「敵は本能寺に有り!」明智光秀出陣の城『亀山城』
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~縄文・弥生時代から近現代まで、日本の歴史と文化の旅に神様目線で旅立とう~
皆さんも勿論ご存知でしようが、天正10年(1582年)6月2日未明、京都で歴史を変える大事件が起こりました。後に『本能寺の変』と呼ばれることになる、明智光秀の織田信長に対する謀叛です。本日は毛利攻めに向かう予定だった明智光秀が京都本能寺へ向かう出発点と成った『亀山城』をご紹介します。
「敵は本能寺にあり」の言葉は、江戸時代中期以後に書かれた軍記物『明智軍記』の中にある記述で、「明智光秀」が本能寺の変の際に発したとされる台詞です。主君の織田信長より備中の毛利を攻めるように命じられていた光秀の軍勢は、討つべき敵は本能寺にいる信長であるとして、そのまま進路を東にとって京都の本能寺に向かいました(後世に創作された物と考えられます)。
本能寺変といえば、「敵は本能寺にあり」の台詞が思い浮かぶほど有名ですよね。本日は「謎(何故?)」はさておき、光秀の居城の一つ(明智光秀は、坂本城も居城としていました。)亀山城をご紹介します。
【本能寺の変時代背景】
戦国時代も始まりから100年が過ぎ、織田信長の登場によって、天下統一目前の様相を呈していました。近畿地方とその周辺は、すでに信長が掌握し、次は毛利を攻めて中国地方の平定が予定されていました。
信長は、まず羽柴秀吉を毛利攻めに向かわせます。そして、秀吉に続いて、明智光秀を後詰めの援軍として、毛利攻めに向かわせるため、信長は彼に出陣の命令を下します。
【愛宕神社のくじ】
光秀は、この命を受け、すぐに出陣の準備をし、戦勝を祈願するために愛宕神社に参拝します。愛宕神社に到着した光秀は、愛宕権現に戦勝を祈願し、おみくじを引いたとされます。この時光秀は三度くじを引いています。最初に引いたくじは「凶」光秀は、再度、おみくじを引きなおしますが、二度目も「凶」の文字が書かれていました。そして、三度目をひいて満足した光秀(三度目の結果は本人しか知りませんが)は帰路についたとされています。
『愛宕山』(あたごやま)は、古典落語の演目でも有名です。上方落語の演目の一つで、春山のピクニックを描いた華やかな噺で、京都の旦那と大阪出身の幇間(太鼓持ち)とのユーモラスなやり取りが見どころです。私落語ファンなんです~!
山行きの足取りや番傘での飛び降り、谷底から飛び上がってくるシーンなど要所で派手なアクションが入るため、長時間の話芸とともに相当の体力が要求される大ネタで、亡くなられた桂米朝さんの演目の中でも大好きな話です。江戸期ののどかなお話と、光秀の心の内が相反して、登山して見たい山の一つです。以前はケーブルが有ったようですが、現在は廃止され、山頂の神社(標高924m)迄歩いて登らなければ成りません。
【里村紹巴と連歌会「愛宕百韻」】
光秀は翌日、里村紹巴と連歌会を催し、愛宕百韻を詠んだことでも知られます。亀岡市から愛宕山への登山道は光秀が通ったことから「明智越え」と呼ばれています。愛宕百韻の光秀の発句は、「ときは今 雨が下知る 五月かな」この句は、光秀が謀反を起こし、信長を討ち取る決心をしたものと解釈されています。
「とき」は、光秀が土岐氏の出身であることを意味し、「雨が下知る」は「天が下領る」と書き換えることができることから、光秀が天下を統一すると連歌会で暗に表明したものと考えられています。
【敵は本能寺に在り】
6月1日、いよいよ光秀が毛利攻めに向かう日がきました。連歌会で謀反の決意をしましたが、やはり、光秀の心の中には迷いがあったと思われます。中国の毛利か、それとも本能寺の信長か?そして、いよいよ中国地方と本能寺との分岐点に差し掛かった老の坂に着くと、光秀は軍議を行いここで初めて斎藤利三、弥平次秀満ら家臣団に真意を告げます。
