「本能寺」で『本能寺の変』の真相を推理してみた!
昨日UPの予定でしたけど、一日ずらして今日に成りました。出雲に取材旅行に行く予定で、明日の夜は車の中でUP出来そうにありません。一日ずらした言い訳ですけどね~(笑)。
有名な『愛宕百韻(あたごひゃくいん)』は、「本能寺の変」の直前に愛宕山で明智光秀が催した連歌会で、「明智光秀張行百韻」「天正十年愛宕百韻」ともいわれています。
天正10年(1582年)5月24日(本能寺の変の9日前)当日、『愛宕百韻』の発句は光秀の「ときは今 あめが下しる 五月かな(有名ですね!)」で始まります。脇は行祐の「水上まさる 庭の夏山」、第三は里村紹巴の「花落つる 池の流を せきとめて」でした。発句は、明智の姓の「土岐・とき(土岐氏は摂津源氏の流れを酌む名門で、美濃守護としても有名ですね。)」をかけて、「雨が下」には「天が下」をかけて、主人織田信長の殺害という宿願の祈請のものであるといわれ、紹巴はこのために後日、責問を受けたといわれます。
もし信長に対して謀反の気持ちが有ったとしても、皆の前で詠む(この場合は、ほのめかすかな)でしょうか?私は光秀程の人物がそんな事をするはずがないと思います。織田軍最大の勢力を誇り、中心畿内を手中に収め、各方面で戦う司令官の遊撃隊を担っている明智光秀程の男が、主人殺害を簡単に洩らすはずが無いと思いませんか?それならば、この『愛宕百韻』の後に起こった何かが謀反を決意させたことに成ります。それは何だったのか推理してみましょう。
それでは、『市郎右衛門』の日本史ブログをお楽しみ?くださいね(人´ω`*).☆.。




【「愛宕百韻」と「連歌」とは?】
「愛宕百韻」とは、天正10年(1582年)5月24日(本能寺の変の9日前)、光秀が山城国愛宕山五坊の一つ威徳院で、明智光慶(光秀の息子)、東行澄、里村紹巴、里村昌叱、猪苗代兼如、里村心前、宥源、威徳院行祐と巻いた(百韻を一巻を収める)百韻の事です。
『連歌』は五七五に七七を付けて完結する俳句のみではなく、七七にさらに五七五、七七、五七五……と次々に句を付けて展開し、おおよそ百句をもって一作品とすることが一般的となっています。このような長大な形式の連歌を「長連歌」(初期には「鎖連歌」とも)と呼び、長連歌のもっとも基本的な形式は上記のように百句を一作品とするもので、これを「百韻」と呼びます。
「愛宕百韻」では、この寺の院主・行祐が亭主、明智光秀が主客の立場で、当時の連歌界の第一人者であった紹巴が宗匠(評価して、優劣を判定する師匠役)を務めています。他には、紹巴の門下で既に名の高かった連歌師、昌叱、心前、兼如が加わり、愛宕山の僧や、光秀の家臣も参加していました。
発句は、世によく知られている、「時は今天が下しる五月かな」です。表面上句の内容は、今は正しくこの世は五月そのものであるとなります。「しる」は治めるの意味で、字句どおりに読めば、天下を治めている五月である、この世界を五月という時節にした、ということに成ります。この連歌は戦勝祈願の会でもあったので、その意も込められていなければ意味がありません。「天が下しる五月」は天下を治めることになる五月、と読めます。これで内容上もますます発句にふさわしく成っています。
句の解釈は単純ともいえますが、このような作品を詠んだ事情ということになると、誰が天下を治めることになるのか、などの問題の考察に踏み込んでいかなければならなくなります。巷間では、「本能寺の変」と絡めて、光秀自身が天下を治めることになる、と推測されることが多いですね、そうなると話としては面白くなっていきます。前出のように「時」には光秀の氏であった「土岐」が掛けられているともされています。このような真意があったのかどうかは謎ですが、当時、織田信長は天下統一の最後の段階として中国地方制覇の途上にありました。光秀の出陣も、最前線にいた羽柴(豊臣)秀吉援助のためで、信長が京都の本能寺に入ったのもそれに関わった事情です。常識的にみて、天下を治めるのは信長、もしくはその陣営ということで、この発句は信長を言葉で祝ったものでしょう。
