずつ変化しています。これは今に始まった事では無いと思いますが、例え形は変わっても、日本人として伝えて行かなければいけない文化も有ると思います。勿論!「恵方巻」も良いですが、古来の豆まきも是非行って文化を引き継いで頂きたいです。

歴史って本当に面白いですよね~!
今後もランキングにはこだわって良い記事をUPしたいと思います。はげみになりますので宜しくお願い致します(^人^)
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リュミエールブラン ネージュ

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2018/02/02

光秀の謀叛は、丹波・近江の没収、「出雲・石見への国替」が原因か?『福知山城』を検証してみた。

前回、明智光秀の居城「亀山城」をご紹介すると共に、簡単ではありますが、本能寺の変への流れをご紹介致しました。表題にも書きましたように、丹波と近江(坂本)を没収され、出雲・石見への国替えを示唆された事が本能寺の変の大きな原因となったという推論は、これまで徳川家康饗応役をしくじり、信長が森蘭丸に命じて鉄扇で打たせ辱めを受けた怨恨が原因なのでしょうか。

さらには丹波国平定に際して、丹波八上城の波多野兄弟を降伏に追い込み、自分の母親(義母、乳母、代わりの母とも)を人質として城内に送りこんで助命を約束、それにより波多野兄弟は八上城を開城します。しかし、安土に送られた波多野三兄弟は信長が勝手に磔刑してしまい、これを知った八上家家臣はこの約束違反に激怒し、光秀の母を殺害してしまいました。この怨恨が本能寺の変を引き起こしたとの推論の重要な要因だと考えられてきました(光秀が母を人質に出したことも、母が殺されたことも信頼できる史料には記載されておらず、これは史実ではなく後世の創作とされています。)。

P9240392.jpg(この写真撮影場所が福知山城のベストスポットだと思います。ZORROというパチンコやさんの立体駐車場のてっぺんです。是非行ってみてください。笑)

現在では、影の首謀者説や四国(長宗我部氏)攻めの新資料が発見されるなど、新説が台頭して謎がふかまってきました。

丹波地方は其ほどまでに、光秀にとって重要な土地だったのか、検証するために丹波攻略の最前線、福知山城へ出掛けました。

それでは、『市郎右衛門』の日本史ブログをお楽しみ?くださいね(人´ω`*).☆.。

ちなみに新しいブログが始まりました。

癒しとストレス解消の遺跡・史跡・城跡・寺社仏閣巡り、きっとあなたは日本が好きになる

     99%歴史が好きになるブログ「高天原の縁側日記」

~縄文・弥生時代から近現代まで、日本の歴史と文化の旅に神様目線で旅立とう~




P9240208.jpg(昇龍橋を渡って天守閣へ、本来こちらは裏側に成ります。)

【丹波没収は事実か?】

実際には丹波・近江(坂本)没収はされず、国替えを示唆されただけの様です。信長の軽い?部下いじめだったのも知れません。本能寺へ向かう出発点も亀山城ですし、明智光秀は近江・坂本城を居城としており、丹波も所領として36万石を持っていたといわれます。意外と石高は少ないように感じますが、畿内近国の諸将(細川・筒井等)を指揮下に置き、その実力は200万石相当とも言われています。

関東方面軍団長、滝川一益も関東・上野に移動になったように、信長は方面軍団長(明智光秀・柴田勝家・羽柴秀吉等)を征服目的地の近くの所領に送り出す戦略で、織田家の支配を拡大していきます。織田軍の作戦であって、特別な方法でも有りません。当時の織田家の規模を考えれば、当然の選択肢と考えて差し支えないと思います。出雲や石見も毛利が屈服するか滅びれば、さらに九州方面へ国替えしながら、領土を移動拡するということに成ります。

また、当時の山陰地方は現在のように、都市圏に人口が集中し、過疎化の進む田舎ではなく(実家が有るので辛いのですが)、当時は銀山もあり、日本海海運も発達している時代なので、丹波の内陸部よりはるかに豊かな土地だったと言えます。信長にしてみれば、無理難題では無かったかもしれません。