「敵は本能寺にあり」の言葉通り明智軍は、この光秀に従い、6月2日未明に本能寺に向かって進軍し、遂に信長を自害に追い込見ました。水色桔梗の幟が早暁の京の町を埋め尽くす。光秀の凛とした声が、ひそとした本能寺の中へ吸い込まれた。「信長殿の御首、頂戴仕る!」―明智城の陥落から二十数年、信長のもとで異例の出世を果たし、一介の牢人から三十四万石の城主にまで上り詰めた明智光秀でした。その光秀を「本能寺」へと駆り立てたものは何だったのでしょうか?光秀はすぐに二条城にいた信長の嫡男「信忠」も討ち取り、織田家から天下を奪い取ることに成功しました。
【丹波・亀山城 】
亀山城(かめやまじょう)は、京都府亀岡市荒塚町周辺(旧丹波国桑田郡亀岡)にあった城です。亀岡城とも呼ばれます。明智光秀によって丹波統治の拠点として築城され、江戸時代初頭には近世城郭として整備されました。大正時代に新宗教「大本」が購入、神殿を築きましたが、大本事件で日本政府により爆破・破却されました。戦後再建され、大本の本部が置かれています。小説家の司馬遼太郎は明智光秀と出口王仁三郎という2人の謀叛人を出したと評しています(司馬遼太郎さんの意見です。私はそうは思いませんでしたが…)。
別名:亀宝城
亀岡城城郭構造:平山城天守構造複合式層塔型5重5階
築城主:明智光秀
築城年:1578年
主な改修者:岡部長盛
主な城主:明智氏、羽柴氏、石田氏、岡部氏
廃城年:1877年
遺構:石垣等
【「亀山城」戦国時代の歴史】
織田信長の命を受けて丹波攻略に従事中であった明智光秀が、口丹波にある亀岡盆地の中心であった亀山に天正6年(1578年)から築城しました。丹波平定後はそのまま丹波経営の拠点とないましたが、光秀は天正10年(1582年)に本能寺の変を起こし、まもなく羽柴秀吉に敗れて、逃走中に討死します。その後は天下を統一した秀吉の重要拠点として一門の羽柴秀勝(信長の子)・豊臣秀勝(秀吉の甥・江の夫 )・豊臣秀俊(小早川秀秋)や豊臣政権で五奉行の一人となった前田玄以などが城主と成っています。
【「亀山城」江戸時代の歴史】
秀吉の死後に天下を手中にした徳川家康もこの城を重要視し、慶長14年(1609年)に譜代大名である岡部長盛(在任1609年~1621年)を入封させ、丹波亀山藩主に任じています。さらに「天下普請」により幕府が西国大名に命じ近世城郭として亀山城を大修築しています。藤堂高虎が縄張りを勤め、慶長15年(1610年)夏ごろに完成し、本丸には5重の層塔型天守が作られました。
寛延元年(1748年)以降は、形原松平氏が居城し、明治2年(1869年)に亀岡藩へ改称。同4年(1871年)に亀岡県が置県され、廃藩となりました。
「うんちく『天下普請(てんかぶしん)』」とは、江戸幕府が全国の諸大名に命令し、行わせた土木工事のことです。なかでも城郭普請が有名ですが、道路整備や河川工事などインフラ整備などの工事も含んでいます。
天下普請によって築かれた城郭・江戸城(武蔵国・東京都)・名古屋城(尾張国・愛知県)・大坂城(摂津国・大阪府)・高田城(越後国・新潟県)・駿府城(駿河国・静岡県)・伊賀上野城(伊賀国・三重県)・加納城(美濃国・岐阜県)・福井城(越前国・福井県)・彦根城(近江国・滋賀県)・膳所城(近江国・滋賀県)・二条城(山城国・京都府)・丹波亀山城(丹波国・京都府)・篠山城(丹波国・兵庫県)です。名古屋城と彦根城はご紹介しましたね。
【明治維新以降の歴史と大本教(大本が本来で教は付けないそうです)】
「大本」の話は難しいので、より詳しく知りたい方はご自分でお調べください。私が訪ねた時には、神道の新興宗教のイメージしか感じませんでしたが、広大な敷地は良く整備されていて、応対されたフロントの女性も、神官?の方も、食堂のおばちゃんも好印象でした。
大本(おおもと)は、1892年(明治25年)、出口なおに降りた国祖・国常立尊の神示を立教の原点とする教派神道系の教団です。俗に「大本教」と呼称されることがありますが、正確には「教」を付けないのだそうです。