連歌師が多くの武将と密接な関係を持ったことは確かですが、連歌師はでき得る限り政治的な偏りを持たないように心していたのは当然ですし、だからこそ、戦乱の中を比較的自由に動けたともいえます。武将の方もそれは十分に承知していましたし、どちらに付くか分からない多くの連歌師を前に光秀が危険な真意を吐露したとは考えにくいと思えます。
【リアル本能寺】
羽柴秀吉の毛利征伐の支援を命ぜられて6月2日(6月21日)早朝に出陣しますが、その途上の亀山城内か柴野付近の陣で光秀は重臣達に信長討伐の意を告げたといわれています。軍勢には「森蘭丸から使いがあり、信長が明智軍の陣容・軍装を検分したいとのことだ」として京都へ向かいます。
『本城惣右衛門覚書』によれば、雑兵は信長討伐という目的を最後まで知らされておらず、本城惣右衛門も信長の命令で徳川家康を討つのだと思っていたと記載しています。光秀軍は信長が宿泊していた京都の本能寺を急襲して包囲しました。光秀軍13,000人に対し、近習の100人足らずに守られていた信長は奮戦しましたが、やがて寺に火を放ち自害します。
【「本能寺の変」の原因】
近年になって、新しい資料も出てきて余計に原因が複雑になってきました。これまでに言われてきた幾つかの説から、「本能寺の変」の原因となるのではないかと思える説を簡潔に説明したいと思います。
『怨恨説』
「本能寺の変」の原因のトップに上げられます。主君の信長は短気かつ苛烈な性格であったため、光秀は常々非情な仕打ちを受けていたという説です。以下はその代表例とされるものの一部です。 信長に七盃入りの大きい盃に入った酒を強要され、下戸の光秀が「思いも寄らず」と辞退すると、信長に「此の白刃を呑むべきか、酒を飲むべきか」と脇差を口元に突き付けられ酒を飲まされた(『常山紀談』)。
同じく酒席で光秀が目立たぬように中座しかけたところ、「このキンカ頭(禿頭の意)」と満座の中で信長に怒鳴りつけられ、頭を打たれた(キンカ頭とは、「光秀」の「光」の下の部分と「秀」の上の部分を合わせると「禿」となることからの信長なりの洒落という説もあります)。
天正10年(1582年)、信長は武田家を滅ぼした徳川家康の功を労うため、安土城において家康を饗応します。この時の本膳料理の献立は「天正十年安土御献立」として『続群書類従』に収録されています。光秀は家康の接待を任され、献立から考えて苦労して用意した料理を「腐っている」と信長に因縁をつけられて饗応役の任を解かれ、すぐさま秀吉の援軍に行けと命じられてしまいます。
この時の解釈にも諸説あり、安土大饗応の時、信長は光秀に対して徳川家康を討てと命じたが光秀がそれを拒否した為に接待役を免ぜられたという説、「魚(肴)が腐っている」というのは毒を入れろと言ったのになぜ入れなかったのかという信長の怒りに触れた説、信長自らがわざわざ鷹狩の途中に立寄って材料の魚鳥を吟味したが、肉が腐っていると草履で踏み散らし、光秀が新たに用意していたところ「備中へ出陣せよ」と下知されたが、忍びかねて叛いたとしています(『常山紀談』)。
中国二国(出雲国・石見国)は攻め取った分だけそのまま光秀の領地にしてもいいが、その時は滋賀郡(近江坂本)・丹波国は召し上げにする、と伝えられました。(明智軍記)
甲州征伐の際に、信濃の反武田派の豪族が織田軍の元に集結するさまを見て「我々も骨を折った甲斐があった」と光秀が言った所、「お前ごときが何をしたのだ」と信長が激怒し、小姓の森成利(森蘭丸)に鉄扇で叩かせ恥をかかされます(明智軍記)。
フロイスは、「人々が語るところによれば密室で信長が口論の末光秀を1、2度足蹴にした」と記しています(『フロイス日本史』)。これらの史実を元に、面目を失ったための怨恨説が成り立っています。
『野望説』
光秀自身が天下統一を狙っていたという説。この説に対しては「知将とされる光秀が、このような謀反で天下を取れると思うはずがない」という意見や、「相手の100倍以上の兵で奇襲できることは、信長を殺すのにこれ以上ないと言える程の機会だった」という意見に分かれているようです。
『恐怖心説・幕府再興説』
長年信長に仕えていた佐久間信盛、林秀貞達が追放され、成果を挙げなければ自分もいずれは追放されるのではないかという不安から信長を倒したという説です。これは怨恨説など諸説の背景としても用いられています。今までにない新しい政治・軍事政策を行う規格外な信長の改革に対し、光秀が旧態依然とした統治を重んじる考えであったという説です。