しかし、光秀が丹波にこだわったのは事実なようです。一級の文化人である光秀は京都に近いこととや、丹波平定に多大な苦労をした事、更に亀山や福知山の領地経営に力を注ぎました。その結果として丹波は潤い、軌道に乗りかけていたようです。

しかしながら、そもそも信長の政策は、配下武将の土着化を避けるというものです。その様なしがらみを断つ政策は秀吉や家康にも継承されています。光秀が丹波にこだわったとはいえ、本能寺の変の動機にあげるのは極端ではないでしょうか。

参考までに、光秀が母を人質に出したことも、母が殺されたことも信頼できる史料には記載されておらず、これは史実ではなく後世の創作とされています。

【福知山城跡】

P9240065.jpg(大天守・近世初期の望楼型です。外観は忠実に再現されていますが、構造は鉄筋コンクリート造です。)
P9240056.jpg(天守台には移築された銅門続櫓)

福知山城(ふくちやまじょう)は、京都府福知山市字内記内記一丁目周辺にある日本の城(平山城)跡です。江戸時代には福知山藩の居城でした。2017年には、「続日本100名城」(100名城の後さらに100城認定されています。158番)に選定されています。

別名:横山城、臥龍城、八幡城、福智山城、掻上城
城郭構造:連郭式平山城
天守構造:複合・連結式望楼型(1699年・元禄12年築)外観復元(1985年・昭和60年再度)
築城主:明智光秀築城年1579年(天正7年)
主な改修者:有馬豊氏
主な城主:明智氏、朽木氏等
廃城年:1873年(明治6年)
遺構:曲輪、石垣、井戸、移築番所・門等
指定文化財:福知山市史跡
再建造物:大・小天守・釣鐘門等

P9240018.jpg(隅櫓風城郭建築・福知山市佐藤太清記念美術館、「銅門番所」移築 番所)
P9240104.jpg
(復元された、釣鐘門!)
P9240197.jpg(釣鐘門を反対から見るとこんな感じです。下の方は野づら積みですね。)
P9240111.jpg(「朝暉神社」朽木氏を祀っています。)
P9240136.jpg(手前住宅地が二の丸跡、緑の緑地が伯耆丸、その向こう山陰線の高架の向こうの緑が内記丸です。かなりの規模になりますね。)

現在のような縄張りは明智光秀がおこないました。畿内を押さえた織田信長は、豊臣秀吉と明智光秀に中国攻めを命じます。豊臣秀吉は山陽道から進軍したのに対して、明智光秀は山陰道側より入りました。丹波国を平定した明智光秀が築城し、女婿の明智秀満を城主としました。

現在は、福知山城公園として整備され、天守は三重三階の大天守と二重二階の小天守が1986年(昭和61年)に復元されました。福知山市郷土資料館の施設となっています。公園入口には隅櫓風城郭建築様式の福知山市佐藤太清記念美術館があります。市街地を一望する福知山盆地の中央に突き出た丘陵の先端地にあり、その地形の姿から臥龍城等の別名を持ちます。

東から西に流れる由良川が天然の堀となっており、北側には土師川と合流する標高40mの台地に築かれ展望のよくきく場所にあります。東、北、西は断崖で要害の地でもありました。国道9号走行中やJR福知山線の列車内からも観ることが出来ます。夜間はライトアップもされとても綺麗です。また多数の桜が城周辺に植林されており、春に満開となる桜が市民の目を楽しませます。

丘陵の最先端部の一番高い所、標高35m、比高約25mに本丸を置き、その西に二ノ丸、更に西に伯耆丸、内記丸と続く四つの連郭式城郭を形成していた。全体として東西約600m×南北約150~300mとなっています。本来は本丸と二ノ丸は繋がっていましたがが、明治時代に二の丸が削り取られてしまい、また伯耆丸と内記丸間も繋がっていましたが、福知山線の建設に伴いそれぞれ独立丘陵となっています。