1919年(大正8年) 11月18日、新宗教「大本」の指導者出口王仁三郎(亀岡出身)が管理されず荒廃していた本城を購入、従来の根拠地綾部(現在、梅松苑「綾部祭祀センター」(京都府)大本発祥の地、大本では「祭祀の中心地」と位置付けている)に並ぶ拠点にすべく整備を開始しました。
大日本帝国政府は拡大を続ける大本に警戒を強め、1935年(昭和10年)12月8日に第二次大本事件で徹底的な弾圧を加えています。そして拘束されていた王仁三郎から所有権を格安値で亀岡町に譲渡させました。裁判結審前にも関わらず大本施設の破却が進められ、本城の破壊は清水組により1936年(昭和11年)5月11日から6月12日まで続きます。神殿は1500発のダイナマイトで爆破され、象徴的な石は再利用できぬよう日本海に捨てられたそうです。
1937年(昭和12年)に訪れた坂口安吾は『日本文化私観』で鉄条網で囲まれた城の様子を描いています。戦後本城の所有権は再び大本に渡りました。現在亀山城跡は天恩郷「亀岡宣教センター」(京都府)と成っています。大本では「宣教の中心地」と位置付けているようです。
【初の層塔型天守閣?】
明治初年に撮影されたものは、慶長14年(1609年)に建てられた層塔型5重5階の大天守と2重の小天守が複合した複合式天守です。大天守の最上階には飾りの回り縁、高欄を付け、最上重屋根に入母屋破風と軒唐破風があるのみで、それ以外の階や重には、装飾的な窓や破風は一切ありません。層塔型は少ないのでwebで調べてみてください、弘前城天守・名古屋城天守・和歌山城天守・松山城天守等、です。私的には断然望楼型ですね。
亀山城の天守は、創建当初は明智光秀によって3重の天守が構えられ、後の小早川秀秋の時(文禄2年「1593年」)に5重に改築されています。以降この天守については不明であるが、建築史の観点では、破風の一切ない層塔型天守は慶長14・15年(1609年・1610年)以降に見られるもので、それ以前の小早川時代に改変されたという天守はそれ以降に再び改変されたか解体され、明治期に撮影された姿のものが新しく建造されたのではないかといわれています。
丹波亀山城の天守を、日本初の層塔型天守であるとする見解もありますが、『寛政重修諸家譜』を根拠に今治城天守(1604年から1608年の間の建造)を移築したものであるという説があります。この説では、徳川家康がこの亀山城を天下普請によって造営した際、縄張設計を担当した藤堂高虎が、元々自身の居城である上野城へ移築するために解体していた用材を献上し、建てたものであるとされています。これを元に、今治城天守を層塔型天守の初見とする説がある一方で、今治城天守の外観や規模は不明であり、また天守の存在について発掘調査からは認められてはいません。
【最後の一言】
今回、偶然に訪ねた、明智光秀出陣の城『亀山城』が「大本」教の聖地となっていてびっくりしました。新興宗教「大本」に対する迫害は存じておりましたが、これほどの物だとは知りませんでした。我が家は家の宗教として「日蓮宗」を信仰しておりますが、鎌倉仏教として新しく登場した時には同じように大きな迫害が有ったと聞いております。宗教・言論の自由は憲法が改正する事に成っても堅持しなければいけませんね。
本部会館の二階に初代教主「出口王仁三郎」さんの陶器が展示されていました。金重陶陽氏(備前焼人間 国宝)の所で作陶した作品が展示してあるのですが、「耀わん」と言われる器が~(;^_^A、「大本」の方がおられましたらお許しください。お値段は勿論付けられないでしょう。3000個作成で迫害も有って300個現存とも言われています。ん~~私的には、天は二物を与えずと言っておきます。(笑)悪く取らないでくださいね、芸術は自由ですし、価値を認めた方にはかけがえのない物ですから。それに一物は素晴らしいのですからね。