理想相違説とも言われます、信長が伝統的な権威や秩序を否定し、犠牲もいとわない手法(一向宗勢力、伊賀の虐殺等)で天下の統一事業を目指したと歴史解釈した上で、光秀は衰えた室町幕府を再興し、混乱や犠牲を避けながら安定した世の中に戻そうとした、と考えたところから発生した説です。この説は、光秀は信長の命とともにその将来構想(独裁者の暴走)をも永遠に断ち切ったと主張されます。
そして光秀も自らの手でその理想を実現することは叶わなかったが、後の江戸幕府による封建秩序に貫かれた安定した社会は270年の長きに渡って続き、光秀が室町幕府再興を通じて思い描いた理想は、江戸幕府によって実現されたと考える事も出来ます。
なお、光秀は自身も教養人であったが、近畿地区を統括していた関係上、寄騎大名にも名門、旧勢力出身者が多食いました。特に両翼として同調が期待されていた細川氏(管領家の分流)、筒井氏(興福寺衆徒の大名化)は典型であり、こうした状況もこの説の背景となっています。
この説には、信長が平氏の出身で源氏が天下を治めるべきとも付説も加味されるようです(源氏の光秀、更には次の将軍復帰説にもつながります)。
『将軍指令説 』
足利将軍指令説 、室町幕府再興説光秀には足利義昭と信長の連絡役として信長の家臣となった経歴があるため、恩義も関係も深い義昭からの誘いを断りきれなかったのではないかとする説です。光秀が義昭を奉じるのは大義名分がありますが、直接の指令があったのかどうかも含めて、義昭の積極的関与を示すような証拠は依然として存在していません。
紀州の武将・土橋重治に充てた光秀直筆の書状から、光秀が「本能寺の変」の後に義昭を京に迎え入れ、室町幕府を再興するという明確な構想があったことが分かります。書状は天正10(1582)年6月2日の本能寺の変から10日後の12日付で、返信とみられます。「上意(将軍)への奔走を命じられたことをお示しいただき、ありがたく存じます。しかしながら(将軍の)ご入洛(にゅうらく)の件につきましては既に承諾しています」とあります。
京を追放された義昭は当時、中国地方を支配する毛利輝元(てるもと)の勢力下にある鞆(とも)の浦(広島県福山市)にいました。義昭が京に戻る際は協力することになっていると重治から示され、光秀自身も義昭と既に協力を約束していることを伝える内容という。
書状の手書きの写しは東京大史料編纂(へんさん)所に残っています。原本は縦11.4㎝、横56.8㎝で、細かな折り目がついているそうです。畳んで書状を入れる包み紙も一緒にあったことから、使者が極秘に運んだ密書とみられます。
光秀は京に上る前の信長と義昭を取り持ち当初は双方の家臣だったとされました。義昭との関係を復活させた光秀が、まず信長を倒し、長宗我部や毛利ら反信長勢力に奉じられた義昭の帰洛を待って幕府を再興させる政権構想を持っていたと考える研究者もおられるようです。前出の理想相違説に通じる部分もあります。
『朝廷説(私はこれを推薦したいです)』
「信長には内裏に取って代わる意思がある」と考えた朝廷から命ぜられ、光秀が謀反を考えたのではないかとする説です。この説の前提として、天正10年(1582年)頃に信長は正親町天皇譲位などの強引な朝廷工作を行い始めており、また近年発見された安土城本丸御殿の遺構(見て来ましたから)から、安土城本丸は内裏清涼殿の構造をなぞって作られたという意見を掲げる識者もおられるようです。
近年には「天正十年夏記」等をもとに、朝廷すなわち誠仁親王と近衛前久が「本能寺の変」の中心人物であったと各種論文で指摘されています。この「朝廷黒幕説」とも呼べる説の主要な論拠となった「天正十年夏記」(『晴豊記』)は、誠仁親王の義弟で武家伝奏(朝廷と武家との連絡役)の勧修寺晴豊の日記の一部であり、史料としての信頼性は高いと思います。
正親町天皇が信長と相互依存関係を築くことにより、窮乏していた財政事情を回復させたのは事実ですが、信長と朝廷の間柄が良好であったという解釈は成り立ちません。三職推任問題(「太政大臣」「関白」「征夷大将軍」どれでもいいよの凄い選択肢!)等を考慮すると、朝廷が信長の一連の行動に危機感を持っていたことになります。