その他曲輪として北側には左門丸、対面丸、侍屋敷、大膳丸、南側には、泉水、蔵屋敷、馬屋、鷹部屋、庭園などを設け、周囲に二重、三重の堀がめぐらされていました。城下町としては、北方に鍛冶町、紺屋町、鋳物師町、呉服町、京町などの町家、川沿いには寺町、南方に侍屋敷を配し、東北には斜めに由良川が流れ、西、南に外堀が巡らされています。いわゆる惣構えという構造です(光秀の治世の下で地子銭免除「旧勢力による搾取免除」や、堀を作るための河川の改修、市場の制定「安土を見習って楽市楽座を行う」など城下町を充実させています)。

本丸と二ノ丸にはそれぞれ御殿があったようですが、城の中央に位置し規模の大きい二ノ丸御殿が中心施設であったと思われています。尚、現在の復元天守へ登るための通路は、本丸に移された朝暉神社への参道として後に作られたものあり、本来の城道は現在住宅地として利用されている二の丸側から通じていたようです(方角的には正反対になります。)。

【中世の歴史「室町時代」と「横山城の戦い」】

小笠原長清の末裔とされる福知山地方の国人塩見頼勝が、八幡山の脇に掻上城を築城したのが始まりと言われています。塩見頼勝は後に姓を横山に改め、さらに城主はその息子である塩見信房へと代替わりし、城名も横山城となりました。

明智光秀は、織田信長の命をうけ丹波国征討戦を開始、これに敵対したのは赤井直正・波多野秀治連合軍で、塩見信房は赤井・波多野連合軍に加担します。当初は赤井・波多野連合軍は「赤井の呼び込み軍法」と呼ばれる戦術で明智光秀軍を撃退したが、赤井直正が天正6年(1578年)3月9日に病死、波多野秀治の居城八上城が翌天正7年(1579年)6月1日に落城、赤井直正の居城であった黒井城も同年8月9日に落城しました(以前「黒井城」のご紹介で、俳優の赤井秀和7さんが赤井直正の弟の末裔だとご紹介しました)。

これより前に明智光秀は丹波国征討戦に際して金山城(篠山市追入と氷上郡柏原町上小倉にまたがる山城)を築き、丹波国の掃討戦が開始され、同年8月20日より横山城を攻めます。塩見信房は弟塩見信勝と共同で防戦したが、衆寡敵せず(多勢に無勢)結局自刃して果てました。また山家城の城主和久利明も火を放たれ、攻められて敗れ、猪ノ崎城の城主塩見利勝は自ら火を放ち、落ち延びている途中に川北周辺で討死します。これを期に福山地方に属していた国人衆は皆、明智光秀に降伏し福知山は平定されました。明智光秀は丹波国を平定すると、これを福智山城と改名、近世城郭へと大修築し、城代には藤木権兵衛と明智秀満を置きました。

【本能寺の変の後】

天正10年(1582年)6月、本能寺の変で明智秀満は武功を立てたが、本能寺の変後は明智秀満の父が福智山城が留守居役となっていたらしく、豊臣秀吉軍が福智山城を押し掛け、明智秀満の父を捕え、京に連行し同年7月2日粟田口で処刑されます。明智光秀は本能寺の変では勝利したが、山崎の戦いでは敗北し後に殺されました。明智光秀の在城期間はわずか3年間だけででした。

福知山城はその後、丹波亀山城を居城とする羽柴秀勝(羽柴 秀勝は、織田信長の四男で、家臣羽柴秀吉が養嗣子として迎え入れた。幼名は於次丸・おつぎまる。 なお、秀吉の子には秀勝が3人おり、他の秀勝と区別するため、史家は便宜上、於次丸秀勝と呼ぶ) が城主となり、次いで杉原家次が城主となりました病没後、小野木重勝が城主となりました。豊臣秀吉の没後、関ヶ原の戦いでは小野木重勝は西軍に属し、東軍に属していた細川幽斎、が立て篭もる丹後田辺城を攻めます。この時当主細川忠興は関東に出陣中で、細川幽斎が留守居役で田辺城の戦いとなり必死に防戦、古今和歌相伝などの諸事情に詔勅仲介の幸運も重なり和議にこぎつけました。