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皆さんも勿論ご存知でしようが、天正10年(1582年)6月2日未明、京都で歴史を変える大事件が起こりました。後に『本能寺の変』と呼ばれることになる、明智光秀の織田信長に対する謀叛です。本日は毛利攻めに向かう予定だった明智光秀が京都本能寺へ向かう出発点と成った『亀山城』をご紹介します。
「敵は本能寺にあり」の言葉は、江戸時代中期以後に書かれた軍記物『明智軍記』の中にある記述で、「明智光秀」が本能寺の変の際に発したとされる台詞です。主君の織田信長より備中の毛利を攻めるように命じられていた光秀の軍勢は、討つべき敵は本能寺にいる信長であるとして、そのまま進路を東にとって京都の本能寺に向かいました(後世に創作された物と考えられます)。
本能寺変といえば、「敵は本能寺にあり」の台詞が思い浮かぶほど有名ですよね。本日は「謎(何故?)」はさておき、光秀の居城の一つ(明智光秀は、坂本城も居城としていました。)亀山城をご紹介します。
【本能寺の変時代背景】
戦国時代も始まりから100年が過ぎ、織田信長の登場によって、天下統一目前の様相を呈していました。近畿地方とその周辺は、すでに信長が掌握し、次は毛利を攻めて中国地方の平定が予定されていました。
信長は、まず羽柴秀吉を毛利攻めに向かわせます。そして、秀吉に続いて、明智光秀を後詰めの援軍として、毛利攻めに向かわせるため、信長は彼に出陣の命令を下します。
【愛宕神社のくじ】
光秀は、この命を受け、すぐに出陣の準備をし、戦勝を祈願するために愛宕神社に参拝します。愛宕神社に到着した光秀は、愛宕権現に戦勝を祈願し、おみくじを引いたとされます。この時光秀は三度くじを引いています。最初に引いたくじは「凶」光秀は、再度、おみくじを引きなおしますが、二度目も「凶」の文字が書かれていました。そして、三度目をひいて満足した光秀(三度目の結果は本人しか知りませんが)は帰路についたとされています。
『愛宕山』(あたごやま)は、古典落語の演目でも有名です。上方落語の演目の一つで、春山のピクニックを描いた華やかな噺で、京都の旦那と大阪出身の幇間(太鼓持ち)とのユーモラスなやり取りが見どころです。私落語ファンなんです~!
山行きの足取りや番傘での飛び降り、谷底から飛び上がってくるシーンなど要所で派手なアクションが入るため、長時間の話芸とともに相当の体力が要求される大ネタで、亡くなられた桂米朝さんの演目の中でも大好きな話です。江戸期ののどかなお話と、光秀の心の内が相反して、登山して見たい山の一つです。以前はケーブルが有ったようですが、現在は廃止され、山頂の神社(標高924m)迄歩いて登らなければ成りません。
【里村紹巴と連歌会「愛宕百韻」】
光秀は翌日、里村紹巴と連歌会を催し、愛宕百韻を詠んだことでも知られます。亀岡市から愛宕山への登山道は光秀が通ったことから「明智越え」と呼ばれています。愛宕百韻の光秀の発句は、「ときは今 雨が下知る 五月かな」この句は、光秀が謀反を起こし、信長を討ち取る決心をしたものと解釈されています。
「とき」は、光秀が土岐氏の出身であることを意味し、「雨が下知る」は「天が下領る」と書き換えることができることから、光秀が天下を統一すると連歌会で暗に表明したものと考えられています。
【敵は本能寺に在り】
6月1日、いよいよ光秀が毛利攻めに向かう日がきました。連歌会で謀反の決意をしましたが、やはり、光秀の心の中には迷いがあったと思われます。中国の毛利か、それとも本能寺の信長か?そして、いよいよ中国地方と本能寺との分岐点に差し掛かった老の坂に着くと、光秀は軍議を行いここで初めて斎藤利三、弥平次秀満ら家臣団に真意を告げます。
「敵は本能寺にあり」の言葉通り明智軍は、この光秀に従い、6月2日未明に本能寺に向かって進軍し、遂に信長を自害に追い込見ました。水色桔梗の幟が早暁の京の町を埋め尽くす。光秀の凛とした声が、ひそとした本能寺の中へ吸い込まれた。「信長殿の御首、頂戴仕る!」―明智城の陥落から二十数年、信長のもとで異例の出世を果たし、一介の牢人から三十四万石の城主にまで上り詰めた明智光秀でした。その光秀を「本能寺」へと駆り立てたものは何だったのでしょうか?光秀はすぐに二条城にいた信長の嫡男「信忠」も討ち取り、織田家から天下を奪い取ることに成功しました。