朝廷または公家関与説は、足利義昭謀略説、「愛宕百韻」の連歌師・里村紹巴との共同謀議説と揃って論証されることが多く、それだけに当時の歴史的資料も根拠として出されています。ただし、この説では「首謀者」であるはずの誠仁親王が変後に切腹を覚悟するところまで追い詰められながら命からがら逃げ延びていること、『晴豊記』の近衛前久が光秀の謀反に関わっていたという噂を「ひきよ」とする記述の解釈などの問題も有ります(「非挙(よくない企て)」と解釈される一方で、これは「非拠(でたらめ)」と解釈されるべきであるとの指摘もあります)。
一時期は最も有力な説として注目されていたが、現在この説を唱える研究者はいません。現在の歴史学界では義昭黒幕説とともに史料の曲解であるとの見解が主流となっていますが、僭越ながら私は、朝廷あるいは公家が光秀謀叛に大きく関与していたのではないかと推測しています。(笑)
『四国説』
昨年新しい文章が発見されて、四国説に俄然注目が当たりました。信長は光秀に四国の長宗我部氏の懐柔を命じていました。光秀は斎藤利三の妹を長宗我部元親に嫁がせて婚姻関係を結ぶところまでこぎ付けますが、天正8年(1580年)に入ると織田信長は秀吉と結んだ三好康長との関係を重視し、武力による四国平定に方針を変更したため光秀の面目は丸つぶれになってしまいます。
光秀と懇意でありながら、信長と敵対関係になった四国の戦国大名、長宗我部元親(ちょうそかべもとちか)の窮地を救うために起こしたとする説です。大坂に四国討伐軍が集結する直前を見計らって光秀(正確には利三)が本能寺を襲撃しています。
2014年に岡山県で見つかった石谷(いしがい)家文書には、6月2日の「本能寺の変」の約5カ月前にあたる1月11日付書状で、斎藤利三が長宗我部元親に「要求に従うのが長宗我部家のためになるし、光秀も努力している」と助言しています。
これに対し元親は5月21日付で「阿波国中心部の諸城からは退いたことを信長殿に伝えてほしい」と返答。信長の命に従うことで激突を避けようとしていたことが証明されています。
『諸将黒幕説(いかにも有りそう)』
織田家を取り巻く諸将が黒幕という説です。徳川家康や豊臣秀吉が主に上がります。 徳川家康黒幕説家康の場合、信長の命により、長男・信康と正室・築山殿を自害させられたことが恨みの原因の一つに挙げられました。ただし近年では、2人の殺害は信長の命ではなく、家康と信康の対立が原因とする説も出されています。
家康は後に、明智光秀の従弟(父の妹の子)斎藤利三の正室の子である福(春日局)を徳川家光の乳母として特段に推挙しています(実際に福を推挙したのは京都所司代の板倉勝重)。
どこかで書きましたが、神君伊賀越えが胡散臭いんです。窮地に陥った家康の元に200人の手勢を連れた服部半蔵が急に現れます。そんなに用意周到にできるのかな?堺~岡崎の間は新名神高速でも218キロ数日で帰れますか~(笑)。秀吉の中国大返より速いスピードじゃないかな。
豊臣秀吉黒幕説の場合は、佐久間信盛や林秀貞達が追放され、将来に不安を持ったという説があります(中国大返しの手際が良過ぎることも彼への疑惑の根拠となっています。絶対無理やん!)。光秀の謀反を知ってないと山崎の戦いに間に合ったとお燃えません。
【「本能寺の変」は何故解明できないの】
1.事件を起こした動機には触れても、黒幕とされる人物や集団が、どのようにして光秀と接触したかの説明が出来ない。
2.実行時期の見通しと、機密漏洩防止策への説明が無い。
3.光秀が謀反に同意しても、重臣たちへの説得をどうしたのかの説明が不明です。
4.黒幕たちが、事件の前も後も、光秀の謀反を具体的に支援してない事が不思議、自分の部下以外ほとんど味方がいません。
5.決定的なことは、裏付け史料がまったくないことです、近衛前久の文章でも出てきたら決定的なのですけどね。
【最後に】
やっぱり歴史はミステリアス (mysterious) 、英語で神秘的、不可思議な様を表すのだそうですよ~。そんな女性が居たらくらくらですよね、私が歴史にはまり込む理由がお解りいただけましたでしょうか。(爆)
皆さんはどの説を採用なさいますか?