関ヶ原の戦いの勝敗がはっきりすると、徳川家康の許しを得て、細川忠興は福知山城を攻め、小野木重勝は敗れ、亀山城下の寿仙院で切腹させました。忠興は妻のガラシャが死に追いやられた事も重なってか、結構厳しすぎる仕置きを行っています。もしかすると陰湿で性格が悪かったのかもと考えてしまいます。余談ですが、細川忠興の子孫といえば細川護熙第79代元総理です。細川護熙総理の憧れは壇蜜さんだそうです。映画「関ケ原」で島左近の昔なじみの尼僧「妙善」役でしたが、細川ガラシャでもよかったのでは、なんて思いますが。(笑)

関ヶ原の戦いの論功行賞により福知山城に入城したのは有馬豊氏で、現在のような城郭や城下町はこの時代に完成しました。はじめ6万石で入国しましたが、間もなく2万石(飛び地で三田・父の遺領の継承が許されます)の加増を受け8万石の大領主となりました。

山陰道を押える要衝地にあるこの城を、豊氏は近世城郭として大改修を行い、現在残る華麗な姿としました。しかし元和6年(1620年)12月、武功を重ねた豊氏は久留米藩に加増転封されます。その後も次々に城主が変わりますが寛文9年(1669年)6月、土浦城の朽木稙昌が入部、幕末の1869年(明治2年)に至る約200年の長きに亘り朽木氏が13代世襲し当地域を統治しました。

【天守閣】

P9240179.jpg(こちらが本来の二の丸からの門となるようです。)
P9240099.jpg(大天守と左側に小天守です。資料館入り口。)
P9240155.jpg(小天守とつながって中々の物です。それぞれにある石落とし分かりますか?)

『平面古図』によると、天守は三重四階建ての大天守で、北側に二重二階階建の小天守、南側には現存していないが櫓門を介して二重二階建の菱櫓と連結した建物がありました。大天守には、トコと棚をしつらえた八畳の上段ノ間、水流し、厠、小天守にもトコと棚をしつらえ住居施設が備えられています。大天守と小天守の連結部には縁側をとって座敷風な造りがなされていました。

『復元体系 日本の城』によると「建築構成は、安土城天守を小規模にしたような形で、共通する点が多い」としており、安土城の天守との共通性を指摘しています。復興天守の建設工事に伴い、発掘調査を実施したところ、当初は単独的な形であったがのちに改変付加され規模を順次拡張していたことが明確になりました。

復元天守は、大天守(3層4階)、続櫓、小天守が連結された形で、近世初期の望楼型です。外観は忠実に再現されていますが、構造は鉄筋コンクリート造です。

【石垣転用石】

P9240051.jpg(転用石です。神も仏も無い状態ですね。)

1873年(明治6年)の廃城令で建物や堀、石垣もかなり失われてしまい、遺構としては天守台と本丸の石垣が残されるのみとなりました。石垣は、「野面積み」「乱石積み」「穴太積み」と呼ばれる自然石をそのまま利用されている方法で積まれています。石材の加工と用い方は「野面積み」、角部の積み方は「算木積み」、勾配としては、基底部は傾斜が緩やかで段々傾斜を増していき、上部はほぼ垂直になる「扇の勾配」と呼ばれています。

また宝篋印塔、五輪塔などの石造物が大量に使用されており、「転用石」とも呼ばれています。一辺が62cmと大型の石材もあり、相当の寺院や墓所を破壊して石材を調達したことがうかがわれます。点数は現在発掘調査により増加していますが、約500点で、五輪塔が約250点、宝篋印塔基礎が約35点となっています。種類としては、宝篋印塔、五輪塔の他に、一石五輪塔、石仏、笠塔婆、石臼等があり、これらは現在も石垣の部材として使用されています。福智山城以前の横山城時代の山城やその関係寺院、三岳山周辺の寺院を破却したとの伝承があります。