【丹波・亀山城 】
亀山城(かめやまじょう)は、京都府亀岡市荒塚町周辺(旧丹波国桑田郡亀岡)にあった城です。亀岡城とも呼ばれます。明智光秀によって丹波統治の拠点として築城され、江戸時代初頭には近世城郭として整備されました。大正時代に新宗教「大本」が購入、神殿を築きましたが、大本事件で日本政府により爆破・破却されました。戦後再建され、大本の本部が置かれています。小説家の司馬遼太郎は明智光秀と出口王仁三郎という2人の謀叛人を出したと評しています(司馬遼太郎さんの意見です。私はそうは思いませんでしたが…)。
別名:亀宝城
亀岡城城郭構造:平山城天守構造複合式層塔型5重5階
築城主:明智光秀
築城年:1578年
主な改修者:岡部長盛
主な城主:明智氏、羽柴氏、石田氏、岡部氏
廃城年:1877年
遺構:石垣等
【「亀山城」戦国時代の歴史】
織田信長の命を受けて丹波攻略に従事中であった明智光秀が、口丹波にある亀岡盆地の中心であった亀山に天正6年(1578年)から築城しました。丹波平定後はそのまま丹波経営の拠点とないましたが、光秀は天正10年(1582年)に本能寺の変を起こし、まもなく羽柴秀吉に敗れて、逃走中に討死します。その後は天下を統一した秀吉の重要拠点として一門の羽柴秀勝(信長の子)・豊臣秀勝(秀吉の甥・江の夫 )・豊臣秀俊(小早川秀秋)や豊臣政権で五奉行の一人となった前田玄以などが城主と成っています。
【「亀山城」江戸時代の歴史】
秀吉の死後に天下を手中にした徳川家康もこの城を重要視し、慶長14年(1609年)に譜代大名である岡部長盛(在任1609年~1621年)を入封させ、丹波亀山藩主に任じています。さらに「天下普請」により幕府が西国大名に命じ近世城郭として亀山城を大修築しています。藤堂高虎が縄張りを勤め、慶長15年(1610年)夏ごろに完成し、本丸には5重の層塔型天守が作られました。
寛延元年(1748年)以降は、形原松平氏が居城し、明治2年(1869年)に亀岡藩へ改称。同4年(1871年)に亀岡県が置県され、廃藩となりました。
「うんちく『天下普請(てんかぶしん)』」とは、江戸幕府が全国の諸大名に命令し、行わせた土木工事のことです。なかでも城郭普請が有名ですが、道路整備や河川工事などインフラ整備などの工事も含んでいます。
天下普請によって築かれた城郭・江戸城(武蔵国・東京都)・名古屋城(尾張国・愛知県)・大坂城(摂津国・大阪府)・高田城(越後国・新潟県)・駿府城(駿河国・静岡県)・伊賀上野城(伊賀国・三重県)・加納城(美濃国・岐阜県)・福井城(越前国・福井県)・彦根城(近江国・滋賀県)・膳所城(近江国・滋賀県)・二条城(山城国・京都府)・丹波亀山城(丹波国・京都府)・篠山城(丹波国・兵庫県)です。名古屋城と彦根城はご紹介しましたね。
【明治維新以降の歴史と大本教(大本が本来で教は付けないそうです)】
「大本」の話は難しいので、より詳しく知りたい方はご自分でお調べください。私が訪ねた時には、神道の新興宗教のイメージしか感じませんでしたが、広大な敷地は良く整備されていて、応対されたフロントの女性も、神官?の方も、食堂のおばちゃんも好印象でした。
大本(おおもと)は、1892年(明治25年)、出口なおに降りた国祖・国常立尊の神示を立教の原点とする教派神道系の教団です。俗に「大本教」と呼称されることがありますが、正確には「教」を付けないのだそうです。
1919年(大正8年) 11月18日、新宗教「大本」の指導者出口王仁三郎(亀岡出身)が管理されず荒廃していた本城を購入、従来の根拠地綾部(現在、梅松苑「綾部祭祀センター」(京都府)大本発祥の地、大本では「祭祀の中心地」と位置付けている)に並ぶ拠点にすべく整備を開始しました。