歴史って本当に面白いですよね~!
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有名な『愛宕百韻(あたごひゃくいん)』は、「本能寺の変」の直前に愛宕山で明智光秀が催した連歌会で、「明智光秀張行百韻」「天正十年愛宕百韻」ともいわれています。
天正10年(1582年)5月24日(本能寺の変の9日前)当日、『愛宕百韻』の発句は光秀の「ときは今 あめが下しる 五月かな(有名ですね!)」で始まります。脇は行祐の「水上まさる 庭の夏山」、第三は里村紹巴の「花落つる 池の流を せきとめて」でした。発句は、明智の姓の「土岐・とき(土岐氏は摂津源氏の流れを酌む名門で、美濃守護としても有名ですね。)」をかけて、「雨が下」には「天が下」をかけて、主人織田信長の殺害という宿願の祈請のものであるといわれ、紹巴はこのために後日、責問を受けたといわれます。
もし信長に対して謀反の気持ちが有ったとしても、皆の前で詠む(この場合は、ほのめかすかな)でしょうか?私は光秀程の人物がそんな事をするはずがないと思います。織田軍最大の勢力を誇り、中心畿内を手中に収め、各方面で戦う司令官の遊撃隊を担っている明智光秀程の男が、主人殺害を簡単に洩らすはずが無いと思いませんか?それならば、この『愛宕百韻』の後に起こった何かが謀反を決意させたことに成ります。それは何だったのか推理してみましょう。
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【「愛宕百韻」と「連歌」とは?】
「愛宕百韻」とは、天正10年(1582年)5月24日(本能寺の変の9日前)、光秀が山城国愛宕山五坊の一つ威徳院で、明智光慶(光秀の息子)、東行澄、里村紹巴、里村昌叱、猪苗代兼如、里村心前、宥源、威徳院行祐と巻いた(百韻を一巻を収める)百韻の事です。
『連歌』は五七五に七七を付けて完結する俳句のみではなく、七七にさらに五七五、七七、五七五……と次々に句を付けて展開し、おおよそ百句をもって一作品とすることが一般的となっています。このような長大な形式の連歌を「長連歌」(初期には「鎖連歌」とも)と呼び、長連歌のもっとも基本的な形式は上記のように百句を一作品とするもので、これを「百韻」と呼びます。
「愛宕百韻」では、この寺の院主・行祐が亭主、明智光秀が主客の立場で、当時の連歌界の第一人者であった紹巴が宗匠(評価して、優劣を判定する師匠役)を務めています。他には、紹巴の門下で既に名の高かった連歌師、昌叱、心前、兼如が加わり、愛宕山の僧や、光秀の家臣も参加していました。
発句は、世によく知られている、「時は今天が下しる五月かな」です。表面上句の内容は、今は正しくこの世は五月そのものであるとなります。「しる」は治めるの意味で、字句どおりに読めば、天下を治めている五月である、この世界を五月という時節にした、ということに成ります。この連歌は戦勝祈願の会でもあったので、その意も込められていなければ意味がありません。「天が下しる五月」は天下を治めることになる五月、と読めます。これで内容上もますます発句にふさわしく成っています。
句の解釈は単純ともいえますが、このような作品を詠んだ事情ということになると、誰が天下を治めることになるのか、などの問題の考察に踏み込んでいかなければならなくなります。巷間では、「本能寺の変」と絡めて、光秀自身が天下を治めることになる、と推測されることが多いですね、そうなると話としては面白くなっていきます。前出のように「時」には光秀の氏であった「土岐」が掛けられているともされています。このような真意があったのかどうかは謎ですが、当時、織田信長は天下統一の最後の段階として中国地方制覇の途上にありました。光秀の出陣も、最前線にいた羽柴(豊臣)秀吉援助のためで、信長が京都の本能寺に入ったのもそれに関わった事情です。常識的にみて、天下を治めるのは信長、もしくはその陣営ということで、この発句は信長を言葉で祝ったものでしょう。
連歌師が多くの武将と密接な関係を持ったことは確かですが、連歌師はでき得る限り政治的な偏りを持たないように心していたのは当然ですし、だからこそ、戦乱の中を比較的自由に動けたともいえます。武将の方もそれは十分に承知していましたし、どちらに付くか分からない多くの連歌師を前に光秀が危険な真意を吐露したとは考えにくいと思えます。