「礎石石塔ヲ惟任築城時福智山ニ取リタニト云々、サモアリシヤ、今モ親ク見ル所、天守台ノ石垣ニ法名彫タル石塔或五輪臺石夥敷見ケル、荒木ヨリ取集タリト云伝フ(丹波志)」とあります。惟任とは明智光秀のことです、荒木山にあった法興寺や宝積寺から石垣に使用する石を取り集めたと記載されています。

【石落し】

石落としは攻城戦に攻城軍が接近した場合に、門・櫓・天守などに設けてある隙間から直下の敵に向けて攻撃を行う防御施設です。石落としの幅は8寸とされ、福知山城では大天守の虎口の上、大・小天守の2階の隅に設置されており、1階が1ヵ所、2階が9ヵ所、計10ヵ所存在します。2階の石落としは1階の張り出し屋根で隠されています。

【豊磐の井】

P9240090.jpg(天主入り口前にある豊磐井海面より低いってすごいね~しょっぱくはないよね(-"-;A ...アセアセ)

本丸、天守の東側に「豊磐井」(とよいわのい)と呼ばれている大型の井戸が残っています。この井戸は城主であった朽木稙昌の父朽木稙綱の神号「豊磐稙綱命」にちなんだものです。井戸の深さは50mあり、海面下7mにも達します。高所に関わらず水深37mもあり、現在も満々と水をたたえています。伝承ではこの井戸には抜け穴があり、二ノ丸の北側の対面所裏にあった横穴に通じていると言い伝えがあります。第二次世界大戦前まで二ノ丸の北側に深い洞穴があったようだが、奥が行き詰っており氷室であったという指摘もあります。

【埋納遺物】

1986年(昭和61年)の天守再建に伴う送電線敷設工事時に偶然検出された埋納遺物で、現在の天守台の南、本丸中央部で出土しました。この地点は古絵図によると、本丸御殿が建っていたところで、検出層位から江戸時代以前の福知山城整地前に埋納された物と思われます。出土物は以下の5件です。

①丹波壺・口径16.6 cm、高さ41.6 cm。茶褐色で一部緑色の自然釉が薄くかかっていました。この壺の中に他の出土遺物が入っていました。
②銅鏡・直径は9.43 cm、紐は亀形で、縁は垂直に立ちあがっています。一対の鳥と菊花をモチーフとした双雀菊花文鏡です。
③竹筆・9本出土しました。径0.7-0.9 cm、長さは15-23cmで使用の痕跡は確認できていません。
④小刀・錆びついており、詳細は不明です。現存部分の長さ19.3 cm、刃部分の幅は2.6 cm。
⑤銅銭・総数は約936枚。原型をとどめていない個体もあり、2~3枚程度の誤差を考慮する必要があると思われます。銭種は40種類で、ばらばらに納められていました。鋳造年次の最も新しい銭は朝鮮通宝2枚です。

壺の内部には内底中央部に鏡面を上にして銅鏡1面が置かれ、竹筆19本と小刀1本が立てかけられ、最後に銅銭が納められていました。壺の内部に水が15cm程度溜まっていましたが、竹筆は良好な状態で残っていました。『福知山城の歴史』は「遺物の組成、埋納状況からみても、いわゆる備蓄銭ではなく、何らかの祭祀的な色彩を強く感じるものであり、変形しているものの、地鎮、経塚、祈願などの目的で埋納された」と解説されています。

P9240005.jpg(妻の実家に帰省する際には必ず見ていたので、いつでも行けるが今回に成ってしまいました。美しいお城です。)


【最後の一言】

少しでも謀反の動機が感じられればと出かけましたが、一層謎は深まってしまいました。やはり簡単に考えるとフィクサーですかね?光秀が首を縦に振る人物です。誰だと思いますか?だから歴史は面白いですね~。次はどこえ向かうのやら?楽しみは尽きませんね。

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