大日本帝国政府は拡大を続ける大本に警戒を強め、1935年(昭和10年)12月8日に第二次大本事件で徹底的な弾圧を加えています。そして拘束されていた王仁三郎から所有権を格安値で亀岡町に譲渡させました。裁判結審前にも関わらず大本施設の破却が進められ、本城の破壊は清水組により1936年(昭和11年)5月11日から6月12日まで続きます。神殿は1500発のダイナマイトで爆破され、象徴的な石は再利用できぬよう日本海に捨てられたそうです。
1937年(昭和12年)に訪れた坂口安吾は『日本文化私観』で鉄条網で囲まれた城の様子を描いています。戦後本城の所有権は再び大本に渡りました。現在亀山城跡は天恩郷「亀岡宣教センター」(京都府)と成っています。大本では「宣教の中心地」と位置付けているようです。
【初の層塔型天守閣?】
明治初年に撮影されたものは、慶長14年(1609年)に建てられた層塔型5重5階の大天守と2重の小天守が複合した複合式天守です。大天守の最上階には飾りの回り縁、高欄を付け、最上重屋根に入母屋破風と軒唐破風があるのみで、それ以外の階や重には、装飾的な窓や破風は一切ありません。層塔型は少ないのでwebで調べてみてください、弘前城天守・名古屋城天守・和歌山城天守・松山城天守等、です。私的には断然望楼型ですね。
亀山城の天守は、創建当初は明智光秀によって3重の天守が構えられ、後の小早川秀秋の時(文禄2年「1593年」)に5重に改築されています。以降この天守については不明であるが、建築史の観点では、破風の一切ない層塔型天守は慶長14・15年(1609年・1610年)以降に見られるもので、それ以前の小早川時代に改変されたという天守はそれ以降に再び改変されたか解体され、明治期に撮影された姿のものが新しく建造されたのではないかといわれています。
丹波亀山城の天守を、日本初の層塔型天守であるとする見解もありますが、『寛政重修諸家譜』を根拠に今治城天守(1604年から1608年の間の建造)を移築したものであるという説があります。この説では、徳川家康がこの亀山城を天下普請によって造営した際、縄張設計を担当した藤堂高虎が、元々自身の居城である上野城へ移築するために解体していた用材を献上し、建てたものであるとされています。これを元に、今治城天守を層塔型天守の初見とする説がある一方で、今治城天守の外観や規模は不明であり、また天守の存在について発掘調査からは認められてはいません。
【最後の一言】
今回、偶然に訪ねた、明智光秀出陣の城『亀山城』が「大本」教の聖地となっていてびっくりしました。新興宗教「大本」に対する迫害は存じておりましたが、これほどの物だとは知りませんでした。我が家は家の宗教として「日蓮宗」を信仰しておりますが、鎌倉仏教として新しく登場した時には同じように大きな迫害が有ったと聞いております。宗教・言論の自由は憲法が改正する事に成っても堅持しなければいけませんね。
本部会館の二階に初代教主「出口王仁三郎」さんの陶器が展示されていました。金重陶陽氏(備前焼人間 国宝)の所で作陶した作品が展示してあるのですが、「耀わん」と言われる器が~(;^_^A、「大本」の方がおられましたらお許しください。お値段は勿論付けられないでしょう。3000個作成で迫害も有って300個現存とも言われています。ん~~私的には、天は二物を与えずと言っておきます。(笑)悪く取らないでくださいね、芸術は自由ですし、価値を認めた方にはかけがえのない物ですから。それに一物は素晴らしいのですからね。
新しいブログが始まりました。
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99%歴史が好きになるブログ「高天原の縁側日記」
~縄文・弥生時代から近現代まで、日本の歴史と文化の旅に神様目線で旅立とう~
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