【リアル本能寺】
羽柴秀吉の毛利征伐の支援を命ぜられて6月2日(6月21日)早朝に出陣しますが、その途上の亀山城内か柴野付近の陣で光秀は重臣達に信長討伐の意を告げたといわれています。軍勢には「森蘭丸から使いがあり、信長が明智軍の陣容・軍装を検分したいとのことだ」として京都へ向かいます。
『本城惣右衛門覚書』によれば、雑兵は信長討伐という目的を最後まで知らされておらず、本城惣右衛門も信長の命令で徳川家康を討つのだと思っていたと記載しています。光秀軍は信長が宿泊していた京都の本能寺を急襲して包囲しました。光秀軍13,000人に対し、近習の100人足らずに守られていた信長は奮戦しましたが、やがて寺に火を放ち自害します。
【「本能寺の変」の原因】
近年になって、新しい資料も出てきて余計に原因が複雑になってきました。これまでに言われてきた幾つかの説から、「本能寺の変」の原因となるのではないかと思える説を簡潔に説明したいと思います。
『怨恨説』
「本能寺の変」の原因のトップに上げられます。主君の信長は短気かつ苛烈な性格であったため、光秀は常々非情な仕打ちを受けていたという説です。以下はその代表例とされるものの一部です。 信長に七盃入りの大きい盃に入った酒を強要され、下戸の光秀が「思いも寄らず」と辞退すると、信長に「此の白刃を呑むべきか、酒を飲むべきか」と脇差を口元に突き付けられ酒を飲まされた(『常山紀談』)。
同じく酒席で光秀が目立たぬように中座しかけたところ、「このキンカ頭(禿頭の意)」と満座の中で信長に怒鳴りつけられ、頭を打たれた(キンカ頭とは、「光秀」の「光」の下の部分と「秀」の上の部分を合わせると「禿」となることからの信長なりの洒落という説もあります)。
天正10年(1582年)、信長は武田家を滅ぼした徳川家康の功を労うため、安土城において家康を饗応します。この時の本膳料理の献立は「天正十年安土御献立」として『続群書類従』に収録されています。光秀は家康の接待を任され、献立から考えて苦労して用意した料理を「腐っている」と信長に因縁をつけられて饗応役の任を解かれ、すぐさま秀吉の援軍に行けと命じられてしまいます。
この時の解釈にも諸説あり、安土大饗応の時、信長は光秀に対して徳川家康を討てと命じたが光秀がそれを拒否した為に接待役を免ぜられたという説、「魚(肴)が腐っている」というのは毒を入れろと言ったのになぜ入れなかったのかという信長の怒りに触れた説、信長自らがわざわざ鷹狩の途中に立寄って材料の魚鳥を吟味したが、肉が腐っていると草履で踏み散らし、光秀が新たに用意していたところ「備中へ出陣せよ」と下知されたが、忍びかねて叛いたとしています(『常山紀談』)。
中国二国(出雲国・石見国)は攻め取った分だけそのまま光秀の領地にしてもいいが、その時は滋賀郡(近江坂本)・丹波国は召し上げにする、と伝えられました。(明智軍記)
甲州征伐の際に、信濃の反武田派の豪族が織田軍の元に集結するさまを見て「我々も骨を折った甲斐があった」と光秀が言った所、「お前ごときが何をしたのだ」と信長が激怒し、小姓の森成利(森蘭丸)に鉄扇で叩かせ恥をかかされます(明智軍記)。
フロイスは、「人々が語るところによれば密室で信長が口論の末光秀を1、2度足蹴にした」と記しています(『フロイス日本史』)。これらの史実を元に、面目を失ったための怨恨説が成り立っています。
『野望説』
光秀自身が天下統一を狙っていたという説。この説に対しては「知将とされる光秀が、このような謀反で天下を取れると思うはずがない」という意見や、「相手の100倍以上の兵で奇襲できることは、信長を殺すのにこれ以上ないと言える程の機会だった」という意見に分かれているようです。
『恐怖心説・幕府再興説』
長年信長に仕えていた佐久間信盛、林秀貞達が追放され、成果を挙げなければ自分もいずれは追放されるのではないかという不安から信長を倒したという説です。これは怨恨説など諸説の背景としても用いられています。今までにない新しい政治・軍事政策を行う規格外な信長の改革に対し、光秀が旧態依然とした統治を重んじる考えであったという説です。
理想相違説とも言われます、信長が伝統的な権威や秩序を否定し、犠牲もいとわない手法(一向宗勢力、伊賀の虐殺等)で天下の統一事業を目指したと歴史解釈した上で、光秀は衰えた室町幕府を再興し、混乱や犠牲を避けながら安定した世の中に戻そうとした、と考えたところから発生した説です。この説は、光秀は信長の命とともにその将来構想(独裁者の暴走)をも永遠に断ち切ったと主張されます。
そして光秀も自らの手でその理想を実現することは叶わなかったが、後の江戸幕府による封建秩序に貫かれた安定した社会は270年の長きに渡って続き、光秀が室町幕府再興を通じて思い描いた理想は、江戸幕府によって実現されたと考える事も出来ます。
なお、光秀は自身も教養人であったが、近畿地区を統括していた関係上、寄騎大名にも名門、旧勢力出身者が多食いました。特に両翼として同調が期待されていた細川氏(管領家の分流)、筒井氏(興福寺衆徒の大名化)は典型であり、こうした状況もこの説の背景となっています。
この説には、信長が平氏の出身で源氏が天下を治めるべきとも付説も加味されるようです(源氏の光秀、更には次の将軍復帰説にもつながります)。
『将軍指令説 』
足利将軍指令説 、室町幕府再興説光秀には足利義昭と信長の連絡役として信長の家臣となった経歴があるため、恩義も関係も深い義昭からの誘いを断りきれなかったのではないかとする説です。光秀が義昭を奉じるのは大義名分がありますが、直接の指令があったのかどうかも含めて、義昭の積極的関与を示すような証拠は依然として存在していません。
紀州の武将・土橋重治に充てた光秀直筆の書状から、光秀が「本能寺の変」の後に義昭を京に迎え入れ、室町幕府を再興するという明確な構想があったことが分かります。書状は天正10(1582)年6月2日の本能寺の変から10日後の12日付で、返信とみられます。「上意(将軍)への奔走を命じられたことをお示しいただき、ありがたく存じます。しかしながら(将軍の)ご入洛(にゅうらく)の件につきましては既に承諾しています」とあります。
京を追放された義昭は当時、中国地方を支配する毛利輝元(てるもと)の勢力下にある鞆(とも)の浦(広島県福山市)にいました。義昭が京に戻る際は協力することになっていると重治から示され、光秀自身も義昭と既に協力を約束していることを伝える内容という。
書状の手書きの写しは東京大史料編纂(へんさん)所に残っています。原本は縦11.4㎝、横56.8㎝で、細かな折り目がついているそうです。畳んで書状を入れる包み紙も一緒にあったことから、使者が極秘に運んだ密書とみられます。
光秀は京に上る前の信長と義昭を取り持ち当初は双方の家臣だったとされました。義昭との関係を復活させた光秀が、まず信長を倒し、長宗我部や毛利ら反信長勢力に奉じられた義昭の帰洛を待って幕府を再興させる政権構想を持っていたと考える研究者もおられるようです。前出の理想相違説に通じる部分もあります。
『朝廷説(私はこれを推薦したいです)』
「信長には内裏に取って代わる意思がある」と考えた朝廷から命ぜられ、光秀が謀反を考えたのではないかとする説です。この説の前提として、天正10年(1582年)頃に信長は正親町天皇譲位などの強引な朝廷工作を行い始めており、また近年発見された安土城本丸御殿の遺構(見て来ましたから)から、安土城本丸は内裏清涼殿の構造をなぞって作られたという意見を掲げる識者もおられるようです。
近年には「天正十年夏記」等をもとに、朝廷すなわち誠仁親王と近衛前久が「本能寺の変」の中心人物であったと各種論文で指摘されています。この「朝廷黒幕説」とも呼べる説の主要な論拠となった「天正十年夏記」(『晴豊記』)は、誠仁親王の義弟で武家伝奏(朝廷と武家との連絡役)の勧修寺晴豊の日記の一部であり、史料としての信頼性は高いと思います。
正親町天皇が信長と相互依存関係を築くことにより、窮乏していた財政事情を回復させたのは事実ですが、信長と朝廷の間柄が良好であったという解釈は成り立ちません。三職推任問題(「太政大臣」「関白」「征夷大将軍」どれでもいいよの凄い選択肢!)等を考慮すると、朝廷が信長の一連の行動に危機感を持っていたことになります。
朝廷または公家関与説は、足利義昭謀略説、「愛宕百韻」の連歌師・里村紹巴との共同謀議説と揃って論証されることが多く、それだけに当時の歴史的資料も根拠として出されています。ただし、この説では「首謀者」であるはずの誠仁親王が変後に切腹を覚悟するところまで追い詰められながら命からがら逃げ延びていること、『晴豊記』の近衛前久が光秀の謀反に関わっていたという噂を「ひきよ」とする記述の解釈などの問題も有ります(「非挙(よくない企て)」と解釈される一方で、これは「非拠(でたらめ)」と解釈されるべきであるとの指摘もあります)。
一時期は最も有力な説として注目されていたが、現在この説を唱える研究者はいません。現在の歴史学界では義昭黒幕説とともに史料の曲解であるとの見解が主流となっていますが、僭越ながら私は、朝廷あるいは公家が光秀謀叛に大きく関与していたのではないかと推測しています。(笑)
『四国説』
昨年新しい文章が発見されて、四国説に俄然注目が当たりました。信長は光秀に四国の長宗我部氏の懐柔を命じていました。光秀は斎藤利三の妹を長宗我部元親に嫁がせて婚姻関係を結ぶところまでこぎ付けますが、天正8年(1580年)に入ると織田信長は秀吉と結んだ三好康長との関係を重視し、武力による四国平定に方針を変更したため光秀の面目は丸つぶれになってしまいます。
光秀と懇意でありながら、信長と敵対関係になった四国の戦国大名、長宗我部元親(ちょうそかべもとちか)の窮地を救うために起こしたとする説です。大坂に四国討伐軍が集結する直前を見計らって光秀(正確には利三)が本能寺を襲撃しています。
2014年に岡山県で見つかった石谷(いしがい)家文書には、6月2日の「本能寺の変」の約5カ月前にあたる1月11日付書状で、斎藤利三が長宗我部元親に「要求に従うのが長宗我部家のためになるし、光秀も努力している」と助言しています。
これに対し元親は5月21日付で「阿波国中心部の諸城からは退いたことを信長殿に伝えてほしい」と返答。信長の命に従うことで激突を避けようとしていたことが証明されています。
『諸将黒幕説(いかにも有りそう)』
織田家を取り巻く諸将が黒幕という説です。徳川家康や豊臣秀吉が主に上がります。 徳川家康黒幕説家康の場合、信長の命により、長男・信康と正室・築山殿を自害させられたことが恨みの原因の一つに挙げられました。ただし近年では、2人の殺害は信長の命ではなく、家康と信康の対立が原因とする説も出されています。
家康は後に、明智光秀の従弟(父の妹の子)斎藤利三の正室の子である福(春日局)を徳川家光の乳母として特段に推挙しています(実際に福を推挙したのは京都所司代の板倉勝重)。
どこかで書きましたが、神君伊賀越えが胡散臭いんです。窮地に陥った家康の元に200人の手勢を連れた服部半蔵が急に現れます。そんなに用意周到にできるのかな?堺~岡崎の間は新名神高速でも218キロ数日で帰れますか~(笑)。秀吉の中国大返より速いスピードじゃないかな。
豊臣秀吉黒幕説の場合は、佐久間信盛や林秀貞達が追放され、将来に不安を持ったという説があります(中国大返しの手際が良過ぎることも彼への疑惑の根拠となっています。絶対無理やん!)。光秀の謀反を知ってないと山崎の戦いに間に合ったとお燃えません。
【「本能寺の変」は何故解明できないの】
1.事件を起こした動機には触れても、黒幕とされる人物や集団が、どのようにして光秀と接触したかの説明が出来ない。
2.実行時期の見通しと、機密漏洩防止策への説明が無い。
3.光秀が謀反に同意しても、重臣たちへの説得をどうしたのかの説明が不明です。
4.黒幕たちが、事件の前も後も、光秀の謀反を具体的に支援してない事が不思議、自分の部下以外ほとんど味方がいません。
5.決定的なことは、裏付け史料がまったくないことです、近衛前久の文章でも出てきたら決定的なのですけどね。
【最後に】
やっぱり歴史はミステリアス (mysterious) 、英語で神秘的、不可思議な様を表すのだそうですよ~。そんな女性が居たらくらくらですよね、私が歴史にはまり込む理由がお解りいただけましたでしょうか。(爆)
皆さんはどの説を採用なさいますか?
歴史って本当に面白いですよね~!
今後もランキングにはこだわって良い記事をUPしたいと思います。はげみになりますので宜しくお願い致します(^人^)
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